リョーマの心に不二に対する疑惑が芽生えた。
「坊や、そこをどくんだよ」
ハッとして振り返るとトレイを手にした幸村が立っている。
リョーマがどく前に幸村が強引にテントの中に乗り込んだので、肩がぶつかりリョーマは軽く弾き飛ばされた。
程なくして中から「どうして君が、美恵さんの面倒なら僕が見るよ」「黙ってなよ」と口論が聞こえ出した。
「……あの2人がいたら看護なんかできるわけないって」
リョーマは溜息をついた。砂浜には丸太を組み合わせて建てられた十字架に神尾がはりつけられている。
「あっちもいつまでもつか……まだまだだね」
テニス少年漂流記―37―
目的の薬草は湿気の多い場所によくある。大木の根本や崖下などだ。
「おい見付かったか?」
「いや、こっちにはない。畜生、乾の奴、活動範囲が広すぎんだよ」
白石の話では、この薬草は乾が使用した毒草と同じ環境に群生することが多いらしい。
そのため乾からどこで毒草を摘んだのか詰め寄ったのだが、乾は毒草集めに夢中で場所はいちいち覚えていなかった。
何となくと頼りない感じで地図に赤ペンで丸をいくつも記入した場所を手当たり次第捜索することになったのだ。
ところが薬草どころか、例の毒草も発見できない。本当に場所があっているのかすらも怪しいものだった。
(美恵、おまえを死なせてたまるか!)
やっと和解できたのだ。いやそれより何より跡部は美恵を助けたかった。
美恵が死ぬなんて想像しただけで、跡部は足元が崩れ奈落の底に引きずりこまれるような感覚に襲われるのだった。
「おい跡部!」
宍戸が背後から慌てて腕をつかんできた。
「どこ見てんだ。そこ崖だろ、危ないだろ!」
薬草探しに夢中になって周囲が見えなくなっていたらしい。
跡部は自分にこんな面があったなんて自分でも驚き苦笑いすら浮かべた。
「……崖、か」
跡部はスポーツバッグを肩から降ろすとチャックを開きロープを取り出した。
樺地がこの島で群生していた麻から作った丈夫なものだ。それを近くにあった木の幹に二重にくくりつける。
「この下に降りてみる」
ロープの先を自らの体に巻きつけると跡部は崖の側面の凹凸に足をかけた。
「おい跡部危ねえぞ。もう暗くなったんだ、降りるなら明日に――」
「時間がないんだ!」
こうしている間にも美恵は苦しんでいる。もしかしたら、すでに虫の息かも入れない。
すでに日は沈み視界が悪くなって危険だ。
狼の襲来にも注意しなくてはいけない。だからといってやめるわけにもいかない。
跡部は宍戸の警告を無視して崖下に下りていった。頼りはロープと懐中電灯だけ。
「どないしたんや宍戸?」
宍戸の声を聞きつけ忍足が駆け寄ってきた。そして木にくくりつけられたロープを見て全てを察した。
「跡部か?」
「あ、ああ。あいつ1人で行ったんだ。跡部のことだから大丈夫とは思うけど心配だぜ」
「……跡部が1人で崖を降りてるんか」
――今、このロープを切れば跡部は事故っちゅうことで。
「おい忍足、どうしたんだよ。急に無口になって」
忍足はハッとした。その表情が余程やばかったのか、宍戸が「大丈夫か?」と心配そうに尋ねてくる。
「……何でもない」
「そうか。ならいいんだ」
(……あかん。今、俺の心に悪魔が舞い降りるところだった)
「美恵、しっかりして。俺頑張って看病するから」
ジローは美恵の手を時折握りながら、必死に汗を何度も何度も拭ってやっていた。
「ジ、ジロー……」
「美恵大丈夫?お水飲む?」
今は薬もなく、ただ安静にして水を飲ませてやるしか手は無い。
「ごめんね俺何も出来なくて」
「ジローがそばにいてくれるだけで……ありがとうジロー」
「もう何も言わなくていいよ。もうすぐ跡部が薬草を持ってくるから頑張ってね」
「……ええ」
外が何だか騒がしい。誰かが喧嘩しているみたいだ。
「ジロー……何かあったの?」
「ううん、何でもない」
「だから彼女の看病は僕がするから、君達邪魔者はさっさと帰って欲しいんだ」
「俺が邪魔?……そういう事いうんだ」
不二と幸村は絶えず小競り合いを繰り返していた。すぐに大石と仁王が間にはいるも、どちらも一歩も引かない。
「不二、こんな時に喧嘩なんかやめてくれ。こんな無人島で暮らしているんだから協力しないと」
「幸村と協力するくらいなら僕は美恵さんと2人っきりで暮らしてもいいよ」
「どさくさに紛れて都合のいいこと言ってるんじゃないよ!」
「そのくらいにしたらどうっすか?あんた達だって美恵さんに死なれたら都合悪いんでしょ?」
リョーマの言葉に大石はギョッとなった。
「え、越前、何て不吉な事をいうんだ。まだ彼女は生きているじゃないか」
「でも解毒できなきゃやばいんでしょ?
今、俺達が出来ることは跡部さん達が薬草を持ち帰るかであの人を生かすことなんじゃない?
それなのに不二先輩達はそんなつまらない喧嘩であの人の命縮める気っすか?」
不二と幸村は同時にムッとした。かなり心外な言葉だったらしい。
しかしリョーマはさらに続けた。
「今は静かに休ませることが一番なんじゃないんすか?
大声だしてたら眠る事もできない、いたずらに体力を削らせるのがあんた達の目的じゃないんだろ?」
「ライバルを蹴落としたいなら彼女が元気になってから思う存分やればいいじゃん。
それなのに今、彼女を死なせたら元も子もないって、そろそろ気づいたら?」
リョーマの厳しすぎる言葉に不二と幸村は面白くないながらも納得はしたらしい。
お互いの顔を睨みつけると「ふん」とそっぽを向き、反対方向に歩いていってしまった。
二人一緒にいれば自動的に口論が始まってしまう。距離を取るべきだと思ったらしい。
「よくやった越前、見直したぞ」
「大石先輩、あんたももっときつく言ってやりゃあいいんですよ」
「……そ、そうだな。すまない越前」
ともかく、これでこの場の空気が悪くなる事は無くなった。
「あの人が元気になって例の犯人がつかまりさえすれば、この島もしばらくは静かになるんですけどね」
「違う、これじゃねえ……クソ!」
崖下には薬草らしきものが多量に生えていた。しかし、よく似ているが跡部が探しているものとは違う。
「こっちは……これも違う!」
跡部は根っこごと引き抜いた薬草を岩壁に叩きつけた。
「おーい跡部、そろそろ上がれ。今日はもう遅い」
「何言ってやがる!こうしている間にも美恵は――」
跡部の脳裏に苦しみもがく美恵の姿が浮んだ。
「安心せえ跡部、そんなすぐに死ぬような事はない。俺が保証したるでえ」
白石の声が聞えた。しかし暗闇の為、その姿は見えない。
「こんな闇夜じゃ無駄に体力を消耗するだけや。明日にもぎょうさん動いてもらうんやで。
今日はもう休んで、勝負は明日や。その為にも、しっかり寝て疲れをとってもらわんと困るで」
白石の言うとおりだ。しかし頭では理解できても、心では納得できない。
何よりも美恵の事が心配で、ゆっくり就寝などできるわけがない。
「跡部、貴様何をしておるー!!」
今度は真田の怒鳴り声が聞えてきた。
「おまえには白石の魂の叫びが聞えぬのか!」
「……いや魂の叫びって程でも。困ったなあ」
「どうしても上らぬというのなら、俺が引き上げてやる!」
真田は跡部が命綱にしているロープ。その結び目を手にすると強引に引っ張った。
「たるんでる!」
その時だ。真田は何かがスポッと抜ける感触に思わず目が点になった。
「……こ、これは」
何ということか、ロープの結び目が解けてしまっているではないか!
つまり今跡部の命綱は真田1人が握っている状態!」
「し、しまった!おい、おまえ達、早くこっちに来い!」
真田は両手を振り上げて「こっちだ!」と叫んだ。そしてハッとした。
自分は両手を上に上げている――つまり、跡部の命綱の先端は……。
「あー!!」
ロープがするすると崖下に落ちていくのが暗闇の中であるにもかかわらず、はっきりと見えた。
「し、しまった!何という運命の悪戯だ!!」
「何が運命の悪戯だ!真田、おまえ一体何してんだよ!!」
慌てふためく宍戸。その背後で忍足は思わずガッツポーズを取っていた。
「堀尾君、それ何枚目?本当に犯人の顔を見たの?」
「何か、どんどん人間離れした顔になってるよね」
一方、美恵を襲った犯人の唯一の目撃者である堀尾作成の似顔絵はまだ未完成だった。
堀尾は頭を何度もかきながら筆を走らせている。
「もう止めたら?」
「何だよ越前、邪魔するなよ」
「本当は犯人の顔なんか見てないんだろ?」
堀尾はギクッとなって硬直した。どうやら図星だったようだ。
「あの暗闇で一瞬だろ。ただでさえ記憶力悪い堀尾に顔見られていたら、美恵さんより先に堀尾が口封じされてるはずじゃん」
口封じ、それは堀尾にはかなり刺激的な言葉だったらしい。
「固まるなよ。見てないから命狙われてないんだろ?」
「う、うるさないな。俺の観察力みくびるなよ。俺はテニス歴二年なんだぞ!
たとえ一瞬でもイメージだけはしっかりつかんでんだよ!!」
「ふーんだったらさっさと完成させなよ」
「……真田、自分とんでもない事を」
「……うかつだった。このロープがこれほど根性なしだったとは」
「……もう、ええわ。自分絶対に自分の非を認められん性格なんやな」
白石は溜息をついた。今は真田のミスを追及することよりも跡部の生死の確認が最優先だ。
しかし懐中電灯を照らしても跡部の姿は見えない。かなり下まで転落したらしい。
「おーい跡部!」
宍戸は声を張り上げて呼んだが返答はこない。
「心配やなあ」
「……忍足、目が笑ってるぞ」
「おい、どうしたんだよ!」
向日達が騒ぎを聞きつけてやってきた。
「真田が跡部を落としてくれた……もとい落としてしまったんや」
「何だよ、それ!」
向日は懐中電灯を持って崖下を覗き込むがやはり何も見えない。
「大丈夫かよ?まさか死んだなんてことないよな!?」
崖下からは呻き声一つ聞えない。誰もが即死を連想して青ざめた。
忍足だけは「跡部、自分の分まで俺が美恵を幸せにするさかい安心して眠ってくれ」と場違いな言葉を吐いている。
そんな中、樺地が冷静かつ素早く予備のロープを取り出した。
「……自分が跡部さんを助けに行きます」
そうだ、こんな所で心配していても時間の無駄。すぐに助けに行かなくてはいかない。
「待て樺地、おまえよりも俺の方が身軽だ。俺の方が適任だ、俺が行くぜ」
宍戸が立候補した。真田は、「うむ、おまえにまかせよう」とほざいている。
宍戸が「おまえが言うなよ」と言わんばかりの目で真田を見詰めるも、真田はその視線の意味に全く気づかない。
ある意味、とてもおめでたい性格といえよう。
「じゃあ、行くぜ」
「駄目です!」
鳳が宍戸にすがり付いてきた。
「何だよ長太郎、よせよ」
「宍戸さんにまでもしもの事があったらどうするんですか!宍戸さんに何かあったら俺は俺は……!」
「大袈裟だな長太郎は。安心しろ、足を踏み外さないように注意するからよ」
「俺は宍戸さんだけは失いたくないんです。絶対に離しません!」
「……おい」
宍戸は困惑した。鳳は離してくれそうもない。
「じゃあ俺が行きますよ」
今度は日吉が名乗り出た。
「俺が下克上するまで跡部さんに死んでもらっちゃあ困るんですよ。だから俺が行きます」
「よし、俺も行くで。跡部は大事な戦友や!」
「……忍足さん、もしかして止めさすためじゃないですよね?」
(……痛いところをつくキノコやな。まあええわ)
こうして日吉と忍足は真夜中のロッククライミングに挑戦する事になった。
「……痛ぅ」
跡部は生きていた。天性の運動神経に物を言わせ、岩壁から生えている枝につかまりながら川辺に落下していたのだ。
完全に無傷と言うわけでは無いが軽い打撲に擦り傷程度。動く事に支障は無い。
(懐中電灯は?)
足元に筒状の物が当たった。ライト部分が破壊され、もう使い物にならなくなった懐中電灯だった。
「ちっ」
跡部は軽く舌打ちして、それを蹴った。雑草の中にポトンと落ちた音がする。
どうやら草がたくさん生えているようだ。
(……待てよ)
川辺の近く、これ以上湿気の多い場所は無い。例の薬草が生えるにはぴったりの環境ではないのか?
そこに「跡部さん、大丈夫ですか?」と頭上から日吉の声が聞えてきた。グッドタイミングだ。
「日吉、懐中電灯だ!懐中電灯をよこせ!」
「じゃあ投げますよ。受け取ってください」
光をともした懐中電灯がクルクルと回りながら落下してくる。それをキャッチするなり跡部は雑草を照らした。
そして自らも駆け寄り、そばでさらに凝視する。
白石のスケッチをポケットから取り出し、草とそれを何度も交互に見詰めた。
「……見つけた」
間違いない。やっと見つけた、これで美恵は助かる!
「すぐに帰るぞ、待ってろよ美恵!」
東の空がうっすらと明るくなっていた。
ジローはコクリコクリと夢の中に足を踏み入れそうになり、ハッとして目を覚ます。
「美恵……苦しい?」
ジローは涙をそっと拭った。
「……跡部、早く帰ってきてよ」
「美恵!」
「あ、跡部、帰ったの!?」
美恵はまぶたを開き、うつろな目で跡部を見上げた。
「見つけたぞ、もう大丈夫だ!」
跡部は美恵を抱き起こし、すでに煎じたそれ入れたコップを口元に運んでやった。
美恵は少し唇を開いたが弱っているせいか上手く飲めない。
すると跡部は美恵の口元からコップを離すと自らの口に注ぎ込んだ。
そして美恵の唇に自らのそれを重ね解毒薬を注ぎ込む。美恵の指先がぴくっと動いた。
「美恵、大丈夫か?もう少し飲め」
再び自分の口に解毒薬を含み口移しで美恵に与えた。
心なしか冷たくなっていた美恵の唇に温もりが戻りつつあるような気がする。
(……美恵)
跡部は美恵を強く抱きしめた。もう美恵以外は何も見えない。
――跡部、よくも!
その一部始終を嫉妬に燃えた目で睨みつけている人間がいることも跡部は気づかなかった。
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