愛しい美恵が行方不明となって不二は完全に感情的になっていた。
手塚や大石が必死になだめるが大人しくなるどころか平手打ちがとんでくる始末だ。
「お、落ち着くんだ不二。油断せずに探そうじゃないか」
「そ、そうだぞ不二。大丈夫だ、きっと彼女はみつかるさ」
「うるさいよ。言い訳する暇があったらさっさと美恵さんを探してきなよ!」
「不二、かわいそうに。気が動転してるんだにゃー」
「そうっすね不二先輩は優しいから」
鬼のように仲間達をこき使う不二を目の当たりに見ても信じきっている菊丸と桃城。
「本当に幸せな人たちっすね」
リョーマは帽子をかぶりなおし「まだまだだね」と呟いた。
テニス少年漂流記―32―
「美恵、どうしてあんな場所に落ちたんだ?」
美恵は考えた。跡部相手に何者かに突き落とされたなんてとてもいえない。
跡部のことだ。何が何でも犯人をつきとめ何をしでかすかわからないだろう。
「暗くて足を踏み外したの」
差しさわりのない嘘をついたが、その途端に跡部の目つきが鋭くなった。
「……美恵、もう一度聞くぞ。何があった?」
跡部のインサイトが鋭く美恵を射抜いた。思わず無言になってしまった美恵に跡部は追い討ちをかける。
「美恵、何があったんだ」
先程より僅かだが口調がきつくなっている。これ以上の嘘は通用しないだろう。
「景吾、最初に約束して。感情的にならないって」
「あーん?それはてめえの答次第だ」
美恵は跡部に全てを話した。
「もう君達に期待しないよ!」
不二は懐中電灯を手に洞窟の奥に走っていった。
「不二先輩、よっぽど美恵さんの事が好きなんすね」
「うむ気持ちはわかる。俺も竜崎先生が行方不明になったらぞっとしていた」
「……失礼だけど部長の気持ちは俺にはわかんないっすよ」
森の向こうがやけに騒がしくなってきた。
「よくも俺をのけ者にしようなんてたくらんでくれたものだね、坊や」
「お、俺は兄貴の命令で仕方なく……!」
「お、おい手塚、あの声は……」
「うむ、どうやら幸村達のようだな」
「立海も彼女の捜索を手伝ってくれるのかな?だとしたら心強いぞ」
手塚と大石は素直に喜んでいたがリョーマは全く逆だった。
(不二先輩の弟、ばれたんだな……後で揉めるよ、まだまだだね)
姿を現した幸村を手塚は歓迎した。
「幸村、よく来てくれた。実は――」
「よくも俺を蚊帳の外におこうとしてくれたね手塚」
「何の事だ?」
「まあ、いいさ。その件は後でじっくりねっちりと追求させてもらうよ。
今は美恵さんの安否が最優先事項だ。それで彼女の足取りはつかめたのかい?」
「それがさっぱりなのだ。堀尾が何か知ってるようなのだが、この通り気を失ってしまっていてな」
「ふーん、気絶してるんだ」
幸村は冷たい目で堀尾を見詰めたが、ふいに近付くと突然水をぶっかけた。
「ゆ、幸村、何を!?」
「まだ起きない?だったら荒療治するよ。仁王、そこの木に逆さ吊りにしなよ。
頭に血液がまわって覚醒するだろうから」
「おい幸村。うちの一年に無体なことはしないでくれ!!」
部員を守るのは部長の使命。手塚は幸村の前に立ちはだかった。
「邪魔するんだ」
「当然だ。油断せずにいこう」
「意味がわからないよ」
一触即発の危機。その危機的状況に待ったをかけたのは乾だった。
「まあ落ちつけ二人とも。こんな事もあろうかと俺が素晴らしいものを発明した。
名づけて目覚まし乾汁。これを飲めば、どんなに熟睡している人間でもたちどころに目覚める優れものだ」
乾が手にしたコップの中にはドロドロの紫とも緑ともわからぬ液体。
目を覚ますどころか、そのまま三途の川を渡ってしまいそうな気がするが乾は止める間もなく堀尾を実験体に使用した。
「ぎゃあああああ!!」
苦悶の形相で絶叫する堀尾。乾は「実験成功」と満足そうに笑みを浮かべた。
「み、みみ水!水!!」
途端に幸村がバケツいっぱいの水をぶっかける。
「ご希望の水だよ。さあ話しなよ、この洞窟の中で何があったのか」
「は、はい。全部吐きます」
「突き落とされただと!?」
「突き落とされたなんて、ただ……」
言葉を選んだつもりだったが跡部は完全に怒りの頂点だ。
「さては犯人をかばっていやがるな。だが、おまえがどんなに言い方かえようが殺されかけたことにかわりはねえだろ!
ほかってなんておけるか。この島に人殺しがいるんだ、それもおまえを狙った!
そんな奴を野放しにしておいたら今度はかすり傷程度じゃすまないかもしれないんだぞ!!」
全くもって正論だ。確かに今回は運が良かっただけで一歩間違えたら、あの世行きとなっていた。
「すぐに探し出して何とかする必要がある。相手は誰だ!?」
「顔は見えなかったのよ」
「ふざけやがって!犯人を捜して砂浜に埋めてやる!!」
「景吾、感情的にならないって約束したじゃない」
「それとこれとは話が別だ!!」
(景吾がこんなんじゃ、これ以上は何も話せないわ)
暗闇で、しかも一瞬の出来事なので相手の顔が見えなかったのは確かだ。
だが美恵は全く相手の手掛かりをつかんでいないというわけではなかった。
暗闇の中に浮んだシルエットは、すっきりした体型で決して筋肉質ではなかった。
美恵と比較しても、そう身長は違わない相手だった。
この島にいる男達は今目の前にいる跡部をはじめとして立派な体格の持ち主が多い。
美恵とそうかわらない身長の男など自然と限定されてしまう。
(私の目測が誤っていたかもしれないけど、それを差し引いても155以上……170もないわ)
けれども今の頭に血が上りきっている跡部には言えない。
言おうものなら170以下の身長の男は全員拷問されかねない。
想像しただけで背筋に冷たいものが走り美恵は思わず身震いした。
「どうした寒いのか?」
跡部が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「そういうわけじゃないけど……」
だが確かに少し寒い。こんな場所に薄着で何時間もいたのだ。
美恵は思わず自分自身を抱きしめた。だが次の瞬間、ぐいっと引っ張られて気がついたときは跡部の腕の中にいた。
「け、景吾……!」
「あーん。こうすれば寒くねえだろ?」
跡部の胸に頭を埋める体勢になって美恵はこれ以上ないほど赤面した。
離れようとしたが跡部がしっかりと抱きしめ離さない。
(……温かい)
その居心地の良さに美恵は思わず瞼を閉じた。
(……そういえば昔は、よくこんな風に景吾に抱きしめてもらっていたわ)
2人で夜遅くまで遊んで、そのまま2人で寝てしまうこともあった。
裏山で遊んでいたとき、急に雨が降ってきて慌てて山小屋に入り寒くて2人で抱きしめたった事も。
「覚えているか?昔はこんなことよくあったな」
跡部がふいにそう言った。同じ事を思い出していた事に美恵は驚いた。
「私も同じ事考えていた」
すると跡部は嬉しそうに表情を輝かせ、「俺達は最高の相性だな」と、ますます美恵を抱きしめた。
その途端、頬に何か硬い物があたり、美恵は思わず「痛い」と声を上げた。
「どうした?」
「何か当たったわ。景吾、服の下に何か入れてる?」
跡部は「ああ、これか」と自分の手を首に伸ばした。銀の鎖のようなものが見える。
跡部がそれを引っ張ると鎖の先端にリングが通してあった。
「景吾、指輪なんて持ち歩いてたの?」
意外な趣味に美恵は少々驚いた。
「こいつは特別なんだ」
「特別?」
付き合いは長いが跡部が指輪を肌身外さず持ち歩いてるなんて初めて知った。
「何か特別な思い出でもあるの?初恋のひととか」
「あーん?俺の初恋はてめえだ」
「嘘」
「嘘じゃねえ。ガキの頃、結婚の約束だってしただろ。立派な初恋だ」
不審そうに跡部を見詰める美恵。跡部はばつが悪そうに前髪をかきあげた。
「……まあ若気の至りで少々女遊びが過ぎたから、てめえが信用できないってのも少しはわかる」
「少々……ですって?」
あまりの誇張に美恵は呆れたが、それでも自分が初恋の相手と告白され嬉しいのも事実。
「こいつは日本を出る数週間前に作らせたリングだ」
跡部はそのリングの内側に懐中電灯の光を当てた。
跡部と美恵の名前が浮かび上がり、美恵は驚いて跡部の顔を凝視した。
「……この合宿の間におまえと仲直りして渡すつもりだった」
跡部は美恵の左手を持ち上げ、その薬指にキスを落とした。
「予約用のリングとしてな」
「予約?」
「ああ、いずれおまえにはちゃんとして婚約指輪をやる。それまでの仮の婚約指輪だ。
おまえは俺の女だと、はっきり形にしておきたかったんだ」
美恵は俯いた。この異常な状況でのつり橋の恋だと疑っていた。
だが跡部は、そのずっと前から美恵との交際を真剣に考えていた。その証拠を見せつけられ美恵は動揺した。
「……どうして、それを言ってくれなかったの?」
「俺の態度だけで、おまえの心をもう一度つかむためだ。これを、その為の小道具にしたくなかった」
跡部は美恵の顔を両手で挟むと、顔を上げさせ、その目を真っ直ぐ見詰めた。
その熱い眼差しに美恵は眩暈がしそうだったが、それでも跡部の視線から目を離せない。
「美恵、おまえの本心を聞かせてくれ」
「おまえの心に、もう俺はいないのか?」
「景吾……私は」
「はっきり言ってくれ。おまえは俺を愛してくれていたはずだ。
長い間の俺の不実で俺に対する気持ちが冷めるのは当然だ。
もう完全に遅いのか?おまえの俺への気持ちはもう一欠けらも残ってないのか?」
美恵は何も言えなかった。否定はできない、かといって肯定の言葉も出ない。
「今も俺を愛してると期待していいのか?」
「……それは」
「はっきり言ってくれ。俺はおまえを愛している。信じられないっていうのなら、おまえが信じるまで何千回でも言ってやる。
だから、おまえも本心を打ち明けてくれ。頼む美恵」
美恵は困惑した。しかし逃げる事は跡部が許さないだろう。
「俺を今でも愛しているのか?」
もう跡部に対する気持ちが完全に冷めたといえば嘘になる。
だからといって簡単に愛してるなんていえない。
何と言っていいかわからず無言の美恵。その静寂さを打ち砕いたのは跡部だった。
「無言は肯定だと受け取るぜ」
跡部は美恵が逃げられないように後頭部に手を回すと強引に唇を重ねてきた。
「神尾が俺の美恵さんに危害を加えただって?」
幸村は平静を装い腕を組んでいたが、その口調は随分と冷たい響きがあった。
「堀尾、それ間違いないわけ?」
リョーマが確認すると、堀尾は「うーん、だと思うけど……」と頼りない返事をする。
「あれー?皆そろってここで何してるんすか?」
全員いっせいに振り向いた。神尾と伊武が不思議そうに此方を見て立っていた。
「声が聞えて騒がしいと思って来て見たら、こんな時間に何してんすか?
……ん?あれ……?どうして、皆、俺をそんな目で見るんだよ?」
二人揃って登場したのに、誰もが伊武を無視して自分を見詰めるのだ。神尾がぎょっとなるのも無理は無い。
幸村が一歩前にでた。その威圧感に神尾は思わず怯んだ。
「神尾、君に聞きたいことがあるんだ。返答如何によっては俺は容赦しないよ」
「ん……っ」
呼吸さえままならないほどの激しい口付け。角度を変え深く重ねられる唇の熱に美恵は気を失いそうになった。
「景吾、待ってよ……!」
ようやく唇が僅かに離れた隙をついて、その行為に制止を求めたが跡部は止まらない。
「あーん。てめえは強引な俺に惚れてたんだろう?」
再び強引に唇を重ねられ、おまけに舌まで入ってきた。
「待ってよ景吾!急にこんな事……あなたはやる事がメチャクチャすぎるのよ!!」
ようやく跡部から離れることに成功した美恵は激しく抗議した。だが跡部は全く怯まない。
「俺が嫌いか?」
「……!」
卑怯者と叫んでやりたかった。だが言葉がでない。
無言は肯定と受け取った跡部はある意味正しい。それに気づかないほど跡部のインサイトは錆びついてない。
「俺に触れられるのが嫌なら全力で拒絶しろ。それが、おまえの本心だというなら諦める」
「……それとこれとは」
「言ったはずだ。俺を止めたかったら拒絶しろ。それ以外の言葉は聞かねえ」
跡部は美恵を押し倒し貪欲なほど唇を重ねてきた。
「……やっ、景吾、こんな事やめて」
「聞こえねえな」
もう言葉すら言えなくなった。呼吸さえもままらない。
しかも、あろうことか跡部は服の中に手を入れてきたではないか。
(な、何て事するのよ!)
さすがにこれは焦った。美恵は抵抗を試みたが、跡部に押さえつけられほとんど無力な状態。
図に乗った跡部はブラジャーの中にまで手を入れてきた。もはや美恵の感情は爆発寸前。
(景吾の馬鹿!何、調子に乗ってるのよ!!)
そのままいけばどうなっていたかはわからない。だが運命の女神は跡部に逆らった。
突然、2人は光に包まれたのだ。眩しさに美恵は思えず手で目を覆った。
その光の向こうにシルエットが見え、美恵は慌てて跡部から離れた。跡部は面白く無さそうに舌打ちする。
「ふ、不二君!?」
光の正体は不二が手にした懐中電灯だった。
「……ここで何してたの?」
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