跡部の拳が余程効いたのか門脇が追ってくる気配はない。
美恵の足も限界だった。
麻痺したように一時的に動かなくなり、美恵は思わず表情がひきつった。跡部は察して立ち止まってくれた。
「やっぱり奴ら太陽さえ隠れれば昼間でも活動できるんだな」
「そうね」
「おい美恵!」
跡部がぎょっとした。
「その血!」
跡部の視線の先は美恵の腕だった。見ると流血している。
「まさか噛みつかれたのか!?」
Panic―4―
「違うわ。これは転倒したときについて傷よ」
「本当だろうな!」
跡部は美恵の腕をつかみ恐怖に満ちた目で凝視した。そして美恵の言葉に偽りがないとわかると大きく息を吐いた。
「……よかった」
跡部が安堵するのも無理はない。一度でも噛みつかれたら、瞬く間に連中の同類になってしまうのだ。
ほんの数秒前の仲間が敵へと変異し襲ってくる。こんな恐ろしいことはない。
「急ごう。いくら俺でも集団で襲撃されたら防ぎきれない。今のうちに身を隠すんだ」
「ええ」
美恵は歩きながら、万が一の場合は、それが一番いい選択だと信じ跡部にあることを告げた。
「景吾、私があのひとたちのようになったら遠慮なく始末して」
「何だと?」
「景吾を襲う前に……だから、私を殺すことに躊躇せずに行動してちょうだい」
「黙れ!」
跡部は感情的に怒鳴ってきたが美恵がびくっと反応すると、はっとして顔を逸らした。
「俺は襲われるのが嫌で焦ったわけじゃねえ。二度と口にするな」
跡部は、それ以上何も言わなかった。
何を怒っているんだろうか?美恵はわけがわからなかった。
しばらく歩くときりたった岩壁が姿を現した。
「あそこだ」
跡部が指さしたのはかなり上部。よく見ると小さな入り口がある。空洞があるようだ。
「つかまれ」
跡部が背中を向けると美恵は少し躊躇したが素直に跡部の首に腕を回してしがみついた。
(何年ぶりだろう景吾に背負ってもらうなんて)
複雑な感慨にふけっているうちに跡部の隠れ場所に到着した。確かにここなら安全だろう。
「傷みせてみろ」
「大丈夫よ」
断ると跡部はむっとして強引に美恵の腕をつかみ勝手に手当を開始した。
「奴らは本能の塊だ。血の臭いに敏感になってねえとも限らないからな」
確かに連中は血を見るとさらに狂ったようにも見えた。
まるで飢えた野獣のように。
「……ありがとう」
礼を言うと跡部は上着を脱ぎ美恵にかけてきた。
「疲れただろう今のうちに寝ておけ」
「……そうね」
美恵は跡部から少し距離をとるとそっと目を閉じた。
「亮や日吉君、それに岳人や樺地君はどうしてるかしら」
ルールとはいえ合宿所到着早々追い出された仲間のことを美恵は心配していた。
「ええやないか。あいつらはあいつらで今頃死にものぐるいでテニスの特訓やってると思うで」
忍足は優しく常に美恵が安心する言葉を投げてくれる。
「そうね」
「美恵は俺らの心配だけしてくれたらええんや。もうへとへとで癒しを求めてるんやで俺は」
「忍足ったら」
美恵は微笑した。確かに残ったからといって安穏な生活はここでは送れない。
朝から晩まで練習メニューに追われ息つく暇もないほどだった。
美恵もマネージャーとして皆の世話に追われ随分疲労していたが、選手の彼らは比較にならないだろう。
「それにここだけの話。どうやら連中は追放されたわけやなくて、この山のどこかにある秘密合宿所にいるっちゅう話や」
「本当なの?いったいどこからそんな話を?」
「ちょっとしたルートがあってなあ。謙也からの情報や」
どういういきさつで忍足が謙也と連絡を取り合えたのかはわからない。
携帯電話は取り上げられているし、固定電話で外部と連絡をとることも禁止。
第一、この合宿所から許可無く外出することすら厳禁という状態なのだ。
もしかして美恵を安心させるための忍足の方便かもしれないが、このくせ者がつまらない嘘を言うとも思えない。
(忍足が言っていた事はきっと事実だわ。よかった、皆頑張ってるんだ)
だったら自分は自分の仕事をすればいい。
今日の午前中の練習は合宿所の周囲をジョギングすることから始まる。
皆が戻ってくる前にタオルとドリンクを用意しておかなくては。
三桁単位の選手に対しマネージャーは数人しかいない、早く取り掛からないと。
「天瀬さーん」
手際よくドリンクを用意していると山吹中の壇太一がやってきた。
「もうすぐ先頭集団が戻ってきます。ドリンクいいですか?」
「ええ、お願いね。雨がふりそうだから傘もっていたほうがいいわよ」
太一は浦山しい太と大量のドリンクを抱え走っていった。
もうすぐ、この給湯室にも、すでに耳に慣れた選手の足音が聞こえてくる。
美恵は作業をすすめながら、その時がくるのを待った。だが、しばらく待っても何の変化もない。
「……変ね」
いつもなら、とっくに選手たちの足音がここにも届いてくるはず。
掛け時計を見上げるといつもの時間を十分以上過ぎていた。
胸騒ぎを覚えた美恵は様子を見に外に出た。やはり選手たちの影も形もない。
まだ戻ってきてないようだ、事故でもあったのだろうか?
美恵は残っていたドリンクとタオルに加え、救急箱をディバッグにつめ、正門に行ってみることにした。
合宿所は広大な上に何十ものフェンスに囲まれ、正門までいくつものゲートをくぐらなければならなかった。
一つ目のゲートはすんなり通過できた。二つ目のゲートも事務的な手続きですんだ。
だが三つ目のゲートに近づくと、そこは物々しい雰囲気だった。
コーチ陣と警備員が尋常ではない形相でゲートを封鎖しようとしていたのだ。
「どうしたんですか?!」
彼らは美恵の姿を認識した途端怒鳴り散らした。
「ここに来てはいけない。すぐに屋内に戻るんだ!」
「どういうことですか?壇君としい太君は?選手たちはどこです?もう、とっくに戻ってくる時間ですよね?」
「いいから戻りなさい!!」
何の説明もなく彼らは美恵を遠ざけようとしている。すぐ先に正門があり、選手たちが戻ってくるはずなのに。
「何をしている、さっさと指示に従いなさい!!」
コーチたちの焦り方は普通ではない。明らかに何かに怯え狼狽している。
(何が起きてるの?皆は……景吾や忍足、ジローや鳳君。それに他校のひとたちは、どうなっているの?)
美恵は頭がごちゃごちゃにひっかき回される感覚だった。考えがまとまらない。
ただ直感的に何か恐ろしいことが起きたことだけは理解できる。
なかなか動こうとしない美恵に警備員が「君、さっさと指示に従いなさい」と美恵の肩をつかんできた。
仕方なく、いったん指示に従おうと思った美恵だったが、その決意を一変させる事が起きた。
「た、助けて!!」
悲痛な叫びが聞こえたのだ。見ると閉じられつつ正門の隙間から必死に腕を伸ばし助けを求める太一の姿があった。
「檀君!!」
「た、助けてぇぇ!!」
何かが起きている。それが目の前で太一を襲っている。
太一が危ない。早く助けなければならないのにコーチたちは全く逆の行動をとった。
「警備室、モニターで見えているだろう、何をしてるんだ!門を早く閉めるんだ!!」
「な……何ですって!?」
美恵は警備員の手を振り払うと猛然と抗議した。
「何を言ってるんですか。檀君を見捨てるんですか!?」
「君は黙ってろ!こっちは隠しカメラで恐ろしいものを見てしまったんだ。門を開くわけにはいかない!!
ここで食い止めるんだ。食い止めなければ、奴らの侵入を許してしまったら……我々も破滅してしまう!!」
「何を……何を言ってるの?」
話にならない。美恵は咄嗟にコーチたちを突き飛ばしゲートを走り抜けていた。
「檀君!」
閉門寸前に美恵は門外に飛び出した。太一は足から出血し倒れている。
「しっかりして」
救急箱を持ってきてよかった。美恵はすぐに応急手当てを開始した。
「何、これ……?」
牙のような跡がくっくりと残っている。獣に襲われたのだろうか?
(この山には熊なんていないし野犬に襲われたのかしら?)
しかし野犬ならばコーチたちの尋常ではない怯え方の理由にはならない。
まして跡部達が未だに戻ってこないはずがない。
「天瀬さん……に……」
「太一君、何があったの?」
「……くだ……さ……」
「太一君?」
太一が気を失った。傷自体は大したことないのに倒れるなんて何か変だ。
一刻も早く医務室に運んできちんとした治療をさせてやらなくては。
太一を運ぼうと腕を伸ばした時、美恵はコーチたちが恐れていたものの正体を知った。
「うがぁぁぁ!!」
恐ろしい咆哮、肩ごしに見えたのは全身の肌がどす黒く変色した千歳が襲いかかってくる姿だった。
「な……!」
それは悪夢だった。一目で千歳は異常だと理解できた。
昨日までの千歳は人並み以上に穏やかな人間だった。その面影はまるでない。
まるで狂犬病におかされた動物だ。理性など全く感じない。
何がおきたのかわからない美恵だが、一つだけはっきりとわかることがある。
殺される!
はっきりと殺意を殺気を狂気を感じた。私は殺される!!
「おい美恵、しっかりしろ!」
「……け、景吾……?」
閉じきった正門、倒れた太一、迫りくる千歳……今まで見てきたものは何もない。
あるのは周囲を囲む岩壁と心配そうに覗き込んでくる跡部の顔。
「うなされてたぞ」
「……私」
……ああ、そうか。今はこっちが現実なんだ。
「夢でも見てたのか?」
「……ええ、とても。この悪夢の始まりを見てたの」
あの時、千歳から逃げられたのは本当に不幸中の幸いだった。
いや……この悪夢が続いている以上幸運なんてとてもいえない。
いっそ、あの時、奴らの同類にされてれば、こんな恐怖からはおさらばできていた。
「……もう疲れたわ。逃げるのも」
「……美恵」
「景吾、あなた一人で逃げて。私はもういい、生きる屍になって彷徨う方が……」
「ふざけるな。二度と言うな」
跡部の表情ががらっと変わった。本気で怒っている顔だ。
「……景吾」
「おまえはもう一人じゃない。俺が守ってやると言ってるんだ。だから二度と言うな」
――その言葉。あなたが心変わりさえしてなければ、どんなに嬉しかったか。
――今の私には、もうあなたの言葉は届かないのよ。
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