――私、生きてる?


目を覚ました美恵は、ゆっくりと体を起こした。ずきんと腕に痛みがあったが重傷ではない。包帯が巻かれている。
そして目の前に広がるのは、間違いなく漂着した島を取り囲んでいる海だ。

(……あれだけの獣の群れに襲われてどうした助かったのかしら?)

ぼんやりと考えていた美恵だが、やがてハッとして腕に巻かれている包帯を見た。
自分を手当てしてくれた人がいる。こんな無人島では、その誰かは簡単に特定される。
美恵先輩、気がついたんですか?」
振り向くと鳳がカップを手に立っていた。




テニス少年漂流記―5―




「おい忍足、何か見えたか?」
「いや何にも……ここはどこの海域なんやろうなあ。船舶どころか飛行機も通らんって」
小高い丘から跡部と忍足は必死に双眼鏡を覗き込んでいたが、見えるのは延々と続く空と海だけだ。
「……ちっ、そろそろ帰るぞ」
跡部は面白くなさそうに小石を蹴った。
「そう落胆するなや。俺らが遭難したことは、とっくに本国に報告されてるやろ?
今頃、捜索してくれてるかもしれへん。
特に跡部、自分みたいに大財閥の御曹司まで行方不明になったら大騒ぎだと思うで」
「あーん、それがどうした?騒がれるだけじゃどうしようもねえ。早く探しにきやがれ、何をちんたらしてやがるんだ」
「まあ、そう文句いうなや。美恵が無事だっただけでも良かったやろ?」




救助ボートで脱出したと思われていた美恵が、この島にいた。
一番驚いていたのは美恵がボートで逃げたと証言していた向日だった。


『だってボートに乗り込んだ女は美恵の愛用の髪飾りしてたんだ。あれって跡部がプレゼントしたやつだろ?
そりゃ……顔は見てなかったけど、間違いなく美恵だったと思うぜ』
『髪飾り?』
『そうそう、ほら蝶々をデザインしたやつで赤色の』
それで跡部は全てを悟った。
『それは美恵にやったものじゃねえ……あいつにプレゼントしたやつだ』



跡部が新マネージャーと付き合っていた頃、美恵の髪飾りが欲しいとせがまれた事があった。
もちろん美恵の物をやるなんて論外だったから、仕方なく同じブランドのアクセサリーを買ってやったのだ。
美恵にプレゼントしたものは青を基調とした特注品で、あの女にやったものとは似て非なるものだ。
向日の単なる勘違いだった。救命ボートで逃げ出したのは美恵ではなく、彼女の方だったのだ。




(思えば、あの頃から、あいつの本性が見えてうんざりするようになったんだったな)

勝手だが跡部にはもう彼女に対する好意は全く残っていないのだ。
「そろそろ美恵も目を覚ましてるだろうな。あの嵐で溺死せんで、ほんま良かったわ」
忍足の言うとおりだった。一歩間違えば美恵は海の藻屑になって遺体すら見つからなかっただろう。
考えただけでぞっとする。














「……お、鳳君」
「大丈夫ですよ、怪我は大したことありませんから。あ、これどうぞ。インスタントですが結構いけますよ」
渡されたカップにはスープが注がれてあった。確かに美味しそうだが、美恵は食欲がわかなかった。
鳳がここにいるということは、つまり自分は跡部達に救われ、彼らの臨時キャンプに連れて来られたという事だ。
「今ここにいるのは鳳君だけ?」
「日吉があっちで作業してます。跡部部長達は出掛けてます」
「……そう」
「軽傷で済んだとはいえ怖かったでしょう。でも安心して下さい。今後はあんな危険な目には合わせませんから」
確かに大人数でいれば、獣の群れも簡単には襲ってこないだろう。しかし美恵は素直に喜べなかった。
美恵先輩が無事で俺すごく嬉しかったです」
嬉しい言葉にもかかわらず美恵は、その言葉を心のどこかで否定していた。


(本心は、見つかったのが彼女じゃなくてがっかりしてるんじゃないかしら?)


跡部達は必死になって彼女を探して島中歩いていた。自分のことなどお構いなしだったはずだ。
(あんな野生動物がいたんじゃ、もう地面では眠れないわね……洞窟を探すか、木の上で寝るか。
それとも夜は火を絶やさないようにして起きていた方がいいかしら?あいつらは夜行性みたいだし。
いえ、それは駄目。救助が来た時に眠っていたんじゃ話にならないわ)
「あの先輩どうしたんですか?」
鳳が心配そうに美恵の顔を覗き込んできた。
「鳳君、景吾達が出掛けてからどのくらいたってるかしら?」
「二時間くらいでしょうか……そろそろ戻ってきますよ」
美恵は慌てて立ち上がった。ぐずぐずしてはいられない。


「先輩、どうしたんですか?」
「助けてくれてありがとう鳳君」
美恵は足早に歩き出した。今度は鳳が慌てだした。
「先輩、どこに行くんですか!跡部部長達もすぐに戻って来るんですよ」
「だからここには居たくないのよ。景吾達は内心私の存在を疎ましく思っているわ、鳳君だって知っているでしょう?」
鳳達二年生は先輩であり長年姉のように面倒を見てくれた美恵を表立って敬遠したりしなかった。
しかし美恵と三年レギュラーの間が疎遠になれば、彼らとの自然と気まずくなっていったのだ。
鳳自身、宍戸を誰よりも慕っていた。
そのため、宍戸と美恵が不仲になった以上、前のように美恵と接する事は出来なくなっていた。
美恵に悪いと思いつつ、宍戸に気兼ねしてついつい避けてしまっていた。しかし今は状況が違う。




「待って下さい。先輩は誤解してます、部長達は――」
「私、見たのよ。景吾達が必死になって彼女を探しているところを!
それなのに大事な恋人は生死不明で私が生き延びていたのよ、景吾は何て思っているかしら?!」

『あいつじゃなくて、どうしておまえなんかが』

そんな冷たい台詞が聞えてくるようだった。
はっきり口に出さなくても、きっと跡部の目はそう告げるに決まっている。
「先輩、とにかく落ち着いて下さい。俺の話を聞いて下さい!」
鳳は必死になだめようとした。
「鳳、美恵先輩相手に何下克上してやがるんだ?」
背後から、あまりにも空気を無視した台詞が聞え、鳳は思わず美恵の腕をつかんでいた手の力を緩めてしまった。
「あ!」
その途端に美恵は鳳の手を振り払い猛ダッシュしていた。


「下克上だ」
またしても妙な言葉。鳳がキッと背後を睨みつけると日吉が胡散臭そうな目で見ていた。
「日吉、こんな時に何言ってるんだ!」
「ところでいいのか?美恵先輩のダッシュ力は案外すごいぞ」
「え、あ……ああ!」
しまったと鳳が視線を美恵に戻すと、すでに美恵の後姿は小さくなっていた。
「下克上等」
「先輩待って下さい!」
鳳はすぐに後を追おうとした。




「無駄だ鳳、下克上は一度見逃すとひっくり返すのは容易くないぜ」
「日吉、おまえのせいだぞ!先輩に逃げられたなんて言ったら跡部部長や宍戸さんがどんなに悲しむか!」
「仕方ないじゃないか。俺は少しくらい跡部さん達はきつい思いした方がいいと思うぜ」
「……日吉?」
「あれだけ色々あったんだ。全部水に流して仲良く下克上なんてできるわけないんだしな。
おまえだって宍戸さんの顔色伺って美恵先輩から逃げたじゃねえか。今さらイイコぶるなよ」
日吉の言う事にも一理ある。だからといって無視するわけにはいかない。


「ここは何がでるかわからない無人島なんだぞ?現に先輩は昨夜狼に襲われたんだ」
「太陽が出てる間はでてこないだろ。先輩だって馬鹿じゃない、警戒するだろうさ」
「でも夜になったら」
「それまでに跡部さん達が必死になって見付けるだろ。もしかしたら今夜は心配で眠れなくなるかもな。
三年のいざこざのせいで、俺達二年まで巻き込まれてろくに下克上できなかったんだ。
そのくらい、いい薬だ。たまには痛い思いしたほうがいいんだよ」
「……日吉、おまえ案外怖い性格だったんだな。でも、おまえ一つ大事なこと忘れてないか?」
「何がだ?」
「俺達が先輩を逃がしたことを知った跡部部長と忍足さんが、俺達に制裁加えないと思ってるのか?」
「…………」
日吉はじっと鳳の顔を見詰めた。そして数分後――。
「鳳、すぐに探しに行こう」














「……狼はいないようね」
美恵は周囲の物音に注意しながら最初に仮のキャンプに選んだ場所に戻ってきた。
食料や私物をはじめ、この島で暮らすのに必要な道具がそこにあるはずだった。
ところがあったのはお手製のかまどのみ。荷物が全て消えている。
「どういう事よ、あれがないと困るのよ!」
狼がいたように、この島には他にも動物がいて持っていったのだろうか?例えば猿とか。
美恵は必死になって辺りを探したが荷物は影も形もない。


「……どうしよう。こうなったら、もう一度クルーザーに入って食料や道具を調達しないと」
けれども跡部達もクルーザーを発見したのだ。おそらく使えるものは、ほとんど持ち出しただろう。
命を優先させるなら、意地もプライドもかなぐり捨てて跡部達の元に戻るべきだろう。
しかし美恵は意地っ張りな性格だった。今さら、のこのこ戻れない。
「食料は昨日みたいに砂浜で貝を採ろうかしら?でも……」
食料は何とかなるだろうが、ナイフ一本持たずに夜を一人で過ごすなんて危険だ。
「適当な木を見つけて、その上で夜を明かせば何とかなるかもしれない」
しかし、そんな都合のいい木が見つかるだろうか?寝相は悪い方ではないが、木から落ちない保証はない。
木の蔓で体を枝に縛り付ければ何とか落ちずに眠れるだろうか?
(駄目だわ子供だましよ。何の保障もない)
美恵の単独サバイバルはいきなり暗礁に乗り上げた。




美恵?」
美恵はビクッと反応した。
「やっぱり美恵か。声が聞えたからもしかしてと思って引き返してみたら」
「……け、景吾」
跡部と忍足が立っていた。美恵の荷物を抱えているではないか。
「私の荷物!返して、この島ではそれが必要なのよ!」
美恵は荷物を取り返そうと腕を伸ばした。だが手首を跡部につかまれ強引に引き寄せられた。
「どうして、てめえが一人でここにいやがるんだ!」
「それはこっちの台詞よ。どうして私の荷物を持ち出すのよ!」
「てめえに必要だから持ち帰ろうと思っただけだ。なんで、てめえは――」
跡部はハッとした。


「おまえ、まさか俺達と離れて一人で……そのつもりでここに戻ったのか?」


「何やて!?」
「馬鹿か、てめえは!昨夜襲われたこと、もう忘れたのか!?」
「だからって、あなたのお情けに縋れっていうの?侮蔑と嫌悪に満ちた目で見られるのは、もうたくさんよ!」
跡部は思わず顔色を失ったが、俯いていた美恵はそれに気づかず、さらに続けた。
「ずっと前からわかっていたわ。氷帝テニス部に、もう私の居場所はないって!今度の事で再確認できた!
見つかったのが彼女じゃなくて悪かったわね!」
「おい、何言ってやがる!」
跡部は美恵を落ち着かせようと思ったが言葉が見つからない。


「安心して彼女はきっと無事よ。救命ボートで逃げたんだもの、だから後は救助が来るのを待てばいいわ。
そうしたら、すぐに彼女と会えるわよ。私のことは構わないでちょうだい」
ずっと心の中に溜め込んでいた想いがあふれ出していた、もう止められない。
「構うなだと?そんな事できるわけねえだろ!!」
跡部に反論されて美恵は、さらにカッとなった。


「簡単なことでしょ!あなたは肺炎になりかけた私を無視して彼女のお見舞いに行ってた事もあったじゃない!!」


跡部は言葉を失った。あの日、無理をして一人コートで雨に打たれた美恵は高熱を出して寝込んだ。
気がついた時には病院のベッドで横になっており、ばあやが手を握って涙ぐんでいた。
電話が通じず心配して実家から上京し、高熱で苦しんでいる美恵を見て慌てて救急車を呼んだらしい。
医者の話では、もう少し処置が遅かったら肺炎になっていたかもしれないという事だった。
そのまま数日間入院することになった。

しかし、その間、跡部が病院に顔を出したことは一度もなかった。




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