しかし背後に気配を感じ真田はナイフを動かす手を止めた。
ぐつぐつと大型土器(真田お手製)の中の水は沸騰中。
いつでも具を入れられる状態となっていた。
「剛丸、獲物を捕らえたのか?」
「ぎゃっぎゃっ」
「よーし一気に放り込め」
真田は振り向きもせず指示を出した。
巨大イグアナは拉致したジローを高々と宙に上げた。
テニス少年漂流記―48―
「だ、誰か……!誰か、助けて!!」
美恵は必死に叫んだ。しかし誰も来ない、無駄な努力に過ぎない。
向日達とは距離がある。どれだけ叫んでも聞こえないのだろう。
だとしたら自力で脱出するしかない。
しかし名案など浮かばない。おまけに時間がなく、どんどん体は泥に飲み込まれてゆく。
(下手に動いたら沈む速度が速くなるわ……!)
冷静になって周囲を見渡した。
そう距離がない位置に木がある。枯れ木だ。
だが何もないよりはいい。美恵は慎重に蔓を枯れ木に向かって投げた。
蔓は木の枝に一瞬ひっかかったが、そのままずるりと落ちた。
心臓がどくんと大きな音を立てた。
気のせいかもしれないが、また一段と体が沈んだような気がする。
チャンスは何度もあるものじゃない、今度は成功させなければ。
美恵は大きく深呼吸をすると再び蔓を木の枝目掛けて投げた。
蔓はくるくると枝を二回転して止まった。よかった、何とか成功した。
だが蔓をちょっと引っ張っただけで折れそうな気配がする。
現状維持が精いっぱい。この方法で脱出を試みるのは無謀だ。
(他の方法を考えないと……駄目だわ、何も思いつかない)
肌にまとわりつく泥がいやに冷たかった。
「……んー?」
ジローは目覚めた。その目に入ったのは煮えたぎったお湯。
「……へ?」
「ぎゃぎゃっ」
「えーと?」
ジローは突然の事すぎて自分の今の現状が把握できなかった。
ただ宙に浮かんでいるような感覚だけがあった。
「危ない芥川先輩!」
ジローは地面の上に放り出された。
見上げると樺地が巨大トカゲに羽交い絞めをかけている。
「な、何事!?」
ようやく真田が振り向いた。
「おまえ達は氷帝、なぜここにいる!?」
真田は考えた。そして一つの結論に達した。
「さては俺のご馳走を横取りしようとたくらみおったな!!」
真田は盛大な勘違いをしていた。
(ジローは大丈夫かしら?)
美恵は祈った。皆が自分達が消えたことに気付き探してくれていると。
しかし、あれから何度も叫んだが助けが来る気配は一向にない。
(誰も目印に気付かなかったのね。どうしよう……)
このままでは遅かれ早かれ底なし沼の餌食になる。
「……どうしたら」
その時だ!がさっと音がしたのだ、美恵が歩いてきた茂みの方角から。
さらに此方に近づく足音が聞こえてくる。
(岳人か樺地君だわ!)
美恵の沈んだ気持ちに希望という名の灯が燃え上がった。
足音が大きくなるたびに美恵は安堵した。もう大丈夫だ。
「ここよ!私はここにいるわ、早く助けて!!」
精一杯の声を上げて叫んだ。もうすぐだ、もうすぐ助かる、もう大丈夫だ。
そして足音の主が美恵の前に姿を現した。
「なんだ剛丸、おまえ芥川を獲物と勘違いしたのか?」
「ぎゃぎゃぎゃ」
「柔らかくて見るからに美味そう?うむ、確かに……よく見るといかにも適度な草食動物」
ジローは身の危険を感じて樺地の背中に隠れた。
「お、俺、まずいC」
「ぎゃぎゃぎゃ」
「何?剛丸はそんな事ない試させろと言っているぞ」
「かばじー!」
「……芥川先輩は食べ物ではありません」
「うーん、そう言われてみればそんな気もしてきた」
「それよりも美恵先輩を見掛けなかったですか?」
ジローは(危機一髪ながらも)無事だった。
しかし美恵は今だ発見できず、樺地は悪い予感がしていた。
「剛丸、おまえ天瀬を見なかったか?」
「ぎゃぎゃぎゃ」
「自分達の後を追ってきたと言っている。しかし途中でまいたらしい」
「どこで?教えてください」
「剛丸は芥川と引き換えに教えてやってもいいと言っているぞ」
「そ、そんなあ!!」
ジローは泣きたくなった。
「……真田さん、一緒に探してくれませんか?嫌な予感がするんです、先輩に危険が迫っている」
「……うーん。確かに人命は尊い」
「真田、どうしたんじゃ?」
川魚を手にした仁王と丸井が登場した。
「幸村はどうした?」
「うむ。幸村なら用事があると言ってどこかに消えたきりだ。そういえば、やけに帰りが遅いな」
「……そ、そんな……そんな事って」
美恵は自分の目を疑った。
目の前にいるのは黒服にハロウィンの絶叫マスクをかぶった怪しいいでたちの怪人。
忘れるはずがない。あの殺人鬼だ。
(そんな……だって不動峰はもうここにはいないのよ!
もう、こいつは現れないはずじゃない。どういうことなの!?)
美恵は混乱した。危機的状況から幻覚を見ただけだと思いたかった。
ぎゅっと目をつむり再び目を開いた。
「……いない」
殺人鬼の姿は消えてきた。
(……やっぱり幻を見ただけだった)
こんな状況なのに思わずホッとしたのも束の間、バキッと不吉な音が聞こえた。
「枝が……!」
命綱である枯れ木の枝が折れた。普通に折れたわけではない。
「テニスボール……!」
テニスボールが枝にヒットしたのだ。
頭部だけを後ろに向けるとラケットを手にした殺人鬼が立っているのが見えた。
「誰か……!」
再び体が沈みだした。もう自力で止めることはできない。
溺れる者は藁をもつかむ。
美恵は必死に手を伸ばし、そばに浮かんでいる木の枝を掴もうとした。
そんなもので何とかなるとは思えないが、今の美恵には冷静に判断する事すらできない。
「た、助けて……け、景吾!景吾、助けて!!」
自然と跡部の名前を口に出していた。
その途端、殺人鬼が怒涛のごとくボールを打ってきた。
美恵が掴もうとした木の枝にヒットし粉砕。
その後も怒り狂ったようにボールを、ボールが尽きると今度は小石をボールに見立てて打ち込んでくる。
「や、やめて!私に何の恨みがあるのよ!!」
恨み、そう恨みだ。その殺人鬼の様子は異常だった。
あきらかに激怒して感情的になって美恵に攻撃を仕掛けている。
殺人鬼の殺気をはっきり感じ美恵は心底ぞっとした。
(……も、もう……駄目)
視界が泥で真っ黒になった。美恵はついに沼底に引きずり込まれた――。
「美恵ー!」
「美恵先輩、どこなんですか!」
ジローと樺地は必死に美恵の名前を呼んだ。
真田と仁王も探してくれたが影も形も見えない。
「ど、どうしよう……もし美恵に何かあったら」
ジローは泣きそうになっている。
「……芥川先輩」
「跡部に何て言えばいいんだよ。もしも美恵が見つからなかったら……!」
「……芥川先輩!」
樺地の口調が一瞬きつくなりジローははっとして樺地を見上げた。
青い顔をして樺地がある方向に指をさしている。
その方角に視線を向けると沼があった。そして沼の中央には――。
「……え?」
水面から何かが出ている。泥にまみれているが、それはある形にとてもよく似ていた。
「……あ、あれって……まさか」
ジローはゆっくりと歩き出した。近づくにつれ、その何かの形がはっきりとわかってきた。
その度にジローの心臓は不吉な鼓動を奏でた。
「……あれって……人間の……手?」
間違いない、人間の手だ。ぴくりとも動いていない人間の手なのだ。
そのそばにハンカチが浮いている。ジローはそれに見覚えがあった。
『ジロー、汗かいてるわよ。これ、使って』
ほんの数十分前のやりとりが鮮やかに脳裏に蘇る。
同時に最悪の結果が絶望という形となってジローの心に落ちてきた。
「……美恵」
ジローは沼に飛び込んだ。
「うわぁ美恵ー!!」
「な、何をするんじゃ、落ち着け!!」
仁王が咄嗟に止めなければジローは底なし沼の犠牲者になっていただろう。
「は、離せ、離せよ!助けないと、美恵を助けないと!!」
「馬鹿な事して、おまえまで死ぬ気か、目を覚ますんじゃ!!」
ジローは完全に理性を失っている。
ショックで立ちすくんでいた樺地は、そんなジローを見て我に返った。
「先輩、自分が何か道具を持ってきますから落ち着いてください」
樺地は巨体に似合わぬスピードで元来た道を全力疾走した。
「お、樺地。なあ美恵とジロー見つかったか?」
「向日先輩、大変なことになりました。すぐにロープを」
樺地のただならぬ様子に向日はすぐに何かあったのだと悟った。
「どうしたんだよ!?」
「美恵先輩が底なし沼に落ちたかもしれないんです」
「はあ?何だよ、それ!」
「自分達は美恵先輩を助けます。向日先輩は皆に知らせてください」
「ああ、わかった!」
向日は仲間に一大事を知らすため全速力で走った。
「……乾か」
乾はいわば不動峰犯人説を裏付けた証人といってもいい。
嘘をつく必要もない以上、その証言は信じていいだろう。
「そうっすね。これが不二先輩なら、不動峰に罪をなすりつけてると思うところですけど」
リョーマは他校の者が遠慮して言えないようなことをさらっと言ってのけた。
「乾先輩は電波ですけど美恵さんを殺す理由なんてないですからね」
リョーマは乾を弁護しつつ、「ただ……」と続けた。
「真犯人に利用されたってことは十分考えられよ。あの人、根は単純だから」
テニスにおいてはデータと取る側の人間。
しかし乾の性癖を知り尽くしている人間から見れば、乾はある意味単純で行動が読みやすい人間でもある。
乾のことだ。不謹慎な事だが一連の事件のデータを取りたくてうずうずしてたとしてもおかしくない。
殺人に走ってしまう人間の心理というのは、ある意味心理学において最も興味深い分野なのだ。
だからこそ主のいなくなった不動峰の根城に赴いたのだろう。
「まあ十分考えられるなあ。真犯人が不動峰以外にいるとして仮定すると、自分の罪を着せる生贄が必要や。
美恵ちゃんの殺害に何度も失敗した上に跡部達の警戒が強まったんは犯人にとって痛いやろう?
俺は真犯人がもしいたら、そいつは美恵ちゃんを襲う動機がありすぎる男やと思う。
そんな男が不動峰を犯人やと断定する物的証拠持ち出したところで信用されへん。
それどころか自分が犯人ですと白状してるんも同然や。だから利害に関係ない第三者の証言が必要やったんや」
白石の推理は実に的を得ていた。
ただ、それはあくまでも仮説の域をでない架空の話にすぎない。
何の証拠もないし、再び美恵が殺人鬼に襲われでもしない限り、ただの空物語なのだ。
「た、大変だ!!」
「ん?」
足音と絶叫が同時に近づいてくる。忍足達は声の方角に視線を向けた。
「た、大変だ、大変だー!!」
またしても絶叫。今度は反対方向から、しかも忍足になじみ深い声だった。
「岳人、岳人やないか。どないした!」
「大変だよ侑士!!」
向日が息を切らして駆け寄ってくる。
「え、越前ー!大変だ、戻ってきた、殺人鬼が戻ってきちゃったんだよー!!」
「落ち着けよ堀尾、まだまだだね」
「おまえが落ち着きすぎなんだよ!
い、乾先輩が……乾先輩がとんでもねえもん浜辺で発見しちゃったんだよ!!」
乾の話をしている時だっただけにリョーマ達は少々動揺した。
だが、それを遮るように向日が叫んだ。
「乾だか犬だかしらなねえけど、こっちはそれどころじゃねえんだよ!!
美恵が……美恵が大変なんだ!!」
「何やて!?」
忍足は美恵の名前に敏感に反応した。
「何があったんや!?」
「あいつ底なし沼に落ちたらしいんだ。早く助けないと命が危ない、おまえらも手伝ってくれよ!!」
「あほ!それを早く言え、どこや!早う案内するんや!!」
「あ、ああ、こっちだ」
「謙也、行くで!」
忍足と謙也は向日の先導であっという間に姿を消してしまった。
「大変な事になった。四天宝寺も駆けつけて助けてやらんとな。
そっちの一年坊主の話は同校のよしみで越前が訊いてやってくれ」
白石も仲間を連れて忍足達の後を追った。残されたリョーマは堀尾に訊ねた。
「何があったんだよ。変なこと言ったよな、殺人鬼が戻ったって」
「そ、そうなんだよ!戻ったんだよ、あいつらが、あの殺人鬼達が!」
堀尾は例の事件の犯人は不動峰だと信じている。
当然、殺人鬼とは彼等の事に他ならない。
「不動峰を乾先輩が見たのか?」
「い、いや、本人たちを見たわけじゃなくて。浜辺にあいつらのイカダが打ち上げられてるのを発見したんだよ」
「あいつら航海に出たと思わせてこっそり戻ってたんだ!
また殺人が始まるかもしれないって乾先輩が言ったんだよ!!」
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