「あーん?」
美恵は跡部の胸ぐらを掴み責めた。
「あなた、ひとを殺したのよ!!」
「安心しろ。みね打ちだ」
「み、みね打ち……って。刺さってるじゃない!!」
「気にするな。俺は気にしちゃいないぜ」
「気にしなさいよ!!」
不動峰の者達は仰向けになっている橘の足首をつかむと絶叫しながら逃げて行った。
「これで、おまえに手を出すどころか恐れて近づかなくなるぜ。終わりよければ全てよしだ」
テニス少年漂流記―30―
「……ちっ、面白くねえ」
跡部はご機嫌斜めだった。美恵が怒って口をきいてくれなくなったからだ。
「俺が何をしたって言うんだ。ふざけやがって」
「……跡部、おまえって教養は人の何倍もあるのに一般常識が今いち欠けてるんだよな。
胸に手を置いて少しは自分の行為を顧みてみろよ」
「……はぁ」
「美恵、さっきから溜息ばっかだよ」
「……あ、ごめんなさいジロー」
跡部のおかげでジローと果物を採りにきても心が暗い。
「跡部の事、許してあげないの?」
「今度ばかりはね。だってひとを殺しかけたのよ」
がさっと音がして森の中から人が出てきた。不動峰の人間だ。
「あ、昨日はごめんなさい。景吾が――」
「うわぁー!逃げろ!!」
「あのひとにかかわると殺されるぞ!!」
美恵の謝罪もろくに聞かず、彼らは顔面蒼白になって一目散に全力疾走で走り去った。
「……美恵のこと完全に怖がってたね」
「……全部、景吾のせいよ」
美恵は俯きながらそばにあった岩に腰かけた。
ジローも草の上にちょこんと座った。
「あのさ。そのくらい跡部は美恵の事が好きなんだよ」
「……そうかしら?」
帝王様の意地じゃないの?
「跡部、美恵に愛想つかされた時ね。すごく怖がってたんだよ。美恵が遠くに行っちゃうって。
やっと仲直りできたと思ったらライバルが登場したから焦ってるんだよ。
早く美恵を手に入れないと取られちゃうって」
本当かしら?……でも。
「でも……他人を傷つける理由にはならないわ。皆で協力しなくてはいけないって時なのに……。
見たでしょ、さっきの態度。協力どころか嫌われてしまったわ。きっと他の学校の皆も――」
「そんなことないんじゃない?」
いつの間にか第三者がそばにいた。青学の驚異のルーキーだ。
「越前君……!」
「うちの不二先輩喜んでましたよ。これ以上敵は増えないって」
「「え?」」
「あ、俺が言ったなんて内緒にしておいてくださいよ。あのひと怖いから」
不二を誰よりも優しいと信じている美恵にとってリョーマの言葉には不可解な響きがあった。
「だから少なくても不二先輩はあんたから逃げ出すことはないよ。跡部さんの事だって全然恐れちゃいないんだ」
不二にこれからも友達として接してもらえる事に美恵は不思議と安心感を感じなかった。
なぜならリョーマの言葉の端に、何か裏の意味があるように感じたからだ。
「あんた、不二先輩には注意した方がいいよ。余計なおせっかいかもしれないけど」
「おーい不二、このくらいでいいか?」
佐伯は手作りの籠に果物をたくさん詰めていた。不二はというと花を摘んでいる。
(彼女、花が好きだった)
何とか口実を作り美恵に会いたかった不二。
そこで世話になったお礼を兼ねてお土産を手に訪問することを計画したのだ。
跡部がうるさいだろうが知った事じゃない。跡部の嫌味や脅しに心が痛むことなどない自信もある。
(僕はきっと心がかけた人間なんだ。その欠けた部分を埋めてくれるは美恵さんだ)
合同合宿で美恵に恋心を抱いた不二は何とかお近づきになりたいと必死になった。
だが跡部を初めとする氷帝の選手たちが邪魔して近づけなかった。
何より、当時の跡部と美恵の間には不二が入る隙間などまるでなかった。
(無ければ作ってやるまでだ。だから、あの女を使ったんだ)
クラスメイトだった一人の女。可愛い系の美少女でスタイルもなかなか。
男に対する媚や甘え方が上手で人気者だった。その彼女が氷帝に転校していった。
不二にはどうでもいい女だった。だから何事もなければそのまま忘れるはずだった。
数日後、偶然再会した時も不二は言葉もかけずにそのまま通り過ぎようとした。
ところが女の方から声をかけてきたのだ。正直うざいと思った。
だが、次に女が発した言葉はブラックホールのように不二の心を吸引した。
『跡部君ってすごく素敵よね。あたし彼と付き合いたいけどライバル多くて。
不二君って跡部君の事よく知ってるんでしょ?良かったら何かいい情報教えてくれない?』
女は単に跡部の個人情報を知りたいと思っただけだった。だが不二は違った。
不二の心に悪魔がささやいた。これはチャンスだと盛大に踊り狂う悪魔が。
『僕で良ければ協力するよ』
『協力、それどういう事?』
『個人情報なんか知ったところで君は跡部ファンの一人って立場からは動かない。
僕の言うとおりにするんだ。僕は跡部の性格はよく知っている、僕の言うとおりに動けば彼は落ちるよ』
あの馬鹿女を跡部好みの女に調教するには少々手間取ったが結果は上々だった。
(……そうだよ。全てが上手く言ってたんだ。なのに今さら)
「跡部にはまいったよな」
佐伯の言葉に不二はハッとして顔を上げた。
「何だよ不二、聞いてなかったのか?」
「……あ、ああ、ごめん」
「珍しいな、おまえが上の空なんてさ。とにかく跡部は無茶苦茶なんだよ。
俺を洞窟に閉じ込める、逆さづりにする、挙句に彼女に近づいたら殺すって脅迫だぜ」
「そうだね。あれじゃあ美恵さんが可哀想だ。
これ以上彼女を追い詰めないためにも、佐伯、君も彼女とはかかわらない方がいいよ」
「だよな。俺だって跡部に殺されたくないよ」
「そうだよ。君子危うきに近寄らず……っていうしね」
佐伯は無駄に男前だが無害な男、それが不二の認識だった。
「けど跡部がヤキモチやく気持ちわからなくもないよな。彼女、美人だし」
「!」
その時、不二の口元が僅かに引きつったが佐伯はまるで気づかなかった。
「俺が跡部の立場でも同じ事するかも。それに彼女魅力的だし帰国したらデートにでも誘ってみようかな?」
「……佐伯」
「ん?何だよ、不二」
「君だけは信じていたのに」
「何、佐伯が行方不明だあ?」
跡部は不機嫌そうに言った。美恵がジローと二人きりで出掛けたのが気に入らないのだ。
そんな時に不二の弟・裕太が持ち込んだ事件。本来、跡部にはどうでもいいことだった。
「急に姿が見えなくなって兄貴が心配してるんだ。跡部さん達、佐伯さんを見なかった?」
「知るか、こっちは今は佐伯どころじゃねえ。その辺りをふらついてるだけだろ」
「そうだといいんだけどな。兄貴は佐伯さんと仲良かったから飯も喉通らないくらい気にしてるんだ。
この島無駄に広いし、もしかして迷ってんじゃねえかって。夜になったら獣もでるから危険だし……」
裕太は本当に心配していた。佐伯自身の事も気がかりだが優しい兄の悲しむ顔は見たくなかったのだ。
「もし佐伯さん見かけたら早く帰るように言って下さいよ」
裕太はそのまま立海が棲家にしている洞窟に向かった。
「……な、何だここ?」
洞窟の前には看板が掲げられていた。『たるんどるっ!!』と。
「何かおどろしい雰囲気がするな……」
裕太はそっと中を覗いてみた。その途端、背後から何者かに背中を押され洞窟の中に転がり入った。
慌てて起き上がろうと顔を上げると真田が背後に立ちはだかっていた。
「貴様は不二の弟。何しにきた!」
「……さ、真田……さ」
真田は肩にマフラーのごとく蛇をかけていた。おまけに手には巨大トカゲ。
「さては、この獲物の臭いを嗅ぎつけてきたのだな」
「と、とんでもない!!」
裕太は全力で否定した。
「佐伯さんが行方不明なんですよ。だ、だからこっちに来てないかと――」
「幸村はどうした?」
「え?」
見ると、洞窟の奥にベッドがしつらえられている。
体調が回復した途端、跡部に追い出された幸村の為に真田が作ったものだ。
「だが、ここに連れてきた途端、なぜか幸村が再びダウンした。原因は不明だ」
「……げ、原因って」
裕太はやっと冷静になって周囲を見渡した。
岩壁に爬虫類とも両生類ともわからない動物がずらーと掛けられている。
どうやら真田が捕えた獲物を干したものらしいが、裕太には呪術の道具にしか見えなかった。
「あの……もしかして、これが飲み水?」
洞窟の隅にはバケツが置かれ泥水が入っていた。
「近くに沼があるのだ」
「沼の水なんて衛生的に良くないですよ。川まで行かないんですか?」
「愚か者め!距離がありすぎるではないか、近くにいい水場があるのに、なぜそんな無駄なことをする必要がある!」
「……幸村さんが体調崩した理由わかりましたよ」
「幸村だけではない。ブン太も赤也も最近腹の調子が悪い、たるんどる!!」
「……そうっすか。じゃあ俺はこれで」
真田とかかわったらとんでもないことになりそうだ。裕太は用件もそそこにに立ち去った。
「越前君、それどういう意味なの?」
「あまり聞かないでくれると助かる。俺も立場があるんでね。
それに、これは俺の推測の域をでてないから、これ以上は言えない」
リョーマは、それ以上は何も語らなかった。美恵も追及はしなかった。
「あ、あんな所に!おーい越前、おまえ何油売ってんだよ!」
青学の一年トリオが走ってくる。リョーマは「じゃあ、これで」と立ち去ろうとした。
「待ってリョーマ君。良かったらこれ」
美恵はリョーマに果物を差し出した。
「不二君や皆で食べて」
「ふーん、サンキュ」
「ねえジロー、ちょっと寄りたい場所があるんだけどいい?」
「うん、いいよ。どこに行くよ?」
「果物いっぱい取れたから幸村君達におすそ分けしようと思って。まだ体調悪いと思うのよ。
いっぱい栄養とって早く元気になって欲しいもの」
「あー、そうだよね。跡部が強引に追い出したC」
「それから景吾に知られたら厄介だから内緒にしてくれる?」
「うん、いいよ」 二人が森の中に入った直後に一年トリオが到着した。
「越前、おまえ誰と話してたんだよ?」
「氷帝の芥川さんとマネージャーだよ」
「ええ!?おい、おまえ大丈夫なのかよ。あの人と仲良くしたら跡部さんに何されるかわかんないぞ」
「その跡部さんいないじゃん。現場にいない時まで怯えることないだろ」
「そりゃそうだ」
堀尾は納得したようだ。同時に紙が落ちてるのを発見した。
「何だ、これ。地図?」
それは跡部と忍足が苦労の末作成したこの島の地図に、立海や青学など他校の棲家が新たに加筆されたものだった。
ジローがうっかり落としてしまったのだ。
「ジロー、真田君達の洞窟って、もう少し先だったかしら?」
「ちょっと待ってて」
ジローはズボンのポケットに手を突っ込んだ。しかしあるはずの地図がない。
「ない。地図がないよ」
「え?どうしよう、戻る?」
「んー?大丈夫だよ、確かこっちだったから」
ジローは美恵の手を引いて歩き出した。しかし、どんどん森の奥に入って行っているようだ。
「ねえジロー大丈夫?こんな場所、一度も来た事ないから迷ったら大変よ」
「大丈夫だよ。ほら見えてきた」
確かにジローが指差した方角に洞窟が見えた。
「あそこで間違いないよ!」
ジローは走り出した。慌てて美恵も後を追ったが、やはりジローの方が速い。あっという間に洞窟の中に入ってしまった。
「ジロー!」
呼んだがジローの返事はない。それどころか立海の面々の姿も見えない。
「本当にここが幸村君達の……?」
人間が住めば、その跡が残るはずだ。だが、ここには全く生活感が感じられない。
「ジロー?」
ジローは相変わらず出てこない。美恵は携帯していた小型の懐中電灯を取り出し中に入った。案外深い。
「どこに行ったのかしら?」
しばらく歩くと枝分かれのように穴がいくつも増えていた。
「困ったわ……どうしよう」
懐中電灯で辺りを照らしてもやはり人の姿はない。
カツーン……と足音が聞こえた。右から三番目の穴からだ。
「ジローなの?」
美恵はその穴にはいった。そして進んだ、また足音が聞こえた。
「ジロー、そろそろいい加減にして出てきてちょうだい。どうしたって言うのよ?」
相変わらず足音だけで返事がない。美恵はさらに歩いた。
(ジロー、どうして返事をしてくれないの?)
その時だった!ぽんと誰かが背後から肩に手を置いた。
振り向こうとした瞬間、美恵は突き飛ばされていた。
(――え?)
洞窟の傾斜を転がり落ち、谷底のような場所に落下した。
「……ど、どうして?」
懐中電灯は見当たらない。それよりも体中が痛い。
そして走り去っていく音だけが洞窟内にこだました。暗闇の中、美恵は、ただ一人置き去りにされた。
――部長。起きて下さいよ、部長。
意識の彼方から自分を呼ぶ声が聞こえる。
(……誰?俺は今、幸せなんだ……だから起こさないでくれ。頼むから)
「部長、大丈夫っすか!?」
「幸村、しっかりしろい!」
「……赤也、ブン太?」
瞼を開けると二人の顔が瞳に飛び込んできた。
「よかった。心配したんすよ、どうして一人でこんなところに来たんですか?」
幸村は丘の上の岩陰で眠りについていた。立海の棲家とはかなり離れている。
丘はそのまま断崖絶壁に繋がっており、下には荒れ狂う波が見える。
もしも足を滑らせてしまったら二度と生きて浮かび上がらないだろう。
「危ないだろ、こんな場所で寝るなんて。おまえらしくないじゃないか」
二人は本当に心配したようだ。しかし幸村は起こして欲しくなかった。
「……すごく気持ちよく寝てたんだ。どうして邪魔したんだい?」
「どうしてって……」
「部長、あんた泣いてたじゃないっすか」
幸村は手を目元にもってきた。指に滴がついた。
「涙……俺が流したのか?」
「怖い夢でも見たのかよ幸村?」
「……怖い夢?」
「さもなきゃ悲しい夢とか」
「……悲しい?」
「……違うよ。その逆だ」
幸村は両手で顔を覆った。
「……最高の夢だった」
――涙がでるくらい幸せすぎて。ずっと見ていたい夢だった。
『美恵さん、俺の好みって知ってる?』
『確か健康な人だったわよね』
『それは表向きだよ。本当はね――』
『奴隷になってくれる子なんだよ』
『指示に背いたらお仕置きなんかして困惑する表情をみたいんだ。
だから美恵さんには俺好みの女性になってもらわいと困るんだ』
『やめて幸村君、何をするの!?』
『何って縛ってるだけだよ。いいよ、その顔。俺が思った通りだ。美恵さん、素質あるよ』
「……幸せだったのに、あれは夢の中だけで……目が覚めると現実は違うんだ。
どうして俺は幸せになれないんだろう?病気で好きなテニスもろくにやれない。
せめて、この夢だけはかなえたいって思ってもいいと思うのに邪魔がはいる……」
「……部長」
切原は思った。どんな夢かは知らないが、この幸村が涙まで流すなんて、きっと切ない内容だったのだろう。
薄幸の幸村の為に、夢が現実になるようにと祈らずにおられない切原だった。
「あ、幸村。靴が脱げてるぜ」
片方だけの靴が転がっている。丸井はそれを拾ってきた。
「ほら履けよ」
「ブン太、俺はちゃんと靴はいてるよ」
「あれ?あ、本当だ。これ色違うじゃねえか。だったら誰の靴だ?」
丸井は靴をもう一度じっくり見た。すると名前を発見した。
「何だ、これ佐伯の靴じゃねえか」
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