「俺だって……俺だって……こんな事したくなったよ」
大石はじりじりと距離をつめてきた。構えたナイフの切っ先が鈍い光を放っている。
「……もう、もう後戻りできない……お、俺は……俺は……」
大石の声は震えていた。その両目からは涙すら流れている。
「俺は……青学を守るために佐伯を……佐伯を殺してしまったんだぁ!!」
テニス少年漂流記―59―
「美恵!」
跡部は全速力で走っていた。だが美恵の姿はどこにも見えない。
「美恵、どこにいるんだ美恵!!」
――殺してやる!
「美恵にかすり傷1つつけてみろ。八つ裂きにしてやるからな大石!!」
「……さ、佐伯君を?」
美恵は、あまりの衝撃に倒れそうになった。
「う、嘘でしょ、大石君?」
「俺だって嘘だと思いたいよ……で、でも」
「不二ー、おーい、不二ー」
大石は不二を探していた。不二は六角の親友・佐伯と一緒にいるはずだ。
漂流してからというもの、大石はチームメイト達の精神状態をとても気にしていた。
こんな状況ではストレスがたまる。中には精神に異常をきたす者がでるかもしれない。
そんな選手がでたらカウンセリングでもして正常に戻してやることが副部長の役目。
(不二は繊細な性格だから特に心配なんだ。かっとなって俺の首絞めるくらいだし……ん?)
不二を発見した。佐伯と歩いている。
親友の佐伯と楽しい会話でもしているのだろうか?
それならば不二にとって実にいい傾向だ。大石はほっとして声を掛けようとした。
「佐伯、君だけは信じていたのに」
「――ふ」
大石は硬直した。目の前で信じられない光景を見てしまったのだ。
不二が、青学の天才選手である不二が――佐伯を殺害したのを――。
(……う、嘘だろ……ま、まさか……まさか、そんな!!)
大石は、ショックのあまり動けなくなった。
不二が立ち去っても震えは収まらない。
「……さ、さえ……き」
ようやく我に返り、佐伯に近づいた。まずは佐伯の生死を確認しなけば。
「し、しっかりしろ……佐伯、起きてくれ……!」
これは何かの間違いだと大石は必死に自分に言い聞かせた。
ただの喧嘩だ。不二だって男の子、喧嘩の一つくらいする。
佐伯は気を失っているだけなんだ……だが、どんなに揺さぶっても佐伯は目を覚まさなかった。
どのくらい時間がたっただろうか?
大石は混乱する頭で必死に、この事件を整理した。
「……ど、どうしたらいいんだ?」
佐伯は死んでしまった。殺害したのは不二だ、青学の天才・不二なのだ。
「す、すぐに皆に知らせないと――」
大石は最初は確かにそう思った。それが正しい事だからだ。
だが人間は奇麗事だけでは成り立ちえない動物。清廉潔白な人格であるはずの大石でさえ、そうだった。
「……そうなると不二はどうなるんだ?」
不二は大切なチームメイト。大罪を犯しても、それは変わらない。
こんな無人島に閉じ込められた状態の中、殺人事件が起きたとしたら青学はまだしも他校の者が不二をどう扱うだろうか?
極限状況の中、人殺しはストレスの捌け口となってリンチにかけられる恐れもある。
まして不二は青学テニス部にとって大切な天才プレイヤー。
その不二が殺人犯などになってしまっては青学は今後公式戦に出場どころか、廃部になってしまうかもしれない。
「お、俺の決断一つが青学の未来を潰してしまう……お、俺が青学を……」
大石の胸の中にダークな思考が芽生えた。それは決してやってはいけないことだった。
いけない事だとわかっている。人間として道を踏み外すなと自分の中で天使が必死に訴えてきた。
だが、もう1人の自分が全く違う事を主張しだしたのだ。
『青学テニス部の副部長としてテニス部を守るんだ。
頑張っている仲間や後輩から栄光を奪い、辛い思いをさせるのか?』
大石は悩んだ。苦しんだ。
そして苦悩して出した答えは――不二を守るために、佐伯の死を隠す事だったのだ。
大石は佐伯を運んで崖まで来た。幸い誰にも見つからなかった。
「すまない佐伯……成仏してくれ!」
あの嵐で大勢の人間が死んだ。佐伯の犠牲もその一つだと大石は無理やり思い込む事にした。
そして佐伯の遺体を海に投げ捨てた。その時、とんでもない事が起きた!
「……え、嘘だろ?」
佐伯は死んでいた。何度起こしても覚醒しなかった、だから死んだはずだった!
その佐伯が、死んでいたはずの佐伯が突き落とされた瞬間――目を開いたのだ。
「……ま、まさか……!」
ほんの一瞬だった。だから見間違いだったかもしれない。
いや見間違いだと思いたかった。しかし大石は見たのだ。
大石の目を佐伯が真っ直ぐ見た。それは強烈な記憶となって大石の脳裏に焼き付けられた。
「……ま、まさか……まさか佐伯は……生きていたんじゃ?」
今となっては確かめようがない。だが、もし……もし生きていたとしたら?
「殺人者は……不二じゃなくて……俺、なのか?」
この時、大石の心にひびが入った――。
人の気配を感じ、大石は、その場から慌てて走り去った。
やって来たのは幸村だった。佐伯の靴を証拠隠滅で始末する暇もなかった。
「君に毒を飲ませて殺そうとしたのも俺だ」
恐るべき告白は続いていた。美恵は、もはや自我を保つのが精いっぱいの状態だった。
「……そんな、どうして」
「不二は君に執着していた。だが君は跡部の恋人だ。
青学の天才・不二周助が氷帝の帝王・跡部の彼女に横恋慕だなんて……そんな醜聞、あってはいけないんだ。
青学の……不二の名前に傷がつく。俺には、それを守る義務がある。
君が寝込んでしまえば跡部は君を外に出したりはしないだろう……!
そうなれば不二と君が接触する事もなくなる……それで何もかも終わると思っていた」
大石は苦しそうに眉を歪ませた。
「……終わらなかった。あれが始まりだったんだ」
「あ、あいつが……あいつが手塚を……俺だって信じられなかった……!」
「……あの時、君が死んでくれていた方がいっそ良かった。
そうなっていたら……ここまでする事はなかったんだ!!」
「これか……」
大石は美恵に渡されるジュースを乾汁とすり替えておいた。
「彼女には悪いけど……これが一番いいんだ」
不二は頑固な男だ。彼女の事は諦めろといっても聞く耳持たないだろう。
だったら跡部にしっかりと美恵を繋ぎ止めてもらうのが一番だ。
二人の関係は今は微妙だが、元々愛し合っている仲ならナイチンゲール現象ですぐに落ちる。
「……残る問題は……やっぱり俺が犯した罪だよな」
不二を青学テニス部を守るつもりで、一番やってはいけない事をしてしまった。
時間がたつにつれ冷静さを取り戻した大石は激しい後悔と罪悪感に苦悩した。
これ以上隠し通すことはできない。
「……やっぱり手塚に全て打ち明けて相談しよう」
あの時はどうかしてたのだ。やはり殺人を隠蔽するなんて間違っている。
大石は覚悟を決め、まずは手塚に佐伯殺しを告白することにした。
手塚は高潔な精神の持ち主だ。必ず迷える子羊と化した自分を正しい道に導いてくれる。
手塚は丘の上にいた。その背後に近づく者がいる。
「……不二?」
大石は見てはいけないものを再び見てしまった。
不二が手塚を、同じテニス部の仲間として苦楽を共にした手塚を崖から突き落とす瞬間を、はっきりと見てしまったのだ。
「て、手塚……嘘だろ?」
大石は震えながら地面に両膝をついた。
佐伯の時は不二が危害を加える瞬間しか見てなかった。
だから、不二には何か理由があったのかもしれないと思う事もできた。
佐伯には悪いが、仲間贔屓もあり不二を怒らせるような事を佐伯がしたのだろうと無理やり思い込もうとしていた。
しかし今度は違う。何もしてない手塚を背後から突き落としたのだ。
弁護のしようがない不二の行為に、大石は、ただただ震えるしかなかった。
中学時代から、頼りがいのあるチームメイトとして信頼していた不二。
不二を疑ったことなどなかった。その不二が今は恐ろしい、恐怖しか感じない――!
「てめえ、殺されたいのか!」
不二への恐怖が去らないうちに、とんでもない事が起きた。
美恵が乾汁で死にかけ、跡部が青学に殴り込んできたのだ。
(……え?ま、待ってくれよ……確かに乾汁の威力は凄いが、死ぬなんて事は……)
大石の頭は爆発寸前なほどパニックになった。
しかし認めたくないが自分の責任だ。通常の乾汁のつもりが誤って猛毒の方を注入してしまったのだろう。
(お、俺のミスで……彼女が死んだら……そ、そんな事になったら)
跡部は不二を疑っている。このままでは不二が危ない。
名乗り出なければと思ったが、激怒している跡部が自分の言い分を聞いてくれるだろうか?
(……こ、殺される……跡部が『間違えました』なんて言って納得してくれるわけがない!!)
死にたくない……お、俺は、殺すつもりなんてなかったんだ。
誰か……誰か、信じてくれ……!!
「……ど、どうして……どうして正直に言ってくれなかったの?」
「跡部や幸村が許してくれると思っているのかい!?あいつらは君には優しいけど、悪魔より恐ろしい連中なんだ!!
信じてくれるわけがない……殺される、俺の仕業だってばれたら必ず俺を殺すんだ!!」
美恵から見ても大石は普通ではなかった。追い詰めれたゆえに強い強迫観念にとらわれている。
「……犯人だと疑われた不動峰の神尾がどんな目に合され続けたか……知らないから、そんな事いえるんだ!!」
状況証拠だけでおぞましい目にあわされた神尾。
その姿を思い出すだけで大石は全身身震いした。
殺される、殺される、殺される!
どうして、俺がこんな目に合うんだ。俺は、ただ青学を……不二を守りたかっただけなんだ!!
不二は青学テニス部にとって大切な人間。
だから庇った、それだけなのに……運命の神に、こんな残酷な仕打ちをされる程、俺は罪深い人間なのか?!
「君が跡部と姿を消した時、俺は内心ほっとしたんだ。これで不二も君をあきらめてくれると。
不二は潔癖な性格だ。他の男のものになった女性に執着するはずはない……そう思っていた!」
だが違った。不二は青学を捨てた!
どんなに懇願しても聞き入れてくれなかった。
あれほど苦楽を共にした仲間をあっさり捨て出て行ったのだ。
大石は打ちのめされた。
不二の為に大罪まで犯したのは何だったのか?
だが、それ以上に衝撃的な事件が起きた……謎の殺人鬼の出現だ。
「……殺人鬼の標的は君だった。いつも君だ、君がいたから事件が起きた。
……いや、君がいるから事件が起きるんだ……だから、だから……」
大石の目は異常だった。普段の優しい大石の片鱗は欠片もない。
そこにいるのは哀れな狂人だけだった。
「……君がいなくなれば全てが終わると思ったんだ」
美恵はちらっと後ろを振り返った。もう後がない。
「君と芥川を襲ったのは……俺なんだよ」
「……あ、あいつが……あなた?」
変声器で声が変わっていたから正体なんてわからなかった。
しかし、まさか大石だなんて美恵は想像もしていなかった。
「不動峰が逃げた時、これ幸いと罪をなすりつけたのも俺なんだ!
もう彼等は戻ってこないと思った。だから、あいつらの根城にマスクを置いておいたんだ」
悪夢のような話はまだ終わらなかった。
大石自身、告白しているだけで体力を削られているらしく、その口調は弱々しくなっていっている。
「人間の手の模型を作って君を底なし沼に落としたのも俺だ」
「……あれも?」
あの時、ボールを打ち込む殺人鬼からは強い憎悪を感じた。
大石は美恵を逆恨みする程、すでに心が壊れていたのだろう。
「不動峰のイカダを発見した時は驚いたよ。でも彼らはどこを探してもいなかった。
きっと嵐で死んでイカダだけが流されてきたんだろう。俺は何を思ったと思う?
ホッとした。ひとが死んだってのに、心から安心したんだ!
不動峰は誰もが疑っていた。だから、それを決定づけるためにイカダに君への恨み言を書き込んだんだ」
「……じゃあ不動峰は完全な無実だったのね」
「ああ、そうだよ。おかげで俺は自由に動けると思った。
君を襲っても俺が疑われることはない。疑われるのは、この島にはいない不動峰なんだから!!」
「ついでに教えてやるけど……俺は白石も殺したんだ」
「し、白石君を!?……ど、どうして……!!」
白石は何の関係もないはずだ。大石の告白は美恵の理解できる範囲をはるかに超えていた。
「白石は知ってはいけないことを知った……だから、やった。
どうせ、俺はもう佐伯を……人を1人殺してしまったんだ!
だから、もうためらいはなかった……自分でも怖いくらいに。
俺は……俺はもう引き返せないところで堕ちたんだ!
こうなったら、鬼畜になっても最後までやり抜くしかないんだ!!」
――私のせいなの?
そう思えるほど大石は完全に壊れていた。
優しく真面目で、いやだからこそ仲間を守る為に道を間違えてしまった。
そして罪悪感に押し潰され、そのプレッシャーから逃れるために美恵を憎んだ。
「……そんなに私が憎いの?」
「ああ、そうだ。君さえいなければ、こんな事には――」
「それだけなの?」
大石がびくっと反応した。
「大石君、あなた、もしかして誰か庇っているんじゃないの?」
大石の形相が見る見るうちに変化していった。汗だくになり、その目はこれ以上ないほど拡大している。
「……やめろ」
「大石君、あなたは――」
「やめろおお!!」
大石がナイフを構えて突進してきた。美恵は己の死を連想して硬く瞼を閉じた。
「うわああ!!」
だが次の瞬間、聞こえたのは大石の悲鳴だった。
ハッとして目を開けると崖から落ちてゆく大石の姿が目に映った。
「大石君!!」
ドボンと大きな音がして大石の姿が波に飲み込まれた。
(……ど、どうして……どうして?)
「美恵さん!!」
(……え?)
ゆっくり振り返ると同時に強く抱きしめられ美恵は混乱した。
「危なかった……よかった、無事で」
「……ふ、不二……君?」
美恵は命を助けられたのに不思議と嬉しくなかった。
「……お、大石君が……」
大石の体は浮上してこない。それが何を意味するかなんて考えたくもなかった。
「……仕方なかったんだ」
不二は美恵を抱きしめがら小さな声で言葉を絞り出した。
「ああしなければ君が殺されていた……!」
――私のために、不二君が自分の仲間を殺した?
「君を守るためには、こうするしかなかったんだ!!」
BACK TOP NEXT