「不二君、待ってよ。痛いわ」

不二は強引に美恵を連れ出し二人きりになった。

「安心していいよ。君の事は僕が守るから」
「あ、ありがとう不二君でも……」


「僕が守るよ。終わりが来るまでね」
「……え?」


何、今の……聞き間違いだよね?




テニス少年漂流記―55―




「……こいつか!」
犯人の足取りを追っていた跡部は峡谷に出ていた。
ロープが張られている。
「上着か蔓を滑車の代わりにして向こう側に渡りやがったな」
これなら短時間で、この地から離れられる。


「跡部さん、何やってるんすか。せっかく逃走ルートを掴めたんだから、あんたも追いなよ!」
「そこまでいうんなら切原、てめえが試してみろ」
「はあ?まさか怖いなんて言うんじゃないですよね」
切原は首をかしげた。
「赤也がお手本みせてごらんよ」
「幸村部長がいうんなら」
赤也は木の蔓を使って峡谷を風のように移動。

「ほら簡単っすよ――え?」

突然、ロープがぶつっと切れた。赤也は川に真っ逆さま。
流れの中にワカメ頭が浮かんだり沈んだりするのが見える。


「思った通りだったぜ。あの殺人鬼が、てめの逃走ルートに細工してねえわけがない」
「ああ、そうだね。ロープに切り込みいれてたんだ」














「どうしよう真田、うちの不二が天瀬さんを連れていったなんて跡部にしれたら……」
「いいではないか。不二が守るといっておるのだ」
「い、いや……俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「彼女の護衛は不二にまかせて我らは犯人見つければいいではないか。
よし行くぞ大石!貴様をワトソンにしてやろう」

真田はつい先ほどまで殺人鬼を自称していたのが嘘のように今度は探偵役を買って出ていた。
大石はため息をつき、「なあ、とりあえず戻ろう」と提案した。

「彼女は無事だったんだから早く皆にしらせてやろうね」














美恵ー!どこに居るんや美恵!!」
忍足は声を張り上げていた。
「侑士、この辺りは、もう探しつくしたし、他あたろうか?」
「謙也、もし……もしも美恵が殺されたら俺は……」
「お、おい侑士、後追い自殺するなんて言うなよ」
「心配するなや謙也。その時は、おまえも道連れやから寂しくはない」
「……!」
謙也は眩暈がした。この従兄は必ずやる!肉親だからこそわかる恐怖。

美恵ちゃーん!俺のためにも生きててくれやぁー!!」


「大丈夫だよ忍足。彼女は無事だ」


声が聞こえた方角に視線を移動させると大石と真田、それに青学一年トリオが立っていた。
「ほんまか!?」
「ああ、本当だよ。俺達、彼女と会ったんだ」
「そ、それで俺の美恵はどこに!?」
「……そ、それなんだけど実は」
大石はすまなさそうに、かくかくしかじかと説明した。
当然の事ながら忍足は烈火のごとく激昂した。


「ふざけんなや、美恵は俺のハニーや、未来の嫁や!
何で不二がそんな勝手なことする権利あるんや。ないやろ!!」


「お、落ち着いてくれよ。不二は殺人鬼じゃないから、ただ、その……彼女を守りたい一心で」
「それが余計や言うてんのや!!」
忍足の勢いに大石はたじたじ。それでも忍足の猛攻は止まらない。


「自分、わかってるんやろうなあ……不二の代わりに制裁受けてもらうで」
「そ、そんな……!」

大石は真っ青になった。忍足には『やるといったらやる』凄味がある。

「さあ吐け。不二はどこに美恵を連れて行ったんや!」

怯んで後ずさりする大石、襟首をつかみ上げる忍足。




「そのくらいで勘弁してやったらどうや?大石には罪あらへんやろ?」
爽やかそうな声。白石の登場だ。

「無関係な人間は黙っとき。でないと自分も痛い目にあってもしらんで」
「おお怖、そんなに感情的になっても美恵ちゃんは戻ってこんやろ」


「あー、忍足が大石をいじめてるー!」
今度はやけに明るい声。菊丸登場。

「いーけないんだ。いけないんだ」
「うるさいわ!ガキは黙って引っ込んでればええんや!」
「あれー、忍足、何か落としたよ」
菊丸は忍足のズボンのポケットから落ちた写真を拾った。
それは跡部のクルーザーの中から食料や道具を物色中についでに拾ったものだ。


「……これって」
菊丸は目を丸くして写真を見つめている。
その写真の中には2人の人間が写っていた。
1人は跡部、そして跡部の腕にしがみついているのは前の彼女。
あの女が部屋に飾ってあったものだ。
おそらくは跡部を部屋に連れ込んで、この写真を見せて過去に縋りよりを戻そうとしたのだろう。
忍足は跡部にこれを見せて、あの女への想いを思い出させようと考えていた。
もっとも跡部には、もう何の未練もない。
その為、写真はもはや何の役に立たないと判断され、忍足に存在を忘れられたままポケットに入っていたのだ。




「ああ、すっかり忘れとったわ。もう、そんなもの要らん」
「……この女って」
「跡部の前の女や。意地でも跡部とより戻して欲しかったのに……あの役立たず」


「この女ってさあ。不二のクラスメイトだったひとだよね」
「何やて?」

忍足の目つきが変わった。


「うん、そうだよ。そっかー、跡部の恋人だったんだ」
「なあ、その写真、ちょっと見せてくれへんか?」
「うん、ほら」
白石は受け取った写真に目を通した。
「……思った通りや。あの時、逃げてたんは、この子だったんや」
白石は向こうの小島で謎の男から逃げる女を目撃している。

「じゃあ、やっぱりマネージャーはもう……」
「多分、あの世やろうなあ。待てよ、あの時の声は……」

白石は額に手を置いて考え込んだ。
逃げる彼女を追いかける男の声には聞き覚えがある。
ほんの一瞬だったので、誰の声かはわからない。だが確かに知っている人間の声だ。


「……記憶が鮮明になってきたで。もう少し……もう少しで思い出せそうなんや、あの声は確か――」














美恵、どこだ美恵!」
美恵さん、俺だよ。幸村だよ、どこにいるんだい!?」

跡部と幸村は殺人鬼の捕獲よりも、美恵の保護を優先していた。
遠回りして殺人鬼の逃走ルートを辿ったが、すでに奴の痕跡は残っていなかった。
今頃は、あの怪しい黒服を脱いで何食わぬ顔をして、この島の中を歩いている事だろう。


「幸村、美恵の身に何かあったら……その時は、てめえも生かしておかないからな」
「……跡部」


幸村の額から一筋の汗が流れた。
跡部は怒りにまかせて幸村の胸ぐらをつかんで持ち上げた。

「てめえも同罪だ!美恵に傷一つでもついていたら――」


「幸村から手を離すんじゃ!」


「……仁王」
険しい表情の仁王と不安そうな丸井。
彼等は跡部達の声を聞きついて駆けつけてきたのだ。


「跡部よ……うちの部長に危害をくわえんでくれ」
「……てめえも殺されたいのか?」
「気持ちはわかるが、うちの連中も必死に彼女の居所を探しておる。もう少し堪えてくれんかのう?」
「そ、そうだぜい。幸村を傷つけても何にもならないだろ?」
「俺はもう限界以上に我慢してやっているんだ!」
跡部の怒りは今度は仁王にも向けられた。


「俺に意見するんじゃねえ!」
「お、怒るなよ跡部……見ろよ、これ!」
丸井は慌てて仁王の腕を指差した。包帯が痛々しそうに巻かれている。
天瀬を探してる途中で棘にひっかかって怪我したんだぜ。
俺達、立海の人間も皆、おまえの女を心配してるんだぞ。その気持ち酌んでくれよな」
その途端、幸村は丸井に平手打ち。

「な、何だよ、幸村~。俺、おまえの事を庇ったのに」
「二度と美恵さんを跡部の女呼ばわりするな!!」














「不二君、痛いわ……!」

手首に走る痛みに美恵は顔をしかめた。

「…………」
「不二君、お願いだから離して!」

不二は何も答えない。美恵は思わず手を振りほどいた。

「……僕に逆らうのかい、美恵さん。こんなに君の事を心配してあげてるのに」
「……あ」

「……やっぱり君は身も心も完全に跡部に穢されてしまったんだね」




「残念だよ」




不二の瞳は氷のように冷たかった。そんな不二に共鳴するかのように雨が降り出す。
南の島だというのに、まるで真冬の雨のように冷たく感じる。
その雨の中、不二は冷たい眼差しで、じっと美恵を見つめる。


「わかったよ。戻ればいいさ、跡部の元に」
「……不二君」
「行けよ。僕の気が変わらないうちに」
「不二君、私は――」




「さっさと行けよ!!」




美恵はびくっと硬直した。不二の様子がおかしい。半ば恐怖すら感じる。
思わず動けなくなった美恵を残して不二はゆっくりとその場から立ち去った。
1人きりになった美恵は不二の言葉に今だショックを受けていた。
同時に自分が今1人きりだということにも気づいた。
得体の知れない恐怖を感じ、美恵は元来た道を下りだした。


「……え?」

足元に何かが引っかかり反射的に視線を降ろすと透明の糸が見えた。


(……な、何……これ?)


考える時間などなかった。頭上から、がらがらと妙な音が聞こえてきたからだ。
ハッとして見上げると崖から岩が転がり落ちて来るのが見えた。


「……なっ!」

岩がいくつも折り重なるように落下。美恵は地面に倒れていた。

「……痛い」

左足が岩に挟まれている。完全に逃げ切る事ができなかったのだ。
力任せに足を引き抜くと、足首に鈍い痛みがさらに走った。




(あ、足が……)

痛みに泣いている暇なんてない。これは明らかに殺人目的の罠だ。

(どういう事なの。まるで私と不二君がここに来ることを知ってたみたい)

美恵は、まさかと思った。恐ろしい考えが頭をよぎったのだ。
だが、すぐに、その考えを捨てた。


(何を考えているのよ!不二君の腕には傷なんてなかったわ。
第一、不二君が私を殺すはずがない。不二君は優しいし動機もないもの)


痛みを堪えて立ち上がった。幸いにも骨は折れてないようだ。
しかし出血は酷い。もしも、今、襲われたら、とてもじゃないが逃げ切れないだろう。


(ふ、不二君は?近くにいる不二君も危ないかもしれない)

不二は無事だろうか?


「不二君!」
呼んでみたが返事はない。雨の音しか聞こえない。
「不二君、もういないの!?」
もう一度呼んでみたが、やはり返事はない。
その代わりに茂みの向こうから妙な音が聞こえてくる。


「……不二君……なの?」


嫌な予感がした。美恵は痛みを堪えて走り出した。いや、走るというには、あまりにも無様なフォームだ。
片足を引きずりながらの逃亡劇。振り返ると茂みから奴が飛び出すのが見えた。


「……!!」


忘れもしない怪しいマスクにカーテンのような黒服。そして握られているナイフ!
美恵はスピードを上げようとしたが、自由がきかない左足がもつれて、その場に転倒した。
そんな美恵の状況など、おかまいなしに殺人鬼はじわじわと近づいてくる。


「こ……来ないで!」


美恵は立ち上がろうとしたが、ぬかるみに滑ってしまう。
焦っているからなのか、怪我が原因なのか、体が思い通りに動かない。
それをいい事に殺人鬼は余裕綽々だ。
美恵は必死のあまり地面をはっていた。振り向くと殺人鬼が、もうすぐそこまで来ている。


「た、助けて……誰か助けて……!」
「……誰も来ないよ」

「ど、どうして……どうして私を殺そうとするの!?」




「……言っても君には理解できないよ。
君がどうして跡部なんかを愛しているのか、僕が理解できないようにね」




ナイフが鈍い光を放ちながら降り下される。

「簡単に殺されてたまるものですか!」


美恵は咄嗟に握りしめた土を殺人鬼の顔面目掛けて投げた。
殺人鬼が一瞬ひるんだ隙に美恵は何とか立ち上がって走る。
だが、ナイフが肩越しに飛んできた。髪の毛の一部がバサッと地面に落ちていた。
思わず怯む美恵。その瞬間、殺人鬼は美恵の眼前に回り込んだ。


「……逃がさないよ。君はここで死ぬんだ」


絶体絶命だった。殺人鬼は今度はロープを取り出した。絞殺しようというのだろうか。

(……ど、どうしよう)

負傷した身では殺人鬼と格闘したところで勝てる道理がない。


「もう終わりだ。観念するんだね!」


美恵は自身の死をイメージして思わず目を閉じた。
だが、ほぼ同時に予想もしてなかった事が起きた。
どこからともかく小石が飛んできたのだ。殺人鬼の横面目掛けて!

「誰だ!」

殺人鬼が初めて感情のままに激怒した。




「負傷した女をいたぶり殺そうなんて、本当にあんた、いい趣味してるよ」




美恵と殺人鬼は、ほぼ同時に崖の上を見上げた。
「もう、そのくらいにしたら?十分すぎるほど逆恨みは果たしただろう?」
テニスラケットを手にした少年が立っている。
先ほどの小石をラケットで正確に打ったのは彼。まるでテニスボールのように。

「どうして、おまえがここにいる……って顔だよね。
いずれ、あんたが動くと思ってたよ。だから彼女を探すふりして、俺はあんたを探してたんだ」




「リョ……リョーマ君!」
「まだまだだね」




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