「海?」
「そう海だよ」
ハンジは、まるで歩く王立図書館だ。知識の多さと、それを生かせる頭脳の回転の早さは感嘆に値するものだった。
「それは何だ?」
「簡単にいえば大きな水たまりだよ。でも、その広さは半端じゃない池や湖なんてレベルじゃない。見渡す限り水で埋め尽くされているんだ。
そもそも、この世界の七割は海でできているんだよ。信じられるかい?」
想像もできなかった。眉唾だろうと即答できなかったのは、ハンジのきらきらした瞳を直視してしまったからだ。
ハンジは信じている。その根拠もあるらしい。
ハンジが信じている、その事実だけで不思議とリヴァイも信じる気持ちが芽生えてくる。
「おまえ、どこでその情報を手に入れた?」
「内緒だけど禁書を手に入れてね」
禁書を所持するなんて憲兵に目を付けられるには十分すぎる理由だ。
「おまえは目的のためなら法でもやぶるんだな。やはり変わった女だ」
「つまらない法律ならね。人類の大きな進歩を阻む悪法なんかくそくらえだよ」
「女がくそなんて言うな」
「酷いなあ、あなたの影響だよ」




ごろつきの初恋




調査兵団に身を置いて一年が過ぎようとしていた。
兵団に染まるには、まだまだ短い時間かもしれないが、男と女がお互い好意をもつには十分すぎた。
ハンジは変わり者だ。せっかく元はいいのに、おしゃれに精を出すこともせず、ただ巨人を倒すという目標のために精いっぱい日々を送っている。
人類のために己を犠牲にする姿は、今までリヴァイが出会ったどんな女よりも気高く見えた。
そんな女が壁外調査では、さらに誇り高い姿をみせる。死を恐れず仲間を守り強く戦い続ける勇敢な女に。
普段、冗談を交えてくだらない会話に花を咲かせる姿からは想像もできない豹変ぶりにリヴァイは目を逸らせなかった。
そして、いつしか戦場においてリヴァイとハンジの共闘は定番の光景となっていた。
自分の力に絶対的自信をもつリヴァイが女に背中をまかせてもいいと思ったのは、後にも先にもハンジだけだった。
ハンジに心を開く度にリヴァイはごろつきから兵士として向上していった。それはハンジ以外の調査兵との距離も同時に縮めてゆく結果をも生んだ。
いつしかリヴァイは団員たちから尊敬の念を込めて、こう呼ばれるようになった。

『人類最強の男』――と。

その異名が一般の群衆にまで少しずつ浸透し始めていた。










「おいリヴァイ、おまえ、少しは自分の立場考えろよ」
ある日、ファーランが周囲の目を気にしながら小声で話しかけてきた。
「何が言いたい?」
「俺たちは調査兵になるためにここにいるんじゃないってことだよ。今のおまえは調査兵に馴染みすぎてんだよ。わかってるのか?エルヴィンの野郎から賄賂の証拠品を奪えさえすれば、こんなところとはおさらばなんだぞ」
「…………」
リヴァイは何も言えなかった。ファーランの言う通りだ、当初の目的を忘れたわけではない。
しかし今のリヴァイは入団当時持っていたはずの烈火のようなエルヴィンに対する殺意すら失っていた。
「あの女を騙して情報仕入れるって作戦はどうなってんだよ?」
「……俺は承知した覚えはない」
「だったら何でプライベートな時間削ってまでいつも一緒にいるんだよ。あの女を利用するっていう俺のアイデアに賛成してくれたからだろ?」
リヴァイは答えられなかった。ハンジと一緒にいる理由は自分でも謎としか言いようがなかった。
自分の気持ちがわからない、ただハンジといると楽しい。時間がたつのも忘れる。この気持ちは何だ?
「おまえ、どうしちまったんだよ?」
俺が教えて欲しいくらいだ。



「とにかく何とかしてくれよ。簡単だろ?いざとなったら脅して吐かせればいいんだ。
おまえ、しょっちゅう、あの女と2人きりになってるからチャンスはいくらでもあるだろ?
おまえが女相手に乱暴なまねはしたくないっていうのなら、俺がやってもいいぜ」
それは一瞬だった。リヴァイは頭の中が瞬間的に沸騰したような感覚を覚えた。その時のことはよく覚えてない。
記憶力が再び歯車を回転させた時、眼前に捉えたのは壁に叩きつけられて愕然としているファーランの姿だった。
その瞳には赤い色に染まったかのような形相に変化している自分が映っていた。
「……リ……ヴァイ……?」
胸元をつかみあげられ、ろくに言葉がでないファーラン。
地下街時代から苦労を共にしてきた相棒を相手にリヴァイは初めて感情的な己を晒していた。
「……二度と言うな」
リヴァイは殺気を抑えることすら忘れていた。
「あいつに手を出すな」
ようやく我に返り手を離すと、そのままファーランはずるずるとその場に座り込んだ。
「あれ、2人とも何してんの?」
イザベルがきょとんとして近寄ってきた。この時ばかりは2人の間に流れる絶対零度の空気に気づかないイザベルの鈍さに助けられた。
しかし一度崩壊したものは元に戻らない。リヴァイとファーランの間には確かに深い溝ができた。
そしてリヴァイは、はっきりと気づいた。我を忘れるほどハンジを必要としていることに。










「リヴァイ、どうしたの?」
真夜中の突然の訪問者にハンジは少々戸惑っていた。親しい同僚とはいえ仮にも女の部屋に男が訪ねてきていい時間ではない。
何より思いつめたリヴァイの様子がハンジの不安に拍車をかけていた。
「……話がある」
「……うん、わかった」
それでもハンジはリヴァイの入室を許可しベッドに座るよう促してくれた。
「紅茶でいいよね。いい茶葉が手に入ったんだ」
気心のしれた仲になってからというものハンジの私室には常に紅茶が常備されている。その心遣いはカップ越しに感じる紅茶より温かった。
「それで話って何?」
「…………」
リヴァイは言葉がでなかった。ハンジに問われ反射的に口にだしてしまっただけで用事など元からなかった。
会いたかった、顔が見たかった、どれも一方的な感情だ。到底、ハンジを納得させる材料になるわけがない。
要領のいい男なら出任せの嘘をぽんぽん口にするだろう。
しかしリヴァイには考えもつかなかった。まして相手がハンジなら真摯でいたかった。



「……ファーランとやりあった。その時、おまえの顔が頭に浮かんだ」
自分でも馬鹿正直だと思った。
「おまえのそばにいたい」
ひとは真実を吐露する時、その言葉は無個性になる。リヴァイも例外ではない。
だが、その一言には間違いなくリヴァイの真実の心が全て詰まっていた。
「言うべきじゃなかった」
しかしリヴァイはたちまち後悔した。
ハンジは妻でも恋人でもない。これは一方的な感情の押しつけだ。そんなもののために、これまで築き上げた信頼関係まで崩壊するかもしれない。
「悪かった。忘れてくれ」
いたたまれなくなったリヴァイは立ち上がろうとした。
「リヴァイ……!」
ハンジが縋るように抱きついてきた。首に腕をまわし胸元に顔を埋め必死にリヴァイを止める。
密着した肉体の柔らかさに抑え込もうとしていたリヴァイの熱い感情が膨張しだした。

「離せ。俺は何をするかわからんぞ」
「……今は帰したくない。私は――」


「私はあなたの事が好きなんだよリヴァイ、もう、ずっと前から」


愛を知らずに生きてきたリヴァイが、何百万と言う女の中で、初めて唯一愛し愛される相手を見つけた瞬間だった。
その想いを認識した直後にリヴァイは我を忘れ、ハンジを抱きしめていた。
意識せず唇を重ね、その熱くなった身体をベッドに押し付け愛撫した。


「好きだ」


やっとの思い出絞り出した言葉は陳腐なほどシンプルだった。
性急に燃え上がった感情のまま服の裾から手をいれるとハンジはびくっと反応した。
リヴァイは、一瞬、躊躇して動きを止めた。男のリヴァイと、まして欲する相手をようやく探し当て理性を失いかけている人間と、まともに育ったであろう女のハンジとでは、男女間の考えに温度差があるのも当然だ。
ハンジの意思を無視して事を進めれば傷つけてしまうかもしれない。
そんな思いが肉欲に走ることを思いとどまらせようとしたが、気持ちを察したハンジは微かに怯えながらもリヴァイが欲しがっている言葉をくれた。
「いいよ……リヴァイなら」
もう二度とリヴァイは止まらなかった。
その夜、2人は深く結ばれた。




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