「俺らの他に、この島に誰かいる?」
「ああ、間違いねえ」
跡部は忍足にだけ打ち明けた。同時にある約束をさせた。
「証拠もねえのにあいつらを動揺させたくはねえ。しばらく黙っていてくれ」
「それはかまへんけど、一体誰なんや?」




テニス少年漂流記―3―




「……ん」
美恵はハッとして目を覚ました。西日が眩しい、どうやら日が沈みだしているようだ。
「いけない。寝すぎてしまったようね」
美恵は夕飯の用意に取り掛かった。鍋でご飯を炊き、その傍らでニンジンとジャガイモを切った。
今夜はカレーだ。肉は無いが、浜で獲った貝がある、シーフードカレーだ。
ご飯が出来上がった頃には、完全に太陽は沈んでいた。海面が月明かりでキラキラと輝いている。
「綺麗ね……こんな時でもなければ絶景を楽しむところなのに」
大した料理ではなかったが、疲労しているせいか、どんな豪華な料理よりも美味に感じた。
「今夜は早く寝て明日早く起きないと……」
昼寝したおかげで正直眠くはなかったが、明日に備えて美恵は睡眠をとることにした。

(……今度は悪い夢を見なきゃいいけど)














美恵は地面に叩きつけられたショックで顔を上げることもできなかった。
跡部に手を上げられたことは生まれて初めてだった。
幼い頃からの付き合いで喧嘩なら数え切れないほどしてきたが、殴られたのははじめての経験だったのだ。
やっと跡部の顔を見上げると、彼自身ショックを受けているようにも見えた。
だが、すぐに跡部は「二度と俺を怒らせるな!」と怒鳴ると足早にその場を立ち去った。
美恵と跡部の間に生じた亀裂が徐々に大きくなりだしていた。


(……もう景吾達に何を言っても無駄かも。テニス部に私の存在は必要ではないの?)


彼女の周りでは部員達の笑い声が耐えない。美恵の姿を見ると、その笑みは中断され異様な空気が流れる。
美恵と彼女が不仲で、部員達が彼女の味方だからだ。
彼女の気持ちを気遣い美恵を敬遠していることは明白すぎた。




(……随分と嫌われたものね)
わかってはいたけれど悲しかった。気のせいか体もだるい、救急箱から体温計を取り出し測ってみると微熱があった。
(今日はもう帰ろう)
美恵は跡部に休ませて欲しいと申し出た。




「風邪気味だから帰りたい?」
「ええ、微熱もあるの。できたら2、3日休ませて欲しいわ」
「そんなに具合が悪いようには見えねえぞ。しっかりしろ」
「本当なのよ、頭も少し重いわ……幸い、マネージャーは一人じゃないもの。彼女に仕事やってもらうように言って」
跡部は不満そうに眉を歪ませた。
「本当に風邪なのか?さぼる口実にしているようにしか思えねえな」
「……どういう意味よ?」
「あいつに仕事を押し付けるつもりかって言ってるんだ」
「何ですって?」


ずっと一人で仕事をしてきたのに、こんな時にも一人で仕事をやれというのだろうか?
いつだったか、彼女が届けもせずに休んだ時は跡部達は心配して部活を早めに切り上げお見舞いに行った。
次の日、「やっぱり私大事に思われてるんだ。すごく幸せ」とのろける彼女に美恵は苛立った。
彼女が新発売のアイドルのCDを購入するためにさぼったことを知っていたからだ。
だが跡部達は、そんなことを露知らず無条件に彼女を心配してやった。
それなのに正真正銘、本当に病気の自分の言葉を疑うのだ。
美恵の神経をさらに刺激するかのように、頭痛の種が姿を現した。


「景吾、ここにいたの?」
その容姿に加え愛らしい仕草が彼女のわがままで身勝手な本性を見事に隠していた。
男なら妖精に見えるのも無理は無いと思わせてしまう魅力が彼女にはある。
だが、それは真実を見る目さえあれば簡単に透けてしまうだろう。
今の跡部達には、それを真実を見ようと言う気持ちはない。それが一番楽だから。
「どうしたの、ねえ景吾?」
首を傾げる恋人に跡部は今までのいきさつを説明した。
「じゃあ私に仕事しろってこと?そんなのおかしいわよ、天瀬さんのやるべきこなのに……ひどい」
彼女は大きな目に涙を浮かべ微かに肩を震わせた。完全に被害者きどりだ。




「おい、どうしたんだよ!」
両手で顔を覆っている彼女の姿は遠くからでも目立ったようで宍戸がダッシュでやってきた。
美恵、おまえが泣かせたのか!?」
宍戸はなまじ正義感が強く一本気なために即座に激昂した。
「違うわ!」
勿論すぐに美恵は否定した。だが、ただちに彼女が反論した。
「嘘!どうして、そんなに私の事が嫌いなの?私に何の恨みがあるの!?」
恨み……は、全くないとは言い切れない。しかし、それは美恵に言わせれば彼女の自業自得ではないか。
天瀬さんはずっと前から私を嫌っていたわ。この人は私に嫉妬しているのよ!」
彼女は、さらに盛大に号泣しだした。




「景吾を私にとられたから、その腹いせに私に嫌がらせしているのよ!!」




美恵は絶句した。ただの自己中な外見だけの女と思っていたが、跡部に対する気持ちにだけは気付いていたとは。
恐る恐る跡部を見上げると、彼は冷たく視線を反らした。
「そうなのかよ美恵?」
宍戸が険しい表情で美恵を睨みつけた。その目は非難に満ちている。
言葉に出さなくても彼女の言葉を信じているのがありありとわかった。
根がいい奴だけに、素直に彼女の言葉を信じ怒りを感じているのだろう。
「違うわ。彼女の勘違いよ」
平静を装って言ってやったが、僅かに語尾が震えていた。
「だったら私に仕事なんて押し付けられないはずよ。そうでしょ景吾?」
もう、これ以上の問答は時間の無駄だと美恵は悟った。
「……わかったわよ。今日は最後までやっていくわ」
美恵は無理して最後まで仕事をやり遂げることにした。




「じゃあな」
部活が終わり部員達は続々と帰途についた。美恵は、まだ帰るわけにはいかない。
具合が悪いせいで、いつものようにスムーズに仕事がすすまなかった。まだコートの整備が終わってないのだ。
「……はぁ」
息が荒くなっていた。心なしか体が熱い。
「……雨?」
いつの間にか天気が崩れていたらしい。ぽつぽつとコートに点が広がりだし、やがてシャワーのように変化した。
(早く後片付けをしないと……)
雨は容赦なく美恵の体の体温を奪い出した。ようやく仕事を終えた時には、美恵はびしょ濡れになっていた。
周囲には誰もいない。部員達が全員帰宅してから、随分と時間がたっていたようだ。
(一人ぼっち……か)
美恵は、ふらつきながらマンションに帰った。風邪は悪化して次の日には高熱が出ていた。









「……39度か」
こういう時ほど一人暮らしはきついものは無い。美恵の父はアメリカに拠点を置く実業家で、美恵自身お嬢様だった。
ずっと母と二人で東京の自宅に住んでいたのだが、その母が他界すると父はアメリカに来るようにと言った。
しかし美恵は日本に残る事を望んだ。跡部やレギュラー達と離れたくなかったからだ。


『何ならうちに来い。俺の親父とおまえの父親は友人だしな』


跡部の誘いに内心ときめいたが、美恵は氷帝学園の近くのマンションに暮らすことにした。
ばあやがいてくれたし、お嬢様でありながら家事全般がお手の物であった美恵にとって不自由な生活は苦痛ではなかった。
勉強、部活、生活、全ての両立は高校生にはきつかったが、それでも楽しかった。

(……でも今は最悪)

美恵は布団の中で何度も咳をした。ばあやが腰を痛め実家で静養中のため看病してくれる人もいない。
熱は下がらず、それどころか激しい吐き気に腹痛と症状はますます酷くなり美恵を苦しめた。
食事を取るどころかベッドから起き上がれない。水すら摂取できなかった。

(……苦しい……誰か)

はっきりしない意識の向こうから微かに音楽が聞えてきた。
それが電話の着信音だと気づいた時には、留守電に切り替わっていた。


美恵、俺だ』

――景吾?


『寝込んでいるんだってな、健康管理くらいできねえなんて、てめえらしくねえじゃないか。
さっさと治して早く戻って来い。わかってるんだろうな?』


――お言葉ね。もう少し優しい事いえないのかしら?


『てめえがいないと、あいつに負担がかるんだ』














「……最悪」
また嫌な夢を見ていたようだ。こんな状況で精神がまいっているせいだろうか?
(景吾は寝込んだ私に優しい言葉なんかかけてくれなかった。可哀相なのは、あの女の方なんだから。
自分でいうのもなんだけど、自分が哀れでたまらなかったわよ)
跡部達は、彼女の事を必死に探していたが自分のこと探してくれなかった。
(あの時と同じよ。私のことなんか、もうどうでもいいんだ。こっちだって、あなた達なんか頼ったりしないわよ)
そう強がっているものの、内心不安で、そして寂しかった。
それもこれも救助がくるまでの間だと自分に言い聞かせはしているものの心細かった。


「……一週間くらいの我慢よ。がま――」
その時、背後からがさっと音がして、美恵はぎょっとして振り返った。茂みの中から気配を感じる。
(もしかして景吾達?……いえ違う!)
暗闇の中、赤い光が二つ光った。美恵の背中にぞくっと冷たいものが走る。
(……火、火を!)
かまどの火はほとんど消えており、僅かに煙が立っているだけだった。
美恵の恐怖を煽るかのように唸り声が聞えた。獣だ、危険な獣が茂みの向こうから自分を狙っている!














「跡部、どないしたん?」
跡部達は海岸でテントを張っていた。残っている食料をほとんど運び出したので当分は空腹の心配もない。
その為か、レギュラー達も精神的に余裕が出てきたのか、皆ぐっすりとおねんねだ。
それなのに跡部は、ずっと考え込んでおり神経を張り詰めた様子だった。
「忍足、しばらく見張りはてめえ一人でやってくれ」
跡部は懐中電灯を手に立ち上がった。
「跡部、どこに行くんや?」
「ちょっとな。すぐに戻ってくる」
「おい跡部!……って行ってしもうた。ほんま勝手な男やな」














美恵は私物から手帳を取り出すとページをびりびりと破りかまどに放り込んだ。
消えかけていた火は再び勢いよく燃え出した。
美恵は素早く枝に火をともすと、それを茂みに向けた。どんな獣だろうが本能的に火を怖がるはずだ。
炎に照らされた獣を美恵は見た。山犬、いや狼か?背中に縞模様がある。
どちらにしても危険な肉食獣だということは間違いない。
思ったとおり火を恐れ近付いては来ないが、その代わり逃げる気配もない。

(逃げないと)

美恵は少しずつ後ずさりを開始した。背中を見せて全力疾走すれば、獣を刺激してしまうからだ。
獣との間に一定の距離が開いた。ちらっと背後を見ると100メートルほど先に大木が見えた。

(あれに登れば……)

その時だ。突風が吹き火が消えた、それを合図に獣が茂みから飛び出してきた。
一匹や匹ではない、群れをなして襲ってきたのだ。
美恵は踵を翻すと全力疾走した。その背後から唸り声が瞬く間に迫ってきた。





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