美恵の頬に赤みが戻るのを確認した白石は太鼓判を押した。
跡部は心の底からホッとすると愛おしそうに美恵の前髪をかきあげながら、白石達に目で『出て行け』と指図した。
「……はいはい、わかった。邪魔者は消えることにするわ」
白石は少々駄々をこねるジローを連れ出しテントから出て行った。
「……美恵」
跡部は緊張の糸が切れたせいか、急激な疲れを感じ美恵を抱きしめその胸に顔を埋めた。
そして、すやすやと寝息をたてだした。
テニス少年漂流記―38―
「……あ、熱い……た、頼む助け……助けて……く」
太陽はすで最高点に達しギラギラと砂浜を焼いていた。
その炎天下の中、神尾の命は風前の灯状態。それでも幸村は神尾を解放しようとしない。
大石が同情して幸村に仮釈放を求めてきた。
「お、おい幸村勘弁してやれよ。本当に死ぬぞ」
「潔く自白すればこんな手段は使わなかったよ」
「じ、自白って……もし神尾が犯人だって認めたらどうするんだよ?」
「決まってるだろ。公開処刑さ」
「……ど、どっちにしても……死ぬじゃないか」
大石はぞっとした。幸村は本気だ、本気で神尾を殺そうとしている。
「部長、待って下さい。このやり方じゃこいつ何も白状せず死ぬだけっすよ」
切原が幸村の方法に異を唱えた。
(もしかして幸村を説得してくれるのか?)
大石は期待を込めた視線を切原に向けた。切原はたっぷりと水に浸した皮製ベルトを手に持っていた。
「これを神尾の首に巻きつけて下さい。太陽熱でベルトは渇きどんどん首をしめますから」
「赤也、おまえは本当に気の利く子だね」
「それほどでもありますよ」
「……!!」
大石は骨の髄まで恐怖で固まった。もう声も出ない。
「ちょっと、あんた達!」
驚きと怒りの混合した声。その声の主は橘の妹・杏だった。
「神尾君に何してるのよ!神尾君が帰って来ないから心配して探してたら……全部あんた達の仕業だったのね!」
「俺のやり方に文句言うんだ」
幸村の冷たい視線が杏に向けられた。しかし怒り心頭の杏はその冷たい光に気づいていない。
大石がぎょっとして「君、今は黙って帰ってくれ」と忠告するも杏は聞く耳持たず。
それどころか凄い剣幕でさらに幸村に噛み付いた。
「やっぱり立海の人間は最低よ!どうせ、その狂犬が指図したんでしょう!」
「狂犬て俺のことかよ?」
切原が自分を指差して見せた。
「あんた以外に誰がいるってのよ!お兄ちゃんだけじゃ飽き足らず神尾君まで!」
「橘が俺にぼろ負けしたのは実力の差だろ。逆恨みもいいところだぜ。ブラコンも度が過ぎると気持ち悪いんだよ」
「何ですって!やっぱり最低!」
話が違う方向に変わってしまった。
幸村はうるさいのは嫌いなのか二人が口論している間にさっさと日陰に行ってしまった。
大石は二人の喧嘩を止めようと思うものの、どうしていいかおろおろしている。
「そのくらいにしたらどう?あんた達が争っている間に肝心の神尾さん死んじゃうよ」
その特徴的な生意気な口調に二人はようやく悪口合戦を終結させた。
リョーマが「まだまだだね」とやしの木の木陰からこちらを見ている。
「そ、そうだったわ。ちょっと神尾君を降ろしてあげなさいよ!」
「冗談だろ。殺人容疑かかってる危険人物を野放しにできるかよ」
「殺人?!」
あまりにも過激な単語に気の強い杏もさすがに言葉を詰まらせた。
ようやく冷静になるも事態が飲み込めずにおろおろしている。
切原は説明してやるつもりもないらしく、ただ意地悪そうな薄笑いを浮かべるだけ。
大石は何て言ったらいいのかわからず頭を抱えている。リョーマは溜息をついた。
「氷帝の美恵さん、知ってるだろ?」
美恵の名前を聞くと杏は不快そうに顔をぷいっと横に向けた。
「ああ、あの跡部の彼女ね」
「その美恵さんが殺されかけたんだよ。それも二度も」
「……え?」
杏は仰天してリョーマの顔を凝視した。
「はじめは洞窟内で。何者かに崖から突き落とされたんだ」
「が、崖?」
「そういうこと。背中おされて転がり落ちて危うく死ぬところだった」
「……う、嘘……だって」
「うちの部員がちらっと犯人みてさ。その結果、神尾さんが最有力容疑者となったってわけ」
リョーマはそのせいで神尾が幸村の恨みを買い、尋問を受けていることを詳細に杏に聞かせた。
しかし、あまりにも衝撃的な内容だったのか杏は驚愕するばかりで上の空だ。
「……知らなかった。神尾君がそんな目に合ってたなんて」
杏は顔面蒼白になった。全身が諤々と震え今にも倒れそうだった。
「少なくても4人の人間が絶対に許さないよ。跡部さんと忍足さんと幸村さん。それにうちの不二先輩も」
「……そ、そんなに?」
「犯人が判明したらどうなると思う?」
「……ど、どうって?」
「あくまで俺の予想だけど――」
「跡部さんは殴る蹴るの壮絶な暴力で血だるまにした挙句殺す。
忍足さんはネチネチと時間かけていたぶりぬいた末に殺す。
幸村さんは残酷な拷問した上に殺す。不二先輩は虐待しつくした後に殺すだろうね」
「……そ、それって誰にやられても虐殺されるってことじゃ?」
「だろうね」
杏はついに立っていられなくなり、その場にペタンと座り込んだ。
「お、おい越前。女の子を脅すもんじゃないぞ」
「俺は本当のことを言ったまでっすよ」
そこに桃城が走ってきた。
「できた!大石先輩、堀尾が例の犯人の似顔絵ついに完成させたっすよ!」
「何、本当か?!」
その吉報は木陰で一時の休息をとっていた幸村の耳にも届いた。
幸村はゆっくりと立ち上がった。
「赤也、神尾の縄を解いてやりなよ」
「え、いいんですか?」
「今から軍事裁判の開始だからね。被告が欠席じゃ話にならないだろ?」
「……ん」
美恵はゆっくりと瞼を開いた。何だか体が重い。
「……け、景吾?」
跡部が自分の胸に頭をおいている。そのシチュエーションに美恵は焦った。
「ちょっと景吾どいて……景吾?」
跡部は眠っていた。まるで泥のように……。
(……景吾?)
ふと見ると跡部の服は随分と泥で汚れ、しかもあちこち破れているではないか。
壮絶な冒険をしてきたことは一目瞭然だった。
「……景吾、ありがとう」
聞かなくてもわかる。きっと自分を助ける為に無理をしたのだろう。
美恵はそっと跡部の髪をかきあげた。その寝顔は普段の尊大なものとはまるで違う、まるで天使だ。
幼い頃からずっと見てきた大好きな顔。美恵は無意識に微笑んでいた。
「景吾、大好き」
自然とそんな言葉が出ていた。美恵は自分でもびっくりしていた。
その反面、それが自分の素直な気持ちなのだと実感できたことが嬉しかった。
「本当か?」
「え?」
跡部がぱっと目を開けた。熟睡しているとばかり思っていた美恵は途端に赤面した。
「酷い騙したのね」
「あーん?それは違うぜ、てめえが可愛いことほざくから目が覚めた」
「そ、そんな事信じられないわ」
「そうか。だが確かに聞いたぜ。俺の事が好きで好きでたまらない。
心の底からめちゃくちゃ愛しぬいているってなあ」
「そ、そこまで言ってないわよ!」
「だったら行動で証明してやるぜ」
跡部は美恵を抱きしめると、強引に唇を重ねてきた。
最初は途惑っていた美恵だったが跡部の背中に手を回し、その口付けを素直に受け入れた。
その様子を不二が赤い色つきの目で睨んでいるとは気づかずに――。
「これが犯人です!」
堀尾が自信満々に犯人の似顔絵を両手で高々と掲げた。
お世辞にも上手とはいえなかったが。たが特徴だけはつかんでいる。
桃城は愕然としてた。その背後で大石までぽかーんとしている。
似顔絵を見た神尾は今まで犯人扱いされていた鬱憤もあってか盛大に叫んだ。
「桃城、てめえが犯人だったのか!」
そう似顔絵は桃城とよく似ていたのだ。
「そんなわけねえだろ!」
当然桃城は反論した。しかし、これでまた全てが振り出しに戻ってしまった。
「バカバカしい。俺達は美恵を連れて帰らせてもらうぜ」
宍戸はもはや溜息もでなかった。
「連れてかえる?でも宍戸、彼女はまだ安静にして方がいいと思うぞ」
「気持ちはありがたいが跡部がどうしても連れ帰って看病するって言ってるんだ。
じゃあ俺達は帰るぜ。世話になったな大石」
跡部から帰宅のことを知らされた美恵は賛成した。いつまでも青学のお荷物になるのも気が引ける。
直接お礼を言いたいというと、跡部が「俺が代わりに言っておく」とテントを後にした。
「ちゃんと言ってくれてるかしら?尊大な態度とってないといいけど」
まだ体はだるい。でも跡部と気持ちが通じ合っているせいか気分は悪くない。
「……美恵さん」
いつの間にか不二がテントの中に入っていた。
「あ、不二君。ごめんなさい、不二君の寝床占領してしまって。
おかげでだいぶ良くなったわ。本当にありが――」
美恵は抱きしめられていた。不二の細い腕が痛いくらいに自分を抱きしめている。
「……ふ、不二君?」
「……跡部は駄目だ」
それは絞り出したような声だった。
「跡部は駄目だ!忘れたのかい、あいつが君にどんな仕打ちをしたのか!!」
不二はいったん美恵から体を離すと今度は両肩を鷲掴みにしさらに続けた。
「跡部は君を裏切った男だ!少し可愛いだけの中身の無い女の為に君にどんなに冷たい仕打ちをしたか!
君だけこき使って、あの女だけ大事にしてきたんだ。跡部は君を愛してなんかいない!!」
「……ま、待って不二君。景吾はその事はずっと後悔して」
「そんなの嘘に決まっている!都合よくこき使えるマネージャーを手元に置いておきたいだけなのさ!
あいつは、あの女だけじゃない。ずっと君をほったらかしにして何人もの女と付き合ってきたんだ。
今、あいつを受け入れたら必ず後悔する。いつか必ずまた他の女の為に君を捨てるに決まっている!!」
「……随分な事いってくれるじゃねえか不二」
跡部が不快感に満ちた表情でテントの入り口に立っていた。
「……聞いていたのかい?」
「あんな大声で聞えねえわけないだろ。安心しろ、俺は二度と過ちをおかさねえよ」
跡部は美恵に近付くと、大切そうにお姫様だっこで抱き上げた。
「だから、おまえが口出すことは何もねえ」
跡部は美恵をしっかり抱きしめゆっくりと歩き出した。
「待てよ、そんな事は僕が許さない!」
不二は必死だった。その姿に冷静沈着な青学の天才プレイヤーの姿はどこにもない。
跡部の肩をつかみ、その歩みに制止をかけようとした。
「不二君、ごめんなさい」
「美恵さん?」
「不二君の気持ちは嬉しいし感謝もしてる。でも――」
――駄目だ。それだけは言わないでくれ。
「私、景吾の事が好きなの。景吾を信じてついて行く」
不二の手が跡部の肩から滑り落ちた。
その様子を少し離れた場所から幸村が衝撃的な表情で見詰めていた。
「……跡部め」
幸村はグラスを手にすると怒りのまま岩壁に叩きつけた。
砕け散ったガラスが地面に散乱する。それでも幸村の怒りは収まらない。
何よりも恐れていたことが現実になった。
ついに美恵と跡部が――2人が恋人になるのは、もはや時間の問題だ。
「幸村よ、この世には女は何十億とおる。あのお嬢さんに執着せんでも、おまえなら他にいくらでも――」
幸村を慰めるために言ったつもりだったが、幸村は殺気をこめた目を仁王に向けた。
そのあまりの目力に仁王はそれ以上何も言えなかった。
「……こうなったら最後の手段いくよ」
「最後の手段?」
惚れ合っている男と女の間に割り込むなんて簡単ではない。一体どんな策があるというのだろうか?
「仁王」
「……なんじゃ?」
何か嫌な予感がする。それを敏感に感じているせいか仁王の声は低くなっていた。
「美恵さんを襲えよ」
「……は?」
仁王は思わずぽかーんと口を開いてしまった。
「断っておくけど手や足に触れる事は許可してあげるけど、ボディに直接触れたら許さないよ。
それからスカートは膝上十センチまでしかあげちゃいけないからね」
仁王は目が点になっていたが、幸村のやろうとしていることに気づきハッとした。
「まさか幸村……俺を痴漢に仕立て上げておまえが――」
「そうだよ。俺が彼女を助けるんだ」
仁王はさすがに言葉もなかった。それでは二番煎じでは無いか。
跡部と忍足には自分達が不良をつかって過去に美恵を襲わせたことはばれている。
同じ手が二度も通用するはずはない。幸村は焦りすぎていると仁王は分析した。
だが、それは仁王の間違いだった。幸村の本当の恐ろしさを仁王は次の瞬間思い知らされる。
「彼女を守る為に俺がナイフで君の喉をかき切るんだよ」
「……!」
――い……今なんて言ったんじゃ?
「そうだよ仁王。俺は彼女の身を守る為に『殺人』という最大の禁忌を犯すのさ」
――幸村……?
「美恵さんは優しい。だから自分を守る為に過ちを犯した俺を切り捨てられなくなる。
例えどんなに跡部の事が好きでも、責任と罪悪感を感じ俺を選ぶはずだ」
――ゆ、幸村……おまえの言っている意味がわからん……わからんよ。
「我ながら完璧な作戦だろ?」
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