リョーマは颯爽と崖の上から飛び降りると美恵と殺人鬼の間に入った。
「走れる?」
足首には相変わらず鈍い痛みがあるが、骨に異常が入っているわけではない。
美恵は、力強く「ええ」と答えた。
「そう……だったら走るよ」
リョーマは美恵の背中を軽く押した。
「南の方角に走れ」
美恵は痛い足を引きずるようにして走った。当然、殺人鬼も追いかけてくる。
リョーマは握っていた小石を高く上げた。
「まだまだだね!」
ラケットに叩かれた小石は正確に殺人鬼のマスク目掛けて飛んで行った。
テニス少年漂流記―56―
「……まさか、あいつは」
白石は徐々にだが、はっきりと思い出してきた。
マネージャーを死に追いやった男の声を。
「誰なんや?」
「うーん、証拠もないのに言いたかないなあ。はっきり聞いたわけじゃないし」
「おい、てめえら!」
全員がはっとして振り返ると、跡部と幸村が姿を現した。
仁王と丸井がいなければ、とんでもない組み合わせだっただろう。
「美恵は見つかったのか!?」
「それがまだなんや」
「ちっ、役立たずめ。美恵を襲い続けた殺人鬼がまた出やがったんだぞ!」
殺人鬼の話題に大石は青ざめ、真田は飛びついた。
「聞け跡部!信じ難いことに俺は殺人鬼ではなかったのだ!!」
「てめえは黙ってろ!!」
「だが安心しろ。剛丸が殺人鬼の腕に咬みついたのだぞ。
つまり腕に咬み傷のある男が殺人鬼ということだ」
「何い!?」
それが事実なら物的証拠。跡部と幸村は同時にハッとした。
そして2人は振り向いた。仁王がぎょっとなっている。
「……仁王、まさか、てめえ」
「……な、何じゃ?」
「……包帯なんて怪しすぎるよ」
「……ゆ、幸村?」
仁王は思わず後ずさりした。慌てて丸井が仁王の弁護をかってでる。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。仁王はずっと俺と一緒だったんだぜい。
それに仁王は幸村の為に裏で悪い事までしてくれた奴なんだぞ!
その仁王が幸村の大事な女の子を襲ったりするわけないじゃないか!!」
「……悪い事だと?」
跡部の眉が不快そうにぴくりと動き、仁王の口の端がひくっと吊り上った。
幸村は殺気を投げていたが、不幸にも丸井はまるで気づいてない。
「幸村とあの子をくっつけるために、不良に襲わせたり尾行して盗撮したり……はっ!」
丸井は我に返り恐る恐る振り向いた。幸村が凄い形相で睨みつけている。
「……え……と。お、俺……天瀬を探しに行ってくるよ」
「ちょっと待て丸井」
丸井の肩に跡部の手が深々と置かれた。丸井は一歩も動けない。
「……あ、跡部……お、俺……何も知らねえから……」
「……今は美恵を見つけるのが最優先だが、後でじっくりとその話聞かせてもらうからな」
「今のうちだ。逃げろ!」
リョーマが殺人鬼と対峙している間に美恵は必死に逃げた。
走っているとは言い難い無様なフォームだった。
南の方角、リョーマの指示に従い必死に走った。
茂みを抜けると地形が急激に形を変えていた。美恵は大きくバランスを崩した。
「……あっ」
傾斜になっている。それも、かなりの角度だった。
美恵は滑り落ちてゆく。目の前に大木が見えた。
ぶつかる!
美恵は思わずぎゅっと瞼と閉じた。その瞬間、手首を握られる感覚があった。
「リョーマ君!?」
いつの間にか追いついていたリョーマだった。
そのままリョーマに引っ張られ大木を避けた所で何とか停止。
「リョーマ君、あいつは?」
「すぐに追って来るよ。さあ、行くよ」
「行くってどこに?」
「近くに獣道がある。青学のキャンプへの近道なんだ」
リョーマは美恵の手を引いて立たせた。ズキンと足首に痛みが走る。
(この足で逃げ切れるかどうか……リョーマ君まで巻き添えになってしまうわ)
足手まといになることを心配する美恵だったが、それはリョーマも考えていた。
「隠れるんだ」
2人は岩の陰に身を潜めた。その直後にあの殺人鬼が傾斜を滑り落ちてくるのが見えた。
殺人鬼はきょろきょろと辺りを見回している。
美恵は物音はおろか呼吸音さえも漏れないように、口を両手で押さえ殺人鬼が去るのをじっと待った。
殺人鬼はまだいる。見つかったら今度こそ終わりだ。
美恵はジェスチャーで『このままだとまずい』と意思表示をした。
勿論、それはリョーマもわかっている。
今は殺人鬼が此方に気付かず立ち去ってくれるのを待つしかない。
辺りはシーンと静まりかえり、近くにある川の流れだけが聞こえている状態だ。
岩の陰からそっと様子を伺うと殺人鬼は何を思ったのか此方に向かって歩いてくるではないか。
ばれたのか?
美恵の緊張は限界に達しようとしていた。
その時だ。川辺の方からがさっと音が聞こえた。
殺人鬼が敏感に反応し、川に向かって走って行く。
「……助かった」
「そのようだね。さあ、あいつが戻って来る前に逃げよう」
2人は足音を立てないように厳重に注意しながら、そっと歩き出した。
「ぷはぁ……!お、溺れ死ぬかと思ったぜ……はぁ、はぁ」
赤也は激流から生還を果たし、文字通り九死に一生を得ていた。
人間必死になれば自然にも対抗できるこということを身をもって証明したのだ。
「部長も跡部さんも冷たいぜ。俺を助けてくれても……はぁ!?」
赤也はぎょっとなった。例の殺人鬼がナイフを手に林から飛び出してきたからだ。
「お、おい……まさか、俺を追いかけて来たんじゃねえだろうな?」
赤也の肉体は疲労しきっている。今、戦っても勝てる可能性は低い。
幸いにも殺人鬼は、まだ自分を発見できてないようだ。
流木が自分の姿を覆い隠してくれているのだろう。
(隠れねえと……マジ、やばいぜ)
赤也は音を出さないように慎重に匍匐前進した。
全身泥だらけになってしまったが、そんな事に構っていられない。
(見つかったら今度こそ殺される。冗談じゃねえっての!)
努力の甲斐あってか、かなり距離が開いた。
(まだだ。今走っても、すぐに追いつかれちまう)
その時だ。パキッと音がした。ハッと振り向くと殺人鬼が此方に顔を向けている。
(や、やべえ!!)
見つかったか?!
殺人鬼が此方に向かって歩いてくるではないか。
万事休す!こうなったら覚悟を決めて戦うか?それとも、もう一度、川の流れに身を任せるか?
究極の二者択一に迫られた赤也。
その赤也の視界の隅でカワウソが逃げ去るのが見えた。
逃げるのに必死で今までカワウソの存在には気づかなかった。
カワウソが逃げてゆくのを見て殺人鬼はくるりと向きを変えると立ち去った。
(……助かったのか?)
最初は信じられなかったが、それから時間がたっても殺人鬼が再び姿を現すことはなかった。
「……奇跡だ。でも、何で?」
物音を出したのがカワウソだと誤解したのだろうが、自分の姿を見たはずなのに。
赤也は改めて自分の体を見てみた。腕、脚……完全に泥で覆われている。
「……見えなかった?」
距離があったから泥が保護色の役目を果たし、赤也の姿は川岸に溶け込んでいたのだ。
「……つ、疲れた」
安心した途端、今度は眠気が襲ってきた。
赤也は泥のように、その場に眠り込んでしまった――。
「……くくく、そこでナイフがぐさりと女の柔肌を切り裂き、そして鮮血がぽとぽとと――」
「乾先輩、何、怪しい独り言いってるんすか?」
暗闇の中で発光眼鏡の元、1人悦に入っていた乾。
その楽しい時間に侵入者が現れた。他人に見られてはいけない姿を見られてしまった!
「ち、違うんだあ越前!お、俺は別に怪しい計画を立てていたわけではない!
こ、これは妄想……そう、妄想なんだ!だから決して怪しくない、断じてないぞ!!」
「……乾先輩、今の自分の言葉に何か疑問ないっすか」
リョーマは、まだ何か言いたそうだった。
「……と、ところで越前、彼女」
乾は話題をそらそうと美恵を指差した。
「見つかったんすよ。乾先輩が捜索さぼって妙な事をしている間にね」
「……越前、おまえ言うようになったな」
「今は先輩の怪しい性癖に文句いう暇はないっすよ。殺人鬼がここに来るかもしれないですからね」
「な、何い!?」
乾は不思議な高揚感を感じた。思わず喜びのジャンプをしてしまいたいほどに。
(はっ!いけない、いけない。データよりも人命を優先させるべきか?
何よりも俺を頼れる先輩と信じている越前の夢を壊しては可哀想だ)
「よし、皆で撃退しようじゃないか」
乾はそそくさと手作りのベッドの下から箱をとりだした。
「……くくく、この乾汁は猛毒で、これを針の先に塗って殺人鬼に刺してやれば。
俺はハロウィンのヒロインポジション、か。ふふふ、こんな貴重な体験ができるとは」
殺人鬼と対決なんて滅多にあることじゃない。
これはデータを取るいい機会だ。乾は「ようし、俺ファイト!」と歓喜の掛け声をあげた。
「さ、殺人鬼?!リョーマ君、それ本当?」
「う、嘘でしょう、リョーマ様!!」
乾とは反対に桜乃と朋香は震えあがっている。
(もっとも、それが普通の人間の反応だろう。乾はちょっとずれている)
「とんでもない事になったな。おまえ達は奥の方に隠れておいで」
スミレは年長者らしく落ち着いている。
「ごめんなさい、竜崎先生、桜乃ちゃん、朋香ちゃん。私のせいで……。
リョーマ君、2人は今のうちに逃がした方がいいわ。あいつの目的は私なんだし」
「今、外に出たら、そっちの方がやばいよ。きっと、あいつは俺がここに戻るって予測してるだろうしね」
リョーマは冷静そのもの。それに何だか殺人鬼の心理をわかっているような口ぶりだ。
殺人鬼と対峙した時も、そんな事を言っていた。
「リョーマ君、あなた、殺人鬼の正体知っているんでしょう?」
「見当はついてるよ」
リョーマはあっさり肯定した。
「誰なの、あいつの正体は?」
「それは、まだ言えない」
リョーマの答えはつれないものだった。
「そばで見てるからこそわかる事もあるんだよ。だから俺はこっそりとあの人の行動を監視してた。
案の定だった。けど、あの人が殺人鬼に扮装してる決定的現場を見たわけじゃないし、証拠もない。
だから今はまだ言えない。あんたには悪いけど」
リョーマはそれ以上は何も言わなかった。しかし美恵は一つだけ気付いた。
リョーマが疑っている人物は青学の人間だという事に。
『そばで見てるからこそわかる事もある』……それはチームメイトだからこそ出る言葉だ。
「ふふふふふ……俺のデータによると殺人鬼に襲われて死ぬタイプはセックスやドラッグに手をだす若者だ。
しかも十中八九、Hの最中もしくは直後に殺される事が多い。俺は童貞でよかったよ。
『すぐ戻る』という台詞も禁句だ。言ったやつは必ず死ぬ。
襲われる若者は逃げ道が無くなるのになぜか二階に逃げてしまう。
車で逃げようとすると、なぜかエンジンがかからない。
一番不可解なのは殺人鬼を倒すことに成功したのにとどめを刺さないことだ。
とどめを刺さないから殺人鬼は何度でも復活する。とどめは必ず――」
「いい加減にせんか乾!」
スミレの一喝に乾は「まだまだ言いたい事はあるんですよ先生」と残念そうに呟いた。
「そんな事より、おまえ外の様子を見て来い」
「俺が……ですか?」
「何だ。不満なのかい?まさか女や後輩に危険な役をさせるつもりかい」
「……わかりましたよ」
乾は渋々とドアに近づき、そっと外の様子を伺った。
何も変わった事はない。乾は残念そうに溜息をついた。
「……駄目です。殺人鬼は襲ってきませんよ」
「そうかい。良かったじゃないか」
「……先生は殺人鬼のデータより保身や安全の方が大事なんですね」
乾がガクッと頭を垂れた瞬間、椰子の葉を編んで作ったドアが切り裂かれ刃物の先端が見えた。
「きゃあああ!!」
「き、来た!どうしよう、本当に来ちゃったー!!」
絶叫しまくる桜乃と朋香。
「来てくれたのか!この興奮は理屈じゃなあいー!!」
乾だけは違う意味で絶叫していた。
跡部達は美恵を必死に探していた。
「大丈夫だよ、不二が一緒だから……」
殺気だっている跡部達を宥めようと大石が言葉を掛ける。
「不二なんか信用できるか。どこかの腹黒部長と同じレベルで危険なんだ」
跡部の迫力に大石は反論できず黙ってしまった。
「どっかの腹黒部長……うーむ、それはどこの誰の事なのだ、跡部よ?」
真田は跡部の言葉が理解できなかったらしく1人首をかしげている。
立海と青学の選手が離れると跡部は忍足に小声で話しかけた。
「てめえなんかに言いたくないが美恵の命がかかってるから譲歩してやる」
「何や、その上から目線の言い方は。何が言いたいねん?」
「あいつの命を狙っている人間は1人じゃねえ。立海や青学も信用できねえって事だ。
氷帝と四天宝寺の奴にだけ言っておけ。美恵を探しながら、単独で行動してた人間を調べておけってな」
「……単独で行動した人間。そいつが殺人犯の可能性が高いんはわかる。
けど、真田のペットが証拠残したって言ってるそうやないか」
「真田の言う事なんか信用できるか。俺は自分で見たものしか信じねえ」
「それもそうやな。そもそもトカゲに証人能力なんかあるわけないしなあ。
謙也や白石にそれとなく指示しておくわ」
跡部は立海や青学の選手を疑いだしていた。
全く疑ってないのは真田だけだ。
(俺は最初不動峰を疑っていた。奴らには動機も証拠もあった。
だが殺人鬼は俺が思っていた以上に知能犯すぎる。簡単に疑われるようなヘマをするわけがねえ)
跡部の指示は忍足や樺地を通して、すぐに氷帝と四天宝寺に通達された。
「さすがは跡部や。俺も同じ事考えてたんや」
白石は、「とにかく今は美恵ちゃんを無事に発見せんとな」と森の奥に入っていった。
「……それにしても、あの声」
白石は跡部の元恋人を死に追いやった謎の男の声を必死に思い出していた。
「跡部は青学や立海を疑っているようやけど……青学」
青学、青学……白石の記憶の彼方から、ある男の声が何度もリピートされた。
「……そうや。あの声」
白石ははっきり思い出した。同時に林を抜けていた。断崖絶壁で、下方に激流が見える。
「……跡部達に教えんと」
体を180度回転させると、そこには見知った顔があった。
「何や、驚かさんでくれ」
白石は、「ちょっとどいてくれ」と、その男の脇を通り過ぎようとした。
その時、白石は突き飛ばされていた。その男に!
突然の事に白石は驚愕した。背後は……後がない!
「まさか……自分」
白石は全てを悟った。瞬間的に白石の脳裏に浮かんだ推理のパズルが完全に組み合わさったのだ。
この男なら、美恵に毒入りジュースを飲ませる事が出来たはずだ。
不動峰に罪をなすりつける事ができたのも、この男。
自分がマネージャーの死の真相を思い出している事も、こいつは知っていた!
だが一つだけわからないことがある。
真田の証言と食い違う事がある。だが、こいつが殺人鬼であることに変わりはない。
「殺人犯は自分だったのか……!」
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