「お、落ち着くんじゃ跡部。幸村が尾行しておるから大丈夫だ」
「何が大丈夫だ。悪魔が一匹増えただけじゃねえか!!」
跡部は仁王の胸ぐらを掴み「さっさと案内しろ!」と急かした。
同時に忍足や宍戸には別方向から森に入るように指示。
包囲網を敷き、不二を完全に袋の鼠にしようという作戦だ。
「あいつは追いつめられたら何するかわからねえ」
テニス少年漂流記―62―
「うちの部長、自分では正論吐いてるつもりなんだろうけど、はたから見たら、どっちもどっちだよ」
赤也は半ば呆れ果てていた。
「まあ、今はそんな事いってる場合やない。不二を何とかせんとなあ」
白石と赤也は森の中を横切っている時に偶然二人の言い争いを聞きつけ、こっそり近づいていたのだ。
「不二の暴走はこれが最後じゃない予感がするんや」
「うちの部長まで殺そうとしてるもんな。俺とあんたがこっそり背後から奇襲かけりゃいいじゃねえか」
「うーん、不二の最後の暴走はそんなもんじゃないような気がするなあ」
それが何なのかまではわからない。
ただ白石の第六感が先程から警鐘をならしているのだ。
「……あのさ幸村、自分の言葉に何か疑問ない?」
「あるわけないじゃないか。俺はおまえと違って清廉潔白なんだ」
「僕は彼女を自分の手で消そうとした。君は彼女を閉じこめようとした。動機は同じ、愛故の行動さ」
「違う、俺は彼女の幸せも考えていた。俺は――」
「そこまでや!」
突然の第三者の声。不二は初めてぎょっとした。
いずれ跡部達がやってくるとは考えていたが、これほど早いとはさすがに思っていなかったのだ。
跡部でなく白石だったが、不二にとっては邪魔者に違いない。
「白石……生きてたのか。大石め、しくじったんだな!」
不二は忌々しそうに叫んだ。
白石は、あの女の事故死の原因が自分だと知っている。消えなくてはならない証人だ。
「見ての通り足はあるで」
白石は必要以上近寄らないように注意深く距離をはかった。
不二を興奮させないためだ。近づくのは背後から忍び寄っている赤也だけでいい。
「さっきからお二人さんの話聞かせてもろったで。けど、二人とも肝心な事忘れてないか?」
幸村が怪訝そうに「どういう意味?」と聞き返してくる。
「相手の幸せ考えてるんやったら、今の美恵ちゃんの幸せは跡部と一緒におる事じゃないんか?
それを壊そうとするのは美恵ちゃんの為にならないんやないのか?」
「――それは」
幸村は反論しようとしたが、上手く言葉を紡ぎだせない。
「ええやないか。どんな形でも幸せで生きててくれるんやったら。
俺の大事なカブリエルは死んでしまってもういないんやで」
白石は辛い過去を思い出したのか、その目は悲しそうだった。
「二人とも分別ある人間やろ。もう十分我を通したんや、この辺で諦めるべきやと思うで。
人間、諦めが肝心や。まして男なら未練もつんはかっこええ事じゃあないやろ」
幸村は美恵の顔をじっと見つめた。
本当はわかっていた……美恵が他の男もので自分とは違う世界に生きてる人間だって事は。
これ以上の我を通せば美恵を手に入れるどころか嫌われてしまう。
自分がしている事は、美恵との心の距離をただ広げてしまうだけだと言うことに。
「わかってくれたようやな幸村。不二、おまえもこのくらいでやめ――」
「……人間、そう簡単に割り切れてたまるか!」
不二が懐からナイフを取り出した。これはやばい展開だ。
背後から忍び寄っていた赤也が不二の凶行を阻止すべく飛びかかった。
「部長、今のうちに逃げて……うわぁ!」
赤也の腕から鮮血が飛び散った。
「ごめんごめん。わざとじゃあないんだよ」
地面にうずくまった赤也に不二は冷淡に言い放った。
(あかん……!完全に切れてる)
「ふ、不二君?」
「美恵さん……!よかった、気がついたんだね」
幸村はホッとしたが同時にこんな場面を美恵に見せたくなかったと暗い気分に陥った。
美恵には、すぐに今の状況は把握できなかった。
目を覚ますと幸村と白石と負傷した赤也がいた。
最初は自分に何が起きたのかすら思い出せなかった。
だがナイフを手にした不二の冷たい殺気をまともに感じ美恵は全てを思い出した。
不二の恐ろしい告白、そして不二の腕が伸びてきて息苦しくなって、その先の記憶はない。
しかし不二が自分を絞殺しようとした事だけはわかる。
今の不二の姿を目の当たりにして、自分が気絶している間に何があったのか推測することもできる。
「お願い不二君、もうやめて!」
美恵は不二に歩み寄った。
「美恵さん、危ない。不二に近づくな!!」
幸村が慌てて制止をかけたが、今は赤也を助ける事が最優先だ。
早く出血を止めなければ、赤也のテニス生命にもかかわるかもしれない。
「不二君、お願いだから……」
美恵はなるべく不二を刺激しないように優しい口調で話しかけた。
その想いが通じたのか、不二がナイフを握った手をおろした。
美恵はホッとした。不二はわかってくれたのだと受け取ったのだ。
美恵は赤也に駆け寄ろうとした。その瞬間、不二が火炎瓶を取り出した。
誰もがぎょっとした。不二は美恵の腕をつかむと火炎瓶を地面に叩きつけた。
業火が一瞬で盛大に舞い上がり、幸村や白石の前に立ちはだかった。
「幸村君!」
火柱で幸村達の姿が見えない。それは幸村達も同様だ。
「美恵さん、美恵さん!!」
炎の向こうから幸村の悲痛な叫び声が聞こえてくる。
「は、離せ白石!美恵さんが、俺の美恵さんが!!」
「死ぬ気か幸村、冷静になるんや!!」
「そうすよ部長、炎を避けて……」
「うるさいよ赤也、黙ってな!」
「ぎゃあ!」
妙な口論が聞こえてくるが、炎の勢いが増すに従って幸村達の声は聞こえなくなってきた。
「さあ来るんだよ美恵さん」
「ふ、不二君……!」
不二は強引に美恵を引っ張り走り出した。
一見華奢に見えるが不二は一流のスポーツマン、とてもじゃないが女の美恵には贖えない力の差があった。
「どこに行くつもりなの。不二君、これ以上何をしようって言うのよ」
「僕達しかいない場所に行くのさ」
不二が立ち止った。そして茂みの中から何かの容器を取り出した。
問題は、その容器の中身だろう。
不二が持ち上げた時の音から液体だと判断できるが、水のわけがない。
「不二君、何を考えているの?」
「これは僕の最終兵器だよ。跡部のクルーザーから抜き取っておいたんだ」
「景吾のクルーザー?」
打ち上げられたクルーザーから使えるものはほぼ持ち出したはずだ。
食料は勿論、私物や道具に備品。それこそ、あらゆるものを。
「一つだけあるんだよ。君達が役に立たないと判断して……いや危険だからこそ放置しておいたものが」
「……危険?」
液体、そして危険物……美恵は、まさかと思い顔色を失った。
「……ま、まさか……まさか、不二君……!」
「……誰にも邪魔されたくないんだ」
不二は美恵は強く抱きしめた。その間にも容器の蓋を外している。
「一緒に逝こう……君さえいてくれれば僕は何もいらないよ」
特徴的な異臭が鼻をつく。
その臭いが液体の正体を美恵に訴えていた。
「不二君……こ、これ……」
「……大丈夫、ずっと一緒だから寂しくないよ」
ガソリン!不二はガソリンに火をつけて、無理心中を図ろうというのだ!!
「不二君、馬鹿なことはやめて!!」
「僕は本気だよ……これでもう君を誰にも奪われないで済む。
もう誰も憎まないでいいんだ……これで、ようやく嫉妬に苦しむこともない」
異臭を放つ液体が地面に染み込んでゆく。
「不二君、どうして……!不二君……!!」
――これで全てが終わる。
不二はライターを取り出した。それを見た美恵の恐怖は頂点に達した。
――景吾!
「……助けて」
もう跡部に会えない――やっと、やっと心が通じ合ったのに。
もう跡部に触れることも、声を聞くことも――。
「助けて、景吾!!」
「……痛っ!」
(……え?)
自分を抱きしめている不二の腕が僅かに緩んだ。不二が表情をゆがめている。
ライターは点火することなく落下していた。
その直後、前方に小石が落ちるのが見えた。
美恵は瞬時に悟った。誰かが小石を投げて不二の手に命中させた事を。
「……貴様」
不二がこれ以上ないほど不快に満ちた声を絞り出した。
「……まさか」
その人物は自分の背後に位置しているから顔は見えない。
だが不二の、この態度、それは1人の男を連想させた。
美恵は頭だけ振り向いた。そして見た、背中越しに愛しい男の姿を。
「景吾……!!」
「待たせたな」
「……景吾!」
反射的に駆け出した美恵だったが、不二がそうはさせないとばかりにこれまで以上に力強く抱きしめてきた。
苦しいほどの締め付けに美恵の表情は苦痛に満ちてゆく。
「渡さない……!」
「不二、てめえ……俺をこれ以上怒らせるんじゃねえ」
跡部は怒っていた。美恵が忍足に犯されそうになった時と同じ、いや、それ以上だ。
「渡すものか!!」
「ずっと、ずっと好きだったんだ。やっと僕だけのものになるんだ!
渡さない、誰だろうと、何があっても、渡すものか!!」
「だったら俺も言ってやるぜ。てめえにも他の誰にも渡すつもりはねえ、返してもらう」
「何故だ?」
不二はよりいっそう美恵を強く抱きしめた。
「君には他にいくらでも女の人がいるじゃないか!君は何でも持っているじゃないか!!
僕には美恵さんしかいないんだ。美恵さん、1人くらい僕に譲ってよ!!」
美恵を束縛する不二の腕はきつくなっている。
だが、それに反して口調は弱々しくなっていた。
「俺の方こそ言いたい。おまえがその気になれば女の1人や2人すぐにできるだろう。
それなのに、なぜ美恵なんだ?」
「他の女が何だ!どんなに女の人が星の数ほどいたって、美恵さんは1人しかいないんだ!!
簡単に代わりがいるなら、最初から好きになったりしないよ!!」
それは、無機質な笑顔で常に己の感情を表に出すことがなかった不二の心の叫びだった。
「……不二君」
美恵は愕然とした。ショックで不二を突き放すことも忘れるほどに。
おそらく不二は誰よりも強く深く、そして激しく美恵を愛している。
例え、それが、どれだけ醜く歪んだものであろうとも――。
「……そこまで本気とはな。それだけは認めてやるぜ」
だがな、と跡部は言葉を続けた。
「俺にとっても美恵は60億に1人、いや無限大に1人の女だ。譲ってやるつもりはないぜ」
跡部の蒼い瞳は深い湖のように一点の曇りもない。
不二にもわかった。
跡部が自分と同じくらい美恵を愛し必要としている事に。
――いや、ずっと前から気づいていた。だから卑怯な手段で壊すしか方法がなかったんだ。
「美恵を返してもらう」
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