「私が何も知らないとでも思っていたの?!私、全部知ってるのよ。
あなた達がマネージャーは彼女一人で十分だって話していたことも!」
美恵、落ち着け!」
「私だって努力したわ。きっと私に欠点があるからいけないって、悔しかったけど彼女を妬んだりしなかった!
だから私自身が変わるしかないって思った。私が変われば、以前のように仲良くなれると思って……でも――」





テニス少年漂流記―6―




美恵は複雑な気持ちで白い天井を見つめていた。
大事を取って後2、3日入院すれば自宅療養で済むらしいから体の方は心配ない。
気になるのはテニス部の事だった。自分がいなかったら誰がレギュラーの面倒を見るのだろうか?
彼女は部誌も掃除も何もしたことがない。ドリンクでさえ満足に作れるかどうかわからない。

(今まで甘やかされてきたんだから、きっと今頃苦労してるわよね)

不思議なことに、いい気味とは思えない。
レギュラーたちが居心地悪い思いをしてないか、それが気になってしょうがなかった。

「……それにしても、やっぱり何もせずに一人きりってのはつまらないものね」

ばあやは付き添ってくれると言ったが、まだ静養が必要な老人に無理はさせられないので無理やり帰宅させた。
完全看護の病院では不自由なことはないが、話相手がいないとどうにも寂しかった。
幸い熱も下がり順調に回復してくると特にだ。




入院三日目、訪ねてくる者は誰もいない。
考えてみれば、自分はテニス部のレギュラー達が親友で、他に特別親しい友人もいなかった。
幼いころから跡部が一番の仲良しだったため、自然と同性の友達というものはできにくい環境になっていたかもしれない。
同性からは常に嫉妬のターゲットとなっていた。
中には悪質な連中もいて、呼び出しをくらったのは一度や二度ではない。
しかし気の強い美恵は黙ってやられている人間でなく、相手もかなり手こずった。
跡部や忍足には黙っていた。
女同士の争いにレギュラーを巻き込みたくなかったし、虎の威を借りるような気分がして嫌だったからだ。
そんな、ある日、とんでもない事件が起きたことがある。















跡部にかなり岡惚れしている女がいて、何かと美恵につっかかっていた。
その女は何度も美恵に旧校舎や裏庭に来るように呼び出しをかけてきたが、何か企んでいるのは明白だったので無視した。
「話があるなら人のいる場所で。誰かに聞かれて困るような場所ならお断りよ」
美恵は、そう言って怒り狂う彼女の誘いを断っていた。
結果的に美恵は正しかった。しかし、まさか想像もつかないほど悪質な事を企んでるとは思わなかった。
挑発に乗らない美恵に痺れを切らし、その女は、ある日、強硬手段にでた。




「おい、まだ仕事やっていくのか?」
「ええ、もう少し。岳人のテニスウエアが破けちゃって、わんぱくすぎてすぐダメにするんだから。
ちゃんと繕ってやらないと明日のトレーニングができなくなるでしょ?」
美恵は裁縫に精を出していた。
「いざとなれば裸でやらせばいいだろ。ほら、帰るぞ」
「そういうわけにはいかないの。これも大事なマネージャーの仕事なんだから」
「ちっ、融通のきかねえ奴だな」
「大丈夫よ。私のマンションはすぐ近くだし、後少しで終わるから。だから気にせずに早く帰って休んでちょうだい」
部員は練習でくたくたになっているのだ。その疲れがとれないことの方が美恵にとっては大事な問題だった。
「じゃあ俺は帰るからな。戸締りはちゃんとしておけよ」




跡部達が帰宅して15分くらいたった。
「できた。早く帰らないと」
美恵は急いで着替えを済まそうと、ロッカーから制服を取り出した。
その時、部室の扉が開く音がした。
レギュラーの誰かが忘れ物でもして帰ってきたのかと思って振り向くと、下卑た笑みを浮かべた男が数人たっていた。
良家の子女が多いことで知られる金持ち学園の中では珍しい俗にいう不良少年と呼ばれている連中だった。
もちろん、テニス部とは何のかかわりもない。
美恵は、そいつらの笑みを見るなり本能的に危険を察知して反射的に部屋の隅にあったほうきを手にした。


「ここに何の用なの?」
「テニス部の部室になんか用はねえよ。用があるのはてめえだ、てめえ」
ぞっとした。嫌なあ予感がする。
「出て行って。ここはあなた達みたいな連中が来ていい場所じゃないのよ!
ここで騒ぎを起こしたらどうなるか。あなた達だって、景吾の力を知ってるでしょう!?」
教師でさえ跡部には逆らえないのだ。まして不良生徒など跡部にかかれば簡単に学園から追い出される。
しかし彼らは相変わらずいやらしい笑みを浮かべている。どうやら大人しく引き下がる気はないようだ。

「部室で輪姦されましたって跡部に言えるのかよ」

美恵は眉をゆがませた。最悪の展開だ、こうなったら戦うしかない。
しかし女一人で大勢の男相手では時間の問題。
隙を見て、部室の奥にあるシャワールームに駆け込み中から鍵をかけ籠城する、それが一番だ。
「へへっ、逃げようなんて思うなよ。こんな美人やれるなんて滅多にないからなあ」
「ああ、俺たちが普段相手にしてるアバズレとは違う。正真正銘のお嬢様だぞ、ぞくぞくするぜ」
「跡部なんか、怖くねえんだよ。悔しかったら、今すぐここに呼んでみろよ」




「そんなに俺を怒らせたいのか、てめえら?」




不良達がびくっと体を硬直させ、ゆっくりと後ろを振り返った。
「もう一度聞くが、そんなに俺を怒らせたいのか。ああっ?!」
腕が伸びて胸元をつかまれた不良の一人が顔面蒼白になった。
「……あ、跡部?」
不良達は、さっきまでの態度が嘘のように慌てだした。
「ふざけやがって!」
その後は壮絶だった。あっという間に、不良達は跡部にぼろ雑巾のようにされてしまったのだ。
美恵が止めなければ死人がでていたのではないかというくらいだった。


「景吾、もう止めて!」
「止めるな、おまえがかばうような資格があるか、全員まとめてぶっ殺してやる!!」
「私がかばっているのはこいつらじゃないわよ!」




「こんなことが表沙汰になったら、あなたの選手生命どうなるのよ!?
どんな事情があっても暴力をふるったら、加害者はあなたになるのよ!!」




「……美恵」
「私、そんなに褒められた性格じゃないわよ。自分を襲おうとした連中なんかに情けなんかかけたりしないわ。
こんな連中のために、今までのあなたの努力を無駄にしたくないだけよ!」
不良達を殴っていた跡部の手がようやく止まった。
「……ふん、いざとなったら跡部家の力で事件の一つや二ついくらでも揉み消せる」
跡部は強気だったが、その拳からは怒りが消えていた。
口には出さなかったが、自分の心配をしてくれる美恵の気持ちが嬉しかったのだろう。


「ゆ、許して……いえ許してください!俺たちは、ただ頼まれただけなんです!」
不良達はべらべらと事件の真相をしゃべりだした。
美恵を妬んでいた女生徒に金をもらったことを。
「……今回だけは許してやる。二度と、この学園でうろつくな、さっさと失せろ!」
「は、はい!」
不良達が我先にと逃げ去ると、美恵は跡部の手を取った。素手で殴ったのだ、この大切な拳に傷がついたら大事だ。
幸いにも鍛えられた拳はかすり傷一つついていない。美恵はホッと胸をなでおろした。
同時にある事に気づいた。


(景吾の手……冷たい)


美恵は全てを悟った。なぜ帰ったはずの跡部がここにいたのか、なぜタイミングよく登場したのか。

「……外で待っててくれたんだ」
「あーん?俺様は忘れ物を取りに戻っただけだ」


跡部は即座に否定したが、それが嘘だということは彼の冷え切った手が証明している。

「ねえ景吾、送ってくれる?」
「あーん?俺様は暇じゃないんだが、てめえがどうしてもというならそうしてやる。感謝しろよ」

憎まれ口をきいたが、「ほら行くぞ」と差し出してくれた手は心なしか温かかった。














(……あんな頃もあったのに、いつの間に私達、こんな関係になったんだろう?)

小学生の時に熱を出して寝込んだ時、跡部は家に押しかけてきて一晩中そばにいてくれたものだった。
でも今は見舞いにも来てくれない。窓の外を何気なく眺めていると看護婦が入室してきた。
天瀬さん、気分はどう?」
「はい、もう大丈夫です」
「そう、良かった。だったら、少しくらい長話しても構わないわよね」
「何かお話があるんですか?」
「私じゃないのよ。今ね、部屋の外に素敵な男の子が来てるの。
あなたの気分が優れなければ花束だけ置いて帰るけど、もし良かったらって」


素敵な男の子!咄嗟に跡部を連想していた。


「面会しても大丈夫よね?」
「はい!」
思わず音量を上げてしまった。露骨に嬉しそうな表情をしたのか、看護婦は「恋人かしら?」と冷やかしてくる。
「あんな優しい彼氏がいるなんて幸せね。待ってて、すぐに呼んであげるから」
否定する間もなかったが、今はただ跡部に会いたかった。

(お見舞い来てくれたんだ……良かった、私、見放されたわけじゃなかったんだ)

幸福感で胸が満たされた。こんな些細なことが、こんなにも嬉しいなんて。
トントンと二回ノックの後、その彼とやらが入室してきた。大きな花束を抱えて。
「こんにちは美恵さん、気分はどう?」
「……え?」
そこに立っていたのは、あまりにも意外な人物だった。














「後で知ったけど、彼女も風邪ひいて欠席してたんですってね。
でも、あなたは彼女のお見舞いには行ったけど私のことはほったらかしだった。
ライバル校の不二君ですら毎日のようにお見舞いに来てくれたっていうのに」
「不二だと?」
「ええ、そうよ。私が入院したって聞いて毎日のように来てくれたわ。
あの時、不二君のすすめに従って青学に転校していれば良かったかもね」














「ふ、不二君?」
跡部でなかった。氷帝のライバル青学の天才と名高い不二周助だ。
美恵さん、大変だったね。これ、見舞い品に月並みなものしか思いつかなくて。花は好き?」
「あ……え、ええ好きよ。ありがとう」
不二とは顔見知りだが、合同合宿や交流試合くらいでしか接する機会がない相手。
そんな不二の見舞いはありがたいと思うべきだが、美恵は内心がっかりしていた。
「どうしたの、やっぱりまだ調子悪い?」
「ううん、ありがとう不二君」


――いけないわ。せっかく来てくれたんだもの、感謝しないと。


「でも、どうして不二君が私の入院知っていたの?」
「僕の昔のクラスメイトが今氷帝の生徒なんだよ。その人から偶然美恵さんが入院してるって聞いてね」
「ありがとう。でも、どうして私なんかのお見舞いに……」
「だって合同合宿の時、君にはお世話になったし。何より、僕が来たかったんだよ。
でも最初は躊躇したよ。だって君の周りをうろついたりしたら跡部達に何を言われるかわからないからね」
美恵の表情が一瞬で曇った。


「合宿の時もうるさかったんだよ。『うちのマネージャーに近づくな』って。
美恵さんは本当に大事にされてるんだと思ったよ。ちょっと頭にきたくらいさ。
今日だって、跡部達と鉢合わせしたらどうしようって内心心配だったんだ」
「…………」
「跡部達は今日はもう帰ったの?」
「……あの」
「どうしたの?大事なマネージャーなんだから、毎日来てるんだろ?」
不二は悪気のない笑顔で痛いところをついてくれた。


「どうしたの?僕、何か気に障ること言った?」
(何て言ったらいいの?不二君は悪くないし……)
何とか返事をしようと思ったが、のどが詰まったように言葉が出ない。

「……美恵さん、余計な事かもしれないけど、もしかして跡部達、見舞いに来てないの?」

美恵はぎょっとなった。
「……来てないんだ。信じられないよ、僕でさえ心配でたまらなかったのに」
「景吾達は今忙しいから……」
美恵は跡部達を擁護したが、不二の目は全てを見透かしているように鋭くなった。
言葉に詰まり俯く美恵に不二はそれ以上何も言わなかった。
ただ、「明日も来ていいかな」と優しく尋ねただけだった。
それから退院するまで不二は毎日病院に訪れては面会終了時間ぎりぎりまでいてくれた。




「せっかくだから、これを機会に友達になって欲しいんだ。メールアドレス教えてもらってもいいかな?」
美恵は笑顔で携帯番号とメールアドレスを記載したメモを渡した。
「ねえ美恵さん、こんなこと言うなんて何考えてるんだろうと思うかもしれないけど」
「何、不二君?」
「青学のマネージャーになってくれない?」
突然の申し出に美恵は言葉もなかった。
「聞いたんだよ、氷帝テニス部で今君がどんな状況なのか」
「……不二君?」
「跡部達は新しいマネージャーばかり贔屓して君をないがしろにしてるって話じゃないか」
部外の生徒にまでそう思われていたのかと、美恵はみじめな気分になった。


「君がどんなに素晴らしい女性か僕は知ってるつもりだよ。そんな君を冷遇するなんて許せないよ。
ねえ青学においでよ。この際だから、はっきり言うけど跡部達は、もう君を必要としていないんだ」
それは、あまりにも残酷な言葉だった。
「その証拠に君が苦しんでいる時ですら、ほったらかしで優しい言葉一つかけてくれないじゃないか。
君の居場所は、もう氷帝にはないんだよ。つらいけど現実を認めて新しい一歩を踏み出そう?
僕なら君にそんな寂しい思いはさせない。ずっと大切にする、約束する。だから青学に来てよ」
不二の誘いは今の美恵の寂しい心に鋭く突き刺さった。


「ありがとう不二君」
「じゃあ」
「でも私、もう少しだけ頑張ってみる」
不二は露骨に不快な表情をした。
「そんな事しても悲しむのは君なんだよ」
「そうね。でも長年一緒にやってきた大事な仲間だから……だから努力してみたいの」
不二はそれ以上は無駄だと悟ったのだろう。残念そうに、こう言った。
「わかったよ。でも忘れないで、君は一人じゃない。気が変わったら、いつでも青学に来てね」














「不二君に現実を突き付けられた時に認めればよかったのよ。氷帝に私の居場所はないってこと。
邪魔者はさっさと居なくなれば良かった。あなた達もそれを望んでいたはずよ!」
「俺の話を聞け美恵、あの時は――」
「今更、話すことなんかないわ。もう手を離して!」





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