――全ては大切なものを手に入れるだけで済むはずだった。
――全ては計算通りだった。
――だが不二の計画は、突如、殺人計画へと恐るべき変貌を遂げていた。
テニス少年漂流記―61―
「もう君には関係ないことだけど、君を洞窟の中で突き落としたのは不動峰の橘の妹なんだ」
美恵には、もう不二の言葉は聞き取れない。
不二の顔すらぼんやりとかすんできている。
しかし不二は感情的になっているのか、それすらも気づかず告白を続けた。
「僕は君を殺そうとした人間の証拠を探した。そして見つけた。
もちろん許せないと思ったよ。君を殺そうなんて……あの女を同じ目に合せて殺してやろうと思ったくらいさ!」
「……そ、それは!」
不二の掌には杏のヘアピン。『事件現場で見つけた』、それがどういう事なのか説明は不要だ。
怯えながら自分を見つめる杏。
不二はニッコリと笑みを見せたが、内心は腸が煮えくり返っていた。
「やってくれるね。僕の大切なひとを殺そうだなんて」
「ち、違う!」
杏は涙目になって訴えてきた。
「あ、あたし……あたし、こんな事になるなんて思ってなかったの!」
「そんな言い訳が通用すると思っているのなら随分と僕を舐めているね」
杏がその場にへなへなと崩れ落ちるのを見て、不二はある提案をした。
「あの女は保身のために呆気なく僕のロボットになったよ。
人間って愚かだね、罪を隠すために、また新たな罪を重ねるんだ!」
杏は不二の命令に従った。保身のみならず跡部に対する復讐にもなると思ったのだろう。
だが殺人騒動が大事になるにつれて杏は恐怖におののきだした。
当然の事ながら、殺人鬼の正体が不二かもしれない事に気づきだしたのだ。
だとすればいずれ口封じの為に共犯者である自分も殺されると考えるの自然。
その頃から杏は兄や仲間を急かして無謀ともいえる筏での島脱出を強硬に訴えだした。
しかし不二は杏の逃亡計画にとっくに気づいていた。
だから逃げられる前にもう一度利用してやることにしたのだ。
美恵にいじめられたと狂言を言わせた。その目的は美恵の孤立。
こんな絶海の孤島で仲間外れにされたら今度こそ美恵は打ちのめされる。
その美恵に手を差し伸べるのだ。必ず、彼女は改心して自分を受け入れてくれる。
それが不二にとって最良の結果だった。
しかし不二はこの作戦にはあまり期待してなかった。
案の定、跡部に二番煎じは通用せず、美恵に虐められたと狂言を吐いた杏の方が敵意を向けられた。
杏は不二の言葉に後押しされる形で、すぐに島から逃げた。
不二は用済みとなった共犯者を島から追い出したのだ。
筏はどうせ沖でバラバラになる。あんなもので大海を乗り切れるほど、自然は甘くない。
直接、手を下さずとも杏は死ぬ。自動的に証拠隠滅だ。
そして不二の思惑通りに事は運んだ。
「他校の人間ですら簡単に僕のいいなりになった。
性格や性質を知り尽くしている大石はもっと簡単だったよ!」
「そ、そんな、そんな佐伯……!」
地面に両手をつき狼狽する大石の背後から近づき、その肩に不二は手をおいた。
軽くふれただけだったのに大石は異様なほどビクッと反応した。
ガクガクと震え、見なくてもその顔は恐怖でひきつっているであろう事は容易に想像できる。
哀れな大石に不二は穏やかな口調で囁いた。
「見たよ大石」
『見た』、その言葉の意味は説明など不要。大石はゆっくりと此方に振り向いた。
その顔は不二の想像以上に酷いものだった。
さすがの不二も大石に同情した程だ。同情しただけだったが。
「驚いたよ。まさか君が佐伯を殺すなんて」
不二の言葉はまるで他人事だった。
しかし、大石に精神的ショックを与えるには十分すぎるほど非情な棘が含まれていた。
「お、俺は……!」
大石は悲鳴のような声をあげた。
「お、俺は……!俺は、不二……お、おまえが佐伯を殺したとばかり……」
「何、それ?」
不二の口の端が僅かにあがった。
「僕がいつ佐伯に危害を加えたっていうの?誤解も度が過ぎると言いがかりだよ」
「い、いや……お、俺はそんなつもりは……その」
「じゃあ何のつもりだったって言うのさ。
僕は佐伯を殺してないし、実際、佐伯を崖から突き落としたのは――」
「大石、君じゃないか」
大石は反論しなかった。いや出来なかった。
まるで言葉を忘れたかのように、ただ、怯えた目で不二を見上げるだけだった。
そんな大石に不二はにっこりと微笑みを披露した。そして恐ろしい言葉を吐いたのだ。
「安心してよ大石、皆には黙っていてあげるから」
「真面目すぎる人間ほど極端な方向に走ることがある。
大石は実に操りやすい人材だったよ。僕の計算通りの行動をとり続けてくれた。
あいつは自分のミスで君を殺しかけたと思っていた。
本当に他人を疑う事を知らない人間だったよ!」
不二は大石の行動の一部始終を見ていた。
美恵に乾汁を飲ませることで、跡部に彼女を繋ぎ止めようとした事も。
「……跡部と彼女をくっつけようだなんて最低だね大石」
不二は大石が立ち去るのを見計らって、すり替えられたジュースに近づいた。
そして懐から白い包みを取り出すと、それをジュースに盛ったのだ。
それから跡部が怒鳴り込んでくるまで、大した時間はかからなかった。
テントの隅に隠れ震えている大石を発見した不二はこう言った。
「また、とんでもない事をしたんだね大石」
「……ふ、不二?」
「とぼけても駄目だよ。僕は見てたんだ、君が美恵さんに何をしたのか全部ね。
まさか彼女を毒殺しようとしてたなんて酷すぎるよ」
「ち、違うんだ不二……お、俺は殺そうなんて……!!」
「言い訳は無用だよ。今、君を跡部の前に引きずり出したらどうなるか火を見るより明らかだね」
「ふ、不二、どうしたらいいんだ……お、俺は、俺は……!!」
「どうしようもないよ。ただ、はっきり言える事は大石――」
不二は大石の耳元に顔を近づけ囁くように言った。
「君の手は血まみれなんだ。もう後戻りはできない」
「跡部が君の仕業だと知ったら恐ろしい事になるよ」
不二の言葉は絶対零度の冷たさを含んでいた。
大石は壊れた機械のように不自然な動きをしながら体勢を崩し地面にぺたんと座っった。
「安心していいよ。僕は君を跡部に突き出すつもりはないんだ。ただ――」
意味深な言葉に大石は哀れなほど青ざめた表情で不二を見上げた。
「ただ君の犯行だってばれるのは時間の問題。やる前にやらなければ君は死ぬ」
その言葉を最後に不二は立ち去った。さりげなく乾の丸秘ノートを残し――。
――洗脳完了。
「手塚は僕を裏切ったんだ。死んだのは自業自得さ!
最初に君を襲ったマスクの殺人鬼は僕だったんだよ。
橘の妹を利用して氷帝のトラップを見抜き深夜に君を襲ったのも僕さ!
観月は僕を罵ってくれたから始末してやった。当然の報いだよ。
切原は案外粘ったよ。越前はもっと邪魔してくれたけどね!」
美恵の首に食い込む不二の指。
美恵の意識は完全に途切れ、その両腕はぶらんと肩の付け根から垂れ下がった。
「……君が悪いんだ」
不二は叫んでいた。
「君を誰よりも愛しているのは僕だった……!
僕は君だけを純粋に愛し続けてきた。他の女なんか見向きもしなかったんだよ!!
それなのに君を裏切り傷つけた跡部なんかを君は選んだ!!
君は跡部に汚された、僕が愛した君はとっくに死んだんだ!!
このまま君と跡部だけを幸せになんてさせやしない……!
君はここで死ぬんだ!僕を選ばなかった大罪と僕の愛を、その胸に抱いてね!!」
青白い美恵の顔色が黒く変色しようとしていた。
それは美恵の命が尽きようとしている証でもあった。
「やめろ!!」
不二は背後から突き飛ばされた。地面に激突、腕を擦りむき出血までしたが傷みは感じない。
「美恵さん、美恵さん、しっかりして!」
不二は上半身を起こすと忌々しそうに振り向いた。
「……幸村、貴様」
邪魔者の名を恨みのこもった声で呼んだ。
しかし幸村は不二には見向きもせず、必死に美恵の体を揺さぶり続けている。
その甲斐あってか、美恵の顔色は徐々に赤みを取り戻している。幸村はほっとした。
そして直後に憎悪に満ちた目で不二を直視した。
「――殺そうとしたな」
「俺の美恵さんを殺そうとしたな、不二!!」
「橘の妹も大石もおまえが裏で操っていたんだな……何て奴だ」
「……盗み聞きしてたんだ」
不二はあくびれずに、さらっと言った。
おまけに「君だって仁王を使って悪さしてたじゃないか」と言い放ったのだ。
「俺とおまえのした事を一緒にするな!
おまえは美恵さんの事が好きじゃなかったのか?愛してたんじゃなかったのか?!」
「そうだよ」
「愛しているひとをこんな目に合わせるなんて最低だ!
不二、おまえなんかに美恵さんを愛する資格なんてない!!」
不二はゆっくりと開眼した。
「何、それ?」
あっさりした口調ではあるが、その瞳の奥には明らかに不快感が漂っている。
「君にそんな事言える資格あるの?知ってるんだよ、君が美恵さんに何をしたか」
不二は起きあがるとズボンについた土を手で払った。
「美恵さんを監禁して調教しようとした事、僕が知らないとでも思ったのかい?
本当に君、いい趣味してるよ。さすがの僕も呆れ果てたね」
「おまえがした下種な犯罪行為と俺の愛情表現を一緒にするな、不愉快だ!!」
幸村は美恵を抱きしめると立ち上がった。
「僕と君がどう違うっていうんだい。同じなんだよ、僕と君は。
自分の身勝手な想いを叶える為なら何だってする。
誰を犠牲にしてもかまわない。違ったのは単に犯罪の種類だけさ」
幸村は美恵を抱き上げると一歩下がった。
「違う」
「違わない。君がしてきた事も褒められた事じゃないんだ。気づいてないの?」
「……違う、俺とおまえは根本が違うんだ。おまえは腐りきっている。
他の男のものになったからって美恵さんを殺そうなんて、おまえは人の命を何だと思っているんだ!」
「海堂を仁王に捨てさせたのは誰?僕は見てたんだよ」
「こんな時に関係ない話を持ち出してはぐらかすな!」
「怖いな。君がこんなに感情的になれる人間なんて知らなかったよ」
不二が一歩前に出た。幸村は反射的に一歩下がる。
分は明らかに幸村が悪い。美恵を抱えながら不二とまともに戦えるわけがない。
「美恵さんまで本当に殺すつもりなのか。おまえが愛した女性だぞ」
「だからこそさ。僕以外の誰かのものになるくらいなら僕の手で殺す」
「おまえは……残忍すぎる」
幸村は不二を睨みつけたが不二は全く動じてない。
わかっているのだ、自分の方が有利だと。
「俺は確かに美恵さんを手に入れる為に邪魔者を排除してきた。
美恵さんを監禁して思い通りにしようとした。
でも、おまえのように自分のものにならないからって美恵さんを殺そうなんて考えた事は一度もない。
手に入らないなら消そうなんて、そんなの愛なんかじゃない。
好きになった人には自分のものになって欲しいと思うのは人間として当たり前だ。
だから、そこは否定しない。けれど、おまえは肝心な事をしなかった。
俺は美恵さんを俺一人しかいない世界に閉じこめて頼れる人間は俺だけしかいないと徹底的に洗脳しようと思っていたんだ。
好きな人に愛されるために必死に努力をする。それが愛情ってものじゃないのか?」
「不二、おまえは間違っている」
「何とでもいいなよ。誰が何と言おうと、これが僕の愛情なんだ」
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