「下剋上は体調不良では不可能だからな」
そんな奇妙な会話を交わしながら、鳳と日吉は部室に入った。
「あれ、奇麗になってる。美恵先輩来たんだな、でも姿が見えない。どこに行ったんだろう?」
二人は辺りをきょろきょろと見渡したが、やはり美恵の影も形もない。
やがて三年のレギュラー達がやってきた。そして鳳達同様に驚き、美恵が戻ってきたのだと察した。
「で、美恵は。あいつはどこにいやがるんだ?」
「それが姿が見えなくて……」
「掃除だけして帰ったのか?具合が悪いなら仕方ねえが、挨拶もなしで無断早退かよ」
先ほどの会話を聞かれていたとは思わない跡部は不審に感じていた。
「なあ、もしかして掃除したの美恵じゃねえんじゃないのか?」
そう言ったのは宍戸だった。
「あ、わかった?頑張ったのよ、少しはマネージャーらしくなったかな?」
愛らしい口調で、その女は美恵の手柄を横取りしていた。
テニス少年漂流記―8―
「……やっぱり、あの時、部室を掃除してくれたんは自分だったんやな。おかしいと思ったんやで」
「でも、あなたを含めて皆は彼女の言葉を信じたんでしょ?」
彼女が偽りの笑顔を向けただけで、誰もが何の疑いもなく彼女を信じた。
「いや、俺は正直疑ってたよ。もっとも跡部は心底騙されとったみたいだけどなあ」
「忍足の野郎……やっぱり、俺と美恵を和解させるつもりは毛頭なかったんだな!」
二人の様子を少し離れた木陰から伺っていた跡部は腸が煮えくり返っていた。
忍足同様、跡部もあの時から、愛しい恋人の裏の顔が垣間見えるようになっていたのだ。
その事は、忍足も知っていたはずだ。
「跡部を許してやってや。恋は盲目、所詮その程度の男だったと思って。な?」
「……あなた、私と景吾を仲直りさせるために残ったんじゃなかったの?
さっきから、景吾を擁護するどころか悪く言ってるように聞こえるけど」
「もちろん、それも目的の一つや。けど嘘は言えへんよ。
俺は自分と跡部が昔みたいに仲のいい友達に戻ってくれたらと思ってる。
けど、恋のキューピットはできひん。理由は簡単や。
跡部はあの女に夢中だからなあ。跡部の意志も尊重してやらんと」
忍足は、さらに雄弁に語りだした。
「自分が跡部のこと好きやったんは俺も気づいとった。自分には辛いけど、仕方ないことなんや。
誰かを愛するってことは、他の誰かを愛さないってことなんや」
「わかっているわよ、そのくらい」
「……あ、あの野郎、ふざけやがって」
跡部が彼女と別れたことを知っていながら、忍足は二人を今でもラブラブのカップルだと熱弁している。
これでは美恵と仲直りどころか、ますます距離が広がってしまうではないか。
「跡部も魔がさしたんや。愛する彼女のために思考が鈍って自分に酷いことした。
馬鹿な男だと思って許してやってくれへんか?その代わり、跡部の分まで俺が自分を――」
(も、もう我慢できねえ!)
美恵が立ち聞きしてしまった会話も、ゴミ箱に捨てられていたノートの件も忍足は何一つ真実を話すつもりはないようだ。
距離をとって美恵を守るつもりだった跡部だが、あまりにも我慢の限界は早く訪れた。
「景吾と和解なんて……そんな事、景吾だって本当は望んでいないわよ」
木陰から飛び出しかけた跡部だったが、美恵の言葉に動作が止まった。
「私、景吾に嫌われているもの。ずっと見ていたあなたならわかるでしょう?」
「……まあ、確かに否定はできひんな」
「子供の頃から、ずっと一緒だったから、心のどこかで私はまだ景吾に見捨てられてないと思っていた」
美恵の脳裏に、あの日の出来事が蘇った。
帰宅した美恵はベッドにうつぶせになって号泣した。
『なあ跡部、美恵なんかいなくても、こいつがいればいいくらいだよな』
『ああ』
「……ん」
どのくらい時間がたっただろうか?気がつくと、外はすっかり暗くなっていた。
(いつの間にか眠ってたんだ)
顔を上げるとデスクの上の写真立てが目に入った。
中学生時代、跡部と撮ったツーショット写真。写真の中の自分は跡部に肩を抱かれ幸せそうに笑っていた。
「何よ、こんなもの!」
反射的に写真立てに手を伸ばすと、思いっきり振り上げていた。
しかし床にたたきつけることはできない。
(……悔しいけど、私……まだ景吾の事、好きなんだ)
この写真だけではない。アルバムの中身は、跡部との写真が大半をしめている。
(ずっと、この関係が続くと思っていたのに……私の思い違いだったのかも)
彼女が現れるまでは跡部は優しかった。中学生時代もそうだった。
小学生時代も……でも、それは勘違いだったのかもと、美恵は思い始めていた。
(景吾は本当は昔から私の事、好きじゃなかったかも。
でも景吾は優しいから、だから本当の事いえなくて、ずっとそばに置いてくれていただけなのかもしれない)
守ってくれると言ってくれたのも、ただのお情けの同情だったかも。
もしかしたら最初から必要とされていなかったかも、そんな疑念が頭の中を駆け巡っていた。
次の日、美恵は部活を休んだ。
『まだ体調悪いのか?早く元気になれよ』
跡部からは、そんなメールが携帯電話に届いていた。
(どういうつもりなの?私の事、必要としていないくせに……マネージャーとしても不要だって言ったくせに)
追い打ちをかけるように不二からメールが届いた。
『君が辛い仕打ちを受けてないか心配だよ。僕は味方だから、いつでも僕を頼ってね』
(不二君は優しいのね。青学だったら、私もこんな思いしなくてすむかも)
その次の日も、部活に行く気にはなれなかった。
自分でも、こんな中途半端なことは続けられないとわかっている。しかし、どうしたらいいのかわからない。
ため息をつきながら廊下を曲がると、運命の悪戯か、今一番会いたくない男が立っていた。
「美恵」
「……景吾」
美恵は思わず顔を背けた。自分でも露骨すぎる態度だとわかっている。
きっと跡部は今不機嫌な顔をしているだろう。
「久しぶりだな。部活の前におまえに会いに教室まで行ってたんだ。帰るのが早くて会えずじまいだったがな」
「……そう」
「まだ部活にはこれそうもねえのか?そろそろ戻ってこい、あいつも慣れない仕事に手間取ってやがるんだ」
「……そういう事なのね。戻れなんておかしいと思ったわ」
無意識に小声で呟いていた。
跡部には聞こえなかったが嫌なことを言われたのは雰囲気で察したのか、怪訝そうに眉をゆがめている。
「どうなんだ。今日は出れそうなのか?」
美恵は無言のまま俯いた。
「おい、どうした?何で返事しねえんだ」
――私が何も知らないと思ってるの?
喉から、そんな言葉が出かかっていた。
あのノートは多忙なマネージャー業の合間を縫って、必死に選手たちを観察して記録したものだった。
少しでも役にたちたい、そんな想いが詰まっていた。
――それを、あなたは破り捨てたんじゃない!
「……美恵?」
「……理科室に移動しなきゃいけないから」
美恵は跡部から目をそらしたまま、その場から逃げようとした。しかし跡部が腕をつかんで離さない。
「離してよ」
「おまえ様子が変だぞ。何、いじけてるのかしらねえが、こっちが迷惑うけるんだ。少しは考えろ」
「跡部、何してるん?」
たまたま通りかかった忍足に声をかけられ跡部はそちらに気を取られた。
美恵は、その一瞬をついて跡部から逃れると猛ダッシュだ。
「あ、待ちやがれ!」
背後から跡部の呼び止める声が聞こえたが、もちろん止まるつもりなんてない。
それどころかスピードを上げてやった。
跡部の事だから追ってくると思ったが、意外にも足音は聞こえなかった。
ただ、「忍足、てめえ邪魔するのか!」と怒鳴り声だけが聞こえた。
美恵は知らなかったが、忍足に「落ち着けや跡部」と肩をつかまれ跡部は追いかけることができなかったのだ。
(今日も休んだら、景吾怒るでしょうね)
跡部の目の前で素晴らしいスタートダッシュをきってやったのだ。
休部でもしようものなら、ずる休みだと一発でわかってしまう。
跡部の事だ。烈火のごとく怒るだろう。
(もしかして退部させられるかも。それならそれでいいわ。退部届出す手間が省けるもの)
「……そこまで考えてたのに何でテニス部に残ったんや?」
美恵は俯いた。
「まだ跡部に未練あったんか?」
「そういうわけじゃ……景吾が彼女に夢中なのわかっていたし、ただ私は――」
美恵は言葉につまった。
「なあ、話は後にして今から夜の支度しいひん?」
「忍足?」
「こんな重い話、いっぺんに聞き出そうとした俺が間違ってた。美恵の好きな時に話してくれればええよ。
これからは、ずっと二人っきりなんやから時間はたっぷりあるやろ。それより、寝床の準備せんとなあ」
忍足は荷物をまとめ始めた。
「移動するの?」
「そうや。二人でゆっくり眠れる場所を探そうな。どんな獣がいるかわからんから、地上ではゆっくりできひんやろ?」
「それはそうだけど二人でって……まさか、布団を並べてなんてつもりじゃないでしょうね?」
「そんなわけないやろ?」
美恵はほっとした。どうやら考えすぎていたようだ。
(忍足には彼女もいるでしょうし、いくらなんでも私なんかに手を出そうなんて考えるわけないわよね。
変なこと考えた私がどうかしてたわ。もしかして忍足、内心私の事軽蔑したかも……)
改めて考え直すと恥ずかしくて赤面してしまうくらいだった。
「布団なんか並べる必要ないやろ、一緒に寝ればいいだけの話や」
「……今、何か言った?」
「いいや何も。それより、早く、ええ場所探そうな」
忍足は何だかウキウキしているように見える。
(……こんな時だっていうのに。落ち込むってこと知らないのかしら?)
本来なら南の島でバカンスを楽しんでいたはずなのに、無人島でサバイバル生活を送らなければならなくなったのだ。
運命を呪うべきだろうに、忍足の様子は楽しそうにすら見えた。
(楽観的なのね。うじうじ暗くなられるより、ずっといいけど。それにしたって、ここまで平然になれるものかしら?)
ともかく二人は仮の住居を探すことにした。忍足の言うとおり、地上では眠れない。
まして、美恵は実際に獣の群れに襲われたばかりなのだ。
最初は忍足と一緒にいるのも苦痛だったが、あの時の恐怖を思うと正直心のどこかでほっとしていた。
忍足がいてくれれば命の危険は少なくなる。
(気まずいといえば嘘になるけど、身の危険がないだけ、ずっとマシだわ。贅沢は言ってられないものね)
二人は森の中を歩き回った。距離を保ちながら跡部がぴったりついてきているなど思いもよらなった。
「大きな木はいっぱいあるけど、ツリーハウスでも作らない限り木の上はさすがに無理よね」
誤って落下すれば狼に襲われる前に三途の川を渡ることにもなりかねない。
「そうでもないで」
忍足が立ち止って、あるものを指さした。それを見て美恵は目を丸くした。
「……すごい」
巨木だ。それも妙な形をしたもので、日本には見かけない種類だろう。
まるで何十本もの根っこが空に向かって伸びているようだ。そして左右に広がっている。
「まるで根元が逆に生えてるみたいね」
「それにてっぺんの中央部は平みたいやろ、木登りはできるか?」
「ちょっと自信ないけど……」
「ほら、俺が手を貸してやるさかい」
忍足は美恵、自分を踏み台にして登るように促した。
「そこや、そこ。そこに手をかけるのに都合のいい場所があるやろ」
「駄目よ、届かないわ」
「俺が押し上げてやるから安心し」
「ちょっと、お尻に触らないでよ!」
「仕方ないやないか!不可抗力や、少しくらい我慢したらどうや。こんな時にわがままいうなんて罰が当たるで!」
「忍足の野郎、好き放題しやがって……!」
跡部は感情の限界と戦っていた。彼から見たら、ただのセクハラにしか見えない。
「うわぁ凄い、まるで緑のドームね。秘密基地みたい」
緑豊かな枝に囲まれたその場所は思ったより広く、ざっと見ただけでも十畳ほどあった。
「ここならテントだってはれるし、獣の危険もないわ。良かったわね」
「ああ、ほんまや。ここなら簡単に逃げ……いや追われる事はない」
忍足は早速シートを引き出した。
その上に、クルーザーから持ち出した毛布とシーツを敷けば、立派な寝床の出来上がりだ。
「忍足の毛布とシーツは?」
「それがなあ、跡部達のキャンプに置いてあるんや」
「じゃあ、早く持ってきたら?」
「それは駄目や。目を離した隙に自分に逃げられたら跡部に申し訳ない。不本意やけど、一緒に寝るしかないなあ」
「冗談やめてよ」
「冗談やない。これは跡部も望んでいることや、跡部のため俺は仕方なく――」
「ふざけるな忍足、もう我慢できねえ!!」
美恵と忍足は同時に後ろを振り返った。いつの間に登ってきたのか、怒りの形相の跡部がそこにいる。
「跡部、何でここにいるんや!」
「何でもくそもあるか!ずっと見張っていたに決まってるだろ!!」
「何やと跡部!自分はチームメイトの俺を信用してなかったんか、ふざけているのはどっちや!!」
「どの口で、そんな戯言ほざきやがるんだ!」
忍足と跡部は取っ組み合いを始めた。どちらも、なまじ腕力があり身体能力に長けているだけに一歩も引かない。
「止めてよ二人とも、こんな場所で喧嘩なんかしないで!」
美恵は二人の間に割って入った。
「止めるな美恵!」
「そうや美恵、仲間を信じられないような男には口で何を言っても無駄や!
跡部が信じていないのは自分だけやなかったということや。俺の事も疑ってかかったんや、美恵、自分にしたようにな!」
跡部の動きが止まった。一番痛いところをつかれたのだ。
「もう止めて!」
美恵は顔を両手で覆い、その場に泣き崩れた。
「二人とも私の前から消えて!」
「美恵……!」
「もう、むし返さないで!お願いだから、私の前から消えて!!」
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