いつもの跡部なら傲慢な態度で反論していただろう。しかし、今は軽く舌打ちしてそっぽを向くだけだ。
「よっぽど美恵に拒否されたのが堪えたようやな跡部」
「何だと忍足、ひとのことをとやかく言える立場か!」
忍足の胸ぐらをつかむ跡部。宍戸達は慌てて二人を止めた。
「やめろよ二人とも!」
「そうだぜ侑士、こんな時に仲間同士で喧嘩なんてやめてくれよ!」
仲間達の懇願に跡部は忌々しそうに眉を歪ませると、忍足を突き飛ばすように離した。
「……俺のノートがゴミ箱に破り捨てられていやがったんだ」
「何の話だよ?」
突然の事に宍戸達はきょとんとなっている。
「美恵が俺たちの為に作成したトレーニングノートだ!」
テニス少年漂流記―9―
「こんな時だけど……絶景ね」
どこの島かは不明だが、おそらく楽園タヒチの海と比較しても見劣りしないだろう光景に美恵は目を細めた。
夕日が海に沈み、辺り一面が赤く染まっている。素晴らしいとしか言いようがないほど美しかった。
「……でも感心している暇はないわね」
夕日が完全に沈めば夜が来る。あの獣の群れが、また襲ってくるかもしれない。
その前に夕食を作り、木の上にあがらなければいけない。
木の蔓を利用しながれば登れないほど高い大木だが、だからこそ狼には二度と襲われない。
もう命の危険の心配はない。それだけはありがたかった。
(……忍足に守ってもらう必要がなくなって良かったわ)
跡部と忍足の争いに思わず感情的になった美恵ではあったが、今になって忍足の言葉が胸に突き刺さっていた。
『何でテニス部に残ったんや?』
その言葉の答えは簡単だ。もう一度、跡部を信じれると思ったからだった。
(今思えば、あれが間違いだったんだわ)
美恵は、あの日の事を思い出していた。
「……ぅ」
公園のベンチに座り、美恵は無残な姿になったノートを抱きしめ泣いていた。
ノートの片隅に『頑張ってね景吾』とメッセージも書いてある。
『あーん、当然だろ?見てろ、氷帝のマネージャーになって本当に良かったって、てめえに嫌ってほどわからせてやるぜ』
跡部の筆跡で、そんな走り書きがされていた。
幼い頃の思い出は尽きない。それだけに美恵の心の傷は深かった。
――小学生時代、美恵を苛めた上級生に一人で仕返ししてくれたのは跡部だった。
――美恵がハイキングで迷った時は必死になって探してくれた。
――美恵を呼び出して危害を加えようとした女性ファンは例外なく学園から追い出した。
過激ともいえる行き過ぎた行為もあったが、全ては美恵を思ってのことだった。
それなのに、今は美恵を愛する恋人の敵として跡部は憎み排除しようとしている。
今まで美恵を守ってくれていた行為ですら、美恵には信じられなくなっていた。
(……景吾は、気まぐれで私に良くしてくれていただけ?
私のこと幼馴染としてもマネージャーとしても、最初から大切に思っていなかったの?)
跡部の気持ちはわからない。知る術さえない。
もちろん跡部本人にこんな事聞けないし、聞けば口論になるだけだろう。
(こればっかりは調べるなんてできないものね……景吾の本心なんて)
幼い頃から誰よりも跡部のそばにいたのに、今は誰よりも跡部の気持ちがわからない。
「……待って」
美恵は、ある事に気づいた。
「そうだわ、確か昔……」
幼い頃、そう二人がほんの子供だった頃、二人でタイムカプセルを作ったことがある。
『十年後にこれを開けるんだ。お互い十年後の手紙を入れておこうぜ』
『手紙?』
『ああ、そうだ。俺はてめえに、てめえは俺様にな』
『十年後も私、景吾と一緒にいれるかな?』
『あーん、当然だろ?』
「あの手紙に景吾の本心が書かれているかもしれない」
もちろん、それは十年前の跡部の気持ちだが、それでもいい。
美恵はタイムカプセルが埋められている雑木林に出掛けた。
「あった、この木だわ」
ひときわ大きい樹の根元、それがタイムカプセルを埋めた場所だ。
きっともう跡部はこんな昔の約束覚えてはいないだろう。
美恵はスコップを手に必死に掘った。ほどなくして缶が出てきた。
「これだわ!」
ふたを開けると、中からいくつかの子供の玩具に混ざって封筒が二つ出てきた。
「懐かしいわ……ピンクの封筒は私の、こっちの青い封筒は景吾の手紙だわ」
十年後の跡部に向けて、美恵は幼いながらも真剣な想いを綴ったのだ。
『景吾大好き。ずっと私のそばにいてね』
それが十年後の跡部に向けた美恵のメッセージ。
(このお願いは叶えてはもらえないけどね)
悲しいけど、それは仕方のない事。その事で跡部を恨む気はない。
(景吾から私へのメッセージは何だろう?)
正確にいえばタイムカプセルを開ける約束の期日は、まだ数か月先だが自分への手紙を開くのだ。
かまわないだろう。美恵は思い切って封を切った。
(『俺様の奴隷になれ』なんて書いてあったら、私、立ち直れないかも)
そんな嫌な予感に多少躊躇したが、思い切って手紙を封から引っ張り出した。
『美恵、俺様の妻になれ』
「…………」
美恵の頭は一瞬真っ白になった。何も考えられず、ただ文面をじっと見詰めた。
『美恵、俺様の妻になれ。これは命令だ、てめえに拒否権はねえ』
何度も目を凝らし見た。
「……嘘」
見間違いではない。幼い日々、自分を守ってくれた跡部の気持ちは本物だった。
――私、景吾に必要とされていたんだ。
嬉しかった。ほほを伝わる涙は、今まで流したものと違い温かかった。
次の日、美恵は跡部に頭を下げていた。
「迷惑かけてごめんなさい。反省してるわ」
「本当だろうな?」
「一から頑張るから、私に、もう一度テニス部のマネージャーをさせて下さい」
「俺に二度もその台詞吐くようなことにはなるなよ」
美恵はテニス部に戻った。マネージャーとしてでもいい、もう一度跡部に、テニス部の仲間に必要とされたかったからだ。
その為なら、あの女と再び顔を合わせる苦痛にも耐えられる。
不二からは『君の判断は間違っている。きっと、もっと傷つくよ』と忠告メールが届いていた。
「確か美恵が退院する少し前にロッカーから無くなったんだったよな?」
跡部は美恵が作成したノートを重宝しており、学園にも毎日のように持参してきた。
もちろん部室にも持ち込んでいたのだ。
テニスウェアに着替えコートに向かう前に跡部はノートに目を通した。宍戸達もそれを見ている。
跡部はロッカーにノートをしまいテニスコートに向かった。
そして部活が終了して戻りロッカーを開けるとノートは無くなっていたのだ。
当然、跡部は「誰かが盗みやがったんだ!」と激怒した。
金目のものではなくノートを盗むなんてメリットあるのか?と思う人間もいるだろう。
しかし、そのノートには跡部のテニスプレイの長所から弱点に至るまで詳しく記録されているのだ。
ライバル校の選手にとっては喉から手が出るほど欲しいしろものだろう。
ただ、テニス部の部室はセキュリティーが万全で同じ学園の生徒ですら部外者は滅多に入れない。
犯人がわからなかった。学園も、たかがノート一冊では被害とはいえないと本気で相手にしなかった。
「……今になって考えると、あれは内部の人間の仕業だったんじゃねえのか?」
「おい跡部、変なこと言うなよ。俺達の中に窃盗犯なんかいるわけないだろ!」
仲間思いの宍戸はかっとなったが、跡部は忍足を指差した。
「忍足、てめえじゃないのか!?」
「はあ?跡部、自分、何を言ってるのかわかってるんか?」
「いいから来い!」
跡部は忍足の胸ぐらを掴むと引っ張り出した。
「跡部、何をしようっていうんだ!?」
跡部と忍足を二人っきりにしたらやばい。宍戸はすぐに後を追おうとしたが、跡部がすごい剣幕で拒絶した。
「てめえらはてめえらで、今まで美恵にしたことを思い出しておけ。いくつか腑に落ちないことがあるんだ」
跡部と忍足は森の中に姿を消した。
「腑に落ちないことって何の事だよ。くそくそ、全然わかんねえ」
向日は頭をかかえている。
「俺だってしるかよ」
宍戸もわけがわからず混乱しているようだ。
「……美恵先輩は跡部さんに肺炎になりかけて入院した自分をお見舞いもしてくれなかった。そう言いました」
ずっと黙っていた樺地が静かに言った。
「……自分達が知っている事実と違います。美恵先輩が嘘をついていないとしたら」
「……彼女が嘘をついた、という事になります」
「……何、言ってんだよ樺地。あいつが嘘いうわけねえだろ。あいつは優しくて可愛い女なんだ。
繊細で傷つきやすくて、だから俺達も守ってやってた。美恵よりも大事にしてやった。
だって跡部の彼女なんだぜ。それに新入りだから優しくしてやりたかったんだ」
向日は必死になって彼女を庇った。
彼女の実像が自分の信じていたものと違えば、自動的に今まで美恵にしてきた仕打ちが理不尽なものになる。
大事な仲間を傷つけてきた。その真実を向日は認めたくなかった。
「でもさ。彼女、俺達を見捨てて逃げたC」
ジローがズバッと痛いところをついた。確かに彼女は自分たちはおろか、あれほど夢中だった跡部ですら見捨てた。
「あ、あれは……あの嵐の中だぜ、か弱い女の子がパニックになるってことあるだろ?」
向日は必死に彼女を庇ったが、自分でもわかっていた。
本当に庇っている相手は彼女ではなく自分自身だということに。
「おい跡部、はっきり言うておくけどノート捨てたんは俺やない。
俺やったら、そんな中途半端なことするわけないやろ」
「わかってる。てめえだったらゴミ箱なんかに捨てず、とっくに燃やしているだろうぜ。
証拠残すなんてお粗末なことするかよ」
「何や、わかってるんか。だったら何で俺を連れ出したんや?」
跡部は忍足の前に手を差し出した。
「出せ」
「は、何のことや?」
「俺をなめてるのか忍足?てめえが大人しく美恵のそばから離れるわけがねえ、何か戦利品があるんだろ?」
忍足は忌々しそうに跡部から顔を背けた。
「観念して出せ」
忍足は渋々とポケットから携帯電話を取り出した。美恵の目を盗んで手に入れたものだ。
「俺のノートを盗んだのは多分あの女だ」
「俺もそう思う。簡単な推理や、犯人は部室に自由に出入りできる人間に限定されるからなあ」
「あいつへの気持ちが覚めた途端、憑き物が取れたみたいに、あいつの行動の矛盾が目につくようになった。
だがどうしても解せない。今までのことが全部、あいつ一人の仕業とは思えねえ」
「全く同感や。わがままで欲張りな女やったが、頭の回転はそんなに早くなかった。
俺達と美恵の仲を巧妙に引き裂くようなマネは、あんなおバカにできるわけない」
忍足は携帯電話を跡部の眼前まで持ち上げた。
「俺達と美恵の仲を引き裂いて誰が得をすると思う?美恵の交友関係を調べてみる必要があると思って盗んだんや。
つまり俺の窃盗はあくまでも正義の為の必要悪や。神さんも大盤振る舞いで許してくれるにきまっとる」
「……ちっ、何か納得できねえが仕方ないな」
跡部と忍足は美恵の携帯電のメール履歴を片っ端から閲覧した。
「……何や不二の奴、いつの間に美恵とメル友になってたんや?ずうずうしいにもほどがある」
「しかも異常な数だな……あの開眼野郎、ストーカー気質だったのか?」
しかし美恵に毎日熱心に大量メールを送りつけていたのは、もう一人いた。
「誰だ、こいつは?」
『君の事が心配なんだ。俺がこんな事いえる立場じゃないのはわかってる。
でも断言するよ、今の跡部達は君にとっては百害あって一利なしだ』
「……随分な言われ方だな」
「ほんまや……ええ性格しとる」
『氷帝テニス部なんかやめて、俺のところにおいでよ。
うちは女っ気のないむさ苦しい所だから、君のような奇麗なひとがきてくれたら部員も喜んでくれる。
何よりも俺には君が必要なんだ。待ってるよ』
狼の遠吠えが聞こえてくる。やはり地上で寝なくて正解だった。
「寝床は確保したし、食料にはしばらく困らないし、後は――」
雨が降ってきた。美恵は慌てて防水シートを張り巡らせる。
明日の予定は決まった。枝のおかげで、ある程度の雨は凌げるが、やはり屋根を仮説することが最優先だろう。
「数日間だけとはいえ、雨漏りがする宿はごめんだものね」
男手があれば助かるが、もちろん跡部達を頼る気はない。
(景吾達は安全は確保しているのかしら?男が大勢いるから大丈夫とは思うけど)
しかも、全員、運動神経がいいし気も強い。狼の群れの方が逃げていくだろう。
(そうよ。下手に襲ったら返り討ちにあって食べられるのは狼の方よ)
どう考えても、彼らに絶体絶命なんて状況は来ないだろう。美恵は自分の心配だけする事にした。
もっとも、こうして安全が確保された以上、美恵自身、今の時点では特に困ることもない。
(後は救助が来るのを待つだけだもの)
安心しきっている美恵の耳にガサッと大きな物音が聞こえた。
思わずびくっとなって振り返ると愛らしいサルの群れが目に入った。
「……何だ、びっくりした」
ニホンザルよりも一回り小さく、見た目はリスザルに似ている。
群れというより家族だろうか。つがいらしい猿を中心に、子供らしい小さな猿が4匹。
「こんな可愛い動物なら害はないわね」
美恵はホッとした。だが、それは大きな間違いだった。
何故なら、彼らから目を離した数分後、また物音がしたので振り返ると、とんでもない事が起きたのだ。
何と彼等は食料を詰めたバッグを開けて中身を物色しているではないか。
「こら、何をしているのよ!」
思わず声を上げた美恵だが時すでに遅し。彼らは、それぞれ両脇に食料を抱え枝から枝へと逃げ去ってしまったのだ。
美恵は慌ててバッグに駆け寄った。
「そんな……!」
残っているのは調味料と僅かなお米だけだった。
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