美恵は必死になって抵抗したが、女の力ではまるで歯が立たない。
「景吾っ……助けて景吾ー!」
気の強い美恵だったが、その声はついに悲鳴へと悲しい変化を遂げていった。
相手は冷酷無比な殺人鬼。連れ去らわれたら何をされるかわからない。
命を奪われたら二度と跡部と会えなくなる。
「景吾、景吾……!」
口を押えられた。もう叫ぶこともできない。
「ん……っ」
美恵はもうもがくことすら困難になった。
そして殺人鬼は再び歩き出したが、数歩で止まった。
美恵はハッとして見上げた。殺人鬼の肩に手が置かれている。
「……いい加減にしろよ。あんた潰すよ」
テニス少年漂流記―53―
「幸村、てめえ、俺の美恵に何しやがった!?」
跡部は完全に興奮状態に陥っていた。だが幸村もショックで呆然としている。
(……ど、どういう事なんだ?)
外側から破壊された格子……どう考えても何者かが美恵に危害を加える為にした痕跡。
「……そんな、美恵さん」
幸村は踵をひるがえすと出口に向かって走っていた。
「美恵さん!!」
嫌だ、嫌だ、君が死ぬなんて!
そんな事の為に君を閉じ込めたわけじゃない!!
「待て、幸村、逃がさないぞ!!」
跡部が背後から怒鳴っていたが、今の幸村には聞こえなかった。
外に飛び出した瞬間、背中に重みを感じ幸村は地面にのめり込むように転倒した。
「あ、跡部、どいてくれ!」
「逃がさねえと言ったはずだ!てめえ、俺の美恵に何をしやがった!?」
「い、今は、そんな事を言っている場合じゃない。早く彼女を探さないと……!」
「何だと、どういう事だ?てめえの仕業なんだろう!?」
「俺じゃない!俺が彼女に危害を加えるはずがないだろう!
早く探すんだ。でないと……でないと美恵さんが殺される!!」
それは悲痛な叫びだった。インサイトを使わずとも、幸村が真実を語っている事がわかる。
少なくても幸村は美恵を傷つける行為はしていない。跡部は即座に幸村から離れた。
「……じゃあ誰が美恵を?」
いや、今は犯人の特定など二の次。一刻も早く美恵を保護しなければ。
「探すんだ幸村、早くしろ、でないと美恵が殺されるぞ!」
「あ、ああ、わかってる……わかってるよ」
幸村は取り乱していた。その様子から跡部は美恵を監禁したのは幸村だと悟った。
しかし監禁場所は襲われ美恵は行方不明。
幸村にとっては想定外の事件だったのだろう。
「見ろ、幸村。足跡だ、俺達のものじゃない」
跡部や幸村よりもサイズが一回り小さい。一見して女のものだとわかる。
「こっちだ、行くぞ!」
「あ、ああ」
「……あんた、潰すよ」
赤也の目は真っ赤に染まっていた。
それは、かつて何人ものテニス選手を恐怖に陥れた悪鬼の眼光。
「…………」
殺人鬼は無言のままだ。マスクのせいで表情もわからない。
だが赤也の言葉を宣戦布告と受け取ったのか、美恵を投げ捨てた。
「き、切原君……!」
赤也の様子がおかしい。異常だ。美恵は肌でそれを感じた。
「……あんた、さっさと、どこかに行けよ」
底冷えするような声だった。
「切原く――」
「傷つきたくなかったら、さっさと行け!今の俺は、あんたにも何かするかもしれないんだぞ!」
赤也自身、感情をコントロールできなくなってきている。
このままでは赤也は自分自身すら破滅しかねない危険すら感じる。
「何してやがるんだ、さっさと行けと言ってるんじゃねえか!!」
「……!」
怖かった、それもある。
だが、それ以上に美恵は、今の赤也を止めなければならない必要性を感じた。
そして、今の自分には赤也と殺人鬼の戦いを止める力はない。
(皆に知らせないと)
美恵は走った。仲間を呼ぶことが今できる最善の行動だと信じたからだ。
「逃がさない!」
殺人鬼が初めて喋った。それは機械的な声だった。
赤也は美恵を追いかけようとした殺人鬼の前に立ちはだかる。
「あんたの相手は俺だって言ってんだろ?」
「…………」
「何とかいえよ、こら」
「…………」
「何とか言えって言ってるんだよ!」
赤也の鉄拳が殺人鬼の顔面目掛けて真っ直ぐに伸びた。
だが顔面に到達することはなかった。手首を握られ呆気なく止められたからだ。
赤也はじっと殺人鬼の手を見つめた。
「……意外と細いな。もっと筋肉質な野郎かと思ったぜ」
「…………」
「うちでこんな細腕は幸村部長くらいだ。おまけに玉の肌ときてやがる」
「…………」
「こりゃ案外特定するのは容易かもな……殺人鬼さんよ!」
赤也の脚が殺人鬼の顎目掛けて急上昇した。
まともに入れば必ずダメージを負わせることができた。
だが殺人鬼はひらりと華麗に紙一重で避けていた。
その身軽さはテニスで鍛えた身体能力ゆえだ。
「あんたは俺を怒らせた」
赤也はそばにあった枝を拾い上げた。狂気の赤也が武器を手にしたのだ。
「死んでも恨むなよ!」
赤也の猛攻が始まった。それは殺人鬼とテニスに青春を掛ける少年の構図ではない。
一方的に人間を嬲り殺しにしようとしている狂犬の姿だった。
「誰か、誰か来て……!」
美恵は全力で走りながら助けを求め叫んだ。
しかし誰もその声に応えてくれない。
(こっちの方角には誰もいないの?)
森を抜けると前方に崖が見え、美恵は慌てて急停止した。
危なかった。あのまま走っていたら崖から真っ逆さま、即死だっただろう。
すぐに方向転換して再び全力疾走した。
(早く、早く助けを呼ばないと切原君が殺されてしまう……!)
バキッと鈍い音がして枝が空中で粉々になった。
殺人鬼がナイフの柄で叩いた衝撃で砕けたのだ。
「ちっ」
赤也は忌々しそうに舌打ちすると、間髪入れずに頭突きをお見舞いしてやった。
殺人鬼が少しふらついた。今がチャンスとばかりに赤也は体当たりを食らわせた。
「潰す!再起不能にしてやるぜ!」
渾身の力を右手に込め放った。拳に痛みが走る、つまり殺人鬼も痛みが走ったはずだ。
だが赤也の狂気に満ちた顔が、次の瞬間歪んでいた。
(痛え、何だよ、これは!)
拳に走った痛み、殴った瞬間にはこれほどの痛みはなかった。
「お、おまえ……何、しやがった」
ハッとして拳を見ると針のようなものが刺さっている。
(おい冗談だろ?)
赤也の口の端が引きつっていた。もしかしたら笑っていたかもしれない。
これは毒だ。赤也は瞬間的に本能でそう感じた。
激痛がどんどん酷くなる。それに伴い右手が赤く腫れ上がっていく。
「……やってくれたな」
赤也は悔しそうに殺人鬼を睨みつけた。
普通の少年ならば激痛と恐怖で戦意喪失するところだろう。
だが赤也は怒りがそれらを大きく上回っている。
「やってくれたな、てめええ!!」
「あの声は……!」
「幸村、おまえも聞こえたのか」
「間違いない。あの声は赤也だ。あの子が戦っているんだ」
「美恵もいるかもしれねえ。急ぐぞ!」
2人は全力疾走した。森を駆け抜け続けるととんでもない光景が目に入った。
切原が戦っている。その相手はとんでもない奴だった。
「あいつは……!」
跡部は憎々しげに怒鳴った。美恵の命を狙う悪魔、誰よりも倒すべき憎悪の対象。
「てめえ、美恵をどうした!?」
跡部の怒りの導火線に火が付いた。
その感情は殺意という名の業火となり殺人鬼に襲いかかった。
殺人鬼のボディに跡部の怒りの鉄拳が入った。
「あ、跡部さん!?」
感情に支配され我を忘れていた赤也だったが、突然の乱入者に呆気にとられ素に戻った。
「赤也、大丈夫かい?」
「幸村部長、俺は大丈夫っすよ」
「何言ってるんだい。美恵さんが無事かどうかって訊いているんじゃないか」
「彼女は逃がしましたよ」
その台詞は幸村は勿論、跡部が最も欲しがっていた情報でもあった。
(美恵は無事か……良かった)
「つまり、後はこの野郎をぶっ倒せばいいということでOK
だな」
「跡部さん、気を付けて下さい。そいつ只者じゃないっすよ!」
「うるさい切原、外野は黙ってろ!」
今まで何度も愛する女の命を狙われた跡部はすでに怒りの頂点だった。
生かして返さないとばかりに攻撃を開始した。
殺人鬼も黙ってやられるわけがない。ナイフが跡部のボディ目掛けて突き上げられる。
「てめえ、誰を相手にしてると思っていやがるんだ!」
跡部は殺人鬼の手に強烈な蹴りをお見舞いした。
ナイフが殺人鬼の手を離れ、回転しながら飛ばされた。
「地獄に落としてやる!」
間髪入れずに跡部は殺人鬼の首根っこに飛び蹴り、殺人鬼が地面を横滑りしていた。
しかし跡部は攻撃の手を止めない。すかさず拳大の石を手にした。
頭部を石で殴って完全に息の根を止めるつもりなのだ。
だが相手は冷酷無比な連続殺人犯。そう、やすやすと命を敵に捧げたりしない。
殺人鬼の手が上がった。何か持っている。
「危ない、跡部さん!」
跡部はハッとして背後に飛んだ。直後に液体がぶちまけられた。
おそらく、いや間違いなく毒だろう。
「……残念。失明させてやろうとしたのに」
変成器を通じてだが、確かに殺人鬼はそういった。
声からは誰かわからない。だが跡部は重要な事に気付いた。
その口調は感情を押し殺してはいるが、その裏に憎悪が込められていたのだ。
「……てめえ、俺に恨みを持ってるな」
「…………」
殺人鬼はその問いには答えなかった。
「……ふん、答えたくねえってことか。だったら力づくで、そのマスクをはがしてやるぜ」
美恵は走っていた。だが、ふいに背後に不穏な気配を感じ立ち止った。
「誰!?」
反応はない。一瞬、気のせいかとも思った。
しかし次の瞬間、それは気のせいではない事を美恵は思い知らされた。
真横の茂みから黒衣の殺人鬼が飛び出してきたのだ。
(そんな……!)
美恵は混乱した。
(こいつは切原君と戦っているはず、それなのに、どうしてここに!?)
可能性はいくつかある。一つは切原から逃げた可能性。
もう一つは……考えたくもないが、むしろ前者より高い可能性かもしれない。
(まさか、こいつ切原君を……!)
足首をひねり、その場に倒れかけた。殺人鬼がナイフを振りかざしているのが見える。
「この……!」
大人しく殺されてなるものかと、美恵は土を握りしめ殺人鬼のマスク目掛けて投げつけた。
目に入ったらしく殺人鬼が一瞬怯んだ。
その隙を狙い美恵は立ち上がると走った。
途端に足首にずきんと鈍い痛みが走った。
美恵はギュッと目を閉じた。思ったより怪我の具合は悪いようだ。
しかし痛みなどに気を取られている余裕などない。
美恵を痛みを堪え走ったが、今までのような颯爽とした走りなど到底できない。
それは殺人鬼も気づいたようだ。俄然と襲いかかってきた。
「来ないで!」
脚力に頼る事はできない。美恵は思わず平手をお見舞いしていた。
「ぶっ!」
殺人鬼が小さな悲鳴を上げ倒れていた。
手負いの女など簡単に殺せると油断をしていたのだろう。
まさか美恵が反撃をするとは思っていなかったらしく、攻撃を避けることもできなかったようだ。
「誰が殺されてやるものですか!」
美恵は殺人鬼を突き飛ばした。殺人鬼は転倒、ナイフをぽろっと落としている。
美恵は咄嗟にナイフを拾うと身構えた。
武器を奪ったのだ、殺人鬼はもしかして逃走するかもしれないと期待すらした。
だが殺人鬼は一定の距離を保ってはいるものの去ってはくれない。
「それ以上近づいたら刺すわよ!」
それは威嚇という名の悲鳴だった。相手もそれをわかっている、だから立ち去らない。
しかも徐々に距離を縮め始めた。
(どうしよう。こいつが他に武器を持っていたら勝ち目はないわ)
それは当たって欲しくない予想だった。
だが運命の神様は残酷だ。殺人鬼は黒服の下から木製の剣を取り出したのだ。
ナイフとではリーチが違う。たちまち美恵は窮地に陥った。
殺人鬼が飛んでいた。
「……!」
美恵、絶体絶命のピンチ!
「ぎゃぎゃー!」
その時だった。木の上から何かが飛んできたのは。
「あ、あれは真田君のペット」
真田を追いかけて迷子になってしまった巨大トカゲが殺人鬼に襲いかかった。
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