「……困ったわ」
美恵は残りの食糧を前に困惑していた。
美恵、どうしたんや?」
背後から忍足が抱きしめてきた。抱きしめるだけならまだしも、耳にキスまで!
思わずビクッと硬直。すると「可愛いな。照れてるんか?」と見当はずれの台詞まで。

「てめえ俺の美恵に何してやがる!」

跡部が鬼のような形相で走ってくるなり美恵から忍足を引き離した。
美恵に近づくなと何度言えばわかるんだ!」
美恵は自分の女やない。これは俺の自由恋愛や!跡部にとやかく言われる筋合いはないで!」
「何だと、この強姦魔!美恵が許したからって調子に乗りやがって!!」
「調子に乗ってるのはどっちや。この浮気者!自分こそ今更美恵を手に入れようなんて図々しいんや!!」
美恵は頭が痛くなってきた。

「ちょっといい加減にして。今は喧嘩どころじゃないのよ!!」




テニス少年漂流記―19―




「宍戸さん、傷は痛みませんか?もし怪我が治らなかったら、俺一生そばにいて支えますから」
「大袈裟だな長太郎は。安心しろ、そんなヤワじゃねえよ。そんな気遣い無用だ」
「……あの気遣いじゃなくて俺は心の底から」
「ねえねえ静かにしてよ」
宍戸と鳳の会話にジローがストップをかけた。
「どうしたジロー?」
「何か深刻そう」
昨夜、めでたく美恵と和解して全員そろってここで救助を待つことになった。
樺地と日吉は残った荷物を取りに戻っている。ジローと鳳は宍戸と向日の面倒を見ていた。
食事は美恵がしてくれる。朝食は久々にまともなものを口にする事が出来た。
何より以前のように美恵の笑顔があるというだけで雰囲気がまるで違う。
男所帯に咲く一輪の花。後は救助がくるのを待つだけ。
ここに遭難してからもうかなりたつのだ。そろそろだと誰もが思っていた。




「見て。食料がもうこれだけしかないのよ」
クルーザーから引き揚げた食料は随分少なくなっていた。
元々帰路の食糧は目的地で調達する予定だったのだ。まだ量が十分なのは調味料と米と小麦粉くらい。
「私達、今回の遭難を甘く見てたかもしれないわ。私だって4、5日もすれば救助がくると思ってたもの」
それは跡部と忍足も同じだった。
「でも、そんな気配ないし。予定よりも数日かかると思った方がいいわ。
今のうちにクルーザーにあるものは全部持ち出した方がいいと思うの。
いつ沈むかわからないし、それに万が一のこと考えて……」
万が一、その言葉の意味を跡部も忍足も容易に推測できた。


「この島は無人島で周囲に島もないみたい。きっと絶海の孤島よ」
「島なら他にもあるぜ」
跡部の言葉に美恵は期待を込めた目で顔を上げた。
「島の反対側から数キロ先にもう一つ無人島があるだけだ。おまけに、この島よりもずっと小さいぜ」
美恵はがっかりと肩を落とした。
「そんな落胆せんといて。俺がついてる、な?」
「ありがとう忍足」
美恵の言うとおり、今のうちにクルーザーから持ち出せるもんは全部持ち出した方がええな。
今から二人で行こう?後の事は跡部に任せて」
「ふざけるな忍足、行くのは俺と美恵だ」
「何やて?」
またしても陰険なムードが漂いだした。




「侑士、侑士!」
樹の上から向日が呼んでいる。
「何や?」
「ちょっと来てくれよ。なあ水持ってきてくれ!」
「それくらい鳳に頼めや。俺は忙しいんや!」
「何だよパートナーじゃなかよ。くそくそ侑士!」
「そのくらいしてあげなさいよ。岳人は大事なパートナーじゃない」
美恵は怒っている。忍足はしまったと思った。
(あかん、美恵の中で俺の株が下がっとる!)
忍足は、「冗談や冗談」とすぐに水筒を手に小川に走って行った。
そして戻った時には、美恵と跡部の姿は消えていた。














「あれが、もう一つの島ね……本当、誰もいないわ」
跡部に案内された丘から双眼鏡をのぞくと、この島の半分もない小島がよく見えた。
跡部が言ったように、やはりあちらも無人島のようだ。
「お米と小麦粉だけでもたくさんあってよかったわ。主食の心配は当分しなくて済むもの。
でもおかずを作るための材料はもうすぐ底をつくわ。それまでに何とかしないとね」
「おまえは心配するな。俺がついてる限り飢え死になんてさせねえよ」
二人は倒木に腰かけた。


美恵、おまえはあの場では言わなかったが、万が一ってのは――」
「……ええ、もしかしたら私たちの捜索が打ち切られるかもって。こんなこと皆の前では言えないけど」


最初は楽観的に考えていたが、ここに漂着して以来、救助はおろか船舶も飛行機も全く目にしてない。
双眼鏡で毎日定期的に海や空を見つめたが、ただの一度もだ。
もしかしたら救助隊は全く違う場所を探しているかもしれない。
そして、自分たちは海の底に沈んだと思われ救助が打ち切られるかもしれない。
この島で何週間も、いや下手したら何年も偶然近くを通る船が来るまで待たなければならないかもしれない。
「……もちろん、そんな事は杞憂だって願いたいけど」
ロビンソン・クルーソーが20年も原始生活を余儀なくされた時代とは違うのだ。
きっと救助船が来る。救助船でなくても、何かの船が近くを通りかかる事があるだろう。
しかし一抹の不安はどうしても拭いきれない。




「大丈夫だ。おまえは俺が守ってやる」
跡部は美恵の肩を抱き寄せた。
美恵、俺は」
跡部の顔が近づいてくる。美恵は慌てて跡部の胸を押し返した。

「駄目よ」
美恵?」

跡部は美恵のさりげない拒絶に僅かながらショックを受けたようだ。

「……やっぱり、まだ俺の事許せないのか?」
「違うわ。言ったでしょ、大事な仲間だって」


「だったら、なぜだ」
ずっと美恵は跡部を愛していた。遠回りしたが跡部も自分の気持ちに気付いた。
そして和解も成立した。もう何の障害もないと思っていた跡部にとって、美恵の拒絶は計算外だった。




「景吾……本当に私の事好きなの?」




「俺の気持ちを疑っていたのか!?」
美恵がびくっと硬直した。跡部はハッとした。
「悪かった、怒鳴るつもりはなかったんだ」
よくよく考えてみれば自分がしてきた仕打ちを思えば、美恵が疑うのも無理もない話だ。
「……そうじゃないの」
「……美恵?」
美恵は悲しそうに跡部を見つめた。


「私を大切に思ってくれる景吾の気持ちは信じてる。でも、それは幼馴染としてなんでしょう?」


美恵はゆっくりと立ち上がると跡部に背を向け話を続けた。

「景吾が私の事を好きなのは幼馴染としてで、一人の女としては――」
「愛してるに決まってるだろ!」


跡部は慌てて美恵の肩をつかみ自分に振り向かせた。
「おまえは俺にとってただの女じゃないんだ」
幼馴染であり妹であり親友であり仲間であり家族であり、そして愛する恋人。
跡部は強い調子でそれをはっきり伝えた。しかし美恵は信じられないのか嬉しそうな顔をしない。
「……景吾、あなたは勘違いしているのよ。今はこんな状況だから」
美恵は悲しそうに跡部から目をそらした。


「こんな状況だから、だからそばにいる女を特別だと錯覚してるだけなのよ。
ほら、よく言うじゃない吊り橋の恋……って。あなたが今、私に感じている気持ちがそれよ。
本当の意味で私を必要としているわけじゃない。元の世界に戻れば、すぐに消える気持ちだわ」


跡部はようやく美恵が抱いている不安や疑問を理解した。そして即座に否定した。
「違う。俺は遭難する前から俺にとって大事な女はおまえだと気づいて後悔してたんだ」
必死になって説明したが、美恵は簡単には信じてくれない。
手を伸ばせばすぐに届く位置にいる女を、ずっとほったらかしにして他の女と付き合ってきたのだ。
美恵が疑うのも当然といえば当然。だからといって大人しく引き下がってもいられない。


「……だったら帰国しても俺の気持ちが変わらない事がわかれば、おまえは俺を受け入れるのか?」
美恵は言葉が出ず、ただ跡部を見つめた。
「戻ったらすぐに婚約発表だ。卒業したら籍も入れるからな」
「なっ……ちょっと待ってよ!」
「この俺がおまえの気持ちを尊重して待つって言ってんだ。これ以上は譲歩しねえ」
「譲歩って……勝手に決めないでよ」
美恵は焦ったが跡部は前言撤回する気は全くない。
「ぐずぐずしてたら、おまえを他の男に横取りされかねないからな。そんなのはごめんなんだ!」
「私の人生よ。決めるのは私だわ」




「おまえ一人の人生じゃねえ!俺とおまえとの人生だ!!」




美恵は呆気にとられて声もでなかった。
「忍足でも不二でもねえ。おまえの運命の相手はこの俺だ」
跡部は美恵を抱き寄せると、強引に唇を重ねてきた。
「やめ……っ」
突然の行為に驚いて離れようとする美恵だったが、跡部がそれを許さない。
一度、唇が離れたかと思うと、再び強く重なってくる。そして口内に跡部の舌が侵入してきた。
貪るような激しい口づけに美恵は立っていられなくなり、その場に倒れるように座り込んだ。


「景吾……お願いだから、もう……」


虚ろになっていた美恵の視界に人影がうつる。ハッと意識が覚醒した。
その瞬間、美恵の角膜に今度ははっきりと日吉と樺地の姿が!

「……ひ、日吉君、樺地君!いつから、そこに……!」
「……おまえの下剋上の相手は俺だ……くらいでしょうか?」

微妙に違うが、一番やばいところから目撃されていたという事ではないか!
「どうして黙って見てたのよ」
「先輩達の下剋上を邪魔したら悪いと思ったんですよ」
「……だ、黙って見てる方がずっと悪いわよ!」
美恵は立ち上がると、さっさと歩き出した。すぐに跡部が後を追う。


「おい、そんなに怒るなよ」
「こんな恥ずかしい思いをしたのは景吾のせいよ!」
「あーん?あんなもので恥ずかしがるなよ。後輩の後学の為に見せつけてやったと思えばいいじゃねえか」














美恵先輩、シーツや毛布も運びだしましたよ」
「ありがとう。カーテンもいいかしら?」
「カーテンもですか?」
「ええ、もしもってときには役に立つと思うの。これで服だって作れるしね」
日吉と樺地も手伝ってくれ、クルーザーからあらゆるものを運びだす作業が始まった。
「不必要だと思えるものも後で役に立つかもしれないから。とにかく運べるものは全部運んで」
「ウス」
「下剋上だ」
跡部と二人きりでは気まずい事、この上なかったかもしれない。
それに樺地は腕力があり、重い家具類も軽々と運び出してくれる。とても助かった。


「ありがとう。今日はこのくらいにしましょう」
「じゃあ明日もやるんですね。自分も手伝います」
「樺地君がいれば百人力だわ。お願いね」
かなりの重労働だったので随分と汗をかいてしまった。
(あの滝壺でまた水浴びしようかしら)
男達と違って女の子は奇麗好きなのだ。美恵はいそいそと滝壺に出掛けることにした。
するとお得意のインサイトで美恵の行動を予測した跡部が後をついてきた。


「景吾ついてこないでよ」
「あーん?いいじゃねえか、俺様もさっぱりしたいんだよ」
「だったら私があがってからきて。でないと絶交よ」
「ちっ、卑怯者め」
跡部は非常に不本意だったらしいが、二度と仲違いはごめんなのか大人しく少し離れた場所で待つことにした。




「景吾は……追ってこないようね」
もしかして、こっそり後を追ってきて、また覗き見するのではないかと疑ったがその心配はないようだ。
(景吾のこと疑いすぎたみたい。そうよね、嘘だけはつかないひとだもの)
美恵は安心して滝壺にたどり着いた。だが不思議なことに人の気配がある。
(水音まで……誰かいるのかしら?)
しかし誰もいない。気のせいだったのだろうか?
(きっと動物だったのね)
美恵は、そう判断してボタンをはずしだした。すると木の葉が落ちてくる。
思わず見上げた。その瞬間、美恵は、この島に漂着して以来最大級ともいえる衝撃を受けた。

美恵やったのか。だったら何も隠れることなかったなあ」

人の気配がしたのは間違いではなかった。何と先客がいたのだ、それは忍足だ。
「……き」

ただ一つ重大な問題がある。それは――忍足は全裸で水浴びをしていたのだ。


「きゃー!!」









美恵の悲鳴!」
待機していた跡部は不測の事態にすぐさま立ち上がった。
「いや、来ないで!」
「待つんや美恵!」
そして見た。美恵が忍足に追われ全力疾走する様を。

「忍足!白昼堂々と俺の女を襲うなんてふざけるんじゃねえ!!」

跡部は瞬間湯沸かし器のように激怒した。その状況を見れば誤解するのも仕方なかったであろう。
こうして、またしても跡部と忍足による壮絶な肉弾戦が勃発。
我に返った美恵が必死になって止める羽目になったのだ。




「……じゃあ本当に美恵を犯すつもりはなかったんだな?」
「だから何度も説明したやないか」
「ごめんなさい。今度の事は私が悪かったわ……頭の中が真っ白になっちゃって」
「だが一つ疑問がある。てめえ何で隠れやがった」
「せやから美恵が近づいてきたから。俺は恥ずかしがり屋さんなんや」
「服着れば済むことだっただろ。何で隠れて美恵が脱ぐのを見てやがった」

「…………」
「てめえ、やっぱり美恵の裸を見るつもりだったんだな!」


トラブルはあった。しかし以前のようなギスギスしたものではなかった。
だが美恵達は知らなかった。この平穏が予想外の者達によって破られることを――。




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