「結局仲直りどころか余計な怒り買っちまったな。岳人、おまえのせいだぞ」
「くそくそ宍戸、俺が悪いってのかよ」
「そうだろ。おかげで渡しそびれたじゃねえか」
宍戸はため息を付きながらポケットからブラジャーを取り出した。
「……こんな物を俺に持ち続けろってのかよ」
宍戸は真っ赤になって俯いた。
「なら、そのブラジャーは俺が預かってやるで」
振り向くと忍足がさわやかな笑顔で立っていた。
テニス少年漂流記―15―
「どうしてあなたはここに残ったのよ。さっさと帰って」
跡部は宍戸や向日と違い大人しく引き下がらなかった。美恵がどんなに激怒しようが拒絶しようが残ったのだ。
「てめえがどんなに怒り狂おうが俺は離れるつもりはないぜ」
「……わかったわ」
「やっと観念して俺を受け入れる気になったらしいな」
「そうじゃないわよ。あなたの性格知ってるから、これ以上いっても無駄ってわかってるだけ」
皮肉なことにどんなに距離ができようと、跡部の性格を一番理解しているのは美恵なのだ。
「それよりも食事の支度だ。こんな無人島で俺様の舌に合う料理を作れるのはおまえしかいないんだ」
「……食事」
美恵は困惑した。色々な事があってすっかり忘れていた。
「おい、どうした。随分と困った顔をしてるじゃねえか」
「……ないのよ」
「ないって何がだ」
「食料」
「神さんは、ほんまにいたんやな。最高のプレゼントや!」
忍足は美恵のブラジャーを手にルンルン気分で歩いていた。
「本当は美恵の生乳が一番やけど、今はこれで我慢するしかないなあ」
忍足は愛おしそうにブラジャーを頬ずりした。
「ええ匂いや」
忍足は名残惜しそうにブラジャーをポケットにしまった。
(さて……と。どうすれば美恵と仲直りできるか考えんとな)
美恵は、おそらく今も怒り狂っているだろう。
忍足からしたら愛ゆえの暴走かもしれないが、美恵にとっては忍足は単なる性犯罪未遂者に過ぎない。
(謝ったくらいでは許してくれへんかもなあ。美恵は人一倍生真面目な子やし)
それでも行動しなかったら結果は生まれない。忍足はとりあえず美恵に会おうと思った。
(それに跡部と二人っきりなんてできひんしな)
美恵の仮宿に到着したが人の気配はない。木の上に登ってみたが、やはり誰もいなかった。
(どこに行ったんや?)
美恵は午前中森に出掛けた。ならば今度は海岸だろうか?
「景吾、私はそろそろ帰るわよ」
あさりでいっぱいになったバケツを手にする美恵。
「あーん?こっちはまだだ」
跡部は岸壁に腰かけ釣りをしている。すでに大物を三匹釣りあげているが、跡部はそれでは満足いかないようだ。
「まさか俺を残して一人で帰ろうなんて思ってないよな?こっちに来い」
美恵は溜息を付きながら跡部の隣に腰かけた。
「景吾、そんなに釣っても食べきれなかったらしょうがないでしょ。冷蔵庫もないから保存もできないのよ」
「食料はあるに越したことはねえだろ。燻製にでもすれば長持ちする」
夕日が海に沈んでゆく。真っ赤に染まるその様はまさに地上の楽園だった。
(昔、景吾に誘われてタヒチに旅行した時の事を思い出すわ)
小学三年生の時の話だ。海外旅行など生まれて初めてだった美恵は大はしゃぎだった。
『そんなに嬉しいのかよ。だったら大きくなったら毎年連れてきてやるぜ』
『大きくなったらって何歳くらい?』
『俺様とおまえが結婚できるくらい大きくなったらだ』
(景吾はきっと忘れているわね)
あの日と同じ風景。違うところは観光地か無人島かというところ。
そして、もう一つは二人の距離だろう。
「覚えているか?」
ふいに跡部が声をかけてきた。
「え、何を?」
「約束しただろ。結婚できるくらい大人になったら毎年南の島に連れてきてやるって」
「覚えてたの?」
「俺様は記憶力もキングだからな」
「何よ、それ。あ、引いてるわよ!」
釣り糸が激しく左右に動いている。これは大物だ。
「ちょっと何してるのよ。もっと引き付けなさいよ」
「あーん?素人のてめえが何を言ってやがる」
「素人なのは、あなたも一緒でしょ。ほら、早く引かないと糸が切れるじゃない」
美恵も釣竿に手をかけた。
「おい一人で大丈夫だ。邪魔するんじゃねえよ」
「だって糸が……あ!」
濡れた岩に足を滑らせた美恵は真っ逆さまに海に落ちた。
「美恵!」
跡部は釣竿を放り出して海に飛び込むと美恵を抱きかかえ浮上した。
「たく。てめえはしっかりしているようで抜けてるな」
「大きなお世話よ。泳げるんだから離して」
「いいからつかまってろ」
砂浜にあがると跡部はシャツを脱いだ。
「ちょっと脱がないでよ!」
「あーん?しょうがねえだろ、濡れたんだからな。てめえも脱げ」
「着替えもないのに脱げるわけないでしょ」
「風邪ひいてもしらねえぞ。南の島とはいえ、もう夜になるんだ。濡れたままでいるのは体によくないぜ」
「結婚前の娘が男に肌をさらすよりはマシよ」
とは言うものの、下着まで完全に海水に濡れてしまい気持ち悪いことこの上ない。
「せめて下着だけでもかえへん?」
「だから着替えなんてないって言ってるでしょ」
――え?今の声……。
美恵は顔面蒼白になり、ゆっくりと振り向いた。
「今はこれしかもってないんや」
「…………」
ブラジャーを両手で広げにっこり笑っている忍足がいた。
「……きゃ」
「忍足、てめえ!!」
美恵が悲鳴を上げる前に、激高した跡部が忍足に飛び掛かかろうとした。
「俺が用があるんは自分やない。美恵や」
跡部は慌てて美恵を自分の背中に回す。忍足はムッとした、この構図はどう見てもお姫様とナイトと悪者ではないか。
「美恵にあんなマネをしておいて、よくも姿を現せたもんだな忍足!」
美恵は怖がっている。どうやら笑顔で「ごめんごめん」と言ったところで済みそうもない。
「美恵、本当に悪かった。俺はどうかしてたんや」
忍足は殊勝な面持ちで頭を下げたが、美恵は跡部の背後からちらっとこちらを見るだけで言葉もかけてくれない。
「美恵の事が愛しくて愛しくて、自分がてっきり跡部に犯されたと勘違いしてつい」
「何だと、俺が悪いっていうのか。責任転嫁してんじゃねえ!」
「美恵、なあ何か言ってくれ。俺はほんまに反省してる、心から猛省してるんや!」
忍足の謝罪は、肝心の美恵の心には届いていないようだ。美恵の忍足を見る目には恐怖が色濃く表れている。
「ほんまに悪いと思ってる。ほんまにほんまなんやで、何で信じてくれへんの?」
「てめえは馬鹿か!つい数時間前にレイプされそうになった女が加害者に心を開くと思ってんのか!?」
「……それはわかってるよ」
忍足はうなだれるように砂浜に両手を付いた。
「頼む美恵、一言でいい。一言でいいから声をかけてくれへんか?許せんでも大嫌いでもええよ」
ポトポトと砂浜に水滴が落ちた。美恵はハッとして僅かに身を乗り出した。
「忍足……もしかして泣いてるの?」
――忍足、本当に後悔してるんだ。
「おい美恵、騙されるなよ」
「でも、自分の感情あまりださない忍足が……」
――あの忍足が無言で肩を震わせて、ただ泣くなんて……。
それは百の謝罪よりも美恵の心の琴線に触れた。
はっきりいって跡部達から聞かされた謝罪の言葉よりも本心からの思いに見えたのだ。
「……忍足、私……正直いって、まだあなたの事許せない。あんな酷い事されたんだもの」
「当然やな……俺も許してもらおうなんて思ってへんよ。ただ自分に謝りたいだけや。
もし自分の気が済むゆうんなら罪滅ぼしに自殺してもええ思ってる」
「……忍足!?」
美恵は驚愕した。忍足は自らの命で償うとまで言ったのだ。
「美恵、騙されるなよ。嘘に決まってる」
跡部の言う事にも一理あった。忍足にはパーティーの件といい、掌の上で転がされてきたのだ。
もしかしたら、この涙も言葉も自分の警戒心を解くための偽りかもしれない。
「それは違うよ。俺は本心や、心底償いたいと思ってる!」
忍足は必死に跡部の言葉を否定したが、美恵の目は疑心を含んでいる。
「信じてくれ美恵、証拠を見せてやったってええ!」
「だったら証拠を見せてよ」
次の瞬間、忍足は立ち上がると猛スピードで走った。その先には――。
「お、忍足!何するつもりなのよ、その先は崖よ!!」
忍足は断崖絶壁から一気に海に飛び込んだ。
「いやあ、ほんまに美恵の手料理は天下一品や。こんな無人島でまともな晩餐とれるなんて俺は運がいい」
あさりの炊き込みご飯に、魚の味噌煮、デザートにマンゴー。無人島にしてはなかなかの食事といえよう。
「おい忍足、それ以上美恵に近づくんじゃねえ。俺はてめえを信用してないし、美恵も許したわけじゃねえからな」
忍足は奇跡的にも傷一つ追わなかった。しかも効果は絶大だった。
忍足の行動は美恵の心を大きく揺さぶった。許してもいいかも、と思わせるには十分過ぎるほど。
もちろん美恵の警戒心が完全に解かれたわけではない。
『忍足、今日のところは帰って。時間がたてば冷静に話し合えるかもしれないから』
『……その通りやな。俺がしたこと考えたら当然や、帰り道で狼に襲われて絶命しても自業自得やな』
辺りはすっかり暗くなっていた。
『……忍足、今夜だけよ』
忍足は美恵の仮宿に一晩泊まる事に成功したのだ。だが、そんな彼を全く歓迎しない人間もいた。
それは勿論跡部だ。美恵との二人っきりの時間を作り、その間に仲直りしようと思っていたのだ。
何より自分から心が離れかけている美恵との大切な時間に邪魔者はいらなかった。
さらに、もう一つ理由がある。跡部は忍足の命をかけた謝罪を完全に疑っていた。
「忍足、美恵は騙せても俺は騙されねえぞ。てめえはそんな殊勝な奴じゃねえ」
――さすがに跡部は簡単にはいかへんなあ。
忍足は心の中でニヤッと笑った。あの断崖絶壁の真下は深く飛び込んだ程度では暗礁にも届かない。
この島を探検していた時に偶然発見した事が役に立った。
忍足は胸ポケットから目薬を出すと二人に気付かれないように遠くに投げた。
これも、もう必要ない。
(妙な事になったものね)
美恵と跡部と忍足、奇妙な組み合わせの奇妙な一夜。
忍足のことは完全に信用したわけではないが跡部がいるので変な事はしないだろう。
跡部にしたって忍足の前で強引な態度はとれないだろう。
美恵は複雑な気分だったが、この状況を受け入れることにした。
(美恵との貴重な一夜や。このチャンス十分に使わせてもらうで)
忍足は懐から睡眠薬を取り出した。クルーザーの船員の私物を発見し所持していたのだ。
(跡部、自分にはぐっすり寝込んでもらうで)
「忍足、ほら水だ」
跡部がコップを差し出してきた。
「おおきに」
忍足が水を飲むのを見届けると跡部はふっと笑みを浮かべた。
(残念だったなあ忍足、その中には睡眠薬がたっぷり入っているんだよ)
クルーザーで睡眠薬を発見したのは忍足だけではなかったのだ。
数分後、忍足はぐっすりと寝込んでしまった。
――邪魔者はこれで消えたも同然だ。
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