「何?天瀬を突き落とした容疑者の尋問をするつもりだった?」
真田は腕を組み考え込んだ。
「よし、わかった!犯人は神尾、貴様だ!」
真田は自信満々に神尾を指差した。
「だから何でそうなるんだよ!」
「犯人でないというのなら尋問を拒否するわけがなかろう!」
「あれは尋問じゃなくて拷問だー!」

「たるんどる!精神統一すれば痛みなど蚊が刺したほどにしか感じぬ。拷問などおそるるに足らず!!」
「そ、そんなぁぁ!!」




テニス少年漂流記―36―




「景吾、また雨よ」
この辺りの天気は日本とまるで違う。最近は頻繁に雨が降る。
跡部と美恵は大木の下で雨宿りをすることした。
「おい、もっとそばに寄れ」
跡部は美恵の肩を抱き寄せた。美恵が跡部に腕組みをお願いしたせいで随分とご機嫌かつ調子に乗っている。
美恵も特に逆らわず素直に甘えている。跡部は思った、この調子なら近いうちに必ず美恵は自分の愛を受け入れてくれるだろうと。
美恵、愛してるぜ」
跡部は美恵を抱きしめた。おかげで美恵の心臓の鼓動は速くなるばかりだ。


「景吾、痛いわ」
跡部も性急すぎたと反省したのだろう。抱きしめる手を緩めた。
美恵の心が自分から離れた上に、余計なライバルが出現したせいで跡部は焦っていた。
しかし美恵の心が今でも自分にあると確信したせいか今の跡部は心に余裕ができている。
急いで二人の仲を進展させることに執着をしてない。今はただ美恵がそばにいてくれるだけでいい。
「蒸し暑くなってきたわね。景吾、喉かわかない?」
先ほど手塚経由で不二からもらったジュースがある。差し出すと跡部は「俺はいい」と言った。


(不二なんかの施しは死んでも受けねえ)
「じゃあ私は頂くわよ。美味しそう、どんな味がするのかしら?」
美恵は一口飲んでみた。
「うん、美味しい。甘さ控えめで――」
美恵が手にしていたカップが落下し、まだ飲み干されていなかったジュースが地面に染み込んだ。


美恵どうした?」
「……あ」

美恵はお腹を押さえ、その場に倒れた。

「おい美恵!」

美恵を抱きかかえると苦痛に満ちた顔、額には油汗が滲んでいた。

美恵、しっかりしろ美恵!」














「全く揃いも揃ってうちの連中は怖い奴等じゃのう」
神尾は今や立海の巣窟となっている洞窟内の岩壁に貼り付け状態にされている。
帰宅するなり、そんなものを目にした仁王はもはや溜息をつくしかなかった。
「俺の美恵さんを殺そうとした悪党に情けなんか必要ないよ」
「しかし幸村よ。青学の一年坊主は今だに神尾かどうかはっきりせん言っておったぞ。
拷問にかけて神尾が死んでもかまわん。だが、もし真犯人が他におったらどうする?
そいつは自分の罪が闇に葬られてほくそ笑む事になるぞ。
そして犯人が死んだと思われ天瀬の周囲の警戒が解かれるのを待って再び牙をむいたらどうする?」

「……一理あるね。じゃあ神尾は人知れず闇に葬ってまだ生きてるという事にしておこう」
「……幸村、どこまでも恐ろしい男じゃ」

一筋縄ではいかない。まともに説得したところで神尾に制裁を与える事を止めないだろう。
仕方なく仁王はある事を打ち明けた。

「実は青学では一年坊主が見たと言う犯人の似顔を作成しておる。神尾をやるのはその後でもいいじゃろう」
「何だって?!」














「……おかしい。実に妙だ」
「乾先輩どうしたんすか?」
「新開発した乾汁のサンプルがなくなっているのだ」
乾汁という単語に桃城は顔面蒼白になった。
「もしかして桃が飲んだのか?」
「先輩の汁を自分から飲もうなんて人間は滅多にいないっすよ」
「そうかい。ならいいんだが、あの汁は食料を盗み食いするネズミを退治するために作った……ん?」
外が騒がしい。乾と桃城は何事かと表に出てみると美恵を抱きかかえた跡部が凄い形相で立っていた。


「あ、跡部、どうしたというのだ?」
「どうしたもこうしたもねえ!不二、不二はどこにいやがる!」


「そんな大声で呼ばなくても聞えてるよ。何だい跡部?」
不二は昼寝をしていたのか眠たそうに欠伸をしながらテントの中から姿を現したが、ぐったりしている美恵を見るなり驚いて駆け寄った。

美恵さん!」
美恵に触るな!」

跡部は美恵を抱きしめ、不二が彼女に伸ばした手を振り払った。
当然、不二には面白くない仕打ちだが、今は跡部と喧嘩をしている場合ではない。


「どういう事だ跡部。君は彼女に何をしたんだ!」
「それは俺の台詞だ。てめえが作ったジュースを飲んで倒れたんだ!」

跡部は不二の胸元をつかみ凄い剣幕で怒鳴りつけた。


「てめえ俺に嫉妬して、美恵が俺の女になるくらいなら殺そうとしやがったな!」
「冗談じゃないよ。どうして僕が愛しい美恵さんを殺したりするものか!
そんな事するくらいなら青学全員で心中した方が百倍マシさ!」

2人の様子をテントの影から見詰めていたリョーマは「……さりげない本音が怖いっすよ不二先輩」と呟いていた。




「これか、不二のジュースというのは」
乾は跡部が地面に投げつけた水筒を持ち上げ臭いをかいだ。
「……これはジュースでは無い。俺の新乾汁だ」
「何だと!?」
「何だって?!」
「い、乾先輩……その新乾汁って害獣退治用に開発した猛毒ってあれっすか?」
桃城が青ざめながら言った。その言葉を聞き跡部と不二も顔色を失っている。

「……い、乾が作った猛毒だと?」

通常の乾汁でさえ強烈なのだ。毒として製造されたものなら、どれほど劣悪なものか想像もつかない。
例え少量でも確実に死の世界に旅立ってしまうだろう。


「不二、てめえよくもそんなものを美恵に飲ませやがったな!」
「僕がそんなものを彼女にあげるわけがないだろう!」


「2人とも喧嘩はそのくらいにしたらどうっすか?今は争ってる場合じゃないんだろ?」


リョーマの言葉に跡部も不二もハッとして我に返った。そうだ今は美恵の命が最優先。
「乾、解毒薬だ!」
乾は毅然として、きっぱりと答えた。
「そんなものはない」
途端に跡部は乾に飛びかかった。


「てめえ、殺されたいのか!」
「り、理屈じゃないんだ!本当にないんだ!!」
「ふざけやがって!そんなに殺されたいのか!!」


跡部は完全に怒り狂っている。本当に乾を殺しかねない勢いだ。
あまりの大騒ぎ振りに青学全員何事かと外に出てきた。そして今まさに殺されようとしている乾を見て驚愕している。
「やめるんだ跡部、乾をせめても天瀬さんは助からないぞ!」
大石が慌てて跡部に羽交い絞めをかけたが、激昂状態の跡部に簡単に振り払われ地面にダイブ。
桃城や海堂も加わって制止しようと試みたが、跡部の暴走は止まらない。




「……け、景吾」




美恵が苦しそうな息の下から跡部を呼んだ。
美恵、死ぬな!」
跡部はようやく乾から手を離すと美恵を抱きしめた。


「……ど、どういうことや……これ?」

聞き覚えのあるエロティックな関西弁。いつもの跡部なら露骨に眉をひそめるが、今はそんな余裕も無い。


美恵が跡部と出掛けとるきいて……何か合ったらあかん思うてきたら案の定や!」
忍足は美恵に駆け寄って跡部から奪い取ろうとした。
「俺の美恵に何したんや!こっちに寄こせや!」
「誰が渡すか、美恵を動かすな。毒が早くまわるだろうが!」
「な……!ど、毒やて!?」
忍足は愕然となった。


「何だって毒?!」


またしても跡部の癇に障る声がした。振り向くと入院時代のように顔色が悪い幸村が立っていた。
「誰が……誰が美恵さんにこんな事を……!」
幸村の後ろにはロープでぐるぐる巻きにされた神尾を抱えた真田が立っている。
仁王と切原も一緒だったが全員予想外の出来事に驚いているようだ。
「誰だ、誰が美恵さんにこんなマネをした!今すぐ五感がきかない体にしてやる!!」
理性ふっ飛び状態になった為幸村はたまたまそばにいた桃城の襟首をつかむ。


「坊やがやったのかい?」
「ち、違うっすよ!乾先輩の害虫駆除用乾汁を飲んだらしいんす!」
幸村の殺意は瞬時に桃城から乾に向けられた。当然、乾も黙っていない。命がかかっているのだ。
「ま、待ってくれ幸村!確かに彼女は俺の乾汁を飲んだが、俺が彼女に飲ませたわけではないのだぞ!
どういうわけか不二が彼女にあげたジュースの中身がすり替えられていたのだ!」
「何だって?」
「誰や、青学の誰が俺の美恵を殺そうとしたんや!」
「ゆ、侑士落ち着け。何かの手違いかもしれへんやろ?」
謙也が必死になって忍足をなだめるも忍足はついに決定的な一言を吐いた。


「手違いなわけないやろ!実際に美恵は洞窟内で殺されかけたんや!
殺し損ねた犯人が再び命狙ったとしても何も不思議はないやろ!!」


その場の空気が絶対零度のごとく固まった。
そして誰もが思った。そうだ美恵は命を狙われていたのだ。そして犯人は今だ野放しにされている――と。


「――と、いう事は」

幸村は鬼のような形相で振り向いた。その恐ろしい視線をまともに受けた神尾は震え出した。


「覚悟はできてるんだろうね坊や!」














「た、大変や、えらいことになったで!!」
謙也は走った。スピードスターに相応しい素晴らしい疾走だった。
樺地はロープを編み、宍戸と鳳は家庭菜園の雑草を採り、日吉と向日はドライフルーツを作っていた。
ジローはというと掃除をしていたのだが、いつの間にか昼寝タイムに入っている。そこに謙也がやって来たのだ。

「おい何があったんだよ?」
「大変なんや、美恵ちゃんが毒殺されかけたんや!」
「な、何だと?!」
「もしかしたら最後になるかもしれへんからおまえらも急げ」
「縁起の悪いこと言うな!」














「……なるほどなあ。厄介な毒草を使うたもんやな」

白石は残された乾汁の臭いや色を分析。謙也に連絡を受け駆けつけてきたというわけだ。
肝心の乾はどんな毒草を使ったのか覚えてすらいない。そこで毒草に詳しい白石が呼ばれたというわけだ。
「安心し。解毒効果のある薬草を飲ませれば多分助かると思うで」
「本当か?」
「ああ、ほんまや。一口しか飲んでないのも幸いした。けど早くせえへんと」
美恵は青学のテント内のベッドに寝かせているが、その表情は苦痛に満ちている。
もはや一刻の猶予もならない。白石はスケッチブックに流暢に薬草の絵を描き込んだ。


「全体的にやや赤褐色、葉のつき方は対になっててな。根本は――」
跡部達に絵を配り詳しく特徴を教え込んだ。
「じゃ、はよ出発するか」
「ああ」
跡部は最後に美恵の顔を覗き込むと、その頬に触れた。


美恵……必ず助けてやるからな」

――そして触れるだけのキスをした。









跡部達の背中が見えなくなるとリョーマは深々と帽子をかぶりなおした。
美恵の看護にとジローだけを残し氷帝は全員薬草探しに出かけた。白石も一緒だ。
なぜか真田もついていった。幸村の代理という事らしい。
跡部は『所詮、あいつの愛情なんかそんな程度だ』と捨て台詞まで残した。
しかし真田は『幸村は病弱なのだ。仕方あるまい』と庇っていた。
文句を言いながらも跡部が幸村を残したのは不二に対する牽制だろう。
腹黒同士で潰しあっていれば美恵に妙な手出しをされることはないという計算があったのだ。
「そういう計算する跡部さんも十分黒い人だけど自覚がないってのが怖いよね」
リョーマがそんな陰口を呟いていた事など跡部は知らない。
もっとも、そんな跡部が出掛ける際、リョーマにまで「美恵を頼む」と言った時は内心感動したものだ。


(なりゆきとはいえ頼み事受けたからには俺にも責任がある)

白石から看護の仕方を丁寧に記載されたメモを手にリョーマは病室と化したテントに向かった。
(誰かいる)
すでに先客がいた。隙間から覗くと不二が心配そうに美恵の手を握っている。


「……美恵さん」


その口調は、いつも自信に満ちた張りのあるものではない。やはり不二も人の子だったということか?


「もし君が死んだら……その時は一人では逝かせないよ。僕も一緒だ」


(……不二先輩?)
それは愛する女性を思うがあまりの言葉であったろうが、リョーマは何か腑に落ちないものを感じた。


「2人で同じ墓に入ろうね……もう、誰にも邪魔されない世界で幸せになろう」




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