美恵は全力疾走した。その美しい脚線美は決して飾り物ではないことを証明する素晴らしい走りだった。
しかし相手は野生の獣。まして、ここは彼らの縄張り、あまりにも不利な材料が揃っている。
「きゃあ!」
足元に衝撃を受け、美恵は派手に転倒した。木の根につまずいたのだ。
それを待っていたかのように獣が一斉に飛び掛ってきた。




テニス少年漂流記―4―




美恵!いるのか美恵!」

跡部は暗闇に包まれた森の中で必死に声を張り上げ美恵の名を呼び叫んだ。
しかし返事は無い。聞えてくるのは風のざわめきくらいだ。
(俺の勘違いなのか……この島にあいつがいるわけがねえのに)
救命ボートで脱出した美恵が、この島で一人ぼっちで彷徨っているとは思えない。
一緒に逃げた船員達と共に救助されたか、この島に漂着したとしても一人きりのはずがないからだ。
(……やはり俺の思い違いか)
跡部は引き返すことにした。


「とんだ無駄足だったぜ……ん?」
妙な音が遠くから聞えてきた。微かだが確かに聞える。
「犬?それも一匹や二匹じゃねえな、一体何を騒いで――」
跡部はハッとした。微かに聞えてくる唸り声は獲物を見つけ興奮している獣のものだった。
(ま、まさか……!)
跡部の脳裏に獣の群れに八つ裂きにされている美恵の姿が浮んだ。

「くそったれ!」

跡部は全速力で走り出した。














「……跡部の奴、美恵がおると思うてんのやろうなあ」
忍足は焚き火に枯れ木を放り込んだ。
「……忍足~」
ジローが眠たそうに目をこすりながら起き上がった。
「ん、何や目がさめたんか?」
「跡部はどこ行ったの?」
「ちょーっとなお出掛けや。すぐに戻るから」


「ねえ忍足……美恵と俺達が仲悪くなったのって俺のせいなのかな?」


忍足は思わずキョトンとした。
ジローが神妙な面持ちで放った言葉は天真爛漫な彼には、あまりにも不似合いな言葉だったのだ。
「……俺さ。 美恵に確認もしないで疑ったんだ。美恵の事好きだったから……だから確かめるのが怖くて」
「何の話や?」
忍足は泣きそうなジローを諭すようにゆっくりと尋ねた。
「……あいつが」
ジローは半ば悔しそうに『あいつ』と言った。それが誰を指している言葉なのか忍足はわかっている。


「あいつが泣いてたんだ……大事にしてたアクセサリーが無くなったって……。
俺、一緒に探してあげるって言ったんだよ。そしたら、必死になって断ったんだ。
おかしいだろ?まるで何か隠しているみたいで、様子がおかしかったんだ。
それからしばらくしたら、部室から美恵が出てきて、その後に入室したら、またあいつが泣いてた。
美恵と何かあったんじゃないかって思って尋ねたら、『天瀬さんを怒らせたくないから聞かないで』って。
何聞いてもそれ以上何も言わなくて、ただ泣くんだよ。
言葉に出さなくてもあいつの態度で、俺……美恵があいつをいじめてるんじゃないかって思って……」


そんな事があったのかと忍足は内心驚いていた。
忍足や跡部の前では、彼女はどちらかといえば美恵に対してわがままな態度だったから。


「……あいつが部内で揉め事起こしたくないから黙ってて言うから……。
自分が我慢すれば済むことだからって言うから、俺も黙ってたんだ。
でも俺怖くなって、美恵を信じられなくなって……気がついたら美恵から離れてた」
そういえば、あれほど美恵に懐いていたジローが、彼女が入部して間もなく美恵にじゃれ付かなくなっていた。
「俺があの時何とかしていれば良かったんだ。でも俺は、俺と美恵に距離が出来たって大したことないと思ってた。
でも……気がついたら跡部達とも仲悪くなってて……俺、どうしたらいいかわかんなくなったんだ。
もしかして跡部達も裏で美恵と彼女が揉めてるって疑いだしたんだろうと思ったよ。
けど、表立った争いもなかったから確かめることもできなかった」




忍足は黙ってきいていた。今ならわかる、それはおそらくあの女の陰湿な策略だったのだろう。
自分や跡部と違い、純真無垢なジローに女の色香は通用しない。
だから、裏で意地悪をされているか弱い女の子を演じジローと美恵の仲を裂いたのだろう。
ジローは部のムードメイカーだ。
そのジローが美恵と距離を取ったことも、美恵が孤立する大きな一因になったことは間違いないだろう。

(バカな女だったが、俺達の性格や役割をようわかってたんやな。大したもんや。
けど転校生だった、あの女がそんな短期間で俺らの事をそこまで把握するなんて……。
それに騙された俺達がアホやったといえばそれまでだけど、どうも腑に落ちんな)

あのマネージャーは今になって冷静になって考えると外見だけが取り得のような女だった。
性根が曲がっていて我侭ではあるが、お世辞にも計算高いタイプとは思えない。
だからこそ、あの女の本性に気づかずずるずると何ヶ月もの間、いいなりにもなってしまった。
今になって知った新事実は、そんな彼女の実体を覆すもので忍足は疑問を感じた。
しかし疑問よりも、今はとりあえずジローが最優先だ。


「ジロー……自分は俺達とちごうて美恵に辛く当たったりせえへんかったやろ?自分のせいやない」
「……でも!」
ジローは俯いた。

「……でも俺、美恵を庇ってもやらなかったよ」














「こんな処で獣の餌になってたまるものですか!」
美恵は小石を握り締めると素早く投げた。きゃんと悲鳴が上がるが、勿論そんなことで興奮しきった獣の群れは怯まない。
美恵は立ち上がると猛ダッシュした。だが背中に飛びつかれ再び転倒した。
「は、離れなさいよ!」
美恵は蹴りをお見舞いしようと試みたが、別の狼が脚に噛み付いてきた。
激痛が走る。はいていたのが丈夫なジーンズでなかったら、たちまち脚を引き裂かれていただろう。
さらに、もう一匹飛び掛ってきた。今度は美恵の腕に噛み付いてきた。ズキンと鈍い痛みを感じた。

「だ、誰か……!」

気の強い美恵でも、この惨状に悲鳴を上げた。このままでは間違いなく噛み殺される。
あまりの状況に意識が遠のいた。


――私、こんな処で死ぬの?


心のどこかで、もうダメだと思った。そして美恵は気を失った。




美恵が暴れなくなると狼達は美恵から口を離した。もう強引に押さえつける必要は無いと悟ったのだろう。
晩餐はゆっくりと楽しめるのだ。まずボスらしき狼が美恵のTシャツの裾を銜えると一気に引きちぎった。
その時だった、群れの後方で、ぎゃんと悲鳴が聞えたのは。
豪華な夕食を開始しようとしていた彼らは突然の乱入者に瞬時に戦闘態勢に入った。


美恵!」


狼の群れの中央に横たわっている女を確認するなり跡部は叫んでいた。
群れを蹴散らし跡部はすぐに美恵の元に駆け寄った。


美恵、おい美恵、しっかりしろ!!」


跡部は必死になって美恵を揺さぶったが、まるで反応がない。
半狂乱になった跡部に狼達は容赦なく襲い掛かった。














「……だから美恵は俺達に愛想つかしたのかな?だから俺達を見捨てて逃げたのかな?」
「あのなジロー、そのことやけど……」
そこまで言いかけて忍足は硬直した。ジローは何事かときょとんと首を傾げる。


「……あ、跡部……自分」
「え、跡部?」


ジローは振り向くと忍足同様ぎょっとして硬直した。
服を引き裂かれた美恵を抱きかかえている跡部が立っていたのだ。
その跡部自身も流血をともなう怪我を負っているではないか。


「あ、跡部!美恵!一体何があったんや!!」


忍足の驚きの声に他のレギュラーも一斉に目を覚ました。
「何だよ侑士、今何時だと思ってんだよ」
「……激ダサだな。静かにしてく――」
そして彼らも皆一様に絶句した。数秒間の無言の後に跡部に駆け寄ったのは樺地だった。
「跡部さん、大丈夫ですか!?」
どんな状況でも取り乱すことのない樺地が慌てている。無理もない。
宍戸たちも跡部に駆け寄った。跡部の怪我、そして美恵、驚くことばかりだが今は質問するような状況ではない。
忍足が救急箱を持ってきた。


「跡部、大丈夫か!?」
「俺はいい、美恵をみてくれ。襲われたのはこいつの方なんだ」
「わかった。誰か綺麗な水を汲んできてくれ!」
「俺、行って来ます!」
「俺も!」
鳳と日吉がバケツを持って森に向かって走っていった。


「狼か山犬かしらねえがイヌ科の獣に襲われたんだ。美恵は大丈夫なのか!?」
「ああ、心配ない。怪我はしてるけど幸い大したことない、傷も残らんやろ。気い失ってるだけや」
「……そうか、良かった」
跡部はホッとした。同時に気が抜けたのか、足元から崩れ落ち砂浜に両膝をついた。
「跡部、しっかりしろ!おまえの方が怪我がひどいじゃねえか!」
宍戸が心配そうに跡部の出血箇所にタオルを押し当て止血する。
「俺はいい。たかがこれしきの傷で俺様の美貌はかわらねえ……けど美恵は女だ、傷が残らなくて良かったぜ」
跡部は美恵を抱きしめた。


美恵が無事で……良かった」




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