「離して景吾」
美恵は必死に跡部の胸を押し返したが、跡部は美恵を強く抱きしめ離そうとしない。
「いい加減にしてよ!」
「てめえが俺のそばに居続けると約束するまで離さねえ!」


――どうして今更そんなことを言うのよ。もう遅いのに。




テニス少年漂流記―14―




「……見ろよ宍戸、あれってトロピカルフルーツだろ?」
向日は早速大ジャンプ。軽々と2、3個の果物をもぎ取った。
「すげーうまいぜ。これマンゴーだ」
まずい食事に飽き飽きしていた向日は大喜び。
「ほら宍戸も食ってみろよ。すげー絶品だぜ」
「ほんとだ。美味いじゃねえか」
二人はマンゴーをいくつも食べた。
「跡部どうしてるのかな?今日は帰ってこないのかな?」
美恵が俺たちのところに戻ってきたくねえんだろ。それなら跡部が帰ってくるわけねえよ」
「だよな。美恵を、こんな無人島で一人っきりにさせられないよな。跡部って美恵にべた惚れなんだもんな。
一時だけでも他の女に夢中だったなんて今思い出しても信じられないくらいだよ」
跡部は派手にもてる男で、常に女の影があった。しかし跡部は、どの女にも本気になることはなかった。
元々、軽い気持ちで付き合った上に、相手の女は誰もが自分が愛されることだけを求めてくる。
しかしあくまで跡部の中心はテニス、そこに相手の女とのズレが生じるのだ。


「テニスと私とどっちが大事なの?」
大抵、その一言で跡部はあっさりと彼女を捨てる。その繰り返しだった。
美恵のように心から跡部のテニスへの情熱を応援するような女はいなかった。
だが、あの女は違った。跡部のテニスへの想いを理解し、自分を優先しないことを責めなかった。
もっとも、それは偽りだった。いつの頃からか、彼女もつけあがりテニスを軽視するようになっていた。
「跡部は美恵に惚れてたけど、ずっとそばにいすぎたから恋愛対象としてはぴんとこなかったんだろうな」
誰よりもずば抜けたインサイトを持っている男が自分の気持ちには気づかなかった。
考えてみれば間抜けな話だ。美恵は美人だったし、男子生徒にも人気があった。
彼氏ができなかったのが不思議なくらいだったのだ。
(もっとも下手にちょっかいだすと、跡部と忍足が、その男子生徒に裏で話をつけていた。
何があったのか知らないが、次の日から彼らは美恵には近づかなくなったものだ)


「……跡部もだけど、俺達も態度悪すぎたよな。特に俺」
向日はため息をついた。美恵に一番文句を言っていたのは他ならぬ自分だ。
「それを言うなら俺もマネージャーを庇って、ついあいつには悪態ついちまった」
「宍戸はまだいいじゃないか。俺なんか調子にのってかなりきついこと言ったもんな。
美恵の事を必要ないとか……さ。まさか聞かれてるなんて思わなくて」
「れはマネージャーが泣きわめいたから慰めるためについ言っちまっただけだろ?
美恵にきちんと説明すりゃあわかってもらえるんじゃないのか?」














「おい、いい加減にしろよ。さぼることばかり真剣になりやがって」
美恵が入院してから跡部と彼女はマネージャー業の事で口論が絶えなくなっていた。
「景吾、私だって精一杯やってるのよ。本当なら天瀬さんがやる仕事なのに!
それなのに、そんなきつい事いうことないじゃない。あの人が入院したのが全部悪いのよ!」
「ふざけるな。美恵だって最初から敏腕マネージャーだったわけじゃねえ。始めは失敗も多かった。
だが、あいつは試行錯誤しながら努力したんだ。おまえは、その姿勢すら見せないじゃないか」
「……酷い。部活さぼっている人と比較して私を責めるなんて。どうせ私はダメな女よ!
でも、私には私の良さがある、私のやり方でテニス部を支えてきた自負もあるわ。
それなのに、あなたはそれをきちんと見てくれてなかったの?
美恵、美恵って。マネージャーは彼女一人じゃないのよ。私はどうでもいいっていうの?
どうして天瀬さんばかり贔屓するのよ。私はもう大事なマネージャーじゃないってわけ?」
彼女は号泣しだした。向日は慌てて慰めるが泣き止む気配はない。


「おまえは頑張ってやってくれてるよ。俺達もちゃんとわかってるって」
「嘘よ。天瀬の方がマネージャーとして上だって思ってるんでしょう?向日君も私を駄目な女だって思っているんでしょう?」
「そんな事ねえって。大事な仲間だと思ってるよ!」
「本当に本当ね?私はテニス部の仲間なのね?」
うるんだ瞳で必死に訴える彼女。向日は声を大にして言った。
「だから、おまえは大事なマネージャーだって」
そばに美恵がいたが、向日は気づかなかった。


「でも、私って全然仕事もできないし……景吾だって呆れたでしょ?」
「まあ、全然って言えば嘘になるな」
歯に衣を着せない跡部の言い方に、おさまっていた彼女の涙は再び流れ出している。
向日は焦った。何とかしてやらないといけない、必死に跡部に視線を送った。
『嘘でもいいから、おまえは大事なマネージャーだって言ってやれよ!』
その視線に気付いた宍戸も援護に出る。
「おい跡部、おまえの大事な彼女だろ。そんな冷たい事いうなよ」
二人の擁護を受け、彼女は跡部に縋るような目で質問した。


「本当に私、このテニス部に必要な存在なのね?天瀬さんよりも?」
「決まってるだろ。おまえの笑顔に俺達すっげー慰められてるんだぜ。
なあ跡部、美恵なんかいなくても、こいつがいればいいくらいだよな?」
向日まですがるような目で跡部を見る。宍戸が跡部に小声で囁いた。
「跡部、今だけは肯定してやれ。こいつが落ち着いてから改めて説教すればいいだろ?」
NOと言えば、この女はますますわめき散らすだろう。仕方なく跡部は「ああ」と頷いた。














「……俺達も一度美恵にきちんと謝って今までの説明した方がいいかもな」
「……でもさ。いざ会いに行くってのも勇気がいる……俺って結構小心者だったんだな。ん?」
「どうした岳人?」
「……あれ」
向日の指差す方向に宍戸も視線を向けた。猿の群れが木の上で遊んでいる。
「猿がどうしたってんだよ?」
「……あいつらが持ってるもの見ろよ」
宍戸は改めて猿を凝視した。彼らは白いふわふわしたものを持っていた。














「景吾、いい加減にして。今更、そんなこと言われても困るわ。はっきり言って信じられない」
「……だろうな。俺がおまえの立場でもそう思う」
「だったら――」
「だが俺は本心で言ってるんだ。自分でも妙な事を言ってるのはわかってるが、それでもおまえを失いたくない」
「景吾は私に感情がないと思ってるの?」
美恵は耐えきれなくなっていた。
「私だって人間よ。傷つくし怒る事だってあるわ。苦しい思いをするのはまっぴらよ。
悪態をつかれながらでも大事な人たちと一緒にいたいなんて思い続くわけがない。
私を必要としてくれる場所が欲しい。それは氷帝じゃなかった、私は――」


「……その場所が青学ってわけかよ」


美恵の眉がぴくっと動いたが、跡部は美恵を抱きしめている為、表情を見ることができなかった。
「……どうして、あなたがそれを知ってるのよ?」
「そんな事はどうでもいい。不二なんかのところに行くな!」
「不二君はいい人よ。私に同情して慰めてくれたし、私の居場所まで作ろうとしてくれているのよ」
「俺はどうなる?」
跡部の声は重々しくなっていた。
「……おまえに見捨てられたら俺は自分でも何をするかわからねえ。不二と勝負してでも止めてやる」
「何を言っているのよ。変なこと言わないで」
美恵は跡部の胸を押し返し、その顔を見て驚いた。
跡部は怒っている。いや、怒っているというよりも嫉妬に狂っている目だ。


「こんな事になったのは俺の自業自得だ。それでも俺はおまえを手放すつもりはねえ。
忍足だろうが不二だろうが、俺からおまえを奪う奴は全員敵だ」
「馬鹿な事いわないでよ。私の事なんか、ほったらかしで彼女に夢中になっていたのはあなたじゃない!
景吾の言葉なんか信じない。私が他の男と付き合う機会だって度々あったのよ。
それでも、あなたは今まで平然としてたじゃない。私が他の人のものになっても平気だったって証拠でしょ」
「違う、俺は……!」
心のどこかで美恵は決して他の男になびかないという自信があった。
自分と美恵の間に他の男が入り込む余地などないと。
思えば勝手な考えだ。一方的に冷遇しておきながら、それでも美恵の気持ちは変わらないと思っていたのだから。




「跡部、美恵、いるのか!?」
木の下から声が聞こえてきた。僅かに跡部の腕が緩み美恵はすぐさま腕の中から逃れる。
声の主は向日と宍戸だった。
「話があるんだ。少しでいいから聞いてくれ」




妙な展開になった。宍戸達を交え、四人で向き合うなんて久しぶりだった。
「何の用なの?」
美恵が用件を尋ねると、向日と宍戸は揃って頭を下げた。
「ちょっとどうしたのよ?」
「悪かったよ!今までの事は全部謝る!」
「言葉だけの謝罪じゃ我慢できねえっていうなら殴ってくれ!」
「ま、待ってよ。二人ともどうしたのよ?」
今まで彼女を庇って一番自分に辛くあたってきた二人の突然の謝罪に美恵は驚いた。


「本当に悪かったよ。でも、あいつがいれば、おまえはいらないなんて言ったのは誤解なんだ!」
向日は全て話した。例の件のみではなく、美恵がいない場所で、彼女が巧みに信じ込ませた美恵の悪口も全て。
それは美恵が自分たちの見ていない所で美恵に苛められているなど、とんでもないないとしか言いようがない内容だった。


(あきれた。やっぱり、ありもしない私の悪口を言っていたのね)


以前の美恵ならショックを受けたかもしれない。
しかし氷帝テニス部に愛想をつかしている美恵には今更といった感じだ。
それでも必死に謝罪する二人を見ると複雑な感情がこみ上げてくる。
「私のお見舞いに来てくれなかったのも彼女の嘘を信じたのね。
もっと早く知っていれば嬉しくてたまらなかったでしょうけど、今は――」
あの女にはめられたこと自体よりも、信じてもらなかった事の方が悲しい。
跡部ご自慢のインサイトをもってすれば、そんなことに騙されるわけもないのにとすら思える。


「景吾は私が手紙をゴミ箱に捨てたって話を信じたのね」
「てめえだって俺がノートを捨てたと疑ったじゃねえか」


「私とあなたとでは立場が違うわ」
「だから、それは謝ってるじゃねえか」
「謝りさえすれば、全部水に流してもらえると思っているの?あなたは彼女が謝っても許さずに別れたじゃない」
「それは――」
痛いところを突かれて跡部は珍しく言葉を詰まらせた。
「あんなに夢中だった彼女のこともあっさり飽きたんだもの。どうせ私への告白も気まぐれでしょう」
「おい、待てよ!」
いつの間にか痴話喧嘩になっている。
宍戸が間に入って止めようとするも、二人はすっかり熱くなっていた。




「だいたい、あなたは!」
「話聞けって言ってるだろ!」
「おい止めろよ二人とも!」
宍戸まで加わりヒートアップする三人。向日はどうしていいかわからない。
「……俺、こういうの慣れてないんだよな」
額からあふれる汗を拭こうと向日はズボンのポケットに手を入れた。
(ハンカチ、ハンカチ……あった)


「景吾なんか信じら……え?」
美恵は目を丸くして向日を見つめた。
「ん?どうして俺を見るんだよ」
「……それ」
「それ?」
向日は皆の自分を見る目がおかしい事に気付いた。宍戸は真っ青になり、跡部は何だか怒っているようだ。
「何だよ。何で、そんな目で俺を見るんだよ」


「変態!!」


美恵の平手が向日の頬に炸裂した。
「岳人、てめえどういうつもりだ!!」
おまけに跡部が向日に飛び掛かった。
「お、おい跡部、何で怒ってるんだよ!?」
「ふざけやがって俺に喧嘩うっているのか!」
「待てよ跡部、これには理由があるんだ!」
宍戸が跡部に羽交い絞めをかけるも、跡部はすごい力で振りほどきにかかっている。
「落ち着けよ、岳人に悪気はなかったんだ!」
「な、何だよ?何を言っているんだよ?」
向日はますます汗だくになった。もう一度拭おうとハンカチを顔に近づけると美恵が真っ赤になってハンカチを取り上げた。


「変態、もう、あなた達のいう事は何もかも信じられないわ!」
「お、おい美恵、何の事だよ。俺のハンカチ返せよ」
「これのどこがハンカチよ!!」
向日はようやく気付いた。それはハンカチではない……美恵の下着だった。


(げえー!ポケットに入れたこと忘れてたー!!)


「ち、違うんだよ美恵。こ、これは猿が……猿がその!」
猿の群れが美恵の服や下着を持っていた。その一部を取戻し、謝罪するついでに返すつもりだったのだ。
「もう何も聞きたくないわ。帰って、今すぐにここから出て行ってよ!!」
「そうだ。さっさっと俺たちの前から消えろ!!」
「景吾、あなたもよ!!」
「おい、俺は関係ねえだろ!」


「もう顔も見たくないわ。あなた達全員、私の視界から消えてちょうだい!!」




BACK TOP NEXT