宍戸は溜息をついた。日吉の天才的な料理の腕は苦労して集めた材料を全て無駄にする。
だが、どういうわけか日吉は調理係が気に入ってしまったのか続ける気満々なのだ。
「……美恵がいてくれたら、まずい料理ともおさらばできるのになあ」
「岳人、それは言うな。余計に惨めになる」
キャンプ地に戻ると異変が起きていた。
「遅かったじゃないすか。自信作なんですよ、遠慮なく食って下さいよ」
「……わかったよ。ん……おい樺地とジローはどこ行った?」
「お二人なら出て行きましたよ」
「はあ?」
「美恵先輩と暮らすそうです。自分たちの分の食糧まで持っていきましたよ」
テニス少年漂流記―17―
「美味しい、美味Cよ美恵!」
「……とても美味しいです」
「そう、良かった。いっぱい食べてね」
それは微笑ましい光景だったが、跡部と忍足はあからさまに憮然としていた。
「ねえねえ二人とも何を怒ってるの?」
天真爛漫なジローはきょとんとした。
「いいのよジロー、あなたが気にする事なんてないわ」
「美恵がそういうなら気にしないよ」
ジローは納得したが、跡部と忍足はカチンとなった。
自分達が不機嫌な理由を美恵は知っている。その上で、厳しい言葉を吐かれたのだ。
(何よ、子供みたいに。ひがみたいのなら勝手にひがんでいればいいわ)
忍足はともかくいつもの跡部なら、とっくに切れて怒りを露わにするはずだ。
しかし跡部とはもう以前のような関係になれないと思っている美恵にとっては今更怖い事ではない。
今以上に関係がこじれることなどない。すでに破綻しているのだから。
だが意外にも跡部は立腹してるはずなのに、じっと我慢している。それが返って不気味だった。
「ねえジロー、樺地君。食事が終わったら一緒に食料調達にいかない?美味しい果物がある場所を知ってるのよ」
「うん行く!」
「……はい、お供します」
「美恵、俺も……」
すかさず忍足も立候補するが、「二人がいるから、もう人手は足りてるのよ」と、あっさり拒否されてしまった。
(景吾の様子変だったわ……いつもなら、すぐに怒るような短気な人だったのに)
ジローと樺地を連れて例のマンゴーの森に出掛けたものの跡部の事が気になって仕方ない。
「美恵、袋にいっぱいになったよ」
「…………」
「ねえ美恵、聞いてる?」
「……え?あ、ああ……ごめんなさい」
「美恵、変だよ。どうしたの?」
「何でもないのよ。さあ帰りましょう」
ジローと樺地と仲直りできたおかげで、当分は食料の心配もいらない。
二人ともよく働いてくれるし、樺地は茸や山菜などの知識に詳しく、とても助かった。
「二人がきてくれて本当によかったわ。三人だけだと居心地が悪くてしょうがなかったもの」
特に跡部とは気まずくて仕方なかった。
(……景吾、どうして昼食の時、私に食って掛からなかったのかしら)
「跡部さんは……美恵先輩を傷つけたことを気にしてるんだと思います」
「樺地君?」
「跡部さんは……今まで自分でも気づかないくらい先輩を傷つけてしまいました。
だから何も言えないと思ってるんだと思います……自分がしたことに比べたら大した事ではないと」
美恵の気持ちに樺地は気づいていた。無口な子だけど、他人の心には敏感なのだ。
「……でも樺地君、あの俺様の景吾が」
「跡部さんは先輩にきついこと言われたくらいどうでもいいんです。先輩を失う事に比べたら……」
美恵はハッとして樺地を見上げた。
「……樺地君、もしかして知ってるの?私がマネージャーやめること」
すると樺地はきょとんとした。美恵は即座にしまったと思った、樺地はまだ何も知らなかったのだ。
「え、どういう事?」
さっきまで楽しそうに蝶々を追いかけていたジローが驚いて駆け寄ってきた。
「それ、どういう事?ねえ美恵、どういう事なの?」
ジローが泣きそうな顔で訊いてくる。樺地も悲しそうな顔をしている。
これは下手な言い訳しても駄目だろう。美恵は二人には打ち明けることにした。
「あのね、榊監督と景吾しか知らないことだけど。私、この合宿が終わったら退部することになってたの」
二人はこれ以上ないくらい驚愕した。美恵と仲直りできたせいか、そんなこと考えもしなかったのだろう。
「ど、どうして……!ねえ、美恵――」
「辞めるってマジなのかよ!!」
「……え?」
背後からの声に驚いて振り返ると、茂みの中から向日が飛び出していた。
「が、岳人!どうして、あなたがここにいるのよ!?」
「どうしててって。ジロー達だけ抜け駆けしたから気になって尾行してたんだよ!
何だよ、それ!辞めるって本気かよ、なあ冗談だろ?!」
ばれたからには仕方ない。美恵は岳人も交え正直に全てを話した。
ジローも樺地もショックを受けているが、向日はそれ以上に衝撃だったようだ。真っ青になっている。
「……幸いテニス部にはマネージャーは一人だけじゃないし、私は潔く去る事にしたのよ。
正直、続けても辛いだけだし。監督に説得されなければ、もっと早くに辞めていたわ」
「で、でも美恵、今もそう思ってるわけじゃないんだよね?」
ジローは恐る恐る尋ねてきた。
「ジローごめんなさい……あなたとはこれからもいいお友達でいたいわ。でもマネージャーは――」
「何だよ、辞めるなよ!あいつにマネージャー業が務まるわけねえじゃんかよ!!」
向日は、すっかり感情的になっている。
「俺が悪いのかよ。そりゃそうかもしれねえけど、でも辞めることないだろ!
なあ、考え直せよ。俺、反省してるんだぜ。謝るよ、だから辞めるなよ。な!?」
もしかしたら一番美恵に辛く当たったのは自分かもしれない。そんな思いがあるだけに向日は必死だ。
「岳人、何もあなた一人が原因ってわけじゃないのよ。これは私の問題なの。
テニス部と私は合わなかったってことなのよ。本当に必要な存在だったら、どんな事になろうと溝はできなかった。
でも実際は、新しいマネージャーに簡単にとってかわられた。その程度だったのよ、私は。
居場所がないとわかった以上、縋り付きたくない。ただ、それだけなの」
「やっぱり俺が悪いってことじゃねえか!」
向日は泣きそうな顔をした。
「うわー!何で辞めるんだよ、美恵のバカ、俺の大馬鹿!!」
向日は踵を翻すと猛ダッシュした。
「くそくそ!」
「あ、岳人、危ないわ。そっちは!」
「くそく――え?」
茂みを突き抜けた途端、向日の足元の土の感触が消えた。
次の瞬間、体が一気に下に向かって引きずり込まれた。向日は崖から一気に川底に真っ逆さま。
「が、岳人!」
凄い音がして、急流の中に向日の姿は消えた。この高さから落ちたのだ、ただでは済まないかもしれない。
いや、それよりもこのままでは溺死してしまう。早く助けなければ。
「ジロー、すぐにロープ代わりになりそうなものを探して!樺地君は私と一緒に岳人を探して!」
「……美恵のいけず。俺がこんなに愛してるのに、なんでわかってくれへんの?
俺はぶりっ子女にたぶらかされて美恵を裏切った浮気者とは違うのに……」
「忍足、てめえ俺様に喧嘩売ってるのかよ?」
「……そんな元気あるわけないやろ。美恵のせいで俺は気力失ってこの様や。美恵が体を許してくれへんから」
「……殺されたいのか忍足?」
「おーい」
宍戸がやってきた。
「何しにきやがった」
「随分虫の居所が悪いな跡部。なあ美恵は?」
「ジローと樺地連れて出かけた」
「じゃあ岳人はここにはいないのか」
「岳人?」
「あいつ、ジロー達がこっちに来たってきいてから様子が変でいつの間にか消えてたんだ。
だから、こっちに来たと思ったんだよ」
「……確かに来たようだぜ」
跡部が宍戸の背後に指をさした。振り返ると樺地が向日を抱きかかえ此方に歩いてくる。
美恵とジローも一緒だ。宍戸は慌てて駆け寄った。
「おい何があったんだよ?」
「崖から川に落ちて溺れかけたのよ。水はあまり飲まなかったから大したことないわ。
でも足首を痛めたみたいなのよ」
向日の右足が確かにはれ上がっている。宍戸は青くなった。
向日にとって足は命だ。もしも骨折でもしていたら、こんな無人島では治療もできない。
「忍足、すぐに診てくれる?」
「しゃあないなあ。ほら岳人、ちょっと痛いかもしれへんけど我慢しいや」
忍足は右足を手に取って伸ばしたりした。
「いてえ!痛いよ、くそくそ侑士!何だよ、俺をおもちゃにするなよ!!」
向日は半泣きになっている。ちょっとどころかかなり痛いようだ。
「安心し、骨には異常ないようや。ただの捻挫やろ」
「……そう、良かった」
一時はどうなるかと心配しただけに美恵はホッとした。
「ちょっと待ってて、すぐに手当するから」
美恵は救急箱を取り出すと手際よく手当した。
後はなるべく動かさないようにして治療に専念するだけだ。元々向日は元気な少年だった。すぐに良くなるだろう。
「納得できひん!」
「忍足、大きな声を出さないでよ」
「何で岳人までここに住むんや?」
「怪我が治るまでの間よ。男所帯じゃ世話もろくにしてやれないし、それに今は動かさない方がいいでしょ?」
条件付きとはいえ向日まで加わることになった。
跡部さえ何とかすれば再び美恵をモノにするチャンスが巡ってくるだろうと楽観していた忍足にとっては残念な結果だ。
「岳人、はいこれ」
美恵は夕食を差し出した。下剋上ライスと比較すれば絶品だったが、向日は食欲がわかなかった。
「どうしたの?私の手作りが口に合わないのなら果物だけでも――」
「違うって!なあ、美恵、考え直してくれねえのか?本当に辞めるのかよ?」
川から助け出した後も向日はそればかりだ。あれほど楽しそうにしてたジローもすっかり意気消沈している。
「ええ、もう決めた事だから。そんな事より食事をとってちょうだい」
向日は考え込んでいたが体を起こすととんでもないことを言った。
「だったら俺がテニス部やめる。それでいいだろ?」
「……何を言うのよ」
「だってそうだろ?俺が悪いんだから俺がやめる、おまえが辞めることねえよ。
ジローだって侑士だっておまえを必要としてる。それに樺地達二年生をおまえ見捨てられるのかよ」
それを言われると美恵も辛かった。中学時代から自分を姉のように慕ってくれる可愛い後輩達なのだから。
「それに跡部だって」
「……景吾は強い人よ。私なんか失ったところで何も変わらないわ」
――そうよ。私は景吾にとって必要な存在ではなかった。
――私が去ることを決めたずっと前から、彼は自分の意志で私を遠ざけたのだから。
「あいつ、遭難した後も、ずっとおまえの事を気にしてたんだぜ。
俺がおまえはボートで逃げたから大丈夫だって何度言っても、それでも」
「…………」
「それにおまえが狼に襲われた時だって命がけで守ったんだ。
どうでもいい女の為に跡部が自分を犠牲にするわけねえだろ?」
――そう思いたいわよ。私も。
向日の言葉を素直に信じることができたらどんなにいいか。
だが今まで何度も跡部を信じ、その度にこっぴどく裏切られてきた美恵の心は頑なになっていた。
「ひとの気持ちは変わるのよ」
「でも変わらないものだってあるだろ?」
「……じゃあ向日先輩もあちらに?何だか急にさびしくなりましたね」
「長太郎、おまえもあっちに行ってもいいんだぞ。おまえだけなら美恵も歓迎してくれるだろうぜ」
「そんな!俺は……俺はたとえ地獄でも宍戸さんさえいてくれれば幸せです」
「……は?」
不吉な言葉を聞いたような気がしたが宍戸は忘れることにした。
「おしゃべりはそこまでですよ。さあ遠慮なく食って下さい」
日吉が自信満々に手料理を差し出した。強烈な臭いが漂ってくる。その刺激臭に宍戸と鳳は思わず顔をしかめた。
「……わ、若、これは」
「今度は自信作ですよ。ぬれせんべいをふんだんに使ったミックス下剋上スープです」
日吉は美味だと主張しているが、宍戸と鳳はすでに食欲を失っていた。
焚火の勢いが弱くなっている。月光のおかげで火などなくとも明るいのだが、火を絶やすわけにはいかない。
なぜなら、この島は夜になると危険な肉食獣が活動を開始する。
木の上で暮らしている美恵達と違い、焚火はまさに獣除けの大切な命綱なのだ。
「まずいっすね。ちょっと枯れ木が少なくなってますよ。今日は風が強いし」
「おいマジかよ」
その時だった。遠くから狼の遠吠えが聞こえてきたのは、しかも徐々にこちらに近づいてくる。
それも一匹、二匹ではない。結構な数の群れでやってくるではないか。
今までも狼の襲来がなかったわけではない。実は一度襲われたことがある。
だが、あの時はテニス部レギュラーが全員そろっていたので返り討ちにしてやった。
それ以来、狼たちも懲りたのか姿を現さなかったのに、まるで手薄になったことを知ったかのようにやってきたのだ。
前回とは状況が違う。三人だけではやられてしまうかもしれない。
「……ちっ」
宍戸は覚悟を決めると枝の先端に布きれを巻き付け、さらに油をかけると火をつけた。
「長太郎、若、念のためだ。荷物まとめろ、とりあえず食料だけは確保しておけ」
二人は言われた通りに素早く食料をバッグに詰めた。
「宍戸さん、どうするんですか?」
狼たちは走ってくる。ここにたどり着くのも時間の問題だ。
「おまえ達走れ!すぐに跡部達のところに行け、あそこなら安全だ!」
凶暴な唸り声と共に凶悪な狼たちが姿を現した。
「きやがったな。俺が相手だ!おまえ達、今のうちだ、さっさと逃げろ!!」
宍戸は松明を手に狼たちに向かっていった。先輩として後輩を守るために自分が盾になるというのだ。
「宍戸さん、俺は残ります!」
「馬鹿野郎、これは命令だ。長太郎、若、逃げろ!さっさと行け!」
「絶対に嫌です!死ぬときは一緒ですよ宍戸さん!!」
「宍戸さん、あんたの命は無駄にはしませんよ。下剋上!!」
鳳は宍戸と運命を共にし、日吉は全力疾走していた。
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