(こんな時間に熟睡なんて、よっぽど疲れているのね)
「……美恵、俺と付き合ってくれ」
一瞬、驚いたが寝言だった。
「……忍足、そんなに私の事が好きなの?」
美恵の心にちくちくと得体のしれない痛みが走った。忍足は夢の中でも自分を愛してくれている。
「おい美恵、騙されるんじゃねえ」
「あなたが言うの?少なくても忍足はあなたよりは私を大事に思ってくれてるわ」
「……美恵、俺に」
「ほら、寝言にまで私に付き合ってくれって」
「俺に突きまくらせてくれ」
「…………」
「わかったか、これがこいつの本性だ」
テニス少年漂流記―16―
美恵は落ち着かなかった。忍足がぐっすり寝込んいる以上、跡部と二人っきりの夜も同然なのだ。
(昔はよく二人で屋根裏で星をみながら寝込んでしまったわね)
夜遅くまで二人で遊んで、ぐっすり寝ているところを使用人たちに発見されるのがオチだった。
距離ができてからは、一緒にいる時間自体が少なくなっていた。
まして二人っきりなんて、あまりにも久しぶりすぎて何を話していいかわからない。
(……いえ、無理やり話しをする必要なんてないわ)
美恵は明日の支度を済ますと早々と自分も寝ることにした。
「景吾、こんなものしかないけど」
クルーザーから引き揚げたタオルケットを跡部に渡すと、距離を取り隅っこにシーツを引いた。
その途端に背後から腕をつかまれ引き寄せられ、気づくと跡部の腕の中にすっぽり入っていた。
「何をするのよ」
「せっかくの二人っきりの夜なのに、さっさと就寝なんて俺様が許すと思ってたのか。あーん?」
「話すことなんて……」
美恵は俯いて黙ってしまった。自分に対する強い心の拒否を感じたのか跡部は何も言わなかった。
(口もききたくないってことかよ……そうだよな)
もしも自分が美恵の立場だったら、あんな舐められたマネをされてあっさり許せるはずがない。
「……話したくないっていうなら、それでもかまわねえ」
珍しく跡部の口調はいつもの強気のものではなかった。
「……しばらくこのままでいてくれ」
その縋るように口調に美恵は何も言えなかった。
どのくらい、そうしていたかわからない。突然、暗闇の中でバサッと何かがはばたく音がして美恵はハッと我に返った。
「景吾、そろそろ寝たいわ。だから離し――」
跡部の腕を振りほどこうとしてハッとなった。
「景吾、これどうしたの?」
跡部の右腕に穴のような怪我、テニスプレイヤーにとって腕は命、しかも利き腕。
「大したことじゃねえよ」
確かにそれほど目立つものではない。しかし妙な形跡だ、小さな穴が二つ並んでいる。
「本当ね?消毒はしっかりしたの?」
「ああ」
「それにしたって運動神経抜群のあなたが怪我するなんて、一体どんなドジしたのよ」
「あーん?俺様がそんなドジするわけねえだろ」
「現に怪我してるじゃない。どうすればこんな怪我……」
そこまで言って美恵はハッとした。
(これって獣の牙の痕?)
同時に自分を襲った狼の群れを連想した。
(……そういえば、あいつらに襲われたはずの私はどうして助かったの?)
気が付いたら氷帝レギュラー陣に囲まれていた。
ゆっくり会話をすることもなかったので、自分が助かった詳細も知らないままだ。
――美恵、しっかりしろ美恵!
(……確か、あの時)
薄れゆく意識の中で声が聞こえたような気がしていた。
(まさか、あの時……私を助けてくれたのは)
そんなはずはないと否定しようとした。跡部が体を張って自分を助けてくれるなんてあるわけがないと。
だが、その傷は紛れもない物的証拠だ。
「……私っ」
美恵は跡部から離れた。
「私はこっちで寝るから……だから近づかないで、お願いだから」
「とって喰う気はねえぜ。俺はこの変態とは違う」
美恵はゆっくりと振り向き跡部の顔を見た。
「だが忘れるな。近いうちに堂々とおまえを抱かせてもらうからな」
美恵は思わず赤面すると跡部をキッと睨みつけ、すぐにぷいっと顔を背けその場に寝た。
(何て自分勝手なひとなのよ!)
激怒しているはずなのに心臓の鼓動が鳴りやまなかった。
「……ん、朝?」
離れているとはいえ年頃の男二人と川の字になって寝る羽目になったのだ。
寝付けないと思ったが意外にも眠れたようだ。おまけに太陽はかなり高くなっている。
(そうか……自分で思っている以上に疲れてるんだわ)
よくよく考えてみれば無人島に漂着したというだけで精神的にも肉体的にも消耗している。
その上、色々な事がありすぎた。その証拠に何となく胸も重い。
「……本当に重苦しいわ。まるで何かに乗られてるみたい」
「美恵……めっちゃ好きやで」
「……え?」
美恵の寝ぼけ眼は、その一言でカッと数倍にも大きくなった。
胸の上に忍足が頭を乗せていた。おまけに、その手は美恵の胸に。
「最高の柔らかさや……マシュマロやな」
「……きゃ」
「いやー!!」
「昨日は失敗したけど今日こそは上手に謝って仲直りしようぜ」
「当たり前だ。岳人、今度はへまするんじゃねえぞ」
向日と宍戸は美恵の仮宿のすぐ近くまできた。しかし――。
「変態、バカ!昨日の涙は嘘だったのね!!」
「誤解や!俺は寝相が悪いだけなんや!」
「寝相と胸揉んだことと何の関係があるんだ。ふざけるな忍足!!」
「だから寝ぼけててクッションと間違えただけやないか。神かけてやましい気持ちはなかったんや!!」
「…………」
「…………」
美恵と跡部と忍足の争う声が聞こえる。内容からして微笑ましいものではないようだ。
「……宍戸、帰ろうか?」
「……そうだな。今出て行ったらこじれちまいそうだ」
二人が踵を翻してから数十分後、何とか口論は収まった。
「忍足、俺は納得したわけじゃねえからな。いいか、美恵に近づくんじゃねえぞ」
「……いけずやな跡部は」
美恵は遅すぎる朝食の用意に取り掛かった。
(お米はもうほとんどなかったのよね)
元々、跡部と忍足という押し掛け同居人ができたせいで食料の消費率が急激にアップしたのだ。
(昨日集めた食料が残ってるからおかずは作れるけど……仕方ないわ、私が主食抜きで。あら?)
木の根の間に隠しておいた食料袋を取り出して開いてみるとお米が減ってない。
(確かにほとんどなかったはずなのに……)
記憶違いかと思ったが、美恵はそんな間抜けな記憶力の持ち主ではない。
不思議に思ったが、これはとても助かる。これだけあれば十分な食事ができる。
「いやあ、ほんまに美恵の料理は最高やな。いい奥さんになれるで、俺が保証したる。俺は最高に幸せ者や」
数十分後、忍足は笑顔でそう言っていた。
「断っておくが忍足、てめえの女房には絶対にならねえぞ」
「何で跡部に断言できるん?これは俺と美恵の問題や、跡部は関係あらへん」
「大有りに決まってんだろ」
「ねえ」
口論していた二人だが、美恵の制止を聞きいれ、とりあえず黙った。
「私、食料を探しに行くから。あなた達はもう戻ったら?」
「あーん、俺はてめえのそばを離れるつもりはないって言っただろ?第一、女一人なんて危険すぎる」
「俺は跡部から自分を守ってやる。二人っきりなんてできる道理ないやろ?」
(……夜が明けたら戻るって約束で一晩泊めたのに、もう約束やぶるのね)
どうやら救助隊が到着するまで三人での生活は続きそうだ。
「自分達の食器くらいは後片付けしておいてね。私は出掛けるから」
「待てよ、俺も行くぜ」
「俺もや。抜け駆けしようったってそうはいかんで跡部」
結局、三人で食料調達に行くことになった。と、いってもめぼしいものは見つからず、果物や椰子の実程度。
「今夜はフルーツ中心になりそうね。美容食だと思って我慢してよ、昨日とった魚も残ってるから」
魚と貝は燻製にしておいたおかげで腐らずに保存できたのだ。
ところが戻ってみると美恵は驚いた。保存食のそばに蟹が置いてある。
いくら海に近いとはいえ、こんな森の中まで蟹が歩いてきたとは思えない。
しかし食料に乏しい身ではありがたい出来事ではあった。
おかげで、こんな無人島で豪勢な夕食にありつけることになったのだから。
木々の間からうっすらと太陽の光が漏れている。太陽が水平線から半分身を乗り出している。
「これでよし」
果物とお米が美恵達が寝床にしている木の根元にそっと置かれた。
「先輩、さあ行きましょう」
「うん。ぐずぐずしてたら皆が目を覚ましちゃうもんね」
二人の少年は物音を出さずに慎重に歩き出した。一人は小柄、もう一人は大人顔負けの体格だ。
「待って!」
二人はびくっと硬直した。
「あなた達だったのね。昨日から食料をくれていたのは」
まだ薄暗い上に背中姿しか見えないが、長年マネージャーとして見てきたのだ。
誰なのか美恵にはすぐにわかった。しかし、二人はまだばれてないと思っているのか走り出した。
「ちょっと待ちなさいよ!」
慌てて美恵も後を追う。しかし氷帝のレギュラーの肩書はだてではない。
どんどん引き離される。このままでは逃げられるのも時間の問題だった。
「……あっ」
美恵が転んだ。そしてうずくまって動かない。
逃げていた二人は足をとめ此方を振り返った。躊躇していたが美恵がぴくりともしないので慌てて駆け寄ってきた。
「美恵、大丈夫!?」
「先輩、しっかりして下さい」
「ええ大丈夫よ。あなた達が大人しく止まってくれたら、こんな演技することもなかったのに」
二人はきょとんとして美恵を見つめている。どうやら騙された事にも気づいてないようだ。
「……本当に純粋無垢なんだから。忍足にあなた達の爪の垢飲ませてやりたいくらいよ。
話くらいしましょう。ジロー、それに樺地君」
美恵はごん狐の正体を突き止めるべく、こっそり早起きして見張っていたのだ。
「どうしてこんなことしたの。内緒で手助けしようなんて」
「……だって俺、美恵に酷いことしたから。だから、まだ怒ってるかもしれないと思ったんだ。
それに俺達、ただ美恵がお腹すかしてるんじゃないかって気になっただけで……美恵に恩うるつもりなかったし」
「……自分も芥川先輩と同じです。むしろ罪滅ぼしのつもりで勝手にやったことです」
「……あなた達」
ジローと樺地は純粋すぎるゆえに計算じみた行動が全くできない。
だから、こんな奇妙な行動をとったのだ。何の見返りもない、真心から出た行動に美恵は感激していた。
「ありがとう」
美恵は思わず二人を抱きしめていた。
「美恵、苦C」
「先輩、いけません」
「もういいのよ。過去の事は気にしないで」
「え?じゃあ仲直りしてくれるの?」
「ええジローも樺地君も私の大事な友達だもの」
「美恵、ありがとう!」
ジローは余程嬉しかったのか美恵に抱きついた。
「今まで意地張っててごめんなさい。私も本当はジローや樺地君とは仲直りしたかったのよ」
三人の微笑ましい光景。しかし嫉妬に満ちた目で睨みつけている人物がそばにいた。
「な、何でや!俺はもう何日もかけて美恵を口説いてるっていうのに、何でジローと樺地に先を越されるんや!」
「てめえと違ってあいつらに邪心がないからに決まってんだろ」
「跡部、自分に言われたくないわ!」
美恵は跡部や忍足に気付かれないようにそっと起床したつもりだった。
しかし美恵の行動を観察するように、じっと監視していた二人は寝たふりをしていただけなのだ。
「……く、くやしゅうて納得できひん。俺の涙は完璧だったのに!」
「……俺も納得できねえがしょうがねえだろ」
跡部と忍足には非常に不本意な事だろう。二人を差し置いてジローと樺地は美恵と和解してしまったのだから。
「ところで二人に聞きたい事があるの」
「何?」
「景吾の腕の傷だけど、あれはどうしたの?」
「ああ、あれ?あれは美恵を助けた時に負ったんだよ」
「……そうです。跡部さんは、あの夜、流血姿で先輩を抱えて」
二人は詳しく話した。薄れる意識の中で聞こえた声は幻聴ではなかったのだ。
――景吾が私を助けてくれた。
美恵は胸の奥底にかつて熱い想いを封印した。
それが閉ざされた扉を叩きだしていた。
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