美恵は夕食の後片付けをしていた。樺地とジローが手伝ってくれるので炊事も随分楽になった。
「早く木の上にあがりましょう。夜行性の獣が活動する時間だもの」
「うん。ここなら見張りたてなくて安眠できるしね」
「……そうです。地上では火を絶やすこともできず大変でした」
美恵は宍戸達の事が気になった。自分の時と違い男三人だから大丈夫だと思うが心配だ。
すると海岸の方から足音が聞こえてくるではないか。まさか例の狼ではないかと美恵は思わず身構えた。
だが暗闇から姿を現したのは狼ではなく日吉だった。
「日吉君、どうしたの?!」
何があったのか随分と慌てて走ってきたようだ。
「……水。水を一杯いただけないですか?」




テニス少年漂流記―18―




「ん……?何だ、あれは日吉じゃねえか」
「何やて!まさか、あいつもここに住むつもりじゃないやろうな!」
木の上から地上を見下ろした跡部と忍足はすぐに降りてきた。
「おい日吉、ここに何の用だ?最初に断っておくが俺と美恵の邪魔はするんじゃねえぞ」
「ここは俺と美恵の愛の巣や。全く次から次へと、自分ら常識ってもんわきまえてないんか?」
次の瞬間、跡部と忍足が喧嘩を始めていた。
「ちょっとやめてよ!樺地君、ジロー、二人を止めて!!」
三人で慌てて間に割って入った。その間、日吉は水を飲みほし、ほっと一息ついていた。


「一時はどうなることかと思いましたよ」
「日吉君、一体何があったのよ?」
「何って……まあ、大したことじゃないんすけどね。いや、大したことかな?」
「宍戸と鳳君はどうしたの?」
「下剋上があったんですよ。あ、もう一杯水いいっすか?」
美恵はコップを差し出した。
「下剋上……って。わかりやすように説明して」
「火が消えかかったんですよ。で、下剋上がおきて宍戸さんは自分が食い止めるから俺達には逃げろと。
俺は素直に従ったんですけど鳳はあの通り宍戸さんから離れらない性分なもんで置いてきました」


「……どういう意味?もっとわかりやすく説明してちょうだい」
「何もかも話したのにわからないんですか?美恵先輩は案外鈍いひとだったんですね。
わかりました、最初から話しましょう」
日吉はまず二杯目の水を飲みほした。
「実は狼が下剋上を……」
「狼!?」
美恵はようやく事情を理解した。




「狼が襲ってきたのね!?」
「そうともいいます」
「それで宍戸と鳳君を残して、あなただけ逃げてきたの?!」
「先輩命令でしたからね。安心してください、逃げ切ったのでもう追ってきませんよ」
「そうじゃなくて、今、二人が襲われてるってことなんでしょう!?どうして、もっと早く言わないのよ!!」
「だから最初から説明したじゃないですか」
美恵は、もっと言ってやりたかったが今は日吉を責めている余裕はない。
「早く助けにいかないと!」
美恵先輩、自分も行きます」
「俺も行く!」
すかさず樺地とジローが名乗りを上げた。一刻の猶予もならない、すぐに出発しなければ。


「急ぎましょう」
「駄目だ!」

美恵の腕を跡部が掴んだ。
「どうして止めるのよ。宍戸と鳳君が殺されるかもしれないのよ!」
「てめえが行ったら奴らが喜ぶだけだぜ。野郎より若い女の肉の方が美味いだろうからな」
「跡部の言う通りや。俺が狼でも宍戸達より自分を襲うで」
「てめえは黙ってろ!とにかく、おまえは残ってろ」
「そんなことできるわけないでしょう!」
こうしている間にも宍戸と鳳はすでに息絶えているかもしれない。想像するだけで美恵は気が遠くなりそうだった。


「おまえにとって、あいつらはもうどうでもいい存在じゃなかったのかよ?」
「何を言うのよ!」




「大事な仲間なのよ。見殺しにできるわけないじゃない!!」




「……あ」
美恵は自分の言葉に驚愕した。跡部の言うとおり、もう自分はテニス部に仲間意識なんかなかったはず。
それなのに確かに言った。宍戸達を『大事な仲間』だと。

「……それが本心かよ。とにかく、おまえとジローは残ってろ。忍足、樺地、行くぞ!」

「ウス!」
「何で俺まで……仕方ないなあ」
「気を付けて下さいね跡部さん」
「日吉、てめえも来い!」
跡部は三人を引き連れて駆け出した。
「いいかジロー、すぐに美恵を木の上にあげて見張ってろ!絶対に勝手な行動はとらせるんじゃねえぞ!!」














「…………」
美恵、大丈夫だよ。跡部達が助けに行ったなら、もう安心だよ」
ジローは跡部の命令に従い美恵を安全な樹の上に避難させた。辺りは静かで狼どころか小動物の気配もない。
仮に獣が現れても、ここなら安全だ。跡部の判断は正しい、女の美恵は残って正解だっただろう。


(……私、もうテニス部に未練なんかないはずだったのに)


それなのに宍戸と鳳の命が危ないと知った瞬間、理屈ではない感情が湧きあがっていた。
他人を見殺しにできないという人道的な理由ではなく、もっと単純なものだった。
「くそくそ、こんな怪我してなかったら俺も助けに行ったのに」
向日は悔しそうに自分の脚を叩いている。


(岳人の時もそうだった……急流に岳人が呑み込まれた瞬間、心臓が止まるかと思った)


もしも宍戸と鳳に何かあったらと思うと胸が苦しい。
美恵は激しく後悔していた。狼の危険は襲われた自分が一番よくわかっている。
地上で暮らしていれば遅かれ早かれ、こうなることは予測できた。
「……二人にもしもの事があったら私のせいだわ」
美恵は震えていた。その手の甲にはポタポタと大粒の涙が落ちている。


「……私が意地を張って皆を拒絶していたから……もっと早く仲直りしていたら……」
美恵、何を言ってるの?」
「お、おい美恵。どうしたんだよ?」
「ここなら安全だから、皆ここで住めば良かったのよ。そうすれば狼に襲われることもなかった。
ちょっと考えればわかることなのに、私は過去にこだわって……」
自分を姉のように慕ってくれた鳳、不器用だけど宍戸も以前は本当に優しくしてくれていた。
ここ数か月の不仲で美恵はそれを忘れていた。

「ジロー、どうしよう。もしも……もしも二人が死んだら――」




美恵、俺だ!」
跡部の声だ。美恵は慌てて縄梯子をつたって地上に降りた。
鳳が肩を押さえて立っている。無傷というわけではないが重傷でもない。
「鳳君、無事だったのね。よかった……!」
「俺は大丈夫です。……でも宍戸さんが……宍戸さんが……!」
鳳はその場に崩れるように膝をついた。
「……まさか」
美恵は震えながら振り返った。樺地が宍戸を抱きかかえている。
駆け寄って見ると宍戸は瞼を閉じ微動だにしない。
顔色に血の気はなく、ぶらんと垂れ下がった手の先から血が滴り落ちていた。


「……そんな」
美恵は即座に最悪の結果を連想した。それを裏付けるように鳳が号泣した。
「俺が……!俺が死ねば良かったんです……宍戸さんの代わりに俺が……うわあー宍戸さん!!」
「景吾、嘘でしょう!」
美恵は跡部に詰め寄った。これは悪い冗談だ、それを跡部に証言して欲しかった。
「宍戸の最後の言葉だ……『美恵、悪かったな』」
美恵は意識がかすむような感覚に襲われた。


――私のせいだわ。


「こんな事になるのなら、つまらない意地なんか張らずに仲直りしていれば良かった!」
美恵は顔を両手で覆い声をあげて泣いた。
美恵、それは本心か?」
跡部が訪ねてくる。
「ええ、そうよ。もう遅いけど……今更遅いけど……!」
「俺達の事を許せないんじゃなかったのかよ。だから退部するって言ってたよな。
おまえがそう思うのも仕方ない。宍戸がこうなったのも自業自得だ、おまえのせいじゃないぜ」
跡部は気にするなと言わんばかりだったが、美恵は頭を左右に振った。


「いいえ!私のせいよ。私が馬鹿だった、私の苦悩なんて仲間の命と比べたら大した問題じゃないわ。
それなのに私は宍戸を拒絶した。私が……私が宍戸を……殺したのよ!」
「はあ?てめえ、何を言ってやがる。なんで、てめえのせいになるんだ?」
「そうや、ついでに付け加わると宍戸はこうも言ってたで。『忍足と仲良くな』ってな」
横から忍足がでてきて美恵の両肩にそっと手を置いた。
「何、言ってやがる。『跡部と幸せになってくれ』だろうが!」




「……俺はそんな事言ってねえ。何だよ、おまえら」




美恵はハッとして顔を上げた。
「……し、宍戸?」
「……よお美恵……痛ぅ」
宍戸は笑おうとしたが、激痛が走ったのか、その笑顔は歪んだものだった。
「あ、あなた死んだんじゃ……」
「……この通り生きてるぜ。もっとも奴らに飛びつかれて意識失った時はマジで死んだと思ったけどな」
「だ、だって鳳君が自分が死ねば良かったって」
鳳は今だに号泣している。


「そうですよ。宍戸さんにこんな大怪我負わすくらいなら俺が死んでいた方が良かったんです!
宍戸さんの肉体をキズモノにしてしまって……一生全力で守ると誓ったのに!」
「……だそうだ。長太郎は大袈裟なんだよ」
「でも景吾と忍足が……!」
そこまで言って美恵はようやく気が付いた。そういえば跡部も忍足も『死んだ』とは一言も言ってない。


「……どういう事?」
「……どうもこうもねえよ。それより俺達の事、許してくれるんだろ?」
「……そうそう、確かに俺も聞いたで」


「この……最低男!!」


美恵は二人に飛び掛かった。
「馬鹿、馬鹿!この人でなし、よくもこんな酷い事が出来たわね!」
「おまえ、さっきと言った事が違うじゃねえか!」
「そうや!自分の言った事に責任もたなあかんやろ!」
「ふざけないでよ。どれだけ心配したか……!」
美恵は振り上げた拳を降ろした。激怒した反面、ホッとしたのか、体のバランスを失ったのだ。


「危ねえ!」
慌てて跡部が美恵を抱きかかえた。
「……悪かったよ」
跡部は何時になく殊勝な顔だった。

(何よ。そんな顔したら怒鳴れなくなるじゃない)

「……本当に俺達のことどうでもよくなったのか知りたくて、つい……な。
不安でしょうがなかったんだよ。だから自分でも最低だと思いながらもやっちまった」
確かに、意地っ張りの美恵の事だ。こんな事でもしなければ、簡単に本心を暴露してくれないかもしれない。
「……だからって、やっぱり酷すぎるわ」
「……ああ、そうだな」
跡部は珍しく素直だった。




「……なあ美恵」
宍戸が弱弱しい声で呼んでいる。美恵はすぐにそばに行った。
「……俺の事、許してくれるのか?」
「それは……」
「……これからも俺達のそばにいてくれるのか?」
宍戸はまっすぐな目で見詰めてきた。ふと周りを見ると、宍戸だけでなくその場にいる者全員が同じ目をしている。
ジローと向日まで期待を込めた眼差しで木の上から此方を覗き込むようにジッと見ていた。
美恵は言葉が出なかった。じっと考え込み、そして出した結論。


「正直、今は退部を撤回する気にはなれないわ」

全員が落胆し悲しげな目をした。


「でも……もう一度だけ考えなおしてもいいとは思えるの。
少し待って、この島から救助されるまでには返事をするから」
今度は全員の顔がぱっと明るくなった。
「それから……マネージャーの件は関係なく、友達には戻りましょう。こんな思いはもうまっぴらだもの」
その瞬間、歓声が起こり、美恵は跡部に抱きしめられていた。


「ああ、待つぜ。おまえが俺を受け入れてくれる気になっただけでも十分だ!」
「ちょっと景吾、幼馴染に戻るだけよ!私、あなたと恋人になるとは言ってないわ!」


「つまり跡部、俺と自分は同じスタートラインに立ったということやな」
「犯罪者が何を言ってやがる。俺はこいつを誰にも渡すつもりはないぜ」
「俺のは愛ゆえの暴走や。浮気男に美恵は幸せにできひん。俺も負けへんで」
冷戦は終わった。そして新たな戦いが勃発した。


「そうだわ忍足。色々あって忘れてたんだけど」
「何や?」
「返してちょうだい。私のブラジャー」














「た、助け……誰か助けてー!!」
密林の中を一人の女が全力で走っていた。何者かに追われているようだ。
「逃げられると思ってた?」
しかし、その何者かは、何といつの間にか前方に回っていた。
「助けて、殺さないで!!」
「殺す?人聞きの悪い事言わないでよ。僕はただ――」


「消えてってお願いしただけじゃないか」


「ひぃぃー!死にたくない、死にたくないー!!」
女は半狂乱になって泣きわめいていた。
「君ほど不出来な操り人形はいなかったよ。僕は忠告したよね?跡部はテニスだけは心底愛してるって。
だからテニスの邪魔をするような事だけはしないでよって。その約束を守ってくれないから跡部は君をふったんだ」
「ま、待ってよ!今まであなたの言うとおりに動いてやっと景吾の心をつかんだのよ!
もう大丈夫だと思ったのよ!景吾は私にぞっこんだって自信あったわ!
まさか、あんな簡単に心変わりするなんて思わなかったのよ!!」
「君程度の女が自信家になるなんて許せないな。おまけに僕の大切なひとを苛められるように仕向けるなんて」
「そ、それは……それはあなたの指示じゃない!!」
「誰があそこまでしろなんて言ったの?ひとのせいにするの止めてよね」
女を追い詰めている少年は虫も殺さないような大人しそうな顔をしていた。
だが反比例してあけられた目は冷たいオーラを淡々と放っている。


「不出来な君に僕の最後のお願いきいて欲しいんだ」
「い、いやあ、来ないで!!」


女は転びそうなフォームで走った。
あまりにも無様な恰好だが、その悲壮極まりない表情を見れば笑う者はいないであろう。
ふっと女の足元から地面の感覚が消えた。次の瞬間、女は重力という名の悪魔に引きずり込まれた。
そして暗闇の底から悲鳴と妙な音が聞こえたかと思うと、今度は静寂だけが静かに時間を刻みだした。


「僕は何もしてない。君が勝手に落ちただけだよ」




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