「菊丸先輩、気分どう?」
「だ、大丈夫……ちょっと寒いけど」
菊丸は健気にアピールしているが、普段の明るさと比べると痛々しいくらいだった。
(マジ、やばいね。どんどん症状が悪化してる……外で徘徊してるゾンビより菊丸先輩の方が問題だよ)
備え付けられている小さな給湯室には、簡素なシステムキッチンがあった。
リョーマはおもむろに立ち上がると給湯室に入っていった。
「越前、僕は紅茶がいいな」
どんな状況でもゆったりと構えている男・不二はリョーマがお茶を用意してくれるとでも思った。
だが給湯室から出てきたリョーマが携えていたのはティーカップを乗せたお盆ではなく出刃包丁だった。
Panic―16―
「ぎゃ……んっ!!」
身の危険を察知したのか絶叫しかけた菊丸。
実際に不二がとっさに菊丸の口に詰め物をしなければ、絹を裂くような悲鳴が闇夜に轟きゾンビどもを呼び寄せる羽目になっていたことだろう。
「安心しなよ菊丸先輩、何もあんたに危害加えようってわけじゃあないんだからさ」
リョーマは不二にも包丁を差し出した。
「先輩も護身用にもってなよ。刃物が嫌いっていうならフライパンでもかまわないけど」
「いよいよ物騒なことになってきたね」
「俺もマジってことですよ。この若さで死にたくないですから」
それからリョーマは給湯室で手に入れたチャッカマンを菊丸の目の前にもってくると着火した。
「ひっ……!」
菊丸はがたがたと異常なほど怯えだした。
「ふうん、やっぱり炎が怖いんだ。太陽が苦手だから、こいつもきくと思ってたよ」
「越前、どうして英二で遊んでるの?」
「何って、菊丸先輩は、あの化け物のお仲間になりかけてるんだから、理性が残っているうちに弱点みつけておこうとおもってね。
懐中電灯の光には、ちょっと嫌がる程度で、あんまし反応しなかったよね。
作った光じゃ相当強烈な奴じゃないとゾンビには通用しないってことだと思うけど。ちなみにこっちはどうかな?」
リョーマは塩とニンニクをとりだした。こちらも給湯室に備え付けられている小型の冷蔵庫にあったものだ。
古来より、どちらも妖怪や悪魔の類には効果覿面のアイテムだが、塩には全く反応しない。
ニンニクを近づけると嫌な表情を見せるが、それは一般的な人間の反応と変わらないものだった。
「ふーん、どうやらオカルト的な怪物ってわけじゃないみたいだね」
「それより越前、英二がゾンビ化するのを止める方が先じゃないかな?」
「止めるってどうやって?俺たち、医者でも霊能力者でもないじゃん」
「傷口を消毒してやれば?」
「薬なんかで何とかなるとは思えないけど、まあ試しにやってみますか」
リョーマは救急箱を取り出した。
「何やってるの越前?そんな柔なもので何とかなるわけないじゃないか」
「不二先輩?」
「炎で熱した鉄を傷口に押さえつけて一気に消毒する。化膿しかけた傷にはそれが一番だってサバイバルもののお約束だろ?」
「ああ、それも、そうっすね」
「っっ!!」
不二とリョーマの会話は菊丸の恐怖を頂点まで導いていた。
「ちょ……ちょっと待ってよ二人とも……冗談だよね?」
「俺、冗談って苦手ですよ先輩」
「大丈夫だよ英二、痛いのはほんの一瞬さ」
菊丸は反射的に逃走を企てていた。もっとも、あっさりつかまって畳の上に押さえつけられたが。
「先輩だって、このまま、おめおめとゾンビになりたくないんじゃないの?」
「人事だと思って!俺、やだよ。絶対にや――」
不二が菊丸の口元を押さえ「ストップ」と言った。
カーテンの向こう側にゆっくりと歩く人影があった。
「蜘蛛の巣ばっかりじゃねえか。最低な所だな」
「文句を言ってる暇があったら、さっさと進みなさよ」
二人は懐中電灯を頼りに天井裏を移動していた。時々、天板をはがして様子を伺ったが、その度にゾンビを目撃する羽目になった。
「でも、奴らを閉じこめたひとがいるってことよね。単独ではできないわ。
この合宿所のどこかに私たちと同じように生き残っているひとの集団がいるはずよ」
「ああ、今でもゾンビのお仲間にならずに済んで生きていればの話だがな。
奴らを閉じこめて一件落着と思ったんだろうが、日没と共に新たなゾンビが登場して結局は無駄だったってことだろ」
「身も蓋もない言い方ね」
「他に言いようがねえからな。それに、これだけ大勢のゾンビを閉じこめるなんて、あまり気持ちのいい作戦じゃあなかっただろうぜ」
「どういうことよ」
「あーん、決まってんだろ。囮だ、囮」
美恵は思わず身震いするほど、心の底からぞっとした。
確かに、この状況では、そうせざる得なかったかもしれないが、その代償として苦楽を共にした仲間を犠牲にしたというのだから。
それでも、今は、その悲劇の囮に同情しているほど余裕のある立場でもない。
しばらく進むと跡部が「降りるぞ」と言った。
「奴らは?」
「ここにはいないようだ」
跡部は天板を完全にはずすと飛び降りた。
「ほら、受け止めてやるから、てめえも飛べ」
「そんなことしてもらわなくても大丈夫よ」
美恵は強がって飛び降りたが着地でつまずき、結局跡部に抱き支えられてしまった。
「だから最初から俺の胸に飛び込んで来いといったんだ」
「うるさいわね。それより、ここって……どこ?」
「厨房みたいだ。内側から鍵がかかっているから、ゾンビどもも、ここには入らなかったってわけだな」
「じゃあ廊下の向こうには……」
跡部が美恵の口元を押さえ、その場にかがんだ。
「景吾?」
「静かにしろ……カーテンに人影が見えてるだろ」
三つの人影がゆっくりと移動している。あの動きは間違いなく、すでに見慣れてしまったゾンビたちだ。
カーテンのおかげで、こちらには気づいてないのが不幸中の幸いだった。
「行ったようだな」
二人はステンレス製のキッチン台を背に床に座った。
「これから、どうするの?ここにいても時間の問題よ」
「だろうな。だが、せっかくの厨房だ。考えるより先にエネルギー補充しておけ。
俺もおまえも、ここ数日、ろくに食事をしてねえんだ。いざというときのために体力はつけておかないとな」
冷蔵庫には果物やサンドイッチがあった。
たいした食事ではないが、それでも二人にとっては久しぶりのまともな夕食となった。
食事が終わると早速脱出の用意をすることにした。
「水と塩だけはもっておけ。食料もなるべく所持しておきてえが、荷物になっても厄介だから最低限の量にしておけよ」
「そのくらいわかってるわよ。アルコールは消毒になるから持ってた方がいいわよね。
それにフライパンは武器になるわ。岳人と亮は水以外ほとんど口にしてないって言ってたわね」
跡部は食料は少量にしておけといったが、やはり、それなりに持っていたかった。
しかし冷蔵庫を見ても、めぼしいものは何もない。
「どうして、こんなに少ないのかしら。まるで誰かが食べてたみたい……あら?」
部屋の隅に分厚い扉があることに美恵は気づいた。
「冷凍室だわ。食料庫に使ってるのね」
ここなら、きっといい食料が手に入ると美恵は思った。
「冷気が全くないわ……電気が切られてる?」
扉を開くと、中は水びだしだった。氷が完全に解けてしまっている。
電気系統そのものは無事なのに、どうしてこんなことになっているのか、美恵は疑問に思いながらも重たい扉を引き中に入った。
その瞬間、人影が美恵に飛びかかってきた。
「奴らだよ。どうする先輩?」
「どうするって、このまま通り過ぎてくれればいいけど、そうでなかったら戦うしかないじゃないか」
「バトルするのはかまわないけど、他のゾンビが集まってくる可能性視野にいれとかないとやばいですよ。
多勢に無勢になったら逃げるしかないんだから逃走ルートや手段を考えておかないと」
「それはそうだね」
「その場合、問題になるのは菊丸先輩じゃあないの?」
「……英二か」
「今の菊丸先輩を連れて逃げるなんて無理に決まってる」
「確かに。かわいそうだけど英二はおいていくしかないね」
菊丸は、その言葉に敏感に反応し、がたがたと震えだした。
「ウォーキングクローゼットに隠れててくださいよ。中からつっかい棒でもしてさ。
運が良ければ明日の朝まで生き延びれるかもしれないから」
「そんな、酷いよ、おチビ!」
菊丸は今にも泣きそうだった。
「あいつらの勢いみただろう?あんな扉、絶対にぶち破るって」
「でも下手に走って逃げても、今の弱りきってる先輩じゃあ、あっと言う間につかまって結局は終わりっすよ」
もっともな意見に菊丸は黙り込んだ。
「だったら賭けるしかないって。あいつら思考能力はあんまりないから」
「わ、わかったよ……その代わり、ロープはほどいていってよ」
「わかってるって」
菊丸は拘束を解かれ、クローゼットの中に入った。
不二とリョーマはカーテンの隙間から用心深く外の様子を伺った。
見覚えのある顔が数人ふらふらと歩いている。その足取りは何度見ても異様だった。
幸い今のところは此方の存在に気づいていないようだが、それもいつまでもつか。
「どうします先輩?数少ないし、今のうちに逃げるか、それとも、このまま朝まで籠城するか」
「下手に逃げて気づかれても厄介だしね。逃走ルートだけ確認しておいて、まずは様子をみよう」
不二は畳の上にノートを広げるとシャープペンシルを滑らせた。白紙のノートに簡単な図を書き込んだのだ。
「僕たちの現在地がここだろ。一番近い建物はここだ、いざとなったらここに逃げよう」
「でも、そこは出入り口が反対側っすよ。こっちの建物の正面玄関の方が距離的には近いんじゃあないっすか?」
「それもそうだね。そうなると最短距離は――」
二人は気づいてなかった。クローゼットに隠れている菊丸の容態が急変していることに。
「きゃぁぁ!!」
「このクソ野郎、美恵に何しやがる!!」
跡部の鉄拳をまともにくらった人影はそのまま壁に飛んでいった。
「大丈夫か美恵?」
「ええ。それよりも、さっきのゾンビは」
「り、理屈じゃない」
「……え?」
思考能力を失っているはずのゾンビが喋った?
「お、落ち着け落ち着くんだ二人とも。俺だよ。青学の温厚で品行方正なデータマンだよ」
「てめえ、まだ生きてたのか!」
乾だ。メガネに随分ヒビが入っており痛々しいが確かに乾だ。
「乾君、無事だったのね。でも、どうしてここに?」
「どうしてだって?俺はゾンビたちをこの棟に閉じこめるための囮にされたのさ。哀れな哀れな羊なのだよ」
跡部の推理は当たっていた。それにしても囮にされたのが乾だったとは。
「よかったらドナドナを歌ってくれてもかまわないのだが」
こんな時だというのに乾は相変わらず妙な性格のままだった。
「どうして冷凍室なんかに?」
「冷凍室の扉は分厚い。ここが一番安全だと思ったからさ。だから電源を切って、ずっとここに隠れていたんだ。
幸いここは食料が豊富だ。レスキュー隊が救助にきてくれるまで生き延びられると思ったんだ」
生き残っている仲間がまだいた。それは喜ばしいことではあるが、一方で、その仲間を非情にもゾンビの生け贄にした人間がいる。
「誰が乾君に、こんな酷いことをしたの?」
「それは高校生諸君だよ。いいだしっぺは跡部もよく知っている人物さ」
「景吾が?」
「そう……その名は人呼んで――」
「美恵、乾から離れろ!」
突然、跡部が美恵の手を取り引き寄せた。
「景吾、どうしたの?」
「……どうしてもこうしたもあるか。なぜ乾が囮に選ばれたわけがわかったぜ。てめえ、俺たちに隠していやがったな」
「何のことよ、景吾」
跡部は乾の腕を強引につかんだ。乾はぎょっとして抵抗したが跡部は、そのまま一気に袖をまくりあげた。
「乾君、その傷……!」
乾の腕には痛々しい咬み傷が多数ついていた。すでにドス黒く変色し腫れ上がっている。
「この野郎、すでに感染してやがったんだ……俺たちに黙っているとはどういう了見だ?
どういうつもりなのか、さっさと説明しろ!
事と次第によっては今すぐ永遠に動かねえようにしてやるぞ!!」
「ま、ままま待ってくれ跡部」
「勘違いするんじゃねえ乾!俺様は相談してるんじゃない。命令してるんだ!」
乾は瞬く間に青ざめていった。
「待ってよ景吾、そんな威圧的な態度じゃあ乾君も何もいえなくなるじゃない」
「こっちだって命がかかってるんだ。お優しい扱いなんかしてやれるか!」
BACK TOP NEXT