榊の言葉が跡部の頭の中で何回もリピートされる。
その時、コンコンとドアを二回ノックする音が聞こえた。
「お坊ちゃま、よろしいですか?」
執事が何かの書類と形の崩れた箱を手に入室した。
美恵お嬢様がお持ちしたものが落ちていましたので」
美恵が来たのか?」
跡部は愕然となった。こんなに焦ったのは生まれて初めてかもしれない。
「はい、お坊ちゃまたちは中庭にいるとご案内したんですが、お会いにはならなかったんですか?」


美恵に見られた。美恵との約束をすっぽかし、皆でパーティーしていたことがばれた。
美恵はきっと仲間外れにされたと感じたことだろう。嫌な予感がした。
執事は跡部の様子がおかしいことを察し、資料と箱をテーブルの上に安置して退室した。
美恵が自分達をどれだけ大切に思っていてくれていたのか、その資料には凝縮されていた。

『景吾なら必ず今よりずっと強くなれるから頑張って』

そんな温かいメッセージも所々に書き込まれている。
箱の中には手作りケーキ。落ちた衝撃で崩れていたそれを跡部は一口食べてみた。

「……美味い」

窓の外では雨が激しさを増していた。




テニス少年漂流記―13―




(……世の中、計算通りにいかんもんやな。俺としたことが、ついカッとなって)
忍足は今更ながら事を焦った事を悔やんでいた。美恵の自分に対する信用は地に落ちたことであろう。
口説くどころか、友達に戻れるかどうかもわからない。その間に跡部と和解したら全てが無駄になる。
跡部の元恋人は美恵に対しては我侭いっぱいだったが、その反面跡部に対しては可愛い女を見事に演じ切っていた。
跡部のテニスへの思いを、ひたすら尊重し応援し健気な女を演出していた。
だからこそ上手くいっていた。今までの女はテニスよりも自分を優先することを要求して、すぐに破綻していたから。


(けど、あの女も所詮今までの女と同じやった。今まで、ようもったと思うくらいや。
美恵が退院した頃から跡部に対しても我侭いうようになった)


彼女は気づいてなかったが、跡部は愛想をつかしだしていた。
それでもしばらくもったのは忍足がさりげなくフォローしてやっていたからだ。
もちろん、それには限界がある。元々、美恵のように根底に強い信頼と愛着を長年育んだ絆はないのだ。




ある日、忍足は跡部が「俺達はもう会わない方がいい」と彼女に伝達するのを目撃した。
それが、どういう意味なのか女にもわかり泣きじゃくって跡部に縋り付いていた。
「おまえと俺は合わない。もうわかってるだろ?距離を置いた方がいいんだ」
「そんな事ない!私達、上手くやっていけるはずよ。ねえ、どうしてそんな事いうの?!
わかった天瀬さんね。あの人がまた私の悪口を吹き込んだんでしょう?酷い!」
美恵の事を悪くいうのはそれくらいにしろ。
断っておくが、てめえがあいつの告げ口をするのは何度もあったが美恵は一度もそんな事しなかったぜ。
俺はおまえのそういうところにも正直付き合いきれなくなったんだ」
二人のやり取りを見ていた忍足は思った。


美恵からパーティーの招待されたから、それを機会に関係を修復しようなんて企んどるな跡部。
そんな虫のいい事、神さんが許しても俺は絶対に許さへんよ)


だが、このままでは跡部が彼女を捨てるのは時間の問題だった。
その二日後、どういうわけか彼女は「日曜日、私の誕生日なの。景吾、一緒に祝ってよ」と言いだした。
そして運よく、忍足はその現場をまたしても偶然目撃する事になったのだ。
「景吾の私に対する気持ちが冷めてきてるのはわかってる……だから私、やり直したいの」
どういうわけか、先日目撃したときの駄々っ子ぶりが嘘のようにしおらしい態度に出ているではないか。
「もう我侭いわない。景吾を支えられる女になりたいの、いえなってみせる。
私にはそれができる。だから今までだってテニス部でマネージャー業も頑張ってこれた。
景吾だって、それだけは認めてくれるでしょう?」


彼女はさらに続けた。
「それで景吾の気持ちが戻らなかったら諦める。お願い私にチャンスをちょうだい。
私、今までずっと頑張ってきたのよ。そのくらいしてくれてもいいでしょう?
もしかしたら来年の誕生日には景吾はいてくれないかもしれない、そう思うと……」
彼女は泣き出した。肩を震わせ両手で顔を覆って声を押し殺している。
そんな姿を見れば、たいていの男はコロッといくだろう。
忍足は期待の込めて跡部の顔を見た。しかし、跡部の目は僅かに同情の色がうつっているだけで冷めている。


――あかん。これは俺の出番やな。


「跡部、マネージャーのお願いきいてやったらどうや?」
「忍足、てめえいつからそこにいた?」
「悪いと思ったが立ち聞きさせてもらったで。跡部、ちょっと来い」
忍足は跡部を強引に連れ出した。
「自分の気持ちは、もうマネージャーから離れているようやな。
だったら、なおさら最後のお願いくらいきいてやったらどうや?
マネージャーも自分がふられるってことは、もうわかってるんや。来年の誕生日は自分に祝ってもらえないってな。
だったら、せめて今だけは一緒にいてやったらどうや?一度は本気で夢中になった女やろ。
それくらいするのが男の思いやりと責任だと思うで」


忍足の言い分はもっともだった。確かに一度は本気になった女。
「だが美恵との約束が」
「それやったら俺が上手い事いっておくから心配する必要ないで。美恵は優しい女や、きっとわかってくれる」
確かに美恵ならわかってくれるだろう。自分を犠牲にするくらいに、他人に対して思いやりのある女だから。
跡部は気が進まなかったが忍足の忠告を受け入れた。




(あれで美恵の跡部に対する気持ちは冷めたはずや。悲しむ美恵を慰めて俺とハッピーエンドのはずだったんや。
仲間が全員自分を裏切って、大嫌いな女を選んだ。いくら美恵でも我慢の限界というもんがある。
俺は美恵と二人っきりになり、慰めついでに頂くつもりやった。いざとなれば力づくでも。
けど、日吉のバカがマネージャーの誘いを蹴るなんて!俺の計画台無しになったんや!!)

その上、今回の暴行未遂事件だ。忍足は平静を装っていたが内心焦っていた。














跡部は携帯電話を取り出した。今すぐ美恵に連絡を取らなければいけない気がしたのだ。
しかし何度かけても通じない。今度は自宅の電話にかけたが、留守番電話が伝言メッセージを伝えるのみ。
嫌な予感がした。榊の忠告が何度も脳内でリピートする。
「出掛ける、すぐに車を出せ」
跡部は美恵のマンションに向かった。だが、やはり美恵はいない。部屋も電気がついておらず暗い。
跡部は腕時計を見た。6時を少し回っている。
高校生なら外出していてもおかしくない時間だが、この時ばかりは気になった。


(こんな雨の中をどこにいるんだ?)


跡部は車を出させ美恵が行きそうな場所を片っ端からあたった。
幼い頃から一緒にいた幼馴染だけあって、美恵の事は跡部はよく知っていた。
よく散歩している公園、買い物をしているスーパー、お気に入りのブティック、思い当たる全ての場所で美恵を探した。
だが、どこにも美恵はいない。一度、マンションに戻ったが美恵が帰宅した様子はない。


(もうすぐ9時……くそ!)


夜遊びする女子高生と違い美恵は真面目な女だ。こんな時間まで出歩くなんてありえない。
何かあったとしか思えない。跡部は部員達に電話をかけた。
『跡部、どうしたんだよ』
美恵がいない!今、探しているんだ。協力しろ!!」
『いないってどういうことだ?』
「いいから来い、あいつを探すんだ!!」
凄い剣幕で怒鳴ってしまった。電話の向こうで宍戸が怯んでいる。
『わかった、すぐに行く』
「他の連中も総動員して今すぐ探せ!!」
こんなに焦ったのは生まれて初めてだった。跡部は雨の中、当てもなく走った。
思いあたる場所は全て探した。何度も何度も。しかし美恵の影も形も見当たらない。
(どこにいるんだ。美恵、一体どこにいる!?)
時間はすでに10時になろうとしている。美恵はまだ見つからない。




「いい女だったよな」
「あんな不良なんかには勿体ないよなあ」
公園で宛もなく美恵を探している跡部の耳に、そんな下卑た声が聞こえてきた。
「あいつらタチの悪い連中だもんな。今頃――」
「おい、てめえら……」
跡部は、その二人組の前に立ちはだかった。
「……その話詳しく聞かせろ」














「……おまえが公園で男達に絡まれたと知った時、俺は気が狂いそうになった。
いつも、そばにいて俺を支えてくれた。その、おまえの存在の重さを俺は軽んじすぎていた。
おまえを連れ去ろうとした男達を見つけ出して半殺しにしてやった」
美恵は静かに跡部の告白を聞いていた。
「奴らはおまえを拉致しようとした事は認めたが、逃げられたの一点張りでそれ以上何も言わなかった。
次の日、おまえが無事に姿を見せた時、俺はおまえを抱きしめたくなった。だが――」














跡部は美恵のマンションの前にいた。結局、美恵の居所はわからず跡部は帰宅もせずに一晩中探したのだ。
夜が明けた。登校する時間が迫っていたが、そんなこと跡部は気が付かなかった。
タクシーがマンションの前に停止したが、それでも跡部は微塵も動かず俯いている。


「景吾?」


呆然と地面を見つめていた跡部は、その馴染みのある声にようやく正気に戻った。
顔を上げると、そこに美恵が立っていた。


「どうしてここにいるの?」
「……美恵」


無事だった。何事もなかったように、今目の前にいる。
「……おまえ、どこに」
いや、どこにいたかなんて問題ではない。無事に戻ったのだ、それだけで十分だった。


「あなたが私に何の用?」


跡部は愕然とした。美恵はいつもと同じようにふるまっているが、その語尾がわずかに冷淡だったのだ。
「……美恵?」
「私に余程の用があるから来たんでしょう?」
まるで有事がなければ会いに来るわけがないと告げているかのようだった。
「……おまえが行方不明になったから」
「行方不明?私は友達の家に泊まっていただけよ」
友達という言葉に跡部は違和感を覚えた。美恵に、跡部が知らない親しい友人などいないはずだからだ。
「そいつは女か?」
自分でもふざけた質問だと思った。当然のように美恵は顔を歪めた。
「答えるような質問じゃないでしょう?」
美恵の言うとおりだった。跡部は、それ以上何もいえなかった。




いつもと同じ風景が始まった。跡部の恋人が無神経な笑顔を振りまき、レギュラー達はそれに応えている。
その傍らで美恵だけが忙しそうにマネージャー業をこなしている。
だが、いつもと何かが違う。跡部のみならず他のレギュラー達も、その空気を感じ取っていた。
全く気付いてないのは彼女だけ。
彼女が空気を読めないからではない、他人では感じ取れないほど微々たる雰囲気だからだ。
美恵はいつもと変わらない。態度も口調も第三者が見れば普通に見える。
しかし何かが違う。部員達に接する態度が淡々としている、何か感情が抜け落ちている。そんな感じ。


「ねえ、部活終わったら皆で食事に行きましょうよ。私ね、すごく美味しいケーキ屋さん見つけたんだ」
そんな陽気な声が響き渡る。いつもなら向日を始め、レギュラー達は即OKして一緒に出掛ける。
仕事を終えてない美恵を残してだ。だが、その日は違った。
向日が、ややたどたどしい口調で美恵を誘った。
「な、なあ美恵も一緒に行かね?」
美恵は僅かに目を大きくした。『何を言ってるの?』そんな表情だ。
「どうして?」
「どうしてって、以前はいつも一緒だっただろ?久しぶりに……な?」
「私、仕事があるもの。気を遣わなくていいから仲間同士で楽しんできて」
まるで自分は部外者だから、あなた達の邪魔はしないわよと言っているようなセリフだった。




美恵、約束破って悪かったな」
ふいに跡部がそう言った。すると向日も慌てて横から口を出した。
「跡部から聞いたぜ。おまえ、あの日に跡部の家に来たんだって?そのまま帰ることなかったのにさ。
どうせなら一緒に楽しめば良かったじゃないか。なあ、皆――」
それ以上言葉が出なかった。向日が明るい口調で取り繕うと必死になっているのは誰の目にも明らかだった。
そして、それがあまりにも不自然すぎて続かないことも。
「埋め合わせはする。明日にでもレストランに行こうか?おまえイタリア料理が好きだっただろ」
「いいのよ」
美恵は淡々と言った。

「そんな暇あったら彼女を誘ってあげたら?」
「俺はおまえを誘っているんだ!」

語尾が無意識に強くなっていた。美恵は少しびっくりしたようだ。

「変な景吾、いつもそうしていたじゃない」














「……俺は、あの日過ちを犯した。そしておまえの俺に対する感情が変わったことに焦った。
おまえが俺から離れようとしてる。合宿を最後に、おまえがテニス部を辞めると監督から聞かされた。
おまえは即退部を希望したのを合宿が終わるまでと説得したことも聞いた。
だから俺は合宿の間に何が何でも、おまえの決意を変えさせるつもりでいた」
「知ってたのね。だったら話は早いわ……景吾、私はもうテニス部には」
「辞めるな!」
跡部は美恵を抱きしめた。あまりにも強く抱きしめたため痛いくらいだった。


「俺は、おまえを失いたくない!」




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