「景吾、おろして」
「あーん、てめえは黙ってろと言ったはずだぜ」
「もう歩けるわ。今は少しでも急がなくちゃあいけないはずよ。だから降ろして」

跡部は美恵を抱き上げたまま空を仰いだ。太陽の光が暗雲に完全に封じ込められようとしている。

「……やばい状況だな」

やはり跡部も美恵同様に奴らが徘徊しだす可能性に気づいていたようだ。


「景吾、連中から身を隠す場所に心当たりある?」
「ああ、俺が昨夜身をひそめていた場所がある。そこに急ごう」
跡部は少し心配そうな口調で念を押すように「俺と一緒にいろ。わかってるだろ」と言った。
美恵は少し考え、「そうするわ」と答えた。
気のせいか、跡部がほっとしているように見えた。




Panic―3―




「よし急ぐぞ」
「景吾、歩いたほうが早いわ。だから降ろして」
「本当に大丈夫なのか?」
「ええ、こんな時に痛いなんて言ってられないし」

美恵は跡部を促し足を地面につけた。接触した瞬間、鈍い痛みを感じたが歩行に支障はない。
跡部に支えられ、美恵はゆっくりと歩き出した。

「本当に大丈夫なんだろうな」
「心配ないっていったでしょう?」

不思議な気持ちだった。付き合っていた頃には、こんなに心配してもらったことはない。
状況が状況だけに必要以上に心を砕いてくれているのだろうか?


――でも、もう遅いわ。私は……。


「どうした美恵?」


――いけない。景吾のインサイトでばれてしまう。
――私が余計なことを考えていることを。


「何でもないわ。それより景吾、その隠れ場所は、あとどのくらいで着くの?」
「十分くらいだ」

十分……普通なら決して長くない時間だが、一刻を争うこの状況下ではそうとはいえない。
美恵は痛みに耐えながら、スピードアップした。




「ちょっと待て」
跡部が小声で制止してきた。足をとめると前方の茂みが微かに揺れているのが視界に映った。
「……まさか」
最悪の予感に美恵は全身の神経が逆立つような恐怖を覚えた。
「ここにいろ」
跡部は美恵から手を離し、ゆっくりと茂みに近づいて行った。
「景吾、気を付けて」
少しずつ茂みと跡部の距離が縮んでゆく。その度に美恵は生きた心地がしなかった。
跡部の身体能力の高さを美恵は誰よりも知っている。それでも安心できない。
奴らは凶暴で攻撃的、たった一度でも噛みつかれたら終わりだ。
跡部が茂みに手を伸ばしたタイミングを見計らったように鳥が飛びだした。
「……よかった」
美恵は、ほっと胸をなでおろした。




「おい美恵!」

跡部の顔色が一瞬で驚愕の色に変化した。

「景吾?」
「馬鹿野郎!ぼさっとするな!!」

跡部の瞳に映ったのは恐怖だけではなかった。美恵の姿、そして、もう一人。
美恵は今危機にあるのは跡部ではなく自分のほうだと気づいた。
恐ろしい吠え声を轟かせ美恵の背後から血に飢えた獣が飛び出してきた。


美恵!!」














「いくら化け物になったからいうても俺に勝てると思ってたんか、自分?」
忍足は冷たい目で唸り声を発する獣を踏みつけ動きを封じていた。
「息の根止めるのが一番やけど……さすがに躊躇するなあ」
猛獣以上に凶暴な形相ではあるが、ほんの数日前までは普通の人間だった者だ。
かといって解放してやるのは自殺行為。
考えた末、忍足は自分を襲撃した獣を切り裂いた布で縛り付け、そばにあった大木にくくりつけた。
「雨があがったら太陽が苦手な自分には驚異やろうけど、そこまで俺を恨まんことやな。
と、言っても今の自分には思考することできへんけどな」
自由を失っても獲物に食いつこうという本能の塊となった哀れな獣に挨拶をした。
「じゃあ、さよなら」
忍足は危険を承知で森の中で意欲的に移動していた。




「俺の姫さんはどこや?」
忍足が命の危機も顧みず動いていたは、愛しい美恵を捜索するためだった。
美恵が跡部と交際を始めた時は、忍足は内心腸が煮えくり返る思いすらしたものだ。
それでも表面上は平静を装い二人を祝福したのは、に嫌われてしまう、それを恐れていた。
それにU―17が開始すれば己の手を汚さずとも幸村と不二という別れさせ屋が動き出す。
あの二人は美恵に横恋慕している上に身を引くなどという殊勝な言葉とはおよそ縁がない人間。
間違いなく美恵を巡り跡部と陰湿な争いを繰り広げることだろう。
そして滅茶苦茶な修羅場で傷ついた美恵を慰めれば……まさに完璧な計画だった。
「……それなのに想定外の災いのせいで今は美恵とハッピーエンドどころか明日の命をも知れない身や」
忍足はため息をつきながら肩越しに先ほど拘束した獣をちらっと見た。

「いっそ殺してやったほうが情ってもんかもしれへんけど」


「それは止めたほうがええで。どんな化けもんでも生き物を殺すってのは後味悪いもんや」


「白石、自分、無事だったんか」
忍足は心の底からほっとした。白石なら強力な味方になる。
こんな状況だ、味方は必要だ。しかし相手によっては足手まといになる。
(もっとも、その程度の人間なら、とっくに化け物の餌食になって永遠の暗闇を徘徊することになっていただろう)
白石なら強力なパートナーになりこそすれ足枷にはならない。白石と再会できたことは実に幸運だった。
それに白石がいるということは、いとこの謙也も一緒かもしれない。




「白石、自分が無事ちゅうことは」
忍足は期待に満ちた目で白石を見つめた。その意味を理解したのか白石は申し訳なさそうに目をそらした。
「悪いなあ、ケンヤは一緒やない」
「……そうか」
忍足はがっくりと肩を落とした。
「あいつらから逃げてる途中ではぐれてしまってな。けどケンヤはスピードスターやで、きっと逃げきってるはずや」
「そやな。あいつは簡単にくたばるようなヤワな男やない」
白石の言葉は慰めではなく本心だろう。忍足自身、謙也の足の速さはよくわかっている。


「なあ白石、自分だけか?他の四天宝寺の選手は一緒やないんか?」
「忍足クンこそ、氷帝の皆とは?」
二人はお互いの顔を見つめあい、大きなため息をついた。
「お互い自分が逃げるだけで精一杯だったようやな」
「ああ、何しろ、あの大騒ぎの最中、敵か味方か区別つける余裕もなかったわ」
白石は空を仰ぐと「この暗さじゃあ夜も同然。なあ忍足クン、隠れた方がええと思うで」と提案してきた。


「……それは重々わかっとる」
しかし忍足は躊躇した。すると白石を即座に反応してきた。
美恵ちゃんのことか?」
白石は他人の気持ちに敏感な男だ。忍足の美恵への秘めた恋心はばればれだったようだ。

(ちゅうことは跡部にもとうに気付かれとったかもな。あいつのインサイトの性能は折り紙つきやから)

「忍足クン?」
「あ、ああ、何でもない。この近くに山荘がある、二軍の監督の住処らしい。
そこに行こう。野宿するよりずっと安全や」
「そやな、はよ急ごう」















二人は厳重な注意を払いながら山荘にたどり着いた。幸いにも、山荘は破壊された跡はない。
「玄関の鍵は……かかってない」
二人は山荘に入ると即座に内側から鍵をかけ、建物の中を徹底的に調査し化け物が潜んでないことを確認した。
「忍足クン、全てのドアと窓の戸締まりを」
「ああ、わかっとる」
「これで一応俺らの安全は確保できたな」
「ああ、ひとまずだけどな」
カーテンで完全に外からの視界を遮ると二人は奥の部屋で今後の事を話し合った。




「白石、自分は何人犠牲者を見た?」
「はっきりわかっとる奴は七人や。完全に狂って俺の言葉は一切通じへんかった。
かわいそうになあ……ほんま、心が痛むわ。数日前まで一緒に切磋琢磨してた連中だと思うと」
「今は同情なんかしとる余裕ないで」
「そやな。明日は我が身や」
「この山は完全に囲まれとる。奴らの隙ついて逃げ出すのは至難の業や」
「せめて車があればなあ」
「……車」
忍足の脳裏には跡部財閥から寄付された特別仕様の氷帝テニス部バスの勇姿が浮かんだ。


「それや。焦ってて気づかんかった。あれなら奴らをなぎ倒して脱出できるっちゅうもんや」
「けど、あれは合宿所の駐車場やで」
「まず合宿所にたどり着く方法を考えんとな」
合宿所に通じる唯一の道はもっとも危険な場所でもあった。
途中に200メートルを越すトンネルがあるのだが、そこは連中が巣くう魔窟と化している。
昼間だろうとも突破することは不可能だった。


「森の中を通るしかないんかなぁ」
「けどケンヤの話じゃあ沖縄のタニシのせいで吊り橋無くなったいう話やで」
二人はほぼ同時にため息をついた。
「万が一、何とか合宿所につけたとしても、あそこも壊滅してる可能性も考えんといかんな。
もしかしたら奴らの巣になっとるかもしれん」
「せめて外部との連絡がとれれば……」
携帯電話は練習の妨げになると合宿に到着早々コーチたちに一時没収されていた。


「家族や学校が捜索願いだすんを待つしかないんかな」
「……白石、この合宿は長期予定なんやで。俺らの受難に気づいてもらえるまで無事でいられると思うんか?
空腹には耐えられても奴らからの襲撃から逃げ切るには限界がある。
俺らと違って奴らは疲労ってもんを知らん。体力が尽きたら、そこで試合終了や」
「やられるくらいなら戦ってみるんも一つの手やで」
「それもええな。あくまでガチの勝負なら」
忍足は眼鏡をかけ直した。

「さっき俺が木に縛りつけた不動峰のリズム野郎みたいに。けど集団で来られたら多勢に無勢っちゅうもんや」














美恵っ!!」
跡部の叫びが終わらぬ前に美恵は突然の衝撃にバランスを崩し地面に転倒していた。
「きゃぁぁ!」
目の前には血走った眼と鋭い牙、それはまさに悪魔の形相だった。
「あ、あなたは……!」
恐ろしい顔だが面影がある。優しく純粋で本当にいい子だった。


「……壇君!」


美恵から離れろ!!」
跡部の蹴りは簡単に美恵から太一を引き離した。本来の太一の身体能力なら、そのまま動けなくなるはずだ。
だが太一はふらつきながらも、ゆっくりと起き上った。
「ちっ」
跡部は舌打ちすると太一の腕をとり、そのまま地面に抑え込んだ。


「他校の生徒とはいえ非力な一年坊主を殴るわけにはいかねえからな」
「どうするの景吾?」
跡部は木の蔦を引きちぎると太一の両手足を縛りあげた。
「行くぞ美恵、思ったより余裕はなさそうだ」
跡部は美恵の手をとると走り出した。足首がずきんと痛んだが、走れないなどと泣き言は言えない。
先を急ぐ二人の前に、またしても化け物と化した顔なじみが飛び出し行く手を遮った。

「門脇……てめえなら殴れる!!」

跡部の左ストレートにより地面に沈んだ門脇を振り返る余裕もなく二人は走り去った。




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