「……今、何時だろう」

薄暗い洞窟の奥では、太陽の動きを見ることもできない。
「明日か明後日には景吾が帰ってくるかもしれないのに」
疲れているであろう跡部と宍戸の為にご馳走の用意を今からしておくつもりだった。
それなのに今の自分は行方不明で生死もわからない立場になっている。
このまま跡部が戻ってきたら、ゆっくり休むどころではない。


美恵 さん、ここから出ようなんて思わないでくれ」
「……幸村君」


幸村は笑顔だったが、その目は今まで見たことがないほど冷たかった。
優しい幸村しか知らなかったが、美恵 は背筋に冷たいものが走るのを感じ身震いした。




テニス少年漂流記―50―




「ど、どうしよう……美恵……美恵ー!!」

すでに日は落ちている。無人島の夜は危険だ。
しかし美恵の捜索は終了することなく、松明を掲げなおも続いていた。
にもかかわらず美恵本人はおろか彼女の痕跡を残すものすら見つからない。
そんな状況についにジローは耐えられなくなって泣き崩れてしまった。
おそらくジローは最悪の事態すら想像していたのだろう。


「落ち着けよジロー。美恵は大丈夫だって!」

必死に慰める岳人だが、その口調は音量の割には覇気がなかった。

「……まずいぜよ。そろそろ狼が活動をはじめる」


仁王は不安そうに空を見つめた。自分達は大人数だから襲われる心配はまずない。
問題は美恵だ。もし沼の底に沈んでいなくとも、今、無事に保護しなければ狼の犠牲になる。


「もっと捜索隊の人数を増やした方がいいと思うんじゃがのう」
「よし、俺が捜索隊つのってくるわ!」
謙也は猛ダッシュ。残された者達は沼の捜索を切り上げ、森の方を探すことにした。
「これだけ底をさらっても何も見つからんいうことはここにはいないんやろ。
皆、不幸中の幸いやと思って気を取り直していこう。な?」
白石の言うとおりだ。沼の底なら命はない、だがどこにいるにしろ生死不明なのは間違いないのだ。


「ところで」

真田が挙手していた。


「何や、真田?」
「うちの幸村はどこにいったんだ?」














「はい美恵さん、お腹すいただろう。遠慮しないで食べてよ」
幸村は魚と木の実や茸のホイル焼きを差し出した。
こんな無人島、それも男が調理したものとしては格別な出来栄えだったに違いない。
しかし美恵は食事にありつく気にはならなかった。

「どうしたんだい。ちゃんと食べないと」
「夕食なんかより……お願いだから、ここから出して幸村君」

機嫌よく微笑んでいた幸村は途端に険しい表情になった。


「まだそんな事を言っているのかい?」
「だって、私の仲間が心配して今頃きっと探してるわ」
「いいんだよ。君がいないと思わせておけば、例の殺人鬼も動かないだろう?」

幸村は物腰や口調は穏やかだったが、美恵の頼みを完全拒絶している。
美恵は格子に飛びつくと声を荒げ必死に訴えた。


「お願い幸村君、ここから出して!もうすぐ景吾が帰って来るのよ!」


「跡部が?」
「そうよ。私が行方不明だと知れば景吾が――」

幸村の腕が格子の隙間を縫って美恵に伸びてきた。
突然、襟首を掴まれ美恵は思わず呼吸すら忘れ幸村を見つめた。




「……そんなに跡部が恋しいのか?」




美恵は答えることができなかった。声がでない、そして気が付けば震えていた。


「跡部が戻ったら……あいつに抱かれるつもりなのか?」
「……ゆ、幸村……く……」

絞り出した声は恐怖で途切れ途切れ。それが幸村の神経をさらに刺激した。


「俺に怯えているのかい?」
「……あ」




「跡部の事は愛しくて……俺の事は怖いんだ」

怖い怖い、助けて景吾……!




美恵は心の中で必死に叫んだ。
思わずギュッと目を閉じた。それでも幸村の冷たい視線を感じる。


「……ゆ、幸村君……お、お願い……」

幸村は思わずハッとした。

「……お願い、許して……お願いだから……」

美恵が涙を流していた。




「……お願い……優しい幸村君に……戻って」

最後の言葉は涙声で幸村にはっきり聞こえなかった。
ただ幸村は美恵から手を離した。恐る恐る目を開き見上げると幸村は気まずそうに顔をそらしている。


「……幸村君」
「……食事」

幸村は美恵に背を向けた。その背中はどことなく寂しそうだった。
「……冷めるから食事は早くとってくれ」
さらに持参した手さげ袋から毛布を取り出し格子の隙間から差し出した。
「洞窟の中は冷えるから」
本来の幸村に戻ったかもしれない。そんな期待が美恵の中に芽生えていた。


「幸村君、お願い――」

もう一度だけここから出すよう懇願するつもりだった。
「俺はあっちで休ませてもらうよ」
しかし美恵の言葉を待たずして幸村は足早に立ち去ってしまった。
残された美恵はがっくりと肩を落とし、その場に座り込んだ。


「……景吾」


今どうしてる?少しは私の事を想っていてくれてる?


「もうすぐ戻って来るのに……景吾が」

もし幸村君がここから出してくれなかったらどうしよう――。














「おい跡部、もう暗いし明日にしろよ」
夕食を食べ終えた宍戸は明日に備え体を休めようとしていた。
しかし跡部は松明をかざし立札とのろし台の修繕に取り掛かっていた。
「おまえは先にやすんでろ。俺はまだやることがある」
嵐のせいで崖が崩れたり、大木が倒れ通行止めになったりと地図の修正も色々あった。


(嫌な予感がする。美恵、無事か?)

殺人鬼はもういないはず……そう思いながらも跡部は不安を拭いきることができなかった。

(早く戻っておまえの無事を確認したい。おまえを力の限り抱きしめたい)


――1秒でも早く、おまえの肌のぬくもりを、この腕で確かめたい。


ぐずぐずしていられない。睡眠時間を削ってでも予定より早く帰りたい。
跡部は、そのために精力的に働いた。
名家の御曹司の自分が積極的に地道な労働にいそしむなんて自分でも驚きだ。
美恵、待ってろ、すぐに戻るからな)
ふと気配を感じ真横を見ると宍戸がスコップを持って立っていた。
「1人より2人の方が早く片付くだろ」


「早く戻って美恵を安心させてやろうぜ」
「あーん、当然だろ?」














「氷帝の美恵さんが行方不明?」
観月は自分の髪に指を絡めながら少々驚いた。
「そうなんや。自分達も探すの手伝って欲しいんや」
謙也は聖ルドルフの小屋に来ていた。彼等の生活拠点は、例の森と近距離だったのだ。
「大変だ。兄貴にも知らせてやらないと……って、兄貴は神出鬼没だから今どこにいるのか」
裕太は不二の気持ちを知っている。
不二の想い人である美恵が行方不明と知り出来る限りの事をしてやりたいと真剣に思った。


「しかし夜中に森の中をうろつくのは人命救助どころか自分の身が危なくなるじゃないですか」
ところが裕太と違い、観月は無情な事を言い出した。
危険はあるし、美恵は赤の他人。かかわりたくないというのが本音だろう。
「俺、兄貴を探してこの事伝えるよ。兄貴と一緒に後で駆けつけるから」
「よし、頼んだで!」
謙也は砂浜に向かって走った。
次は青学だ、青学に助っ人を依頼する為に謙也はスピードに乗った。














「じゃぁああーん!」
鏡に映り威嚇の咆哮をあげているのは間違いなく美恵を襲った殺人鬼のマスク男の姿。
「ばぁ!……なーんちゃって、ふふ」
鏡の前でゆっくりとマスクが取られると、そこには電波な眼鏡をかけた乾の姿が。
「……ふふ、こんな姿、誰にも見せられないな」


「……何してんねん、自分」


声を掛けられ乾は瞬時にムンクの叫び状態になった。
「ち、違うんだ!べ、別に殺人鬼の高揚気分を味わってみたいなあ、なんて事はちっともぉぉー!」
質問されてもないのにベラベラと言い訳する乾。
謙也は何と言ったらいいのかわからず白けた表情で、ただ乾を見つめた。
「そ、そんな哀れな目で見詰めないでくれええ!
お、俺はそのっ……殺人鬼の心理について思考してるうちについ調子にのったとか、そ、そんな事は……!」
このままでは乾は延々と自己弁護を続けるだろう。
何とか止めようと謙也が口を開きかけると、背後から「乾、何やってんだよ!」と声がした。
素っ頓狂な声を上げたのは菊丸だった。その腕の中には熊のぬいぐるみが抱きかかえられている。


「そ、その……り、理屈じゃないんだ」
「そのマスク、不動峰のところから持ち出した奴だろ?
不吉だからって大石がしまっておいたのに何で持ってんだよ!」
「ち、違うぞ、誤解だ!お、俺は大石の私物を勝手にあさってなどいない!
た、ただデータ収集の為に整理をしていたら偶然これを発見してしまっただけで――」


「ええ加減にしてや!」


謙也の大音量に乾も菊丸もピタッと口を閉じた。
「それどころやないんや!」
謙也はスピードスターにふさわしいほどの早口で事件の詳細と助っ人の依頼をまくしたてた。














残された裕太はさっそく出掛ける用意を始めた。
木の枝に引き裂いた布を巻き付け油をひたしマッチで点火。
そして小屋からロープとナイフも持ち出した。
「裕太君、本当に行くんですか?」
観月は少々呆れた表情さえ浮かべている。


「観月さんは本当にほかっておくつもりなんですか?相手は女性ですよ、男なら助けてやらなきゃあ」
「おや、裕太君は案外フェミニストだったんですね。
感心しますが僕は家族でも恋人でもない女性の為に労力を使う気には今いちなれないんですよ。
まして彼女は跡部とすでにウフフな間柄。どう考えてもこの先、僕と特別な関係になるとは思えません」
観月の主張に裕太は呆れた。人助けとは打算でするものではないはず、しかし観月はそうではないらしい。


「君もそんな事より明日に備えて薪割でもしたらどうです?
お兄さんの為に点数稼ごうって思ってるんですか?」
「俺はそんなつもりじゃ……」
否定はしたが、確かに不二の想い人だからこそ助けてやりたいという気持ちはある。
言葉をつまらせた裕太を見て、観月は調子に乗り出した。




「僕の永遠のライバルだけあって君のお兄さんは一筋縄ではいかない男ですよ」
「……え?いつ観月さんが兄貴のライバルになったんですか?」

観月はぎろっと裕太を睨みつけた。
裕太は思わず言葉を詰まらせる。


「テニスプレイヤーとしては僕のライバルにふさわしく彼は一流でしょう」


褒め言葉ではあったが、観月の口調にはどこか嘲りが感じられた。
それはすぐに形になって現れた。




「しかし一人の男としては、あきれてものも言えませんね」




観月ははっきりと言い切った。
不二本人が聞いてないとはいえ、それはあまりにも傲慢な物言いだった。
天瀬さんは、もう他の男の恋人でしょう。それを、いつまでも未練たらたらすぎますよ」
裕太はショックを受けているが観月の厳しい言葉は続いた。
「他人のものになった女性なんかにこだわって家出までするなんて幼稚すぎますね。
第一、あの悪魔……もとい不二君が、そんな傷つきやすい心を持っているとは到底思えませんよ。
純粋な僕を公衆の面前で平然とこけにしてくれた人間ですからね。
こういっては何ですが、あんな他人の痛みのわからないひとが傷つくわけがないでしょう。
僕が思うに彼の行動はただのないものねだりですよ。
手に入らないおもちゃを欲しがって駄々をこねる幼児と一緒ですね」
「観月さん、そこまでいう事ないじゃないですか!」
兄に反抗ばかりしてきた裕太だが、ここまで言われて黙っていては家族ではない。


「おや、僕の意見に異を唱えるんですか裕太君?」
「だって酷すぎますよ、兄貴は恋愛に関しては純粋なんだ」
「何、甘えたことを言ってるんですか。僕が思うに彼女はすでに跡部に開拓されてますよ」
「開拓?」
健全な裕太には観月の言っている意味がわからなった。
観月は半ば馬鹿にしたような溜息をはいた。


「跡部は彼女を連れ出して無人島で三日も二人きりだったんですよ。
間違いなく犯されてますよ。僕の計算では十発はやってるでしょうね」
今度は裕太も意味がわかった。真っ赤になっている。
「わかるでしょう裕太君。二人はただの恋人じゃない、一線超えてるんですよ。
心どころか肉体まで跡部のものなんですよ。もう不二君に勝ち目なんてないじゃないですか」


観月の言い分はもっともだった。
跡部は決して美恵を手離さないだろう。跡部が死亡でもしない限り、美恵が不二のものになる可能性はない。
しかし不二はその事実を認めることが出来ず、仲間すら見捨て今や失踪中の身。
裕太から見ても不二はもてる男だった。にもかかわらず女を愛したことはない。
その不二が他の男の恋人にこだわり、その精神は闇夜をさすらっている。
今まで何かに執着したことがない不二だからこそ、裕太は不憫でなからなかった。


「裕太君、はっきりいって不二君はストーカーじゃないんですか?」
「……な!」


あまりな言葉。ついに裕太は激昂した。


「観月さん、何て失礼なひとなんですか、あんたは!無神経すぎるぞ、今の言葉!!」




「許せん!!」




観月はぎょっとした。今の怒声は裕太のものではない――。
裕太は恐怖で固まった。彼は見たのだ、観月の背後の茂みから――。


「な……っ!」


マスクをかぶった黒服の殺人鬼が飛び出したのを。
その殺人鬼がナイフを手にしていたのを。


「ぎゃああああああ!!」


そして殺人鬼が非情にもナイフの刃を観月の背中に突き刺していた。




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