美恵は目を見張った。大石の脚には切り傷がある。
そこから鮮血がぽとぽとと流れていた――。
テニス少年漂流記―58―
「おい越前、さっさと起きやがれ!」
「……あんまし、怒鳴らないでくれる?」
「ふん、憎まれ口をきけるようなら心配する必要はねえな」
跡部達が青学キャンプにやってくると、そこは台風の後のように乱雑になっていた。
家具(と、いっても手作りだが)や道具が散乱し、屋根や壁は無残に穴だらけ。
そんな中で乾とスミレ、そしてリョーマまでが床に倒れていたのだ。
乾とスミレは完全に気絶していたが、リョーマは意識があった。
ただ額から出血している。明らかに何者かと争った証拠だった。
「誰にやられた?」
「……んな事、あんたなら言わなくてもわかるだろ?」
殺人鬼!跡部の感情が派手に刺激された。
「あいつは美恵を狙っていた。まさか、てめえ美恵と一緒だったのか!?」
「だから怒鳴らないでよ。あんたの彼女が襲われてる所を助けて、ここまで逃げてきたんだよ」
「美恵はどうした!?」
「逃がした……で、俺と殺人鬼のサシの勝負。本当に参ったよ」
リョーマはゆっくりと立ち上がった。まだ、ふらふらしている。
「テニスの試合よりきつかったよ。相手は武器持ってたし、結局やられちゃってさ。
さあ、とどめを刺されるぞって時に意識がぼんやりして……気づいたら跡部さん達がいたんだよ」
つまり跡部達が接近している事を察し殺人鬼は逃げたという事だろう。
と、いう事は殺人鬼は、まだ近くにいる。
「宍戸、この近辺を捜索しろ!」
「あ、ああ、わかった。まかせとけ!」
(美恵、すぐに助けてやるからな。待ってろ!)
跡部はすぐに行動に出た。一刻の猶予もならない、すぐに美恵を助け出さなければ。
「ちょお待ち跡部!」
その時、忍足がとんでもない物を発見した。
「何だ忍足、こんな時につまらないものだったら承知しねえぞ」
「つまらない物どころやない。これ見てみ!」
忍足が手にしたノート。表紙には『乾マル秘ノート』とゴシック大のマジックでタイトルが記載されている。
「それがどうした!」
「これ読んでみ!」
跡部はノートをめくってみた。そして表情が変わった。
それには殺人計画が綿密に書き込まれていたのだ。
それもサスペンス劇場にあるようなトリック殺人ではない。
異常な殺人鬼による無差別連続殺人なのだ。
物陰からふいをつき、他人に罪をなすりつけ、さらには乾汁を使った毒殺方法などが事細かに記載されている。
マネキンを使って水場におびき寄せてターゲットの動きを封じるとか。
ドライアイスなどを使用し視界を悪くしておいて変声器で誘うとか。
微妙に違うものの、それは、まさしく跡部達が戦ってきた殺人鬼がしてきた所業だった。
その殺人計画は乾がたてたものだった。
それが何を意味するのかは馬鹿でもわかる。
「……乾」
忍足は冷静なインテリで通っていたが、その形相はまるで地獄の悪鬼そのものだった。
「自分、寝たふりなんかしてないで起きろや、ぶっ殺されたいんか!!」
「……ん?」
乾はようやく覚醒した。まるでワイヤーで急激に引っ張られたような特異な立ち方をしながら。
「俺を呼んだかい?」
「呼んだかじゃないやろ、証拠はあがってるんや!!」
忍足はマル秘ノートを突き出した。乾はぽっと頬を赤く染める。
「……見たのか。照れるじゃないか」
「自分、今の立場わかってないんか!!」
忍足はもう許せんとばかりにも、壁に刺さっていた鉈を手に取った。
寝ぼけていた乾もさすがに顔面蒼白となった。
「お、落ち着け忍足!は、話せばわかる、話せば……!」
「問答無用や、今すぐ美恵を返せや!でないと自分を鮫の餌にしてやるで!!」
「さらば!」
乾は自爆しようと試みたが、そんなことを氷帝の面々が許すはずがない。
たちまち囲まれ、逃げられないように縛られてしまった。
「さあ吐けや。俺の美恵をどこにやった!!」
「それが全然記憶にないのだ。俺はあくまで妄想してただけで、ノートに書いた計画を実行に移してはな――」
「そんな言い訳が通用すると思ってんのか!どうやら痛い目に合いたいようやなあ」
「ひっ、り、理屈じゃ――」
「乾先輩じゃないっすよ」
「おお越前、俺を信じてくれているのだな」
「全然。だからこそ偏見なく、あんたが犯人じゃないって思えるんだよ。
第一、あんた、俺と一緒に殺人鬼に襲われたじゃん」
「そうそう、そうだった。あやうく俺も殺されかけたのだ」
しかし忍足は納得していない。
「だったら、このノートは何や!殺人鬼が使ったトリックとほとんど同じなんて、そんな偶然できすぎてるやろ!!
誰がみても、この電波が無実のわけはない!!」
「うむ、それに関しては俺も言い訳できない。不思議としか言いようがない」
「……自分、そんなに死にたいんか」
忍足の眼鏡が怪しい光を放った。乾は恐怖した。
(ま、まずい。このままでは俺が殺される確率400%!!)
「望み通りにしてやるわ!!」
忍足は転がっていたラケット(手塚の私物)を手に取ると乾の額目掛けて降り下した。
「り、理屈じゃなぁぁぁーい!!」
乾の意識はそこで途切れた。だが乾の頭部は全くダメージを負っていなかった。
跡部が忍足の腕をつかみ制止をかけていたからだ。
「跡部、何で邪魔をするんや!?」
「あーん。この一年坊主の言うとおり、犯人はこいつじゃねえ」
「何言うてんのや!ここに動かぬ物的証拠があるんやで!!」
「そいつが犯人だとしたら矛盾がいくつもあるんだよ」
矛盾、その1は、リョーマが指摘した点だろう。
「同じ学校の後輩の弁護なんか信用できへん」
「こいつは嘘をついてまで先輩を庇うような可愛げのある野郎じゃねえよ」
確かにリョーマは先輩を守るような性格ではない。
しかし、それだけで忍足は納得できなかった。
犯人が使った殺人計画と酷似しているなんて偶然のわけがない。
「そのノート自体が、俺が乾は白だと判断した一番の理由だ」
「どういう事や?」
「矛盾してやがるんだよ。俺と幸村が直接対峙した奴が使ったトリックが何一つノートに書き込まれてねえ」
忍足はもう一度ノートをよく読んだ。
確かに……そう言えば杏を利用してトラップの位置を把握した方法も書かれていない。
「乾本人は氷帝のトラップに引っかかりやがったんだ。矛盾してるだろう?」
「……せやけど」
「それだけじゃねえ。俺は前から違和感を感じていたんだ。その理由がやっとわかった」
「違和感、何や、それは?」
「俺が直接戦った殺人鬼は完璧だった。
ツリーハウスに侵入したりと大胆かつ冷酷な殺人鬼ぶりを披露しまくりやがった。
だがジローの話を聞くと、そうでもねえ。はっきりいって、やり方が雑だし失敗もする」
跡部の言いたいことが忍足にもわかった。
「つまり殺人鬼は1人やない……2人いるゆうことか?」
同じマスク、同じ服装、だからこそ最初はわからなかった。
だが同一人物だとすると、その手腕に差があるのは確かにおかしい。
別人だと考えるとすんなりと絡み合った糸がほどけた。
「じゃあ、その間抜けな方が乾やないんか?それなら、もう1人の殺人鬼と組んで被害者のふりだってできるやろ」
「そう考えると物的証拠であるはずのノートを、あいつがほかっておく道理がねえ」
殺人鬼はノートには見向きもせずに逃げて行った。
乾と殺人鬼が共犯者ならノートの存在が跡部達にばれるような行為をするわけがない。
乾に全ての罪をなすりつけようとしたのなら話は別だが、その場合は口止めの為に乾を殺すはず。
しかし殺人鬼は美恵だけを標的にしていた。乾は邪魔だからついでに攻撃した程度だ。
「俺の考えでは多分殺人鬼同士はつるんでいるわけじゃねえ。
少なくても乾は違う。この頭の切れる馬鹿はアイデアを盗まれていただけだ」
跡部の推理にリョーマも同意見だった。
「銃マニアで銃自体が好きなだけで人を撃つのは全然駄目って奴いるでしょ。
乾先輩はそういうタイプっすよ。跡部さんの言う通り利用されただけなんだ」
「……じゃあ殺人鬼は」
肝心なのはそれだ。
「少なくても間抜けな方は簡単に見当がつくぜ。
こいつの妙な殺人ノートの存在を知ってて、それを見ることが出来た人間だ」
「他校の奴のわけがねえ。犯人は青学にいる」
乾ががばっと起き上がった。
「あ、青学に犯人がいるー!?ば、馬鹿な!何という迂闊!
お、俺はマイケルやジェイソンに何と言って詫びたらいいのだ!!」
もう誰も乾には関心を持っていなかったので、その台詞は聞き逃された。
「青学……越前や一年トリオのわけはないな。背丈が足りなすぎるわ。
乾は除外となると残ってるんは、桃城やろ、菊丸やろ……行方不明の手塚や海堂も怪しいもんや」
「俺様のインサイトを舐めるよな忍足。手塚は違う、海堂は被害者の方だ」
もっとも被害者といっても、幸村の被害者だがなと、跡部は心の中で呟いた。
「菊丸は……まさかなあ。動機がないやろ」
「……動機なんか後で聞き出してやる。今は美恵を追うぞ」
跡部は犯人の見当がついていた。
そいつなら乾と付き合いが長いから、乾のノートの事も知っていただろう。
何よりも海で遭難したであろう不動峰に罪をなすりつける事ができたのは、そいつだけだ。
誰もが、イカダに残された殺害予告を見て、不動峰が戻ってきて殺害を再び始めたと思った。
乾は利用されたのだ。あの時、イカダを発見したのは乾だけではない。
もう1人いた。いや、そいつの方が乾よりも早くイカダを発見していた。
ただ一つだけわからないのは動機だ。
美恵を殺す動機が、そいつにはない。しかし、今はそんな事は後回しだ。
リョーマの説明によると美恵は桜乃と朋香を連れて逃げた。
美恵は馬鹿じゃない。無暗に逃げ回るわけがない。
きっと助けを呼びに自分達の元に戻ろうとするはずだ。
だから、そのルートを辿っていけば美恵に会える。跡部は全速力で走った。
「美恵!」
大声で叫びながら全力疾走した。
その時だった、青学の女子コンビが茂みの中から飛び出してきたのだ。
「あ、跡部さん!」
「おまえ達……おい、美恵はどうした!一緒だったんだろう?」
「美恵さんなら大石先輩と」
「何だと!?」
跡部は最悪の事態を予想して拳を握りしめた――。
「……お、大石君?」
美恵は驚愕していた。信じられない、そんな目で大石を見つめていた。
「……天瀬さん。できるなら、苦しまないようにしてあげたかったよ。
君が気づく前に……ここから突き落とすつもりだったんだ」
美恵は震えていた。まだ信じられない。
でも、これは事実だ。証拠がある。動かぬ物的証拠が。
大石の脚には歯形がくっきりついていた。
「ど、どうして……?」
ようやく絞り出した言葉は疑問だった。
「どうして、あなたが私の命を狙ったの!?」
間違いない。真田のペット・剛丸が犯人につけた歯形だ。
真田は腕だと言っていたが、それは間違いだったのだ。
わからない。大石に自分を殺す動機なんてないはずだ。
大石に恨まれる覚えはない。
まして大石は温厚な常識人で通っており、殺人なんて犯す人格ではなかったはずだ。
「……どうしてって?俺だって聞きたいくらいだよ」
大石は立ち上がると懐からナイフを取り出した。
「……こんな事したくない……でも、もう引き返せないところまで来てるんだ」
大石はナイフを構え、じりじりと美恵に近づいた。
自動的に後ずさりする美恵。しかし、すぐに崖っぷちに立たされ、もう下がれない。
「仕方なかったんだ……もう、あいつは、止まらない。君がいる限り……!」
「あいつ……?」
「青学テニス部を守るためにはこれしかなかったんだ。
君には悪いけど……青学テニス部のために死んでくれ!!」
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