跡部が歩み寄ろうとすると不二はナイフの刃を美恵の首筋に当てた。
跡部は足を止め苦々しそうに不二を睨みつけた。
「……言ったはずだぞ。これ以上、俺を怒らせるなと」
「僕も言ったはずだよ。絶対に美恵さんを渡さないって」
不二は本気だ。これ以上近づいたら本当に美恵の喉をナイフで切り裂き自らも命を絶つだろう。
「ふ、不二君……やめて、お願い」
美恵の必死の懇願も今の不二には全く届かない。
(これ以上刺激したら本当に美恵を殺される)
それだけは避けなければならない。悔しいが、これ以上は進めない。
そんな跡部の葛藤は容易に不二に読まれてしまった。
不二は「消えなよ跡部」と強気の態度に出てきた。
「……てめえ」
「聞こえなかったの?本当なら誰よりも君を殺してやりたかった。切り刻んでやりたかったよ。
でも、もう殺さない。僕と美恵さんの世界に君なんかに入って欲しくないからね」
美恵を不二に手に渡したまま消えるなんてできるわけがない。
しかし不二はさらに強い口調で要求してきた。
「さっさと僕達の前から消えろ!君の顔なんか、もう一秒だって見たくないんだ!!」
テニス少年漂流記―63―
「大石先輩が不二先輩に突き落とされた?
思った通りだ、やっぱり、あの人がもう一人の犯人だったんだね」
意外な犯人の正体にリョーマは全く動じてない。何となく大石ではないかと疑っていたのだ。
青学の母として常にテニス部の事を最優先にしていた大石の善意は一歩間違えば悪い方向に向きかねない。
そんな危うさにリョーマは青学テニス部の中で唯一気づいていたのだ。
「そんな信じられない。信じてたまるか。大石は……大石は!」
平静すぎるリョーマとは正反対に菊丸は動揺しきっていた。
信頼するパートナーの犯行に強いショックを受けている。
しかし、そんな菊丸以上に衝撃を受けている人間がいた。
「そんな……嘘だろ、兄貴?」
裕太は愕然としていた。手足は震え、その場に崩れるように座り込み立ち上がれない。
無理もない、肉親が凶悪殺人鬼だと告げられたのだから。
「まだ終わってないよ」
うなだれる二人にリョーマは厳しい口調で言った。
「二人とも泣いてる暇があったら俺と一緒に来てよ」
「ど、どこに?」
「これ以上不二先輩に罪を犯させたくなかったら行動するしかないじゃん」
「不二をとめるの?」
「それは跡部さん達にまかせて俺達は俺達にできる事をする」
二人は何がなんだかわからないらしく呆然としてリョーマを見つめた。
「ほら、さっさと行くよ。それとも、ここでずっとショック状態のままいたいわけ?」
リョーマが歩き出すと、二人は思わずつられて歩きだした。
「さあ消えてよ跡部。でないと美恵さんを殺すよ」
跡部は拳を握りしめ、ゆっくりとさがりだした。それを見て不二は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
同時にナイフが美恵の首筋からゆっくりと離れる。
「け、景吾……」
「大丈夫だ美恵、俺を信じろ」
美恵はこくんと頷いた。跡部を信じている。
でも今の状態は最悪だ。どうやって覆すつもりなのだろう?
(不二君は本気で私と一緒に死ぬつもりなんだ。だから脅しじゃなく本当に私を殺すんだわ)
ぞっとしないといえば嘘ではなかった。
不二にはずっと騙されていた。知らなかったとはいえ美恵は不二を心から信じ感謝していた。
それが全て偽りだった。しかし不思議な事に美恵は不二を嫌いにはなれなかった。
頭の中で何度も自らに問いただし一つの答えを見つけた。
(不二君は私と同じなんだわ……片思いのままで終わった私自身なんだ)
幼い頃から跡部一筋だった美恵。しかし跡部はそうではなかった。
例え本気ではないにしても、何度も何人も他の女との付き合いを繰り返していた。
(景吾に恋人ができても私は景吾を諦めきれなかった……この想いを捨てる事ができなかった)
今は跡部と両想いになれ、正式に恋人となり結ばれた。
お互い強い意志で将来を誓い合い、もう昔のような苦しい思いとは無縁の身となっている。
だが、跡部への恋心に絶望し胸が引き裂かれるような苦痛を味わったのは遠い昔の事ではない。
ずっと一途に想い続けたひとに愛が伝わらない悲しみ。
他の者に愛するひとを奪われた辛さ。
それは美恵が誰よりも知っている。
不二はずっと自分を愛してくれた。けれども自分は跡部を選んだ。
それが、どんなに残酷な刃となって不二の心に突き刺さったか美恵には理解できたのだ。
「不二君、お願いだから、もうやめて!」
無駄な努力だと思いながらも美恵は言わずにはいられなかった。
「もし死んだら悲しむひとがいるわ。だから……!」
「ああ、そうだね。跡部も忍足も幸村も悲しむよ。
でも自業自得さ、僕の好きなひとを横恋慕しなければ、そんな思いをすることはなかったんだ。
罪の報いだよ。だから罪悪感なんか感じないし許してもらおうなんて思わない」
「違うわ!」
「不二君が死んだら裕太君はどうなるの!?あなたを慕っている青学の皆はどうなるのよ!!」
不二の目が一瞬拡大した。しかし、それは一瞬で終わった。
「……君は変な事を言うんだね。自分が死ぬのは怖くない?
それとも僕を説得するための嘘なの?だったら効果は期待しない方がいいよ。
僕はとっくに仲間を捨てたんだ。裕太にしたって兄弟なんて名ばかりさ。
あいつはずっと天才の僕を妬んでいた。くだらない嫉妬の為に僕を憎んでいたんだ。
僕たちの間に兄弟の情なんかあるわけない」
「不二君、それは違うわ!」
「違わない。だから僕も弟を捨てたんだ。君さえいてくれれば何もいらないよ」
「てめえごときが勝手に周囲の人間の価値観決めるんじゃねえよ!」
不二は不快そうに眉を寄せた。
誰よりも憎んでいる跡部の反論は何よりも不二が嫌うものなのだろう。
「君に何がわかるっていうんだい」
「暴走して周りが見えなくなってるてめえよりはマシだ」
「何だって?」
不二の不快度はさらに上昇している。
しかし美恵は跡部には何か策があると思い黙っていた。
「じゃあ聞くが、てめえは何で観月をやった時に弟も一緒に始末しなかった?
兄弟の情なんかとっくに捨てたなら殺しているはずだ」
「それは……」
不二が言葉につまっている。
「越前は前々から薄々てめえが犯人だと気づいていた。
それなのに、てめえを魔女狩りにかけるようなマネはしなかった。
それは確実な証拠を手にするまでは先輩のおまえを信じたい気持ちがあったからだろう」
「……嘘だ。あんな可愛げのない子にそんな気持ちがあるものか」
「だったら、俺があげた矛盾に説明をつけてみやがれ」
「……」
今まで饒舌だった不二が無言となった。
「どうした不二、何も言えないのか?だったら俺の言い分が正しいって認めるんだな」
いつもの不二ならきっぱりと否定しただろう。だが不二は何も言えない。
「てめえには美恵しかいないと言ったが、そんなものはてめえの独りよがりだ」
「……違う」
「美恵は返してもらう」
「黙れ!」
不二がナイフを握った手を跡部に突きつけた。その時だった!
「不二、自分の悪行もここまでや!」
「……な、忍足!?」
いつの間にか背後から忍足が接近していた。そして不二の利き腕をつかんだ。
不二は「しまった!」と悔しそうに叫んだ。
その一瞬の隙をつき跡部が猛スピードで急接近。美恵の両腕をつかむと不二から引きはがした。
跡部の狙いはこれだったのだ。
不二との距離を保ちながら、その神経を自分に集中させたのは背後の忍足の存在に気づかせないため。
「騙したね跡部!」
「うるせえ、散々俺達を騙してきたてめえに言えた義理か!!」
跡部は美恵をしっかりと抱きしめた。
「美恵は俺の女だ!!」
美恵の安全は確保。しかし、まだ終わったわけではない。
「忍足、しっかりそいつを捕まえておけ!」
「当然や……なっ?」
ナイフが忍足目掛けのびてゆく。不二が所持していナイフは一本ではなかったのだ。
「危ない忍足!やめて不二君!!」
美恵の願いなど届かない。不二は容赦なくナイフを突きあげた。
忍足が身体能力の優れた人間でなかったら新たな犠牲者となっていただろう。
「危ないマネすんなや!」
間一髪でよけた忍足。だが不二から手を離してしまっていた。
不二は忍足を突き飛ばすと全力疾走。
その背中はあっという間に木々の中にかき消されてしまった。
「あの野郎、まだ何かするつもりか!」
跡部は忍足に美恵を託し不二の後を追いかけた。
「景吾、不二君……!」
「美恵、自分は安全な場所に……あ、美恵!」
美恵も走っていた。今の不二は危険だ、ほかってなどおけない。
お願い不二君、もう、これ以上罪を犯さないで!
「……あれは」
美恵の目の前で火柱があがった。不二は他にもガソリンを用意していたのだ。
「そんな……」
――瞬く間に森が業火に包まれてゆく。その中には跡部がいる。
「いやあ、景吾!!」
美恵は炎の中に飛び込んでいた。
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