こんなに慌てている跡部を見るのは初めてかもしれない。美恵
は複雑な気分になった。
「美恵 、まさか変な病気やないやろうな!?」
忍足も随分と慌てふためいている。
普通であれば大した病気ではないかもしれないが、手当が不可能な無人島では命にかかわる事もある。
「おい、美恵
!」
跡部は美恵
を抱き上げた。こんな場所では手当もできない。
「……私は大丈夫よ」
跡部は呆然と美恵
を見つめた。
「……おい」
「大丈夫よ。何ともないわ」
テニス少年漂流記―12―
「侑士、何だよ、その顔!」
向日はびっくり仰天。それは他のレギュラーも同じだった。
氷帝学園の女生徒に絶大な支持を得ていた忍足の美貌が赤くはれ上がっているのだから。
「……二枚目が台無しや」
「何があったんだよ?」
「跡部に殴られたんや。しかも首も絞められた」
首まで絞められたなんて尋常ではない。宍戸が恐る恐る尋ねた。
「跡部と何があったんだよ?」
「別に……ただ俺は美恵
を犯そうとしただけなんや」
「……え?」
向日は言葉もでない。
「お、おい忍足……嘘だろ?」
宍戸もだ。ジローは「ねえねえ、どういう意味?」ときょとんとしている。
そんなジローに日吉は、「美恵先輩の処女を下剋上しようとしたんですよ」と意味不明な説明をしているではないか。
「冗談や、冗談」
魔法の一言で全員ひきつった表情が柔らかくなった。
「だ、だよなあ。侑士、冗談が過ぎるぞ」
「岳人の言うとおりだぜ。もう少し言葉を選べよな」
――ほんま、純粋や連中やなあ。とても本当の事いえへんわ。
「景吾、いい加減に機嫌を直してよ」
「俺がどれだけ心配したかわかってるのか?」
「だから謝っているじゃない。ああでもしないと、あなた忍足を本当に殺しそうだったんだもの」
今、二人は美恵が仮の住み家にしている大木の上にいた。
「痛っ……おい!もう少し優しくできねえのか!」
「氷帝の帝王様が薬がちょっとしみるくらいで文句言わないでよ」
こんなやり取りは久しぶりだった。
「忍足の野郎、手加減なしで殴りやがって」
「それはお互い様でしょ。あなただって何度も忍足の顔を殴ったじゃない」
美恵は内心この程度ですんだことにホッとしていた。
忍足が自分にしたことは到底許せることではないが、最悪の結果にならなくて本当に良かった。
「……忍足がおまえを組み敷いているのを見た途端、頭に血が上った。
が戻るのが、もう少し遅かったらと思うとぞっとする」
ふいに跡部が口を開いた。確かに、後2、3分遅かったら美恵の肉体は忍足に貪られていただろう。
「でも、あなたがあんなに怒るなんてびっくりした……私が他の男に抱かれたって景吾にとっては――」
「どうでもいいわけねえだろ。大事な女が強姦されかけたんだぞ!!」
美恵は硬直した。目を大きく開き、呆然とただ跡部を見ている。
「……今、何て言ったの?」
「俺はてめえが好きだ。心底惚れてる、わかったか!?」
「……嘘」
「嘘じゃねえ」
「嘘よ、だって……だって、あなたは」
――彼女を選んだんじゃない。私の事は、ずっとほったらかしだったんじゃない。
――彼女の為に散々私を傷つけたんじゃない。
「……ガキの頃からずっと大事な存在だと思ってた。
だが、いつの間にか、おまえはそばにいて当たり前で俺から離れることはないと勘違いするようになっていた。
あの日、やっと自分の過ちに気付いた。おまえを失った、あの日に――」
跡部に頭を下げてテニス部に戻った美恵は以前以上に懸命になって働いた。
彼女は相変わらず仕事をさぼり、そんな彼女をレギュラー達は甘やかしてばかりだ。
それでも美恵は文句を言わずに、ただひたすらレギュラー達に尽くした。
自分の行動で、もう一度仲間だと認めてほしかったからだ。そんな日々が一か月ほど続いた。
美恵の努力は実らず、相変わらずミソッカス的な位置におかれていた。
その頃だった。跡部達のプレイに微妙にずれが生ずるようになったのは。
原因がわからず跡部達は焦りだしていた。
(景吾達が可哀想。何とかしてあげたいわ)
美恵は自分が独自につけていた選手たちの記録を片っ端から調べた。結果、原因がわかった。
「この新しいトレーニング方法だと手首に負担がかかりすぎたんだわ。だから破滅へのロンドも決まらなくなってたんだ」
そんな調子で他のレギュラー達も調べ上げた。それを資料としてまとめた。
時間と手間がかかったが、これを元にトレーニング方法を変えれば、きっと全てがうまくいく。
美恵は嬉しかった。皆の役に立てるのだ。嬉しさのあまり不二に電話をした。
『よかったね。でも彼等が君の好意を裏切らないか心配だよ』
「ありがとう、いつも不二君には心配してもらって。実はね、今度の日曜にパーティー開こうと思ってるの。
毎年、私がレギュラーを自宅に招待して手作りの料理やケーキふるまってるのよ。
ちょうど、その時期だから皆を招待して、その席でノートを渡そうと思ってるの。喜んでくれたらいいけど」
『美恵さんは本当に優しいね。君のその真心が通じないわけないよ。
もし通じなかったら、その時は潔く氷帝には見切りつけて青学においでよ。ね?』
不二の応援もあって、美恵は早速跡部を招待した。
跡部達は招待を受けてくれた。きっとこれが仲直りのチャンスになる、美恵は土曜日からはりきって準備した。
部屋を奇麗に片づけ花を飾り、ご馳走作りに取り掛かった。
特に腕によりをかけたのは跡部の大好物、ローストビーフ・ヨークシャープティング添えだ。
他のレギュラー達の好物も用意した。そしてお手製の特製ケーキ。
「できた。明日が楽しみだわ」
美恵はいつになく心がうきうきしていた。明日のパーティーで例の資料を渡すつもりなのだ。
だが、そこに思いもよらない電話がはいった。
「もしもし。あ、景吾?明日は楽しみにしてるわ。腕によりをかけて……え?」
『悪いな用事ができた』
美恵の心のトーンは一気に下がった。
「景吾、どうしても駄目?ちょっと顔を出してくれるだけでもいいんだけど」
『じゃあな』
跡部はさっさと電話を切ってしまった。
(……せっかく仲直りするチャンスだと思ったのに)
しかし、それは序章に過ぎなかった。何と他のレギュラー達からも次々に断りの電話が入ったのだ。
次の日、姿を現したのは忍足と日吉だけだった。
「美恵、このサゴシキズシめっちゃ美味しいで」
「俺の下剋上ライスと甲乙つけがたいですよ」
当初の予定と比べたら随分と寂しいパーティーになったが、それでも忍足と日吉が来てくれただけでも良かった。
美恵はケーキを切り分けて一個ずつ奇麗にラッピングした。
「それ、跡部達にあげるん?」
「ええ、せっかく作ったから届けようと思って」
「ふーん」
忍足はチラッと時計を見た。時計の針は2時を回ったところだ。
「だったら俺と日吉はこれでお邪魔するな。はよ届けてやり」
忍足は半ば強引に日吉をひっぱって帰宅の途についた。
「跡部に届けるんは最後にした方がええで。あいつ今日は出掛けるゆうてたからなあ」
そんな捨て台詞を残して。
美恵は資料とケーキを手にレギュラー達の家を一軒一軒まわった。
用事があるとは言っていたが全員出掛けていたので、家族の者に資料とケーキを渡すように頼んだ。
そして最後は跡部邸。途中で偶然榊に会った、跡部に用事があるそうだ。
同車して跡部邸に向かった。ここに来るのも随分久しぶりだ。
「久しぶりですね、美恵お嬢様。お元気でしたか?」
長年の跡部との付き合いで、美恵は跡部家の執事とも仲がいい。その執事の口から、とんでもない言葉が飛び出した。
「でも、随分と遅れての到着ですね。皆様は10時から集まって楽しんでいましたよ」
「……え?」
「こちらです。景吾坊ちゃまが、本日は中庭でパーティーとおっしゃったので」
――どういう事?
美恵の心臓は嫌な響きを繰り返した。
「では、私はこれで。楽しんで行ってください」
勝手知ったる跡部邸。この角を曲がれば、そこは中庭だ。後数歩あるくだけなのに足が動かない。
そして声が聞こえてきた。とても楽しそうな笑い声が。
「ありがとう景吾、すごくうれしいわ!」
それは、紛れもなく、あの女の声。美恵は震えながら足を動かした。そして、そっと中庭を覗くように見た。
跡部がいた。その隣には高価そうなネックレスをもらいはしゃいでいる彼女。
「良かったな、よく似合うぜ」と、褒めちぎっているのは向日だった。
宍戸もジローも……今日、美恵の家のパーティーにいるはずの人間が全員そろっていた。
「皆、今日は私のためにありがとう。急な申込みだったのに、皆と楽しめて嬉しい!」
――何で、彼女がここにいるの?どうして皆、彼女と一緒にいるの?
「当ったり前だろ。おまえは大事な仲間なんだから」
そう言ったのは向日だった。
「それにしても侑士と日吉は薄情だよな。俺、ちゃんと昨日誘ったんだぜ。なのに先約があるからお断りだもんな」
――そういう事なのね。
彼女の為に私との約束を反故にしたんだ。
忍足は、この事を知っていたんだ。だから跡部邸に行くのは最後にしろっていったんだ。
きっと忍足は私がこの光景をみないように気を使ってくれたんだ。
まさか、途中で偶然にも監督と出くわし車で行くことになるとは思ってなかっただろう。
「天瀬、どうした。大丈夫か?」
尋常でない様子に榊が心配そうに肩に手を置き訪ねてきた。
「……私」
今まで何度も何度も信じて耐えてきた。でも、跡部達と昔のようになれると思ったのは思い違いだった。
不二が忠告した通りだった。今の彼等に必要なのは、跡部の横で笑っている女で自分ではない。
美恵は、はっきりとそう悟った。
――もう、氷帝テニス部に私の居場所はない。いえ、とっくになかったのに私が認めたくなかっただけなのよ!
「監督、すみません……私」
美恵は耐えきれなくなって資料とケーキを落とし、そのまま走り去った。
美恵は一人公園のベンチに座っていた。
(……さよなら景吾)
心の中で跡部に、そして氷帝テニス部に別れを告げた。
自分の居場所がないとはっきりした以上、もうあそこにはいられない。
いつの間にか雨が降りびしょ濡れになっていた。しかし美恵は、そのままベンチに座っていた。
「おい見ろよ、あの女。ちょっとおかしんじゃねえのか?」
「でも顔は最高じゃねえか。それに体も」
そんな声も美恵は聞こえなかった。
「よう、彼女。男にふられたのかよ?俺達が慰めてやってもいいぜ」
突然、腕をつかまれ、ようやく美恵は下卑た男たちの存在に気付いた。
「ほら、来いよ。俺のいかす車にのせてやるからよお」
「やめて、離して!」
「跡部、それにおまえ達」
跡部達は意外な訪問客に驚いた。雨が降ってきたのでパーティーもお開きにしようと思っていたところだ。
「再来月のJr選抜合宿の事で話があるのだが、いいか?」
「いいですよ」
跡部は全員帰らせて榊を自室に案内した。
「我が氷帝学園からは、おまえを含むレギュラー8名を参加させることになった。
マネージャーにも行ってもらうことになるが、おまえの恋人はきちんと仕事できるのか?」
「正直、その点については保証はできないですね。ですが美恵がいるので氷帝が恥をかくことはないですよ」
「天瀬が行ってくれたらの話だな」
跡部は怪訝そうに眉をひそめた。
「どういう意味ですか?」
紅茶を差し出すと榊は腕を伸ばした。その時、榊の胸ポケットから手帳が落ちた。
すかさず跡部はそれを拾おうと身をかがめた。開いた手帳には写真がはさんである。
セピア色、随分と古いものだ。その写真の中には若き日の榊と女生徒が並んで写っていた。
「監督、この女性は?」
思わず尋ねてしまった。なぜなら跡部のインサイトは、その女性が榊にとって特別だと見抜いたからだ。
しかし榊は独身。その榊が、ぼろぼろになった写真を大切に持ち歩いているとは特別な事情があるのだろう。
「私の幼馴染だよ。なかなかの美人だろう?」
そう言った榊の目は、とても優しかった。
「自慢するわけではないが彼女は幼い頃から私に夢中で、私に誘われてテニス部のマネージャーになった」
まるで自分と美恵の関係そのままではないかと跡部は思った。
「彼女は友人としてもマネージャーとしても最高の相手だった。だが――」
榊は立ち上がると窓のそばに行き外を眺めた。
「私は、その頃別の女性と付き合っていてな。その女性をテニス部の新しいマネージャーにしたんだ。
自分の手が荒れることなど許せないような女だったが、私はそばにいてくれるだけでいいと思った。
今思えば、どれだけ彼女に嫌な思いをさせていたか……若気の至りとはいえ浅はかだった」
跡部の心臓の鼓動が大きくはねた。それは今の自分と恋人、そして美恵との関係そのものではないか。
「私は傲慢だった。彼女はずっと私だけを見てくれていた、だから私から去るなどありえないと高をくくっていた。
どんな扱いをしようが、どんなに悲しませようが、彼女がそばにいるのが当たり前だと思っていた。
私の環境に変化はないと根拠もなく信じ込んでいた。
彼女にも感情があり選択の権利があるということに気付かなかったんだ。
ある日、私は彼女との約束をすっぽかして恋人とデートに行った。電話したんだが彼女は家を出た後だった。
しかし約束の時間に私が現れなければ、すぐに帰宅するだろう。後で謝罪をすればいい、その程度に考えていた」
榊はいつものように冷静を装っていたが、その語尾はわずかに震えていた。
「約束の時間を何時間も過ぎた時だった。
私は恋人を連れて街を歩いていたんだが、偶然約束の場所にたどり着いていた。
その時の事は一生忘れられない。彼女はいたんだ、約束の場所で何時間も私を待っていた。
私と恋人の姿を見た彼女は泣きながら走り去っていった。
もし、あの時追いかけていれば私の人生は違っていたかもしれない」
「……監督?」
「私は、その時はまだ気づいてなかった。彼女を永遠に失ったことに。
次の日、彼女は男に伴われて登校してきたよ。私のチームメイトだった男だ。
ずっと彼女に求愛してフラれ続けていたはずの、あいつと並んでいたんだ」
「あの夜、彼女があいつに抱かれていたことを後で知った」
榊は無言になった。跡部は声も出なかった。
失うことなどないと思っていた存在。
それが他の男のものになった、後悔しても、どんなにあがいても取り戻せなくなったのだ。
榊は今も彼女を忘れられないのだろう。常にクールでいた男の計り知れない孤独と悲しみを跡部は知ってしまった。
「跡部、これは天瀬がおまえに渡そうと思っていたものだ」
榊は跡部に資料と包装された箱を渡した。
「天瀬が私の幼馴染と同じとは言わん。だが跡部、おまえは私のようにはなるな。
一生後悔するような事だけはしないでくれ」
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