視界の先に炎の途切れが見える。あそこまで一気に駆け抜ければ助かる。
美恵達はひたすら全力疾走した。
「……っ」
だが先程大木の下敷きになった美恵は体に痛みを感じた。
木と地面の隙間に挟まれ無傷と思われたが、ノーダメージというわけではなかったのだ。


美恵!?」
美恵が遅れだしたのを跡部は敏感に感じたのだろう、Uターンしてきた。

「景吾、何してるのよ」
「おまえ、どこか悪いんじゃねえのか?」
「私なら大丈夫。単に皆より足が遅いだけよ。だから構わずに先に行って」
「そうは行くか。来い!」

跡部は美恵の手をつかみ走り出した。美恵の速度は上がったが、これでは跡部の足手まといだ。
案の定、今度は跡部まで遅れだした。火勢は衰えず美恵と跡部を襲ってくる。


「頑張れ、もう少しだ!」
「景吾……!」

自分の身を危険に晒してまで守ってくれる跡部に美恵は胸が熱くなった。
だが、その思いは一瞬で変化した。


「景吾!」

炎に包まれた木が美恵と跡部に襲いかかった。

美恵!」

跡部は美恵を庇うように覆い被さってきた。


「……景吾!」


美恵はぎゅっと目を瞑った――。




テニス少年漂流記―65―




(……痛くない)

跡部もろとも下敷きになると思われたのだが、痛みどころか圧迫される感覚すらない。
感じるのは跡部の腕のぬくもりだけだ。
おそるおそる目を開けると視界に飛び込んできたのは、こめかみを押さえて地面に腹ばいになっている不二の姿だった。


「不二君!」


何て事だ。不二が自分と跡部の身代わりになったとは。
「不二君、しっかりして!」
美恵は不二を立たせようとしたが、女の細腕では不二の華奢な身体も大変な負担だった。
「不二君、血が……!」
不二の額から鮮血が溢れ地面に染み込んでゆく。一刻も早い手当が必要だ。
その為にも早くこの炎の森から脱出しなければ。




「不二先輩!」
駆けつけてきたのはリョーマだった。
「不二君は私達を庇って」
リョーマは最初は信じられないと言わんばかりの表情を見せた。
しかし美恵の真剣な眼差しから事実だと理解したのだろう。
「不二先輩も人の子だったんすね」と本気とも冗談ともとれる台詞を口にした。


「しょうがねえな」
跡部が不二の腕をとった。
「おい越前、おまえも手伝え」
「……越前」
気絶していたかと思われた不二が小さい声を発した。


「……僕は大勢の人間を傷つけた。友達の佐伯、仲間の手塚や大石まで殺したんだ。
死んだら美恵さんに会えなくなる……彼女はきっと天国だから」

リョーマは静かな口調でこう言った。




「手塚部長達なら生きてますよ」




炎の火勢は凄まじかったが、越前の静かな声ははっきりと聞こえた。
美恵も跡部も驚いていたが、不二はもっとだろう。

「……もしかしてと思って崖下を探してみたんですよ。
海に面した洞窟があって、潮の流れで皆そこに流されて九死に一生ってやつだった。
ちょっと精神的ショック受けてるだけで怪我も大した事ない」

不二はリョーマを見上げた。


「だから、あんたは人殺しじゃないんだよ」
「そう……良かった」


その言葉を最後に不二は意識を失った。
その後は大変だった。何とか森を脱出。宍戸達の活躍で火事の広がりも最小限に押さえる事ができた。
リョーマの言葉も真実で手塚達は生きていた。
ただ受けていた精神的ショックとやらはちょっとではなかったが。
火事の後始末と平行して、手塚達の救助活動も行われた。
そして、その間、ずっと不二の意識は戻らず、眠り姫と化した不二の看病をしたのは美恵だった。














「しかし手塚達も大変だったよな」
蟹や魚、海草が多く生息していたおかげで飢え死にする事もなかったのだ。
奇跡といえようが、それでも想像を絶する生活だったのは想像できる。
「でも宍戸さん、あまりの精神ショックで、この島での記憶をほとんど無くしたっていうんですよ。
よっぽど怖い目にあったんでしょう。やっぱりお気の毒ですよ」
急所がはずれ助かっていた観月などは、今もなお怯えているというではないか。


「これからどうなるんでしょうね」
「なにがだよ?」
「なにがって、不二さんですよ。跡部部長は未遂とはいえ美恵先輩を殺そうとした人間を許せるんでしょうか?」
「仕方ねえだろ。当の本人が不二を許しているんだから」
「そうでしょうか?俺だったら、もし誰かが宍戸さんに危害を加えたら絶対に許さないですよ。
絶対に……地の果てまでも追い詰めてでも処刑してやります」
「……ちょ、長太郎?」














「ねえ大石、手塚、本当に何も覚えてないの?」
菊丸はしつこいくらいに何度も同じ質問を繰り返した。
「気がついたら洞窟に流れ着いていたからな」
「……俺も何が何だか。思い出しちゃいけないような気すらするんだ」


(まずい。このままでは不二の罪が不問にされてしまう。そんなこと許さへん)
(近い将来、美恵さんを略奪するためにも敵は今のうちに減らしておいた方がいい)


「自分ら、都合のいい記憶喪失に満足してるんやろ。けど現実から逃げたらあかん。
ほら、思いだしてみい。嫌な事も全部なあ」
「ふふ、何ならもう一度強いショックを与えて無理矢理思い出させてあげてもいいんだよ」
忍足と幸村は執拗に迫った。
「忍足さん、幸村さん。ちょっといいっすか?」
そこにリョーマがやって来た。


「何や、お子様は黙っとれ」
「そうだよ、坊やに用はないよ」
「止めるつもりはないですよ。ただ千石さんと海堂先輩の記憶喪失もついでに治してくれないっすか?」
忍足と幸村は同時にぎくっとなった。
「どうしたんすか?もしかして二人が記憶取り戻したら何かやばいことでもあるんすか?」
「……何でもないよ。ただ本人達が忘れたがってるんだから、このままでもいいかなと思っただけや」
「……そうだね。辛い記憶をわざわざ甦らせる事はないよ」
忍足と幸村が心の中で、「このクソガキ!」と叫んだのは言うまでもない。




「ほんまにいけすかんガキや。跡部、このまま黙っててええんか?」
「あーん、しょうがねえだろ」
「跡部らしくないで」
「比嘉高の連中まで生きてたんだ。あいつらを簀巻きにして海に捨てた事が美恵にばれたらややこしくなる」
「けどなあ……」
「それに肝心の不二は眠ったままだ」














「兄貴、ごめんな。兄貴の苦しみに気づいてやれなくて……」
裕太は手の甲で涙を拭った。
「裕太君、大丈夫よ。不二君なら、きっと目を覚ますから」
「あの……」
「何?」


美恵さんはどうして兄貴の事を許せるんですか?」


美恵は思わず言葉を失った。
「兄貴の事、憎くないんですか?」
裕太としては当然ともいえる疑問だろう。
しかし美恵は裕太が満足するような答えを提供してやれなかった。
「私もよくわからないの……」
全く恨みがないといえば嘘になるかもしれないが、それでも不二を憎む気持ちにはならなかった。


「ただ、不二君が目覚めたときにそばにいて支えてあげられるのは裕太君だけだと思うの」


「俺なんか……」
「裕太君だけなのよ。不二君の事、お願いね」


美恵さんは優しすぎるんだよ!」


突然の第三者の声に美恵と裕太はほぼ同時に振り返った。
「幸村君!」
「俺達の慈悲深い裁断で不二の犯した罪は不問にしてあげるけど、その罪が帳消しになったわけじゃあないんだよ」
「不問って……だって、あんただって海堂や千石や比嘉の連中をころ――」
「余計な事は黙ってなよ!俺は――」


「……幸村」


その弱々しい声に一同は一斉に視線をベッドに釘付けにした。

「兄貴!」
「不二君、気がついたのね。良かった」
「……美恵さん」
「不二君はもう二日も眠ったままだったのよ」
「……そうか。あれから、二日たったんだ」

不二は上半身をゆっくりと起こした。傷が痛むのか僅かに眉間に歪ませている。
心配そうに見つめる美恵と裕太に不二は幸村と話があるから席を外してほしいと頼んできた。














(不二君と幸村君、何の話をしているのかしら?二人きりにして良かったのかしら?)

美恵は海岸線に沿って歩いた。氷帝が灯台と名付けた狼煙台を設置した丘が見える。
「景吾?」
跡部と樺地、それに日吉やジローの姿が見える。
「景吾ー!」
名前を呼ぶと跡部はすぐに美恵の元に走ってきてくれた。


「不二君の意識が戻ったの」
「そうか。じゃあ、おまえの役目も終わったな」
「そうね。ところで景吾達は何をしていたの?」
「狼煙台に新しい薪を運んでいたんだ。もしかしたら近いうちに船が通るかもしれねえからな」

「船が?!」

「ああ、この二日間、クルーザーの船長や船員の個室を片っ端から調べ直したんだ」
「水夫用の部屋はほとんど水につかっていたんじゃなかった?」
「ああ、航海図も資料も日誌も大半はだめだった」
水中から引き上げ日光で干し何とか読めれる部分を探し出したというのだ。


「俺達は予定の航路からかなり外れた場所にいるらしい」
それはいつまでたっても救助が来ないことからもわかる。
「おまけに、この海域は領土問題のいざこざで普段は誰も入らない」
船の影すら見ることができなかったのは、そういうわけだったのかと美恵は理解した。
「けど年に一度科学者が環境調査にくるらしいんだ」
「じゃあ……もしも、その調査の範囲に、この島が含まれていれば……」
「ああ、そうだ。サバイバル生活ともおさらばだ。
だから、いつ船舶を見つけてもいいように薪を大量に用意してるんだ」














「……幸村、君は美恵さんの事、諦めてないの?」
「そうだよ。跡部がこの先も生き続けるなんて確定してないしね」
「……僕は彼女が跡部に汚されたと知ったとき、ショックで彼女を殺そうと思った。
だって彼女は跡部の女になってしまったから……その事実に耐えられなかった」
「だから、この先もずっと跡部の女だなんて決まってないだろ。
跡部が死ねば彼女はフリーだ。俺がおまえだったら、跡部の方を狙っていた」
幸村は「愛するひとを傷つけるなんてできないからね」と付け加えた。


「……そうか、君は強いな。彼女と一緒に死のうなんて僕は間違っていた」
「どうせなら、これからも命を狙えばいい。ただし相手は跡部だ」
「……それもいいかもしれないね」

不二は疲れたのか再び横になった。幸村は挨拶にせずに出ていった。


「……諦めて死ぬより邪魔者を消してでも生き続ける、か。
そういうポジティブな生き方も悪くないかもしれないね――」














科学者の調査船が水平線の彼方に見えたのは、それから二週間後の事だった。
嵐で死亡していたと思われていた少年達の奇跡の生存劇は、すぐに日本に伝えられ驚きを持って迎えられた。
そして、その日のうちに救助船がやってきて美恵達の数ヶ月にも及ぶ無人島生活は終焉を告げた。
美恵達を乗せた船の速度が増す度に無人島は小さくなってゆく。


「……いろんなことがあったわね」

二度と経験したくないような大変なサバイバル生活だった。

「けど、俺は感謝してるぜ。おまえと和解できたんだからな」

跡部は美恵の肩を抱き引き寄せた。


夕日が水平線に沈み、見渡す限り紅に染まった海が今日という日の閉幕を告げていた。
「帰国したら大変よね。勉強遅れた分、必死になって取り戻さないといけないし」
「あーん、その前に俺達の時間を取り戻す方が先だろうが」
跡部は美恵を抱きしめた。


「今度こそ、ずっと大事にしてやるからな。一生」
「……景吾」


こうして美恵の奇妙な無人島生活は終わった。
しかし、これからも跡部との人生は続いてゆくだろう――。




END




~おまけ~

「あのー」
切原は他校のテニス部をまわっていた。
「何?」
「うちの真田副部長しらねえ?」
「真田さん?」
そういえば船に乗り込んでから、いやその前もリョーマは真田を見ていない。


「どこに行ったのか姿が見えなくてさ。まあ、夕飯には姿見せると思うけど」
切原はぶつぶつ言いながら立ち去った。
「……まさか」
その頃、例の無人島では大トカゲを伴い狩りに精を出す真田の姿があった。

めでたしめでたし。




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