跡部は目覚めると、美恵のベッドを隔てているカーテンをそっと持ち上げた。
美恵におはようのキスをしてやる心積もりだったのだ。だが肝心の美恵の姿がない。]
「美恵……!」
――あいつ、自分が狙われているのに!
「馬鹿野郎、てめえらいつまで寝てる!美恵が行方不明だ、さっさと起きろ!!」
跡部は宍戸や向日を片っ端から叩き起こした。
「おい、落ち着けよ跡部」
「これが落ち着いていられるか!早く美恵を探しに行け!!」
跡部は飛び降りるように吊り梯子を伝わり地面に駆け下りた。
テニス少年漂流記―43―
「おはよう景吾、朝食の用意できてるわよ」
美恵はテーブルの上に食器を並べていた。
「はいタオルと石鹸」
洗濯が行き届いたふかふかのタオルを渡され洗顔を促される。
だが跡部はそれを放り投げると美恵を抱きしめた。
「馬鹿野郎、心配かけさせやがって!!」
「ちょっと景吾、痛いわ」
「俺のそばから離れるなと言っておいただろうが!!」
「落ち着いてよ。だから離れてないじゃない」
「馬鹿か、昨日拉致されかけたこともう忘れたのか!?
離れないってのは俺様の手が届く場所からいなくなるなということなんだよ!!」
「……景吾」
心配してくれる気持ちは嬉しい。美恵は跡部の背中に手を回した。
「……大丈夫よ。だって鳳君や樺地君が一緒だもの」
ハッとしてみると2人がジッと此方を見ていた。
跡部は見せ付けたくて、反射的にキスしようとしたが美恵はさすがにそれは拒んでしまった。
「私だって馬鹿じゃないもの。一人にはならないわよ。
それに景吾達、昨夜は作業しててあまり寝てないでしょ。だから起こしたくなかったの」
跡部達は美恵の身を守るべく深夜までツリーハウスの周囲にあらゆる仕掛けをした。
例えば釣り糸を張り、誰かがその糸に脚を引っ掛ければ空き缶が盛大に騒音を奏でるトラップなどだ。
こうして美恵を守る為に万全の準備をしたのだった。
「それに鳳君や樺地君は、ずっと私のそばにいて守ってくれたのよ。
ここは氷帝の根城みたいなものでしょ?見付かれば、どんな目に合うか。
いくら無謀な殺人犯だって、そんな危険犯してまで来ないわよ」
「……俺もそう思いたいぜ」
相手が普通の人間なら怯んで美恵に近付いたりはしないだろう。
だが常軌を逸した殺人鬼なら話は別だ。跡部は心配で仕方なかった。
「私も命は惜しいから絶対に一人にはならないわ」
「……ついでに俺の腕の中からもいなくなるな」
どさくさに紛れて都合のいい事を言っている跡部だった。
「さあ朝食にしましょう。景吾、顔洗ってきて」
「ああ」
宍戸達も降りてきた。揃って近くの泉に行こうとした、その時だった。
ガラガラガラー!!
「!!」
跡部達の表情が一瞬に険しくなった。何者かが氷帝のテリトリーに侵入したのだ。
「樺地、美恵が目を離すな!」
跡部は走った。宍戸や鳳も、その後に続く。
「ふ、不二、待ってくれ!!」
大石が必死に不二を説得するも、不二は聞く耳持たずで鞄に食料を詰め込んだ。
「単独行動とりたいなんて無茶だ。この島は危険なんだぞ、あの手塚ですら今だ行方不明なんだ。
俺は副部長として、これ以上大事な仲間を失いたくは無い。考え直してくれ!!」
「僕は一人になりたいんだ」
「……ふ、不二」
不二は大石の手を冷たく払いのけた。
「ふ、不二……頼むから、もう一度だけ考え直して……」
大石の頭からスパーンと小気味いい音がした。
「お、大石ー!」
菊丸が青くなって大石に駆け寄る。不二はラケットを手にうずくまる大石を冷たく見下ろしていた。
「……僕の傷ついた心が仲間なんかに癒せると思ってるの?
もう僕はどうでもいいんだよ……お仲間ゴッコは君達だけでやってよ」
不二は青学から去った。一度も振り返らなかった。
しかも不二は青学の貯蓄食料をほとんど持参していったのだった――。
「大石、大丈夫?」
「……不二はもう止められない。こんなことになったのも彼女のせいかもしれない。
逆恨みかもしれないけど、天瀬さんさえいなければ不二は狂うことはなかったと思う」
一連の出来事を少し離れた場所からリョーマは見ていた。
「甘いっすね大石先輩。あのひとは狂ったんじゃない。
はじめっから人間としての根っこがいかれてるんだよ」
「き、切れない!」
トラップに引っ掛かり慌てて逃げようとした途端、網が飛んで来た。
哀れにも不法侵入者は囚われの身。
何とか逃げ出そうともがいているが、簡単に逃げられるような罠を仕掛けるほど氷帝は甘くない。
「つかまえたぞ殺人野郎!てめえは処刑だ!!」
跡部は拳銃を取り出し銃口を向けた。
「い、嫌、殺さないで!!」
網の中から悲鳴が聞こえた。女の声だ、跡部は一瞬躊躇した。
「跡部、撃つな!」
宍戸が跡部の腕をつかんで制止をかけた。
「橘の妹だ」
罠にかかっていたのは不動峰の橘杏だった。
「本当に氷帝って野蛮なのね!」
杏はふくれっつらで美恵の手当てを受けた。
「不法侵入者の分際で偉そうな口きくんじゃねえ!かすり傷くらいでふんぞり返りやがって!!」
「景吾!」
美恵が非難めいた声を上げると、跡部は渋々引き下がった。
「跡部じゃないが、何でおまえここに来たんだよ。怪しまれても仕方ないぜ」
宍戸が質問した。
「別に来たくて来たわけじゃないわよ!食料探してたら迷っただけ。
氷帝のテリトリーだって知ってたらこなかったわよ」
杏は氷帝にいい感情を持ってないようだった。跡部が橘にしたことを思えば無理もない。
「橘さん、食料のとり方だけど私でよければ教えるわよ」
「美恵!」
今度は跡部が非難めいた声を上げた。
「てめえは自分の立場がまだわからねえのか。こんな時に他校の心配なんかしてる場合じゃないだろ!」
「こっちだって氷帝の情けなんか受けないわよ!」
杏は激昂すると、さっさと帰ってしまった。
「景吾、女の子にあんな冷たい態度とらなくてもいいじゃない」
「あーん、じゃあ、てめえは俺様が他の女に優しくしてもいいってのか?」
跡部は美恵の肩を抱き寄せると、耳元でさらに囁くように言葉を続ける。
「俺様にベタ惚れのおまえがそんな事ゆるせるのか?」
「ちょ、ちょっとどこに手を入れて……!」
跡部の狼藉は宍戸がわざとらしく咳払いするまで続いた。
「でも先輩は幸せ者ですよ、部長にあんなに愛されて。
俺だってたまには宍戸さんに、あんなこと言われてみたいですよ」
「鳳君まで、そんな事いわないでよ」
危険な状況でも食料調達だけはかかせない。
美恵は鳳、日吉、ジロー、そして跡部と供に果物を取りにきていた。
氷帝はこの島で、どこにどんな食料があるのか、誰よりもわかっている。
ツリーハウスから最も近い食料探索場所は、この自然の果樹園だったのだ。
往復で20分ほどの距離、すぐに帰ってこれるだろうという跡部の判断だ。
「バナナがいっぱい。ねえ美恵、ドライフルーツ、また作ってよ」
「ええ、いいわよジロー」
料理上手な美恵は取りすぎた分は干して保存食にする。
氷帝が他校と違い飢えとは無縁なのは、間違いなく美恵のおかげだった。
跡部は注意深く周辺への警戒を怠らない。そして十分果物を採って帰ろうとした時、異変が起きた。
「何、あの煙!?」
黒煙が迫ってくる。美恵達はすぐに口を押さえた。
「め、目が痛いよ!」
「ジロー、大丈夫?!」
煙が目に入ったらしい。跡部達は……煙にまかれて姿が見えない!
「景吾、鳳君、日吉君、皆どこ!?」
「美恵、こっちだ!」
声は聞こえる。人影らしきものが見え、美恵はジローの手を取り走った。
「こっちだ美恵!」
人影が手を振りながら走っている。
「ジロー、頑張って。景吾が誘導してくれているから大丈夫よ」
「う、うん」
美恵はジローの手を握りながら全力疾走した。
風が吹き、ようやく煙が晴れ辺り一帯の景色が再び視覚に焼き付いた。
「美恵、美恵、どこだ!!」
跡部は声が枯れるくらい叫んだ。だが、どこにも美恵の姿がない。ジローもだ。
「どこに行ったんだ、美恵、美恵ー!!」
鳳と日吉も必死に美恵とジローの名を呼んだ。だが、やはり2人は姿を現さなかった。
「景吾?」
美恵はふいに立ち止まった。何かがおかしい。
「美恵、どうしたの?」
ジローがきょとんとしながら目を開いた。まだ真っ赤で痛そうだ。
「……景吾?」
美恵は恐る恐る声をかけた。
「景吾……なんでしょ?」
美恵の中で疑惑が芽生え出していた。
「こっちだ美恵!」
先ほどと全く同じ台詞。その瞬間、疑惑は確信に変わった。
同時に煙が晴れる。姿を現したのはテープレコーダーを手にした黒服の男だった。
「あ、あいつ……あいつだわ!」
忘れもしない。あのふざけたハロウィン的仮装、昨日美恵を襲った奴だ。
「ジロー、逃げるのよ!」
美恵は向きを変えると走った。だが不運にもジローが石に躓いてしまった。
「ジ、ジロー!?」
「美恵、俺にかまわず逃げて!」
そんな事できるわけない。かといって殺人鬼と真っ向から戦う術もない。
結論を出す暇もなくナイフを掲げた殺人鬼が襲い掛かってきた。
「ジローには手を出さないで!」
美恵は土を手にすると殺人鬼の顔目掛けて投げつけた。
殺人鬼は絶叫マスクをつけていたが、目に命中したようだ。
顔を抑え痛がっている。逃げるチャンスが生まれた。
「さあジロー!」
美恵はジローを立たせると再び走り出した。
しかし殺人鬼も追ってくる。すごいスピードだ。
前方に岩壁が見えてきた。行き止まりだ。
追い詰めたとばかりに殺人鬼がジャンプしていた。
「ジロー、こっちよ!」
美恵はジローの肩に腕を増すと急遽Uターン。殺人鬼は勢いあまって壁に激突。
「やったわ!」
さすがにダメージは大きいだろうと美恵は思った。
が、殺人鬼は起き上がると再びナイフをかざしながら突進してくる。
「な、何てタフな奴なの!」
美恵はジローを脇に突き飛ばした。奴の狙いは自分だ、ジローを巻き込みたくは無い。
「こっちよ、さあ追って来なさいよ!」
石を投げつけてやった。殺人鬼は頭にきたようだ、逃げる美恵を追ってくる。
(ジロー、今のうちに逃げて!)
美恵も体力には自信がある。あんなカーテンのような動きづらいファッションでは此方が有利だろうと考えた。
ところが殺人鬼の速度は一向に落ちない。それどころかスピードを増している。
(お、追いつかれる!)
ついに殺人鬼が振り下ろしたナイフが美恵の肩をかすめた。
「きゃあ!」
服に裂け目ができた。幸いかすり傷だが、肉体的ショックより精神的ショックの方が大きい。
おまけにバランスを崩した美恵は盛大に転倒した。すぐに立ち上がろうとするも足首に激痛が走る。
(足をひねった……もう走れない)
殺人鬼もそれに気づき余裕綽々でゆっくりと近付いてくるではないか。
「……い、いや」
美恵は後ずさりするも、そんなことで殺人鬼から逃れられるはずはない。
絶体絶命だった――。
「死ねえ!」
(景吾!)
ナイフが振り下ろされる。美恵はギュッと目を瞑った。
「おのれええええー!!」
「ぎゃおおおああー!!」
「え?」
だが、予想外の事が起きた。茂みの向こうから何かが飛び出してきて殺人鬼に体当たりしたのだ。
「さ、真田君!?」
それは巨大イグアナと絡み合っている真田だった。
「美恵、どこだ!!」
跡部の声がきこえる。美恵は渾身の力を込めて叫んだ。
「景吾、皆、ここよ!!」
足音が近付いてくる。殺人鬼は踵を翻すと逃げ去っていった――。
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