不二は僅かに体勢を崩した。美恵は慌てて不二を抱き支える。
「僕は自分が怖い……愛する人を守るためとはいえ、長年共に戦ってきた仲間をこの手で殺してしまった」
不二の手は震えていた。美恵の心に強い罪悪感が芽生えた。
「君を守るために……君を守るためなら仕方ないと思った。
でも苦しい……凄く苦しいよ。押しつぶされそうだ……!」
不二は美恵を痛いほど抱きしめた。
「僕のそばにいてよ」
「……不二君」
「お願いだから僕のそばにいて。でないと罪悪感でどうにかなってしまいそうなんだ!」
テニス少年漂流記―60―
「大石が犯人?あのボーリング頭、虫も殺せんような顔して俺達を騙してたんやな!」
「今はそんなことより美恵を探すのが先決だ。
ああいう真面目な奴ほどタガがはずれると何をしでかすかわからねえんだ」
「せやな……千石が行方不明なんも、あいつの仕業なんやろう」
……忍足はどさくさに紛れて大石に余計な罪まで被せていた。
「あ、あいつ!何て卑怯な人間なんだ!!」
「お、落ち着くんじゃ幸村」
「これが落ち着いていられるものか!
自分の意志で大石を殺しておいて、美恵さんに強い罪悪感を植え付けているんだぞ。
彼女の為に自分の手を汚したとアピールする事で、美恵さんを強引に自分につなぎ止めるつもりなんだ。
そんな非人道的な事を許せる道理がないだろう!!」
「ゆ、幸村……おまえが、それを言うのか?」
仁王は目眩がしてきた。幸村と共に美恵を探しているうちに、偶然、美恵と大石を発見。
大石が殺人鬼だったことは驚きだったが、その大石を不二が殺したなん、さらに驚くべき事だった。
しかも現行で見てしまったのだから、その衝撃は大きい。
「まさか大石がのう……人は見掛けによらんものじゃ」
「ふん、俺は自分以外の人間は基本信用しないよ。海堂だって、おそらく、あいつが殺したのさ」
「ちょ、ちょっと待て幸村、海堂は……」
「大石は自分が殺人鬼だと告白したんだ。彼の言葉を尊重してあげようじゃないか」
「そう……海堂を殺したのは大石だよ」
「……怖い奴じゃのう」
……幸村はどさくさに紛れて大石に余計な罪まで被せる事にした。
「ふ、不二君……大石君を探しましょう」
「何だって?」
不二の目つきが変わったが、美恵からは見えなかった。
「すぐに探せば助かるかもしれないわ」
「君を殺そうとした男だよ」
「大石君も苦しんだのよ。それに、こんな形で死なれたら困るわ」
「……ふーん、そうだね。じゃあ、森を抜けて海岸線に行こう」
不二は美恵の手を引いて森の中に入った。
その様子を幸村達が見ているとも知らずに。
「移動したぞ幸村」
「俺は二人を追うよ。彼女をあんな卑怯者と二人っきりにはできないからね。
仁王、おまえは跡部達にこの事を知らせるんだ」
「わかったぜよ」
仁王はその場を離れ、幸村は少し距離を取りながら二人の後を追うことにした。
「美恵さん、本当に大石を捜すつもりなのかい?
大石は君を殺そうとしたんだよ。君だけじゃない、大勢の人間に危害を加えたんだ。
今の大石は普通じゃない。良心のタガが外れた人間ほど怖いものはない」
「大石君は本当は優しい人よ。不二君は私より知っているはずじゃない」
「そうだよ。でも、今の彼は……」
「それに私は大石君から全てを聞いてない」
不二が足を止めた。
「大石君は誰かを庇っていた。このままじゃ大石君一人が犯人になってしまう。
もっと恐ろしいひとを見逃してしまうことになる。私はそれが怖いの」
「大石の他に殺人鬼がいるってことかな?」
「ええ、そうよ。大石君から直接聞き出すのが一番だわ。
もし、それが不可能でも景吾が、きっと犯人を突き止めてくれる」
美恵の跡部に対する強い信頼。それは愛情の深さでもあった。
「随分と跡部を信じてるんだね」
「それは……」
不二は突然振り返ると美恵の左手首を掴みあげた。
突然の不二の乱暴な行為に美恵は痛みを感じ表情を歪ませる。
「不二君、何するの!?」
「あいつは君を裏切って他の女を愛した男なんだよ。君の信頼に値するような男じゃない!!」
不二の口調はいつもの優しい『不二君』とは、まるで違った。
「景吾は、ずっと後悔して私に強い罪悪感を持ってくれていたのよ。
もう十分苦しんだわ。今は以前の景吾と同じ、いいえ、それ以上に私を大切にしてくれている」
「だから、あいつに体を許したのかい?」
それはお優しい不二の言葉とは思えなかった。
「あいつに抱かれてそんなに良かったのかい?喘いだのかい、それとも腰を振ったのかな?」
「下品な事言わないで!」
美恵は掴まれていた手を振り払った。
「どうしてそんな酷い事をいうの!そんなの優しい不二君じゃないわ!」
「君が僕の何を知ってるって言うんだい!」
不二の厳しい口調に美恵はびくっと反応した。
「優しい不二君、穏やかな不二君、そんな型通りのイメージ何てもうこりごりさ。
僕だって人間だよ、嫉妬だってするし激しく憎悪する事もある」
不二の目は赤く染まっている。まるで切原だ。
こんな不二は知らない、美恵は怖くなってきた。
「僕は何かに執着する人間じゃない。まして異性には興味を持った事もなかった。
でも合宿で君に心を奪われた。僕にとっては初恋だったんだ。
でも君の傍には跡部がいた。跡部は僕が君の傍に近づく事すら許してくれなかった。
僕が入り込む余地なんて微塵もなかったよ。
君の笑顔を遠くから見つめる事しか許されなかった僕の気持ちがわかるかい?!」
不二は苦しそうに叫んだ。
「でも僕は気づいたんだ……入る余地がなければ作ってやればいいってね」
それは恐るべき響きのこもった告白だった。
「どういう……事?」
「跡部の元恋人、忘れてないだろう?」
忘れるわけがない。あの女のせいで跡部と離れる羽目になったのだから。
「あの女を裏から操って君から跡部を奪わせたのは僕なんだよ」
「不二が全部裏で糸を引いていやがったんだ!」
おかしいとは思っていた。
人一倍心配りができるわけでもない、他人の感情の機微に敏感でもない女だった。
そんな女が瞬く間に氷帝の心理を操るかのように巧みに跡部達の心の中に入り込んできた。
跡部達の性格や性質を熟知した人間が背後から指示を出していたと考えれば全てが納得がいく。
不二は元同級生を使い跡部と美恵の間に距離を作った。
それだけでは物足りず、あらゆる策略を駆使して跡部達の美恵に対する信頼さえ壊した。
そして悲しみにくれる美恵に近づき巧妙に心の隙間に入り込もうとしたのだろう。
美恵の携帯電話に数え切れないほど入っていた跡部達への不信感を煽るメール。
あれは不二(半分は幸村だったが) そして今回の海外合宿で美恵を完全に手中に収める予定だったのだろう。
しかし、さすがの不二といえども嵐で遭難する事までは計算外だった。
(もし、漂流してなかったら……美恵を手に入れていたのは、不二かもしれねえ)
跡部はぞっとした。美恵が他の男のものになるなんて考えただけで吐き気がする。
しかし、今はそんな事はどうでもいい。 問題は美恵の今の状況なのだ。
それだけ残酷な手段で美恵を追いつめてでも手に入れようとした不二だ。
その美恵が結局、跡部のものになった。不二が笑って祝福するわけがない。
(美恵、死ぬな。俺が行くまで無事でいてくれ!!)
「……そんな、嘘でしょう不二君?」
美恵の声は震えていた。 一番辛い時に慰めてくれたのは不二だった。
その不二が全ての元凶?
まさに悪魔の告白だ。しかも話はまだ終わらない。
「あの女は出来の悪い操り人形で僕も苦労したよ。
だから君から得た情報を元に跡部達が君に疑心を抱くようにしたんだ」
「どういう事……それ?」
「君が跡部達からの手紙を捨てたと嘘の報告をさせたり、君のノートを捨てさせたりた。
他にも色々と、あの女が仕掛けた悪さは僕の指示だったって事さ」
「……そんな」
「けど、あの女はやりすぎたよ。調子に乗って君を傷つけだした。
僕は君と跡部の信頼関係を崩すだけでよかったのに、あいつは君だけをこき使うし陰口は叩くし本当に最悪だった。
僕は君を傷つける人間は許せない、だから、あの女を切り捨てたんだ」
美恵は、まるで現実感のない呆然として目で不二を見つめた。
(誰なの……この人は誰?)
不二は誰よりも優しい天使のような人だった。
目の前のいる人間が自分が信頼していた人間と同一人物などと信じられない。
不二の告白は恐ろしいというよりも、まるで怖いおとぎ話を聞いているような感覚でしかない。
しかし美恵は突然恐怖という名の現実に連れ戻された。
不二の両腕が自分に向かって延びてきたのだ。
その瞬間、首に強い圧迫感を感じ同時に呼吸ができなくなった。
「不……っ」
「……君が悪いんだ」
もう不二の声は美恵には聞こえない。
ただ、ぼんやりとした意識の向こうから悲鳴のようなものが微かに聞こえるような気がしただけだ。
「ついでに教えてあげるけど、あのお人好しの大石が自分の意志で殺人なんか犯せるものか!」
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