仁王は言葉も出なかった。そんな仁王を無視して幸村の弁舌はさらに切れを増す。

「赤い糸なんて脆いものさ。人間を最も呪縛するのは罪の意識、黒い糸だよ。
美恵さんには俺と殺人共犯者という断ち切れない糸で結ばれてもらうよ」
「…………」


「跡部が俺と彼女の邪魔するだろうけど、何問題ないさ。ここは無人島、1人くらい行方不明になる方が自然だしね」


「そうと決まれば後は決行日時だけだね。俺としては勝負は早めにつけさせてもらいたい。
だってあの女癖の悪い跡部が大人しく美恵さんとプラトニックな愛情を育むとは思えないだろ?
彼女を穢される前にやらなきゃ意味がないんだよ。美恵さんの体力が戻り次第やろう。
ところで仁王、さっきから何馬鹿みたいな顔してるのさ。これから忙しくなる、油売る暇はあげないよ」


「……幸村」
「何?」
「……お、おまえは……俺に……俺に死ねというのか?」
「何それ?」

幸村はあからさまに不機嫌な表情になった。


「俺の為に死ねないっていうの?」




テニス少年漂流記―39―




美恵は跡部の手厚い看護の元、徐々に体力を回復していった。
三日もたつと完全に以前のように元気になって忙しそうに働き出した。
美恵、心配したんやで!」
「しつこいんだよ忍足!」
「痛っ!何で邪魔するんや跡部!」
そんな漫才じみた光景も再び見られるようになった。
しかし跡部も忍足も美恵の前では平静を装っているが内心ぴりぴりしている。
一度ならず二度までも美恵が殺されかけたのだ。何か安全策を立てなければいけない。


美恵ちゃん、こんにちは~」
「千石君、久しぶり」
「いつ見ても綺麗だね。ねえ今度俺とデートしな――」
千石の背後に二つの殺気。千石は「……な、なーんてね。冗談だよ、冗談」とすかさず前言撤回だ。
「千石、てめえ何しにきやがった。冷やかしなら帰れ」
「跡部、お願いだよ。俺をここに置いてくれ」
「はあ?何を寝言いってやがる」
「お願いだよ。立海は雰囲気凄く悪くなってて怖いんだよ!
おまけに真田はすぐに鉄拳制裁してくるし、俺もう耐えられないんだよ~」














杏は木の実を石で叩き潰していた。ふと見上げると伊武が立っている。
「伊武君、何か用?」
「……杏ちゃんに客が来てるよ」
「客?」
それは不二だった。少し離れた場所から「やあ」とエンジェルスマイルを披露している。


「不二さん。あたしに用って何ですか?」
「ここじゃあ何だから」
不二は杏を連れ出し森の奥に。
「あの不二さん、ひとに聞かれちゃ困る話なんですか?」
「別に。聞かれて困るのは君の方じゃないかな?」
意味ありげな言い方に杏は不安になった。

「……それ、どういう意味ですか?」
「これ。洞窟の中で見つけたんだ」

不二の掌の上には髪止めのアクセサリー。それを見て杏は愕然として目を大きく開き、不二は笑顔を再披露した。














「じゃあ跡部は美恵ちゃんと付き合うの?」
「付き合うどころか結婚するぜ」

跡部は不敵な笑みを浮かべてで言った。

「結婚?!」
「ああ、結婚を前提とした仲だ。だから千石――」

跡部は千石の胸倉をつかむと「あいつにちょっかい出すんじゃねえぞ」と念を押した。
千石は無言で何度も頷いたが、内心不思議でたまらなかった。


(そりゃ美恵ちゃんは美人だから手に入れたいって気持ちわかるけど結婚?
跡部くらいハンサムで金持ちなら色んな女の子と遊べるのに今から1人の女で我慢するのか?
わっかんないなあ。独身で学生の今が一番遊べるってのに。せっかくの青春なんだから楽しまないと損だよ)


「てめえ、今遊ばなかったら青春無駄だくらいに思ってやがるだろ?」
「ええ!跡部ってエスパーだったのか?!」
「そんなわけねえだろう。ちょっとカマかけただけで簡単にひっかかりやがって。
とにかく、そういうわけだから俺はあいつの周りにこれ以上男がいるのは嫌なんだ」
「そんな跡部~、立海は超軍制で俺耐えられなくて逃げ出したんだよ。頼むからここに置いてよ」
「1人でいるのが嫌だったら青学に行け。てめえの大好きな女も3人もいるだろ」
「それが真田が先回りしてて『脱走兵が来なかったか?』って凄い剣幕で怒鳴ってたんだよ。
あそこはもうダメだ。匿ってくれよ、1人でいたら狼に襲われるよ。
この島は食料は豊富だけど狼なんて危険動物がいて本当にまいったよ」
「だらしのない野郎だな。向こうの島でも狼はいたんだろ?」
「いないよ。あっちは小島だっただろ。その代わりに危険な動物はいなかったんだ」
跡部の目の色が変わった。


「おい千石、おまえの頼み場合によってはきいてやってもいいぞ」

その数十分後、千石はなぜか大人しく立海に戻っていった。
真田の鉄拳制裁は恐ろしかったが、後々この島で優雅に暮らすために今は忍耐することにしたのだ。














「……幸村、話がある?」
「何?」

「……俺は……俺は死ぬのは嫌じゃ!」

それは仁王の心の叫びだった。幸村は顔色一つ変えていない。
ここ最近の仁王の様子がおかしかったので、こうなることは予想していたのだろう。

「……ついてきなよ」

幸村は手にしていた本を閉じベッドの傍らに置くと立ち上がった。




「幸村、考え直してくれんかの?いくらなんでも、こんなやり方は……」

仁王はダメもとで幸村に懇願してみた。命がかかっているのだ。
かといって今まで散々幸村の悪事に加担してきた以上、自分と幸村は一蓮托生。
幸村から逃げる事などできないし、まして他の人間に助けを求めることなどできない。
今さら跡部に全てを話したところで、おそらく激怒した跡部に殺されるだろう。
幸村に改心してもらうしか仁王の生きる道はなかった。


「そうだね。俺もあれから色々考えたんだよ。おまえが命惜しさに俺を裏切らないともいえないしね」
幸村はどんどん洞窟の奥に向かい歩いていく。仁王は大人しくその後についていく。
「小さなほころびも俺は許さない。そんなものの為に足元を掬われたくないんだよ」
「じゃあ今回の作戦は……」
仁王の胸に微かな希望が芽生え始めた。やがて行き止まりに辿り着いた。
「……ん?」
白いシーツが被せられた物が無造作に置かれていた。


「だからこいつを用意した」


幸村はそのシーツを引っ張った。

「んががー!!」
「お、おまえは!」

シーツの下から現れたのはさるぐつわをされ、ロープで拘束された海堂薫だった。

「ゆ、幸村、これはどういうことじゃ!?」
「どうもこうもないよ。おまえが悪いんだよ、死にたく無いなんて我がまま言うから。
だから身代わりを用意したんだ。この坊やは柳生と入れ替わった実績がある。
柳生と入れ替われるということは、つまり仁王、おまえもこの坊やに変装できる。そうだろ?」
「……そ、そうじゃが……ま、まさか幸村……」
「そうだよ仁王、この坊やに変装した上で美恵さんを襲うんだよ」
「……!!」
仁王は絶句した。しかし、それ以上に海堂は恐怖で固まっているが叫び声すら上げられない。

「隙をみてこの坊やの死体とおまえが入れ替われば誰も傷つかない。それなら文句はないだろう?」
「……ゆ、ゆき……む……」

「これ以上俺に無理難題押し付けたら許さないよ」




そんな恐ろしいやりとりを盗み聞きしていた人間がいた。それは千石だ。

『スパイ?』
『そうだ、何でもいいから幸村の弱味を探って来い。そうしたら、てめえがこのツリーハウスに住む事を許可してやる』
それは跡部との間で交わされた秘密の約束だた。


(ひいいいい……と、とんでもない事聞いちゃったよ)

跡部に密偵を命じられたはいいが、どうしたらいいかわからず洞窟の奥で涼んでいた千石。
偶然とはいえとんでもないことを聞いてしまった。
今見付かったら間違いなく殺される。必死に息を殺し幸村達が去っていくのを待った。
ようやく彼らが立ち去ると千石はその場に崩れるように仰向けになった。

「……こ、怖かった……でも凄いスクープだ。早速跡部に報告しないと」














「……そうか幸村がそんなことを」
「やばいよ跡部、あいつマジ怖いって。命は一つしかないんだから、いっそ美恵ちゃんを諦め――」
跡部の形相が鬼神へと変化した。

(ひいいい!跡部も同じくらい怖い!!)

「わかってるだろうと思うが千石、この事は他言無用だ」
千石は言葉がだせず、ただ何度も頷いた。
「おまえが話のわかる男でよかったぜ」
跡部は財布から万札を数枚取り出すと床に投げ捨てた。
「帰国したらデート代にでも使っておけ」
「いやあ、どうもありがとう」
「明日からこっちに住んでいいぞ。おれのベッドを使え」
「え、でも、そうしたら跡部が困るだろ?」
「俺はいいんだ」


――やるじゃねえか幸村。だが、もうそんな陰謀は何の意味もねえんだよ。









「できた」
美恵は味見皿をおくと、鍋をテーブルに移し皿にスープをよそった。
「おい美恵話がある」
「話?夕食の後じゃいけないの?」
跡部は何だか神妙な面持ちだ。その背後に立っている樺地も何だか様子がおかしい。
「おまえの私物を今すぐ持って来い」
突然の妙な申し出に美恵はきょとんとなった。
「旅行用の鞄に全部詰めていただろ」
「え、ええ私の私物は全部……でも、どうしてそんな事いうの?」
「いいから持って来い。大事なことなんだ」
美恵は不思議に思いながらも言われた通りに鞄を持ってきた。


「よし行くぞ」
跡部は美恵の鞄を持ち、懐から封筒を取り出すとそれをテーブルの上に置いて歩き出した。
何が何だかわからないが美恵は跡部についていく。やがて太陽は完全に西の海に沈み辺りは暗闇に包まれだした。
狼の活動時間になろうとしているのに跡部に戻る気配は無い。
「景吾、そろそろ戻らないと危険だわ」
「安心しろ。もうすぐだ」
辿り着いたのは海岸。そこにあったのは船、2、3人ほどしか乗れない小型サイズの船だった。
ここ数日、跡部の蜜命で樺地がこっそり作っておいたものだった。


「景吾、どういう事?」
「俺とおまえはしばらくあっちの島に住む。千石たちが以前暮らしていた島だ」
「え!?」
当然の事ながら美恵は仰天した。あまりにも予想外で唐突すぎる。
「何十人もの人間が暮らすには不向きな小島だが俺達2人なら問題ない。行くぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ景吾。そんな急に……それに皆に黙って行くなんて」
「置手紙してきたから大丈夫だ。さあ来い」
「そんな冗談じゃないわ。こんな勝手なこと――」
跡部は軽く舌打ちすると美恵の鳩尾に拳を入れた。美恵は小さくうめくと意識を失い跡部の腕の中に倒れた。
美恵を抱き上げ船に乗ると跡部は樺地に「後は頼む」と言った。
「……うす、後の事は任せてください」
月明かりだけを頼りに跡部は樺地お手製の船で小島に向かった――。














「『俺様はもう誰も信用しねえ。誰が美恵を殺そうとしているのかわからない以上、俺達は2人っきりで隠れ住む事にした。
それが一番安全だからな。その為に都合のいい新しい洞窟も見付かった。
だから俺達のことはそっとしておきやがれ。追伸、千石をしばらく置いてやれ』……ふざけんやな!!」


跡部が残した手紙は忍足の手によって一瞬でびりびりに引き裂かれた。
「宍戸、どこや。跡部はどこに行ったんや!?」
「お、落ち着けよ忍足。俺だって初耳なんだよ」
「樺地、自分なら知ってるやろ!」
「……自分は何も知りません。知っていたとしても言えません」
樺地は生まれて初めて嘘をついた。


「何が一番安全や!危険、危険や。最大級の赤信号や!!
羊と狼を同じ檻にいれるも同然や。美恵が、俺の美恵の操が!あかん、耐えられん、探しに行ってくる!!」


忍足は武器と松明を持って走り去って行った。
「……あの様子だと他校の人たちにも2人が失踪した事が知れ渡って大騒ぎになりますよ」
「普段はクールなくせに、あいつも普通の男だったんだな」
「恋をすると誰でもああなりますよ。俺だって宍戸さんがいなくなったら……」
「……は?」
鳳が予想したとおり、青学や立海にもあっという間に2人の失踪が知られた。
そして大騒ぎになった。正確にいえば不二や幸村が半狂乱になって周囲は恐怖に震え上がったのだ。




「探せ、探すんだよ!もし彼女の身に何か間違いが起きたらわかってるだろうな!」

金切り声を上げる幸村。真田は彼の肩にぽんと手を置いた。
「何を焦っておる幸村。間違いもなにもしばらく2人だけで暮らすだけなら問題はなかろう?」
男女の関係に疎い真田の言葉は幸村の神経を刺激した。

「うるさい、この生涯童貞野郎!!」

怒りは人間の肉体を鋼鉄と化す。幸村のパンチを顔面に受けた真田はその場で意識を失った。




「僕の美恵さんを跡部が拉致しただって?!」

不二は愕然となり、その場に座り込んだ。ショックのあまり開眼している。
「不二先輩、しっかりして下さい。拉致って大袈裟な、たまには2人っきりになりたい時もあ――」
余計な事を言ってしまった桃城は次の瞬間血の海に沈んでいた。
リョーマ以外の部員は完全に震え上がっている。

「……何してるんだよ?」
「……ひっ!」

「行けよ!草の根わけても探して来いよ!それとも今すぐ地獄への片道切符を無料配布して欲しいのかい!!」

青学の選手達はいっせいにテントから飛び出し、蜘蛛の子を散らすように走り去って行った。
リョーマはそんな様子を眺めながら溜息をついた。


「まだまだだね。あの跡部さんが簡単に見付かるわけないじゃん、それにもう手遅れだと思うよ」














「……ん」
ぼんやりした視界が目の前に広がっている。
「気がついたか?」
その一言で美恵の意識ははっきりと覚醒しがばっと上半身を起こした。
周囲を見渡すと見たことも無い景色が広がっている。
「け、景吾……本当に来たの?」
「ああ、ここなら俺とおまえの2人っきり。安全だろ、もう命の心配はない」
「だからって何の説明もなしに……」
「しょうがねえだろ時間がなかった。ほら喰え」
跡部が皿を差し出してきた。
「景吾が作ったの?」
「そうだ。結構いけるぜ」
確かに悪くない味だ。美恵は素直にご馳走になることにした。




「ねえ景吾、今夜はどこで寝るの?」
食べ終わると最初にそう質問した。砂浜の上で寝るわけにはいかない。
「安心しろ。もうちゃんと俺達の寝床は用意してある」
跡部が指差した方角に視線を向けるとテント状の即席ハウスが建てられていた。
ほっとした美恵だったが中を覗いてぎょっとなった。寝具が1式しか用意されていないではないか。

「け、景吾、これ――」

どういうこと?と口に出す前に押し倒されていた。突然の事に言葉も出ない。
だが、しばらくすると美恵は赤面しながら叫んだ。


「いきなり何をするのよ!」
「……美恵、俺はおまえの何だ?」
「……え?」
「俺はおまえを愛している。おまえも同じ気持ちだったな?」
美恵は跡部の意図がわからず戸惑ったが、こくっと頷いた。


「だったら、もういいだろ?俺はおまえの気持ちを尊重してやっていたが、これ以上は待てねえ」


跡部が何を望んでいるか美恵は気づき、同時に慌てふためいた。
「ま、待ってよ景吾、突然こんな事」
「それにおまえは約束したよな。幸村達を泊める時に俺のいう事は何でも聞くって」
確かに言ったが、こんな意味で言ったわけではない。


「そんな言い方は卑怯よ景吾」
「何とでも言え。俺はおまえが欲しい」

跡部の手が器用にボタンを外し出した。

「景吾、やめてよ。こんな事だめよ!」
「いいじゃねえか。今日は安全日なんだろ?」

美恵はさらに赤くなった。




「ど、どうしてそんな事知ってるのよ!」
「あーん?俺様のインサイトを舐めるんじゃねえよ」




「愛してるぜ美恵……俺を信じて素直に身をまかせな」
「……あっ」


跡部の手が口が、そして熱い眼差しが、何より心が美恵を支配した。


「……け、景吾……やっ」


跡部は止まらなかった。2人っきりの島は恋人達の愛の巣になった。
邪魔する者は誰もいない。ただ、さざ波だけが聞えている。




――この夜、美恵は跡部の手によって少女から女になった。




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