「酷い有り様だな乾」
「ああ……やはり、こんなもので大海を旅しようなんて無理だったんだ。
俺の計算によればイカダで航海するには、必要な食料を乗せるスペースだけでも――」
「い、いや乾……そっち方面の話は俺にはわからないからいいよ」
「そうか。俺の航海理論を小一時間ほどでかまわないから大石には聞いて欲しかったよ」

乾は眼鏡の中央をそっと押し上げた。
青学が住みついた浜辺の近くの暗礁に打ち上げられていたイカダ。
絡みついていた荷物から不動峰のものだと判明した。
だが、イカダに乗っていたはずの不動峰の面々の姿はない。


「……ふふふ。大石、奴らは島を出たふりをしていただけなんだ。
こっそりと戻って殺人事件を再開しようという計画だった。俺のデータは完璧だ」
「い、いや乾……それはデータじゃなくて推理って言うんだろ?」
「そうとうも言う」




「乾せんぱーい!大石せんぱーい!!」

堀尾が右腕を振り回しながら此方に走ってくるのがみえた。
そのすぐ後ろにゆっくりとリョーマが歩いてついてきている。
「おお越前、帰ってきたのか。おまえにも俺のデータ推理を聞かせてやろう」
リョーマはちらっとイカダを一瞥した。半壊しており、航海どころか浅瀬での魚釣りの足場にも使えないだろう。

「脱出したと見せかけて実は殺人を続行するつもりで戻った――ってところっすか?」
「おお越前、おまえは俺の心が読めるのか?」
「別に。それに乾先輩の推理はちょっと無理がありますよ」




テニス少年漂流記―49―




美恵!俺の美恵はどないしたん!?」

駆けつけた忍足の目にも泥沼の中央から出ている泥まみれの手が見えた。

「う、嘘やろ?」

美恵が溺れてから、どれ程の時間が経過してるのかは知らない。
だが呼吸が停止してから、かなりの時間がたっている事だけは推測できる。
どんな超人でも息ができなくなったら死ぬしかない。
忍足はジロー同様に頭の中が真っ白になった。


美恵ー!」


「ゆ、侑士、何するんや。死ぬつもりか!?」
謙也が慌てて羽交い絞めをかけた。だが忍足は、その謙也を強引に突き放したのだ。


「ま、待つんや侑士!!」
「待てるか!美恵、今いくでー!!」

沼に飛び込んで凄まじいクロールを披露。
瞬く間に忍足は沼の中央に近づいていった。


「おお、凄いなあ忍足君」
「何、感心してんのや白石!あんな勢い最初だけや、もつわけがない!」
「そうやなあ~今はエキサイティングしてるんけど……泥沼じゃ限界がある」
謙也と白石の危惧した通り、忍足のスピードは明らかに落ちていった。
「お、おい……侑士の奴……沈んでね?」
向日は顔面蒼白になった。実際に忍足の体はどんどん泥に埋もれている。
「ど、どうしよう岳人。美恵だけじゃなく忍足まで溺れちゃうよ!」
皆の心配を余所についに忍足は沼の中央に辿りついた。


美恵ー!!」

忍足は腕を伸ばし、美恵の手を取った。

「も、もう大丈夫やで。まだ生乳しか揉んでないのに、自分に死なれたら困るんや!」

だが、その瞬間、ついに忍足は力尽いた。

「……うっ!」

忍足は果てしない泥の底に引きずり込まれだした。














「な、何だと越前、俺の完璧なデータに穴があると言いたいのか?」
「よく考えてみてくださいよ乾先輩。
これってどう見ても意図的に戻ってきたんじゃなく、嵐のせいで打ち上げられただけっすよ」
「な、何だと?」
自分のデータ(推理)を否定された乾はふらふらと後ずさりしながら座り込んだ。
「……こ、後輩に俺のデータを完全否定されるとは」
「い、乾……元気出せよ」
大石の励ましも乾には効果がないようだ。


「越前、頼むから乾を刺激しないでくれよ……そ、それに乾の推理は一理あるんだぞ」
「大石先輩までそんな事を言うんだ」
「だ、だって越前、これを見てくれよ」
大石が指差した箇所には油性マジックで恐ろしい事が書き込まれていた。




『あの女を殺してやる』




冷静なリョーマの眉が不快そうにぴくっと動いた。
対照的に堀尾は「ひっ」と思わず小さな悲鳴をあげている。


「これを見つけた時は俺もびっくりしたよ」
「見つけたって……イカダを発見したのは乾先輩じゃなかったんすか?」
「俺が魚釣りに来て発見したんだよ」
「ふーん」

リョーマはすっきりしない表情で帽子をかぶり直した。
対照的に堀尾は完全にびびっている。

「え、越前~。ま、間違いないよ、あいつら戻ってきたんだ……ち、血の雨が降るぞ」














「ゆ、侑士ー!!」
沈みゆく忍足の身体がぴたっと止まった。忍足の腕にはロープが絡みついている。
「はよう上がるんや!」
白石が小石にロープを結び付け、咄嗟に投げ縄の要領で投げていたのだ。
「皆も手伝ってくれ」
「あ、ああ!」
全員でロープを引っ張った。
「た、助かっ――え?」
忍足の顔色が変わった。いや、忍足だけでなく、その光景を見ていた誰もが顔色を失った。
忍足が握った手がすっぽ抜けた――のだ。


「……ど、どういう事や……!」


忍足は混乱している頭で冷静になろうと努めた。

「……ち、違う……何や、これは!」

手を投げ飛ばした。人間の手ではない、ただの作りものだ。
ちなみに美恵自身、その手に騙された事など忍足達は知る由もない。
忍足は引き上げられ服が汚れただけで怪我もなかった。
美恵ではなかった事に一同ホッとしたが、同時に新たな問題が浮上した。


「……じゃあ美恵は……美恵はどこに行ったんや?」


大人数で捜索した上に、これだけの騒ぎになったのだ。
この近くにいるはずなら聞こえないはずがないだろう。


「ど、どこに……どこにいるんやー!!」














美恵はそっと瞼を開いた。岩壁が見える。

「……ここ、どこ?」

身に覚えのない場所に美恵は戸惑った。
曖昧な記憶を辿ってみても、こんな場所に来た覚えはない。

「……私は確か底なし沼で溺れて」

沼の底でもないし、かといって天国でもなさそうだ。
上半身を起こし改めて周囲を見渡してみて、ここが洞窟らしいことがわかった。
考えられることは一つだ。あの時、誰かが自分を救出し、ここに運んでくれたのだろう。
あの時、そばにいた人間と言えば――。




突然、恐怖が蘇った。そうだ、自分は殺人鬼を見たのだ!
その途端、全身に冷たい電流が走った。

(あの時、私は溺れたはず……ま、まさか殺人鬼が私を沼から引き上げて……)

だとしたら非常にやばい。今のうちに逃げ出さなければ殺されてしまう。
立ち上がろうとした美恵だったが、その時、自分の今の姿に気付いた。


「……え?」
見えたのは自分の素肌。今の自分は裸、かろうじて下着だけはつけている状態だったのだ。
「ど、どういう事よ……!」
美恵は落ち着いて改めて状況を確認してみた。
自分が寝ている間はバスタオルを布団代わりにかけられていた。
(あいつじゃないわ。あの殺人鬼がこんな事するわけがない)
だとしたら一体誰が……。




「あ、美恵さん、気が付いたんだね」

聞きなれた声に美恵は、ハッとして振り向いた。


「心配したんだよ」
「ゆ、幸村君……!」

美恵は自分の姿を思い出し慌ててバスタオルで体を隠した。

「びっくりしたよ。沼で溺れた君を見掛けた時は」
「じゃあ幸村君が私を助けてくれたの?」
「ああ、そうだよ」
幸村はにっこりほほ笑んだ。


「あ、あいつ、あいつはどうしたの!?」
「え、あいつって?」

幸村はきょとんとしている。

「見てないの?私を襲ったマスクの男」
美恵さん、襲われたのかい?俺は何も見てないよ」
「……そう」


何が何だかわからない。
あれだけ躍起になって自分を殺そうとしたのに諦めて立ち去ったという事なのか?
それとも沈んだ自分を見て、もう目的を遂げたと思い込んだのだろうか?
だが、はっきりしている事は、自分は助かったという事だけだ。
絶体絶命だっただけに美恵は心底ほっとすると同時に重大な事に気付いた。




「あ、あの……あの幸村君……その」
「何だい?」
「わ、私の服をその……」
「ああ、俺が脱がしたけど」
下着姿をばっちり見られてしまった。その事実に美恵はゆでだこのように真っ赤になった。


美恵さん、泥だらけだっただろ。だから汚れた服を脱がせて体を拭いてあげたんだよ。
緊急事態だったから仕方ないよね。大丈夫、俺は全然気にしてないから」
幸村は美恵の傍らに膝をつくと笑顔で「許してくれるよね?」とほざいた。
「あのまま君を汚れたままにしておくわけにはいかなかっただけなんだよ。怒ってる?」
「い、いいえ!幸村君は助けてくれただけだもの」
仕方ないと思いつつ、跡部の怒り狂う顔が脳裏に浮かんだ。


「幸村君、お願いだから景吾には黙っててくれる?」
「跡部にばれても俺はかまわないよ」
「ゆ、幸村君!」
「はは、冗談、冗談、黙っててあげるよ」
(良かった)
いくら命の恩人とはいえ服を脱がされたなんて知られたら、跡部が幸村に何をしでかすかわからない。


「ねえ美恵さん」
「何?」


「これで君と俺だけの秘密ができたね。二人だけの秘密なんて光栄だな、ふふ」


幸村は「お腹すいただろ?ちょっと待っててね」と、洞窟の外に出て行った。
ふと見ると奇麗にたたんだ服が置いてある。




「幸村君、着替えまで用意してくれたんだ」
幸村の服らしい。華奢に見えるが、やはり幸村は男の子、美恵より丈が長い。
でも下着姿に比べたらありがたかった。
「幸村君は本当に優しくて気が利くひとね。景吾に爪の垢を飲ませてやりたいくらいだわ」
幸村が自分を発見してくれて本当によかった。
ただ、あの殺人鬼の事が怖い。もう安心だと思っていただけに、殺人鬼との再会はショックだった。


(私が生きていることがわかれば、必ずまた殺しに来るわ)


今、洞窟の外に出ることは危険だ。あいつに見つかったら恐ろしい事になる。
しかし美恵は大人しく隠れている事などできなかった。
ジローの事が心配だった。ジローの安否だけは知りたかった。
すぐに現場に戻ろうと美恵は走った。
洞窟の入り口に後わずかという時だ、突然真上から何かが落ちてきた。




「きゃあ!」
体ががんじがらめになって動きがとれない。
「何よ、これ」
網だ、網が落ちてきたのだ。


「どういう事よ!」
「どうもこうもないよ、美恵さん」
「ゆ、幸村君?」

幸村が立っていた。

「幸村君、助けて」
「駄目だよ、外に出たら」


「幸村君?」
「さっき言っていたじゃないか、殺人犯にまた襲われたって。だから外に出たら駄目だよ」


「で、でも幸村君、ジローが!」
「芥川なら大丈夫だよ。彼を襲ったトカゲは真田のペットなんだ」
ジローは無事、美恵の心配事は一つ消えた。
「だから安心して美恵さんはここに隠れてた方がいいと思うんだ」
「でも、きっと皆が私を心配して探してるわ」
「そうだね。でも駄目だよ」
幸村はにっこり微笑んだ。


「君だってわかっているはずだ。殺人鬼は冷酷で執拗、君が生きていることを知れば、また襲ってくる。
君の命を守るためにも、あいつには君は死んだと思わせた方がいいんだ」


幸村の言い分は一理ある。美恵自身、自分の生存を殺人鬼に知られるのはまずいと思っていた。
しかし、だからと言って、隠れていれば安全とはいえないだろうし、仲間達に心配をかけたくはない。


「しょうがないよ。敵を欺くには、まず味方からっていうだろ。
君がここにいる事を知っている人間は少ない方がいい。
これからは君の事は俺が守るよ。二度と君に手出しはさせないから大人しくここにいてくれ」
「でも幸村君……!」
美恵は尚も反論しようとしたが、幸村に口を塞がれた。


「……全部、君のためなんだよ。どうしても嫌って言うのなら」


ドンと腹部に鈍い痛みが走り、美恵の意識は薄くなった。
その意識の彼方から幸村の声がぼんやりと聞こえてきた。


――俺が一緒だから何も心配することはないよ。二人っきりで暮らそうね。














次に覚醒した時、美恵は再び洞窟の奥に連れ込まれていた。
しかも先ほどよりもさらに奥だ。その上、格子付き。
そう完全に閉じ込めれたのだ。


「ど、どうして……やりすぎよ幸村君」

いくら命の安全の為とはいえ、これではまるで監禁ではないか。


「幸村君、どこなの?!お願いだから、ここから出して!!」


叫んでも幸村は姿を現さない。
美恵は半ば諦めたように、その場に座り込んだ。
幸村が次に姿を現したら説得して出してもらおう。それしか方法がないようだと観念したのだ。

「……幸村君、どこに行ったんだろう。早く戻ってきてくれないかしら」




「幸村君、どこなの?!お願いだから、ここから出して!!」

その叫び声は幸村に届いていた。

「駄目だよ美恵さん、君は出さないよ。君を守るために仕方ないんだ」

幸村は食事を作るために木の枝をナイフで削っていたところだ。
立海の食糧もすでに全て持ち出していた。二人きりの生活を送るにはしばらく不自由しないだろう。


「奇麗だったよ、君の裸。俺の想像通りだった……俺にとって最高に至福の時間だったよ」


幸村は美恵の肢体を思い出し、うっとりと目を閉じた。


「でもね、美恵さん――」


ボキッ!……ナイフに力を入れ過ぎたため、枝が砕け折れた。




「……同時に最悪の時間だった」




美恵の白い肌には、薄くなってはいたがいくつも跡があった。
それは跡部が刻み込んだ愛のしるし。二人が愛し合った証。
だが幸村にとっては愛するひとを穢された悪魔の痕跡でしかない。


「……跡部、許さない。絶対に許さないからな」




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