「私は一人でいたいのよ!」
「そんなことできるか。とにかく戻って俺の話を聞け!」


「跡部、美恵に荷物返してやれ」
今まで黙って二人の様子を見ていた忍足が唐突に意見を述べた。しかも跡部には到底賛成できないことを。
美恵が皆と一緒にいたくないゆう気持ちわからんでもない。今はそっとしておいてやるのが一番や。
こんな気持ちで話し合いもくそもないやろ?お互い距離を置いて冷静になったほうがいい」
「起きてる時に寝言なんか言うんじゃねえ忍足!美恵を一人にできるわけねえだろ?!
昨夜だって襲われたばかりなんだぞ。他にどんな危険があるかもわからねえんだ!!」
「安心し跡部、俺は何も美恵を一人っきりにさせろとは言うてへん」
「どういう事だ?」


「俺が美恵と一緒におる。それなら文句ないやろ?」




テニス少年漂流記―7―




美恵は朝食の用意をしながら、複雑そうな表情で振り返った。
すると忍足がニコニコと笑顔で手を振ってくる。長い付き合いではあるが、この男の心だけはいまいち読めない。
皆と一緒にはいたくないという美恵と、それを断固拒否する跡部との口論の末とはいえ、妙なことになってしまった。















「ええっ侑士と二人っきりにしてきた!跡部、おまえ何考えてるんだよ?」
岳人は「知らないぞ。俺、知らないからな」と騒ぎ出した。
「うるさい、黙ってろ!」
しかし跡部の一喝で、途端に無口になる。跡部はかなりいらついていた。




『てめえと二人っきりにさせるだろ?できるか、そんなこと!』
『落ち着け跡部。今の美恵には何言うても無駄や。なんとか美恵を納得させることが最優先や』
『それは俺が何とか説得する。話し合えばわかるはずだ!』
『わからん奴やなあ。美恵が一番そばにいたくないのは跡部、自分やで』
『……俺だと?』
跡部はさすがにショックを受けた。


『そうや。一番長い間一番そばにいた自分だからこそ、美恵が受けた不信感は並やないんや』
認めたくないが忍足の言い分には一理あった。もっとも信頼していた相手だからこそ、受けた傷は深く大きい。
『俺は、自分とちごうて、あの女と付き合ってなかったからな。俺の方が、ずっとマシや』
確かに忍足は跡部や宍戸それに向日ほどに比べたら、まだましな態度で美恵と接していた。
ただレギュラーと美恵の間が疎遠になった時、自然と冷たい間柄にはなっていたが、積極的に美恵を攻撃してはいない。
無罪というわけでもないが、跡部よりはずっとマシな立場だろう。


『俺がそばにいて美恵を守ってやる。それなら安心やろ?』
『……余計な危険が増えるような気がしてならねえな』
忍足は一見誠実そうに見えるが、その実、跡部並に女遊びをしてきた男。
正直いって信用できない。忍足自身が狼に変化するかもしれないと跡部は疑っていた。
『……悲しいもんやな。俺はそんな性根の卑しい男だと思われていたんか?
傷心の女をどうにかしようなんておぞましい事、これっぽっちも考えてないで。
俺はただ……美恵の心を何とか開いて昔のようになりたいだけなんや。
跡部、自分と美恵の和解も何とかまとめてやりたいと思うてるんやで』


『本心だろうなあ?』
『神かけて誓ってもかまへんで』





「……神かけてか。後で『俺は仏教徒だったんや。あんなもん取り消しや取り消し』なんてほざきそうな気がするぜ」
「跡部?」
跡部はスポーツバッグに荷物を詰めだした。
「おい跡部、何してるんだよ?」
「俺は単独行動とらせてもらう。後は宍戸、てめえがこいつらをまとめてくれ」
「は?おい跡部!」
突然の申し出に宍戸達は当然驚きを隠せない。
しかし跡部は説明もせずにバッグを肩にかけさっさと行ってしまった。














「なあ美恵、ちょっと話しようか?」
忍足の口調は穏やかで気を抜いたら一瞬で警戒心を奪われそうな雰囲気があった。
かつて受けた仕打ちすら忘れそうになってしまう。
「話って何を?」
「最初から全部や。俺たち中学生の頃から気心しれた仲やった。いつからだろうやあ、こんなになったんは」


いつからだっただろうか……美恵は記憶の糸をたどった。
あの女が入部して……確か、すぐに跡部と付き合っていると知った。
跡部とはクラスが違うから気づかなかった。ただ女の影があるとは思ったが、それは常日頃の事だった。
跡部は派手にもてる男で、本気で女と付き合う事もない代わりに長続きすることはなかったのだ。
幼い頃から跡部に淡い想いを抱いていた美恵は当然面白くない。かといって跡部の自由恋愛を咎める権利もない。
幸か不幸か、跡部が繰り返しているのは遊び半分の交際。
でも、いつか跡部が他の女に本気になる日が来たら?そう思うと心穏やかではなかったのも確か。


跡部は他の女と付き合う、すぐにキスもするし、抱くのも簡単な様子だ。
でも自分の領域に踏み込ませたことは一度もない。大切なテニスにだけはかかわらせなかった。
それなのに、あの女にはマネージャーになることを許した。
美恵は確信した。今度は遊び半分ではない、跡部は本気だと。

――仕方ないわね。でも景吾が選んだひとなら、きっとテニス部を大切にしてくれる。

そう願い美恵はそっと涙をぬぐったものだった。




「……悪かったな。俺らが無神経だった、新しく入った可愛い娘につい甘い態度になってしまって。
ずるい言い訳になるかもしれへんけど、あの子の態度も男から見たら可愛いものでつい甘やかしてしまったんや。
そのせいで美恵には辛い思いさせてしまったけど、当時は気づかんかった。
それどころか、おまえの言い分の方がヤキモチからでたわがままに見えてたんや」
「彼女、綺麗な子だったものね。反対に私は可愛げのない女だもの、当然かもしれないわ」

――だから、私は氷帝テニス部と決別することを決めた。

「テニス部には彼女がいればいい。私はもう必要ない。
そう教えてくれたのは、あなた達だった。辛かったけど現実として受け止めるしかなかったわ」
「ちょい待ち」
忍足は美恵の言葉に制止をかけた。
「こんな事、俺らに言う資格ないと思うけど、それは誤解や。俺達には美恵は必要なんや」
「嘘、私、はっきり聞いたのよ!」














「……十日ぶりの学校か」
退院後、二日ほどの自宅療養を挟み、美恵は氷帝学園に戻ってきた。しかしテニス部に行く気にはなれない。
教室に入るとジローと目があった。テニス部で同じクラスなのはジローだけだった。
ジローはハッとして此方を凝視したが、気まずそうに視線を逸らした。
何だか悲しかった。嘘でもいいから、「元気になって良かった」と言って欲しかった自分がいる。
ただでさえテニス部に居場所がなくなっていた美恵にとって、十日の不在でテニス部の敷居はとても高くなっていたのだ。


(……行きたくない。やっぱり今日は休もうかしら?)


自分がこんなに小心者だったなんて……美恵は自己嫌悪した。ずる休みしたところで、それは逃げてるだけだ。
あれほどはっきりと不二の誘いを断ったのに、今更ながら弱気になっている。
落ち込んでいると着信音が聞こえた。携帯電話の画面には『不二』の名前が表示されている。


『辛くなったら、いつでも青学においでよ』


メールが告げたのは何気ない一言だったが、今の美恵の心には効果覿面だった。
(まるで不二君がどこかで私の様子を見てるみたい)
そのくらいバッチリなタイミングだったのだ。
(私を必要としてくれる人は氷帝以外にもいる……でも)
逃げ出したい衝動にかられた美恵を押し止めているのは、氷帝テニス部で過ごしたかけがえのない日々の思い出だった。
(自分で頑張るって言ったんだもの。最後までやってみよう)
やはり自分は氷帝テニス部が好きなんだ。どんなに冷え切った関係になろうと、彼らの事を嫌いになんかなれない。
だから最後までベストを尽くそうと美恵は決意した。すると、また不二からメールが入った。


『君が彼らに抱いている気持ちは幻想だよ。君は幻を愛しているんだ。
君が愛した彼らは、もうどこにもいない。辛いだろうけど現実を認めることも勇気だと思うよ。
君には他にちゃんと居場所も待ってくれるひともいるってことに早く気づいてね』














授業が終わると美恵は、まず榊監督の元に挨拶に出向いた。
「長い間、迷惑をかけてすみませんでした」
「体はもう大丈夫なのか?気分が良くないようなら無理をせず帰ってもいいんだぞ」
「いえ大丈夫です。あのテニス部は、私がいない間に何か変わったことはなかったですか?」
あのマネージャーは仕事を全くしない女だった。きっと失敗ばかりしていたことだろう。
「……うむ、それなんだが。もう一人のマネージャーがな」
美恵は、やはりと思った。しかし現実はもっと酷かった。


天瀬が欠席した最初は一応仕事をやったらしいのだが……」
しかし美恵がいつもやっている仕事の半分もせず、さぼっていつものようにベンチで応援していたらしい。
自主的にやったのはドリンクとタオル配り、それに部誌をつけることだけ。
それすらも榊からみたら落第点だったらしい。ろくに掃除もせず部室は汚くなったとか。
手の荒れる仕事を嫌がり、跡部が注意しても言う事を聞かず最後は泣き出してしまったらしい。
「厳しすぎた態度をとってしまったと彼女に謝罪した部員もいるが、私から見たらバカバカしくて話にならん。
おまけに三日目から風邪だと言って欠席してしまってな」
「彼女も風邪ひいたんですか?」
「ああ、そういうことになっている。跡部達は心配して毎日お見舞いしていた」
「……え?」
それは美恵にとっては衝撃だった。
仲たがいしていたとはいえ、肺炎になりかけて入院した自分には一度も顔を見せてくれなかったのに。


「跡部達には黙っていたが彼女は仮病だったんだ」
美恵はさらに驚いた。
「そんな酷い風邪なら私が懇意にしている医者に見てもらったらどうかと進めたら慌てて拒否した。
次の日から元気に登校してきたよ。もっとも、まだ具合が悪いからと言い訳してベンチに座っていただけだが」
聞いているだけで美恵は胸がムカムカしてきた。しかし同時に心のどこかで美恵はほっとしていた。
もしかしたら跡部達はこれに懲りて今後は彼女に厳しく接してくれるかもしれない。
そんな期待を胸に美恵はテニスコートに向かった。




「あら、またメール?不二君って随分まめな人なのね」

『期待なんかしない方がいいよ。君が傷つくだけだ』

「…………」














「監督から聞いていたから覚悟はしてたけど……」
予想以上に乱雑になっていた部室に美恵はため息をついた。
「まずは掃除からね」
美恵は袖をまくり上げ、部室の清掃に取り掛かった。
病み上がりには少々きつかったが、その甲斐あって部室は以前のように奇麗になった。
「次はゴミを片づけないと」
美恵はゴミ箱を手に取った。紙くずの中に見覚えのあるノートがある。


「……これ」
美恵は震える手で、そのノートを引きずり出した。半分に破かれた赤い表紙のノート。
「……どうして?」
それは美恵がレギュラー達のために作り上げた大切な物だった。
レギュラー達一人一人の健康記録や新しい練習法との相性などが事細かに記されている。
跡部達はテニスのトレーニングにとても役立つからと、このノートを重宝してくれていた。
それが、無残な形でゴミ箱の中に放り込まれている。

表紙に記載されていた名前は――跡部だった。









「だから、おまえは大事なマネージャーだって」
向日の明るい声。以前は美恵にも、その声は向けられていた。
「でも、私って全然仕事もできないし……景吾だって呆れたでしょ?」
「まあ、全然って言えば嘘になるな」
「おい跡部、おまえの大事な彼女だろ。そんな冷たい事いうなよ」
宍戸が彼女を庇っている。厳しいひとだけど、女の子には優しいひとだったから。
「本当に私、このテニス部に必要な存在なのね?天瀬さんよりも?」
「決まってるだろ。おまえの笑顔に俺達すっげー慰められてるんだぜ。
なあ跡部、美恵なんかいなくても、こいつがいればいいくらいだよな?」
向日が跡部に同意を求めていた。そして跡部は「ああ」と頷いていた。
そして彼女は嬉しそうに、こぼれるような笑顔を見せていた。




『期待しない方がいいよ。君が傷つくだけだ』

――不二君が正しかったのね。


美恵は、踵を翻すと静かに歩き出した。テニスコートには振り返らなかった。




「……美恵?」
「どうしたんや跡部?」
「……いや、美恵がいたような気がしたんだ。気のせいか」
跡部は知らなかった。美恵がいたことも、先ほどの会話を聞かれていたことも。
「あ、あのね跡部」
「何だジロー?」
美恵、今日、学園に来てたよ」
「そうか。だが病み上がりだから、もう2、3日休部するかもしれないだろ」
「うん、そうだね」




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