美恵は無言で跡部に抱きかかえられていた。
思えば跡部に触れたのは、随分久しぶりのような気がする。
「ちっ、どうやら一雨きそうだな」
都合よく岩壁の横穴を発見した。ほんの十メートルほどの長さだが、雨宿りには十分な広さだ。




テニス少年漂流記―11―




「……芥川先輩」
「樺地、気が付いた?」
「はい、もう大丈夫です……跡部先輩の前では言えませんでしたが、自分はあの女の人は好きではありません」
あの女の人とは、もちろん跡部の元彼女だった女の事だ。
誰に対しても嫌悪感など見せたことのない樺地が他人を嫌うのは珍しい。もしかしたら初めての事かもしれない。
「……あの日、美恵先輩が入院した日の事が悔やまれます」
樺地はそっと目を閉じた。あの日の光景が頭に浮かぶ。














美恵が肺炎になりかけて入院?!」
樺地の目から見ても跡部はかなり衝撃を受けていた。
大事な幼馴染が一歩間違えたら死にかけたかもしれないのだ、無理もない。
しかし樺地はわかっていた。跡部は二重のショックを受けていることを。
あの雨の中で体調の悪かった美恵を働かせたのは跡部だ。
今、跡部は責任を感じ罪悪感と後悔でいっぱいになっているだろう。
幼い頃から跡部に懐いていた樺地にはそれが良く分かった。


「監督、すぐに見舞いに行きたい。今日のトレーニングは――」
「待って景吾!」


跡部の愛しい恋人とやらが挙手していた。樺地は何となく、この女が気に入らなかった。
ただ尊敬する跡部の彼女なので無下にもできず敬意を払って接してきた。
「突然大勢で押しかけたら返って迷惑かもしれないでしょ?だって天瀬さん、今は弱り切ってる状態なのよ。
まずは私が代表してお見舞いしてくるわ。ね、それが一番よ」
樺地は腑に落ちないものを感じた。いつも感情のままに我侭を放言していた彼女が、珍しく筋の通った事を言っている。
だからこそ怪しく感じた。ただ本能でそう感じただけだ、根拠はない。
「マネージャーの言うとおりや。まずは美恵の様子をしった方がいい」
忍足の意見もあり、まずは彼女が一人でお見舞いに行った。




翌日、樺地は早速彼女に美恵の様子を尋ねた。
美恵先輩はどうでしたか?自分は今すぐにでもお見舞いに行きたいです」
「その事だけどね……天瀬さん、風邪が酷くて皆に移したくないからお見舞いは遠慮して欲しいって」
「……でも」
「我慢して樺地君、これは天瀬さんの希望なのよ」
美恵の望みと言われれば従うしかない。しかし何とか病気で苦しむ美恵を励ましたかった。
跡部に相談すると、手紙をかくように勧められた。
「俺も書いたんだ。今日、もう一度あいつに見舞いに行ってもらうから、おまえも書け」


(跡部さん、やっぱり美恵先輩のこと心配してたんですね)


最近、ずっと不仲の二人を見ていただけに樺地は嬉しかった。
美恵を心配しているのは跡部だけではなく、レギュラー全員手紙を書き彼女に託すことにした。
次の日、彼女は冴えない表情でテニス部に顔を出した。
美恵はどうだった?少しは良くなったのか?」
尋ねる跡部に彼女は涙目になっている。そして、わぁっと両手で顔を覆うと泣き崩れた。


「おい、どうした?」
「……景吾が可哀想!景吾だけじゃない、皆も可哀想……天瀬さんは酷すぎる!」
「何があった?!」
「……あ、あの手紙……皆からの手紙が……ゴミ箱に捨てられてたの!」
跡部は信じ難い表情で彼女を凝視した。
「本当よ、私……忘れ物して……戻ったら廊下のゴミ箱に捨てられてたの。
皆の真心を、あの人は踏みにじったのよ!いくら最近喧嘩ばかりしてるからって残酷すぎるわ!」















「……跡部さん達は頭に血が上って彼女の言葉を信じました。美恵先輩の事が好きだからこそショックだったんでしょう。
でも……自分は先輩がそんな酷い事をするなんて信じられません。彼女が嘘をついたんだと思います」
「……うん、そうだね。いくら喧嘩したからって美恵は、そんな事しないよ。
だから俺も跡部も忍足も、皆、美恵の事が好きなんだ」
あのマネージャーは、あの後、「天瀬さんに風邪をうつされたのよ」と言いだし仕事をしなかった。
そのくせ、美恵が退院すると、「彼女をゆるしてあげて。病気のせいで気が立ってたのよ」と慈悲深いセリフを連発した。
今思えば仕事をさぼる口実だったとしか思えない。皆、騙されていたのだ。














美恵は小さくなって俯き時々跡部を見つめる。横穴の入り口付近では跡部が外の様子を伺っている。
美恵に服を提供したため、跡部は今、上半身裸になっている。
それが美恵を委縮させている理由の一つでもあった。
(……気まずすぎるわ)
何か言葉を出したくても声がでない。ただ心臓の鼓動が大きくなるばかりだ。
「あーん、どうした?」
美恵の視線に気付いたのか跡部が此方に向いた。美恵は慌てて視線をそらす。


「何、赤くなってやがるんだ。俺様の裸に見とれているのか?」
「……な!」


即座に否定しようとしたが言葉がでない。悔しいけれど、跡部は正しかった。
テニスで鍛えているだけあって跡部の体は引き締まっていて、とても逞しく美しい。
「これでお互い様だな」
覗き見の免罪符だと言わんばかりの跡部の言い分に、美恵はようやく反論を開始した。


「冗談じゃないわ。あなたは私の全裸を見たのよ、一緒にされてたまるものですか」
「恥ずかしがることはねえだろ。奇麗な体だったぜ」
「冗談でもそんなこと言わないで」
「冗談じゃねえよ。この俺が魅入られて動けなかった」
跡部は美恵に近づいた。急に接近され美恵は慌てて背後に下がろうとするが、跡部につかまって動けない。


「俺は本気だ。本心でおまえに見とれた」


美恵の心臓は限界点を突破しようとしていた。
「……人をからかうのもそれくらいにしてよ。あなたは私の事を――」
「嫌っているなんて勝手に決めるな。嫌いな女の事が心配でたまらくなるほど、俺は博愛主義者じゃないぜ」
跡部の目は何だか少し悲しそうに見えた。


「……俺を嫌っているのはおまえの方じゃねえのか?」


そう尋ねた跡部の目は、いつもの自信に満ちたものとは違った。
「あの日以来、おまえは道端の石ころを見るような感情のない目で俺を見るようになった。
嫌われているどころか無関心だな。嫌われるより、ずっと最悪だ」
「それは……」
美恵は否定しなかった。確かに、あの日以来自分は跡部に対する熱い想いを捨てた。
いや捨てたというよりも諦めて心の奥底に封印したのだ。
跡部を思い続けても苦しむだけ、ならばいっそ跡部のことは忘れようと思った。
それなのに、今の自分は熱を帯びた目で跡部を見つめている。




「……あ、跡部に美恵……これは、どういうことや?」
二人は気づいてなかった。そう遠くない場所から二人を見つめている人影に。
それは忍足だった。跡部同様、美恵の目印に気付き追跡して二人を発見したのだ。
上半身裸の跡部、そしてどうやらシャツ一枚のみらしい美恵、二人が洞穴にいるのを見つけた時の忍足は愕然とした。
「……あ、跡部、よくも」
忍足の心は憤怒によって臨界点を突破した。




「よくも俺の目を盗んで美恵と寝てくれたな!」




雨が上がると、跡部は「おまえの荷物を取ってくるから、ここで待ってろ」と外に出た。
美恵は一人洞穴に残された。
心臓の鼓動はまだ早い。何よりも胸の奥から忘れかけていた熱いものがこみ上げてきている。

(……私、変だわ。きっと景吾の裸を見てしまったから動転してるのよ)

その時、人の気配を感じた。いくら跡部が足が速いといっても、戻ってくるのは早すぎる。
不審に思って振り向くと、そこには尋常ではない雰囲気の忍足が立っていた。


「……忍足!」


美恵は思わず身構えた。忍足の様子がおかしい。
「……ええ恰好してるなあ。仲違いしてたと思ったのに、こんな場所でいちゃいちゃしてたなんて。
ほんま……すっかり騙されたわ」
「忍足、何を言ってるの?」
「跡部も跡部や……俺の気持ち知ってるくせに、ようもこんなふざけたことを」
忍足が洞穴に侵入してきた。
「……来ないで」


「ええチャンスや思ってたんや……跡部が自分以外の女に本気になった、そして自分との間に距離を作った。
それどころか、自分と敵対するようになった。跡部と自分の間に入る隙はない思っていた俺は内心嬉しかったんや。
だから跡部と自分が不仲になっていくのを黙ってみてた。幸い他の部員もそれに便乗してくれた。
俺は適度に跡部の味方して、それでいて自分から完全に離れん位置にたって傍観してたんや。
そして自分が完全に跡部と決別して叩きのめされた時、運命の相手として名乗りを上げるつもりやった。
人間は一番悲しみに打ちひしがれた時が一番落ちやすい。後一歩だったんや。
それなのに、あのバカ女は跡部に愛想つかされよった。
それどころか跡部が思ったより早く自分を失った痛手を思いしらされた。
その挙句がこの漂流や……特殊な状況のせいで跡部はなりふり構わず自分に急接近しだした。
やばいやばいと思うていたけど……まさか、こんなに早く行動に出るとは思わんかった。ほんま頭にくる」


「何を……何を言ってるの?」
「何って、まだとぼけるん?」




「跡部に抱かれたんやろ?」




美恵はショックで声も出なかった。しかし忍足は無言を肯定と受け取った。
「……自分にずっと目つけてたんは俺や。その俺を差し置いて」
忍足は美恵の手首を乱暴につかんだ。もちろん美恵は抵抗しだした。
「離して!」
「うるさいわ!」
突然の平手、あまりの仕打ちに美恵の全身を恐怖が駆け巡った。
さらに忍足は乱暴に美恵を押し倒し、一気に服を引き裂いた。


「い、いや!何を……何をするのよ!」
「何って、セックスに決まってるやろ?」

「……!!」


忍足は本気だ。その証拠に自らもシャツを脱いだ。
「冗談はやめて、こんなこと正気とは思えないわ!」
「そうやな俺は正気やない。けど、そんな事どうでもええやろ?逆らわん方がええで。
大人しゅうしてたら気持ちよくなるけど、俺を怒らせたら痛い目にあうんやで?」
美恵は心底ぞっとした。今の忍足に正論は通じない。
「離して、離しなさいよ!!」
必死になって忍足の胸を押し返した。だが女の力では歯が立たない。
「我侭もええ加減にしいや!」
忍足は美恵の両手首を乱暴につかんだ。


「跡部にはやらせたんやろ!?今更清純ぶっても遅いんや!!」
「さっきから何を言っているのよ!私と景吾は何もしてないわ!!」

「処女だって言うんやな?だったら俺が今すぐ確かめてやるわ!!」
「……そんな!」

もはや何を言っても無駄だ。忍足は美恵の首筋に顔をうずめてきた。
「……やっ」
ちくっと小さな痛みが走る。忍足の頭は今度は鎖骨に、そして胸へを移動していった。
その度ごとに小さな痛みは繰り返され、美恵の肌には赤い点がいくつもついた。
さらに忍足の手が美恵のむき出しの乳房に直接ふれ、そして乱暴に揉みだした。


「いやぁ!もう、やめて……お願いだから、やめて!」

いくら懇願しても忍足の手は止まらない。それどころか行為はエスカレートしていく。

(助けて、誰か助けて……景吾!)

「跡部には足を開いたんやろ?」
忍足が耳元で囁いてきた。違うと言っても聞く耳はもたないだろう。
「俺のモノもいれさせてもらうで?」
カチャカチャと不気味な金属音が聞こえだし、美恵の恐怖はピークに達した。




「助けてっ!助けて、景吾ー!!」




もう駄目だと思った。その瞬間、突然自分に圧し掛かっている忍足の重みが消えた。
涙で泣きはらした美恵の目に映ったのは岩壁に叩き付けられる忍足の姿だった。


「忍足、てめえ!!」


怒り狂った跡部が忍足の胸ぐらを掴んでいた。
「よくも……よくも美恵を!!」
跡部は完全に正気を失っていた。美恵の悲鳴を聞きつけ全力疾走で戻ると、今まさに犯される寸前の美恵を目撃したのだ。
その瞬間、跡部の理性は完全に消滅した。クールな彼が文字通り切れたのだ。


「ふざけやがって、ぶっ殺してやる!!」
「ふざけてるのはどっちや?!美恵を捨てておいて、今更取り戻そうなんて虫が良すぎるんや!!」


「何だと!?」
跡部と忍足は派手な肉弾戦を繰り広げた。これには美恵も犯されかけたことも忘れて焦った。
どちらが死んでもおかしくないくらいの争いだったからだ。
「二人ともやめて!」
美恵は慌てて二人の間に割って入ったが、「邪魔するな!」と突き飛ばされた。
「こいつは死んで当然なんだ。絶対に許さねえ、殺してやる!!」
跡部は忍足を地面に突き飛ばすと、馬乗りになり首を絞めだした。忍足の形相が苦悶に満ちてゆく。


「景吾、やめて!本当に死んでしまうわ!!」
「ああ、そうだ。こいつは死んだ方がいい!!」
「景吾!」
跡部は完全に頭に血が上っている。このままでは本当に殺人事件に発展しかねない。

「景吾、お願いだから止め……っ」

美恵はお腹を抱えて地面に突っ伏した。
美恵?」
「……い、痛い……お腹が……!」
「おい、どうした美恵!?」
跡部は忍足を突き放すと美恵に駆け寄った。


美恵、しっかりしろ!!」




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