「景吾、景吾!」

景吾、死なないで。お願いだから、もう私から離れないで!

美恵は必死に叫んだ。業火はどんどん燃え広がってゆく。


「景吾、どこなの景吾!?」
返事はない。美恵は火の粉を振り払いながら走った。
「景吾!けい……あっ!」
人影が煙の向こうに見える。美恵は即座に煙を潜り抜けた。


「景吾……!!」
「ふーん……僕の名前は呼んでくれないんだ」


「不二君……!」


――不二の冷たい瞳が美恵を射抜いていた。




テニス少年漂流記―64―




「駄目だ越前、これ以上は下れない」
危険な崖をほんのわずかな足場を頼りに降りていたが限界はすぐに訪れた。
「オチビ、もう戻ろうよ。これ以上降りてどうするっていうんだよ」
「……菊丸先輩と裕太さんは戻っていいっすよ。ロープ持ってまた来てくれる?」
崖の下方を覗き込むと洞窟が見える。

(……満潮になったら入り口が海水で塞がれる)














「……不二君」
「神様っているんだね。君を取り戻すチャンスをくれるなんて」

不二は美恵の手首をつかんできた。細い腕に似合わぬ腕力に美恵は顔をしかめる。

「不二君……!」
「もう離さないよ」

今の不二は普通じゃない。


「不二君、もう馬鹿なまねはやめてちょうだい!」
「聞きたくないね、そんな話」
不二は説得など聞き入れてくれない。美恵は必死に不二の手から逃れると走り出した。


「景吾、景吾!」
「その声は美恵!何しに来たんだ、早く出ろ焼け死ぬぞ!!」


炎の向こうに跡部がいる。美恵は何とか跡部の元に行こうと試みたが炎の勢いが強すぎる。
跡部も同じ事を考えていたらしく悔しそうな声が聞こえてきた。


美恵、逃げるんだ。俺もすぐに追いつくから西に向かって走れ!まだ火の周りが少ない、今なら脱出できる!」
「でも景吾――」
「いいから行け。俺はおまえを置いて死んだりしない。だから行くんだ!」
「……景吾」
「そうはさせないよ!」
「不二君!?」
不二に背後から抱きしめられた。


美恵さんは僕と一緒にいるんだ。あの世までね」
「不二、てめえ!」
「不二君、離し――」

美恵は恐ろしいものを見てしまった。大木が炎によって真っ二つに裂け崩れようとしている。
不二は気付いていない。このままでは二人とも命の危機だ。


「不二君、危ないわ。この場所から離れないと!」
「見え透いた嘘なんか通じないよ。僕を油断させようって魂胆だろうけど」
「違うわ、本当に危ないのよ!!」
美恵は必死に訴えたが、不二は警告など一切聞いてくれない。
そして、ついに大木が美恵達の真上に倒れてきた。

「危ない不二君!!」

美恵は渾身の力を込めて不二を突き飛ばした。














「水だ、水!長太郎、急げ!!」
宍戸はバケツを手に決死の放水活動をしていた。
「あかん、間に合わんで!火がこれ以上燃え広がるのを防ぐために切り倒すんや!!」
白石の指示の元、全員が一丸となって働いた。
その甲斐あって森の一部の炎上だけで収まりそうだ。
「……こっちはええけど、問題はあっちの方やな」
白石は最も火柱が盛大に燃え上がっている中央部を心配そうに見つめた。














美恵さん……!?」
不二は無事だった。地面に倒れただけで怪我もしてない。
だが被害がなかったわけでもない。大木の下敷きになっていたのは美恵。
不二は美恵に助けられた。その代償に美恵は逃げ遅れ地面と大木の間に挟まれてしまっている。
「……う」
死んではいない。だが、このままでは炎が美恵に燃え移る。美恵の命は、まさに風前の灯火となっていた。

「……どうして」

不二は信じられなかった。
自分は美恵を裏切った。悪辣な手段で氷帝から孤立させ、彼女の信頼を利用して巧みに近づき騙し続けた。
最後に命すら奪おうとした。美恵にとって自分は憎んでも憎みきれない存在のはず。
その自分を美恵が守った。理解できない行動だ。


「……どうして?」

不二は混乱した。ただ、目の前に弱々しく横たわる美恵に今まで抱いていた殺意が消失している。
それは不二自身、信じられない事だった。


「どうして僕を助けてくれたんだ!?」


不二は美恵に駆け寄った。熱い、火の手が今にも美恵に迫ってくる勢いだ。
このままでは美恵は確実に死ぬ。
自分の願いが実現するというのに、不二は不思議と嬉しくなかった。
それどころか自分は今焦っている。恐れている。美恵が死ぬことに。




「……咄嗟だったから、深い考えはないわよ」
美恵は苦しそうに煙の下から返事をした。
「……でも不二君だけでも助かって良かった」
不二は自分の中で電流のようなものが走り、今まで積み上げてきた黒い物が崩壊してゆくような感覚を味わった。


「……お願い不二君……景吾は……他の皆には、もう……」
美恵さん!」
「……私はもう……だから、もうやめて。お願いだから――」
美恵の声が細くなってゆく。それを肌で感じた不二は自分でも信じられない行動を取った。


美恵さん、早く出るんだ!!」
不二は大木の下に手を入ると幹を持ち上げようとした。
「不二君……?」
「早く!」


不二君が自分を助けようとしている?


美恵は一瞬呆然となった。
「何をしてるんだ。もう時間がない!!」
「あ……ええ!」
美恵は我に返り抜け出そうと努力した。
だが駄目だ。不二一人の力では、隙間が少しできただけで、とても脱出することは出来ない。


「不二君、やっぱり駄目だわ……あなただけでも逃げて。早く……!」
「君を見捨てて行けるものか。あきらめるな!!」


不二は本当に必死だった。その表情は死力を尽くして試合に挑んでいた時と同じもの。
真剣に美恵を救い出そうとしてくれている。
ダークサイドに堕ちたはずの不二のその姿に美恵は何だかほっとした。




美恵!!」
諦めかけていた美恵は、その声にはっと顔を上げた。
跡部だ。炎を避けながら、ここまで駆けつけてくれたのだ。
「け、景吾……!」
跡部は一見して状況を把握した。
不二が美恵を助けようとしている事には驚いたが、すぐに自分も救出作業に取り掛かった。


「断っておくが、俺はてめえが改心したなんて思わねえからな!」
「当たり前だよ」


それでも二人は美恵を助ける為に力を合わせた。炎は勢いを増している。
このままでは自分のせいで2人を道連れにしてしまうと考えた美恵は叫んだ。


「景吾、不二君、もういいから逃げて!!」
「ふざけるな!おまえが忍足や幸村だったら、とっくに見捨ててやってるぜ!!」
「何やとお!跡部、やっぱり自分とはいつか決着つける運命みたいやな!!」
「俺だって君だったら焼け死ぬ前に自分の手でとどめ刺してやってるよ!!」

忍足と幸村だ。美恵の後を追い彼らもこの炎に包まれた森の中に飛び込んでいたのだ。




「文句は後だ。てめえらも手伝え!!」
美恵の危機に、忍足と幸村は慌てて大木に駆け寄ると全力で持ち上げた。
「……皆」
まさか、この四人が一致団結してくれるなんて。
こんな時だというのに美恵は嬉しかった。


「……皆、ありがとう」
「礼なら後でたっぷり言え。くっ……!」

ついに大木と美恵の間に大きな隙間ができた。
「今だ、美恵!」
美恵が這い出すと同時に全員の体力が尽き、大木は大きな音を立てて地面に落ちた。


「大丈夫か美恵?」
「ええ、少し足が痛いけど……大丈夫よ、走れるわ」
「よし、急ぐぞ。すぐに森を出るんだ!!」
幸い風の向きが変わった。今なら容易く炎の壁を避けて脱出できる。
テニスで鍛えた俊足で一気に駆け抜けようとした。だが美恵は立ち止った。




「どうした美恵?」
「不二君が……!」
不二だけが動こうとしていない。少し俯き、その場に立っているだけだ。
「……僕はここに残るよ」
「不二君、何を言っているの!?」
「ごめん美恵さん。君には本当に酷い事をした」
「その話なら後にして。今は一緒に逃げるのよ」
「それだけじゃない。……僕は取り返しのつかない事をしすぎた。だから、ここで人生を終わらせるよ」
「ふざけるな!!」
跡部の鉄拳が不二の頬に直撃した。


「景吾!」
「てめえが死ぬのは勝手だが。それは今じゃねえだろ!!
戻って、てめえがしたことを全て責任とってからにしやがれ!!」
「何で……君こそ僕に死んで欲しいと思ってるはずじゃあ――」
「つべこべぬかすな。さっさと立て!!」
跡部は不二の腕を掴むと強引に立たせた。


「いいか、必ず生きてこの森から出てもらうからな。逃げるなんて許さねえ!!」


「…………」
「さあ行くぞ」
跡部はくるりを向きを変えた。


「てめえだけの責任じゃねえ。あんな女に簡単になびいて美恵を裏切った俺も同罪だ」


「……!」
虚ろだった不二の目が大きく見開いた。

「俺が美恵の手を離すようなまねをしなければ、てめえだってここまでしなかっただろ」
「……跡部」


不二の頬には自分でも理由がわからない涙が流れていた。
まだ心の中は乱れている。しかし不二は生きる道を選択をした。

不二は強い意志を持って走った――。
その意志は今まで彼を支えていた黒い信念とは明らかに違うものだった――。




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