森がうごめている。木の葉や枝が不気味な音を発し、その音が瞬く間に近づいてきた。
と、同時に怪しい気配を感じ美恵は背筋が凍った。

「出やがったな」

跡部が言葉を吐き捨てた瞬間、茂みの中からシルエットがいくつも飛び出してきた。囲まれた、絶体絶命だ。

「離れるなよ美恵」

跡部は小石を拾うと前方から迫ってくる怪物に向かって投げた。
石は見事に連中の額に命中。連中が悲鳴をあげた。
その隙をかいくぐり跡部は美恵の手を握りしめたまま素早く走り抜けた。
しかし簡単には逃がしてくれない。背後からもの凄いスピードで追いかけてくる。

「景吾、あいつらが追ってくるわ!」
「もうすぐだ。森を駆け抜けるぞ」

肩越しに奴らが伸ばした手が見えた。もうダメだ、つかまる、そう観念した時、視界の景色が一変した。
森を抜けたのだ。朝日が燦々と光をはなっている。
怪物たちは悲鳴をあげると森に逃げ帰った。間一髪だった――。




Panic―2―




「……助かった」
美恵は、安心感から、その場にへなへなと座り込んだ。
「大丈夫か?」
「ええ、ありがと――」
美恵はハッとして跡部の手を振り払った。跡部の眉が不快そうに歪んだが、そんなのは自業自得だ。
「助けてくれてありがとう。じゃあね」
美恵は、立ち上がると跡部に背を向けた。しかし、すぐに肩に重みを感じ動けなくなった。


「おい待てよ」
「手を離して」
「こんな時に別行動とろうなんて、何考えてやがる」
それは正論だ。この山中で生き残っている人間はもう跡部と美恵だけかもしれない。
生存者同士協力し合わなければならないことは百も承知だ。命がかかっているのだから。
だが頭ではわかっていても、それでも跡部と二人きりなんて考えただけで息がつまりそうだった。

「てめえ、まさかつまらねえことにこだわって意地はってるんじゃあないだろうな」
「つまらないですって?」

感情を押し殺していたつもりの美恵だったが、さすがにかっとなった。
恋愛沙汰で裏切った方にとってはつまらないことかもしれない。でも裏切られた方は心に深い傷を負うのだ。
新しい恋人とバラ色の交際をしている跡部にはわからないだろうが、美恵は未だに辛く苦しい思いから解放されていなかった。




「……一緒にいた方が奴らの標的になりやすいでしょ。別々にいたほうが生存率あがるかもしれないじゃない」
「何、言ってやがる。さっきも俺がいなかったら、おまえは死人のお仲間入りしてたんだぞ」
「それは感謝してるわ。でも、あなたと二人きりなんて真っ平ごめんよ」
「随分な嫌われようだな」
「好きになれるわけがないじゃない」
跡部の青い瞳が微かに揺れ、美恵は一瞬ぎょっとなった。

(傷ついてるの?言い過ぎたかしら)

だが、跡部はすぐにいつもの不遜な表情に戻り、「勝手にしろ」と言い放った。

(気のせいだったのね。そうよ、私に嫌われて傷つくような男じゃないわ。今のこいつに怖いのは愛しい彼女に嫌われることだけよ)


「こんな時にまで我を通すような女はこっちから願い下げだ」
美恵の中で、ずきんと大きな音がした。
「望み通りにしてやる。好きにすればいい」
胸の奥からずきずきと痛みがこみ上げてくる。でも、それを跡部に悟られたくなかった。
今も跡部を想っているなんて知られたくない。美恵のプライドが許さなかった。
「さよなら」
美恵は踵を返すと全力疾走で、その場から離れた。














(やっぱり、追いかけてもくれなかった)

自分から跡部を拒絶したから当然といえば当然だが、それでも悲しかった。
心のどこかで期待してたのだと思い知らされてしまう。

(昔からそうだった……どんな女とつきあっても一度ふったら最後、去る者追わず、それが景吾ですものね)


――私も今までの女と同じだってことだわ


美恵は川にでると空のペットボトルに水を補充した。

(悲しんでなんていられない。一刻も早く、ここから脱出しないといけないんだもの)

美恵はバッグの中から折り畳んだ紙を取り出すと地面に広げた。
それは美恵が描き込んだ簡単な地図だった。昨日、行き止まりだった道に赤ペンで×印をつけると美恵はため息をついた。


(もう、まともなルートは使えないわ。獣道を行ってみようかしら?)

それは危険な賭けだった。この広大な山中で道に迷うことは自殺行為だ。
太陽が沈めば、あのおぞましい怪物たちが群をなして襲撃を開始する。
おそらく、いや間違いなく今度こそ命はないと覚悟しなくてはいけない。周到な準備が必要だった。
美恵は手頃な枝を見つけ根本から切り落とすとナイフで削り武器を作った。
それから何本も松明を用意した。奴らは太陽を光を恐れる、だから炎が有効だと考えたからだ。

「……時間がないわ」

獣道は壮絶なサバイバルルート。一キロ進むにも普通の道の何倍もかかるだろう。
出発は早い方がいい。
美恵は準備が整うと大きく深呼吸して獣道に入った。














思った以上に森林は深く、藪は棘の洗礼をもって美恵を出迎えた。
地面は木の根や石で歩きづらいこと、この上ない。頭の中で計算した時間を大きく遅れるペースだった。
(速度をあげないと)
それでも、まだ時間はたっぷりある――はずだった。
何と想定外の事がおきた。空に暗雲が立ちこめ、辺りが薄暗くなってきたのだ。
(天気が崩れる……どうしよう)
美恵は心底ぞっとした。怪物たちは太陽が弱点だからこそ昼間は安心して行動できた。
逆に言えば太陽が隠れれば、日中だろうが奴らが動き出す可能性がある。


(まずいわ、脱出どころじゃない。早く隠れ家を見つけないと!)

しかし茂みを何度もかき分けても木々や草が生い茂るばかりで、身を隠すような場所は見つからない。
もう戻るしかない。全く知らない場所で徘徊するよりは安全というものだ。
太陽が完全に暗雲に覆われる前に何とか戻らないと。しかし焦る美恵に自然は冷酷だった。
冷たい風が容赦なく美恵にふきつけ、ついには雨がぽつぽつと降り出してきた。
足場を無視してスピードを出していた美恵は、木の根に足をひっかけ派手に転倒した。
すぐに起きあがろうとしたが、ずきんと膝に鈍い痛みが走り立ち上がれない。
それでも、ゆっくりと体を起こし膝を見ると流血していた。


「……痛い」

でも大丈夫だ、動かせないことはない。
幸いにも骨には何の異常もないようだ。しかし機敏な動きはできそうもなかった。
美恵は木の幹につかまり、ゆっくりと動き出した。

(早く……早く、どこかに身を隠さないと)

ずきっと膝に激痛が走り、美恵は大きく体勢を崩し倒れかけた。
地面に激突する自分を瞬時に予想し、美恵はぎゅっと目を閉じた。
けれども身体に接触してきたのは冷たい地面ではなく温かい腕だった。




「……どうして」

見上げると、そこには跡部の顔があった。

「たくっ……根を上げて俺に頼ってくると思ってたのが甘かったぜ。
ガキの頃から、てめえは意地ばっかり張りやがって。こんな時にさえもだ」
「どうして、ここにいるのよ」
「あーん、ずっと、てめえの後をつけたきたからに決まってんだろ」
「え?だ、だって……勝手にしろって」
「本当に一人きりにできるわけねえだろ」

跡部は「本当におまえを失ったら洒落にならねえからな」と呟くように言った。
それ、どういう意味よ?と尋ねる前に、跡部が突然美恵を抱き上げた。


「な、何するのよ。おろして!」
「うるせえ、その足じゃ満足に歩けねえだろ。黙って俺様に甘えてろ」
「……景吾」


バカ言わないでと怒鳴ってやりたかったが、美恵は言葉がでなかった。
戸惑いながらも布越しに感じた懐かしい跡部の体温の温もりに美恵は安らぎにも似た居心地の良さを感じていた――。




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