寝室でロッキングチェアに腰かけて静かに読書をしていると、外の見回りから戻ってきたリヴァイが入室するなり、そう言った。
「たいしたことじゃないよ。昔の、あなたのことを聞かれたから、今と違って身勝手な人間だって言っただけ」
リヴァイは「つまらねえ話だ」と呟くように言った。
そして、ゆっくりとハンジに近づくと屈んで唇を重ねてきた。
付き合いが長いと口づけ一つで相手の気持ちが敏感にわかってしまう。
「……あなたでも不安になることあるんだね」
「……てめえがつまらねえことを言うからだ」
「詳しいことは何も言ってないよ」
「そうじゃねえ。何が『私が生きてるうちは』……だ」
まるで母親に甘える子供のように、リヴァイはハンジの胸元に顔をうずめた。
「……絶対に死ぬなよハンジ」
「ごめん……私が悪かった。もう二度と弱音は吐かないよ」
「そうだ、それでいい。俺に生き方を教えた責任ってやつを、せいぜい長生きすることで証明しろ」
その夜、リヴァイは一晩中ハンジを抱きしめ、月明かりを頼りに、その愛しい顔を見つめていた。
――ハンジ、おまえが生き続ける限り何度でも言ってやる。
ハンジは尋ねた。リヴァイにとって、自分は、どんな存在なのかと。
女ってやつは厄介だ。いくら行動で示しても、それでも言葉にして欲しいなんて。
けれどもハンジが、そんなことで満足するのならとリヴァイは自分の気持ちを言葉にした。
――『……ハンジ、おまえは俺にとって……俺が心を開くことができたのは』
世の男たちが恋人に贈るキザで優しく飾り立てたものでは全くない、シンプルで非個性な、たった一言だったが。
――『250万人で、おまえ一人だ』
戦場の勇気
地下街出身の自分に向けられていた蔑みの視線は、たった一度の壁外調査で変わった。
蔑みから一転した感情は恐れだ。
地下街育ちのリヴァイにとって、それは馴染み深いものだったので特に気にもならなかったが。
ところがだ、その団員たちの中から「リヴァイ!」と、熱のこもった声が聞こえてきた。
「見たよ、リヴァイ!あなた、すごいよ。天才だ!!」
眼鏡をかけた兵士が興奮気味にリヴァイに話しかけてきた。初めて見る顔だ。
(女……か?)
そう思えるほど中性的な容姿だった。すらりとした体型も性別判断を邪魔する材料になった。
付け加えれば綺麗といって間違いない外見だった。
「どこで、あんな技術ならったの?」
何だ、この女は?
それが初対面のハンジに対するリヴァイの率直な感想だった。
まるで長年の友人に接するように遠慮なく話かけてくる。一定の距離を保ちながら得体のしれないモノをみるような目を披露している他の団員たちとは正反対だ。
「誰だ、てめえは?」
「ああ、ごめん。自己紹介が、まだだったね。私はハンジ・ゾエ。あなたと同じ新兵だよ」
「てめえ、何体、巨人を殺した?同列は不愉快だ」
「ああ、ごめん。確かに、あなたと私じゃあ、レベル違うよね。
これでも訓練兵時代は成績トップで、鳴り物入りで調査兵になったんだけど、あなたにいいとこ全部もっていかれちゃったから」
ハンジは屈託のない笑顔で、そう言った。
成績トップということは憲兵入団資格を持っていたエリート中のエリートだ。なぜ調査兵などにという疑問はあったものの、リヴァイは、それ以上に他人に構われたくなかった。
ハンジを無視して踵を返し、その場を離れる。冷たい態度だったが、ハンジは怯むことなく「今度、話きかせてよ!」と明るく言った。
ちらっと肩ごしに手をふるハンジが見えた。
(バカか、あのメガネ女は)
リヴァイがハンジに抱いた第一印象は、お世辞にも好意的なものではなかった。
「どうだリヴァイ、少しは慣れたかい?」
分隊長の執務室でエルヴィンは期待を込めた眼差しで尋ねてきた。
「いちいち俺に訊かなくても分隊長なら戦績の報告書をみりゃあ一目瞭然だろう」
それに対するリヴァイの返答は毎度実に無情なものだった。
「いや……討伐数のことじゃない。仲間たちと上手くやっているのか?」
「てめえが俺を入れたのは巨人の数を減らしたいからだろう?それ以外のことで期待されるのは迷惑だ」
リヴァイは「話は終わりだ」と言わんばかりに腰掛けから立ち上がった。
「聞けば団員たちと全く交遊がないというじゃないか」
「巨人を殺るのに必要ねえだろ、そんなこと」
エルヴィンはため息をついた。
「……敵は巨大で強力だ。仲間同士の助け合いが必要不可欠なんだよリヴァイ」
「俺は1人で殺せる。足手まといなんかいらねえと言ってるんだ」
取りつくしまもないリヴァイにエルヴィンの表情はどんどん曇っていく。
「おまえが手柄をたてるたびに、軍律違反の報告書が山のように私の元に届くんだ。このままでは、おまえは孤立するぞ」
「望むところだ」
さすがにエルヴィンも不快な気持ちを隠せなくなっていた。
「……おまえとコミュニケーションをとろうという団員はハンジだけというじゃないか」
ハンジの名前を聞いた途端、それまで平然としていたリヴァイの表情に変化があった。
エルヴィンをそれを見逃さなかった。
「あの子も、おまえとは違う意味で団員たちから少し距離を置かれているんだ。変わり者同士、気があってるのか?」
「冗談、顔だけにしろ。あの女が一方的に話しかけてくるだけだ」
「彼女は少し変わっているが実に優秀な子だよ。将来、必ず調査兵団に無くてはならない人物になれる。
そうだ、おまえたちを同じ班に入れよう」
「何だとエルヴィン!」
リヴァイが初めて感情的になった。
「おまえは実技は完璧だが他が疎い。やはり訓練兵を経てないマイナス面は大きいようだ。
ハンジは特に座学が優秀でな。学べるものは多いと思うぞ。年齢も近いし仲良くやってくれ」
エルヴィンの気遣いはリヴァイにとって、とんでもない懲罰だった。
「リヴァイ、はい、これ」
ハンジが何十枚という綴られた用紙をリヴァイの前に置いた。
食事中に現れた邪魔者にリヴァイは舌打ちした。
「一応、訊くが、何だ、これは?」
「何ってエルヴィンにきかなかった?」
確かにハンジから学べと言われたが、そんなこと承知してない。
「座学の教書なんてつまらないから私が独学で調べたものが大半なんだけど、わかりやすく要約しておいたから」
観念したようにリヴァイは書類を手に取った。
時折、難しい単語や文章は出てくるものの、リヴァイに理解しやすいようにハンジが骨を折ってくれたことはよくわかった。
変人ではあるが、頭脳は大したものだと認めざるえない。
「前から聞きたかったんだが」
「リヴァイが私に訊きたいことがあったの?嬉しいな」
何を勘違いしているんだ。別に、おまえとお仲間になりたいわけじゃない。
「てめえ、どうして憲兵にならなかった?調査兵より仕事は楽、給料は上だろ」
「だよね。私の同期は皆そう言ってたよ」
ハンジは笑っている。本当によくわからない奴だ。
「リヴァイは壁上に立ったことある?」
「あるわけねえだろ。俺はずっと地下にいたんだ」
「だったらエルヴィンに許可もらうよ。百聞は一見にしかず、明日の夜明け前に迎えに行くから、ちゃんと起きててよ」
「おい!」
返事も待たずにハンジは食堂を後にした。
「……勝手に決めやがって」
内心、頭にきたが、それでもリヴァイはハンジの望み通り夜明け前に起床した。
二人で壁上にあがると、夜風が容赦なく攻撃してきた。
「うー、寒い」
がくがくと震えるハンジに「てめえが言い出したんだろ」と文句を言えば、「しょうがないだろ、寒いんだから」と返してくる。
「だいたい、あなたは他人に対して……」
そこまで言ってハンジはリヴァイの姿を今一度じっくり見た。
支給品の外套こそ羽織っているだけの状態だ。兵士たちは少ない給料から防寒具を購入して暖をとっている。
まだ安月給の新兵にしても実家から親があれこれ贈ってくれる。
「そうだね。うん、私が悪かったよ。これくらい鍛錬だと思わないとね」
ハンジはマフラーを取り外すとリヴァイの首に巻いた。
「おい、何のマネだ?」
「鍛錬には邪魔だから、しばらく、あなたが預かっててよ」
「…………」
暖かい……と、感じたのは、人生初めての体験だった。
その後は、しばらく、二人とも無口だった。
数十分後、ハンジが立ち上がって興奮気味に言った。
「見てリヴァイ!」
夜明けだ。地平線の向こうから、少しずつ景色が明るくなってゆく。
太陽の光が空を山を、そして巨人に支配されている大地を覆ってゆく。
それは地下で生きてきたリヴァイにとっては、想像したこともない絶景だった。
「皮肉だよね。壁の一歩先は地獄なのに……それが、こんなに美しいなんて」
「……そうだな」
自分でも驚くくらいリヴァイは素直に応えていた。
「でも昔は、この景色は人類のものだったんだ。巨人から奪い返すのは土地だけじゃない。
自由、命、そして誇りだよリヴァイ。
私は、この景色を見るたびに、その決意を再確認してきたんだ」
力強く語るハンジの笑顔にリヴァイは一瞬息を飲んだ。
「どうしたのリヴァイ?」
「……何でもない」
ただ、その日は、ハンジの顔をまともに見れなくなっていた――。
それ以来、ハンジとの距離は確実に縮まったが、他の団員たちとは相変わらずだった。
エルヴィンの説得も功をなさず、リヴァイはエルヴィンが危惧した通り孤立していった。
恒例の壁外調査で、またしてもリヴァイは班長の命令を無視して単独行動をとった。
結果、巨人の討伐数は、さらに記録更新したが、その代償として堪忍袋の緒が切れた班員たちに呼び出しをくらった。
結果、班員たちはリヴァイが立体起動のみならず、対人格闘術でも無敵だと思い知らされた。
だが、その行為は、普段、リヴァイと班員たちの間にたってリヴァイを庇いつづけてきたハンジをも怒らせるという副産物を生んだ。
「聞いたよリヴァイ、あなた、班員たちを病院送りにしたんだって?」
真夜中の訪問客にリヴァイは露骨に眉をしかめた。
「少しは協調性をもったらどう?仲間と協力しないと、この先、きつくなるのはあなただよ。
今は、運よく無事に帰還できているけど、いざとなったときは後悔する間もなく巨人の胃袋で最悪な最後を遂げることになるのは、他でもない、あなた自身なんだよ」
どうして、この女は、ここまで俺の領域に踏み込むんだ?
俺を強引に入団させたエルヴィンですら、俺にはもう諦めに近い心情でいるというのに。
うっとおしいと思う反面、不思議でならなかった。
利害で動くのが人間だ。だがハンジには自分に構うメリットがまるでない。
「皆がかわいそうだよ。せっかく無事に戻ってきたのに巨人じゃなく仲間に負傷させられるなんて」
リヴァイはかちんときた。
喧嘩を売ってきたのは向こうだ。それなのにハンジは『リヴァイ』ではなく、『他の人間』の味方をしている。
「断っておくが先に手を出してきたのは、あいつらだ」
「あなたが命令違反して班に迷惑かけたからでしょ。いつから自分の非を棚にあげるのが得意になったんだよ」
どうにも、苛々する。リヴァイは何故か悔しくてたまらなかった。
「俺は1人で班全員の合計より上の討伐数を稼いでやってるんだ。とやかくいわれる覚えはない。
てめえだって俺が巨人を減らせば嬉しいだろう?何が不満なんだ」
「あなた、自分の勝手な行動が、どれだけ仲間に迷惑かけているのか理解する頭もないの?
調査兵団の任務は壁外の様子や巨人の生態を調べることだ。人類が土地や自由を取り戻すためにね。
あなたは、そのことをわかってくれてると信じてたのは私の勘違いだったみたいだね。
今、兵団の規律を乱してまで討伐数を稼ぐことなんか、将来の勝利と比較にもなりゃしないよ」
入団数か月で、ベテランの兵士たちが長年かけて築いた戦績を軽く超えてしまったリヴァイにとってハンジの説教は負け惜しみにしか聞こえなかった。
強者の優越感からリヴァイは普段から思っていた事を嫌味混じりで聞かせてやろうと思った。
「教えてやろうか。地下街で生きていた俺でも知っていることがある。
世間は調査兵団を頭のいかれた連中だと思っている。道化扱いして笑っているんだ。
てめえは変人だが頭だけはいい。気づいてないはずがないだろう?
それでも、てめえは人類のために心臓を捧げ続けて平気なのか?」
リヴァイは鋭い視線で「どうなんだ」と強い口調で言った。
「あなたの入団話がもちあがったとき、幹部のほとんどが反対してた。そんな彼らに対してエルヴィンが言ってたよ。
あなたは凄い男になる、近い将来、調査兵団を背負う立派な兵士になるってね」
ゴロツキの自分をエルヴィンは使い捨ての道具にするつもりだと確信していたリヴァイには到底信じられない言葉だった。
ハンジはさらに言った。
「あなたを見た時エルヴィンの言葉は嘘じゃないって思った。地下街の人間を知らないわけじゃない。
どいつもこいつも薄汚い欲望にぎらついた嫌な目をしてるか魚のように死んだ目、どっちかだ。
でも、あなたは違った。冷たい瞳の奥に強い光を感じた。
壁外調査で芸術的な立体起動を見た時、エルヴィンの期待通りの資質を持っていると一瞬で納得できたよ。
だから、あなたと一緒にいるのは楽しかった。
けれど、そのうち私は得体のしれない違和感をあなたに感じるようになった。
才能は申し分ない、でも一流の兵士に必要な何かが足りないってね。
それが何なのかわかったよ。あなたは才能に匹敵する器量を持っていないんだ。
どんなに才に恵まれていたって、それを使いこなす器が備わっていなかったら宝の持ち腐れだよ!」
「何だと?地上でぬくぬく生きてきた奴の物差しで俺を測るな!!」
すごした人生の長さこそ短いが、潜り抜けた修羅場の数では誰にも負けないと自負しているリヴァイにとって、これほどの侮辱はなかった。
それも自分よりも、はるかに脆弱な女相手にだ。
「てめえは俺を舐めてるのか?それとも自殺願望でもあるのか?」
地下街で名の知れた連中でさえ、リヴァイにその台詞を言われたらそろいもそろって震えだした。
しかしハンジは臆するどころか、あえてリヴァイの逆鱗に触れるかのように叫ぶように言った。
「私たちが温室育ちだって?そんな人間が壁外にいけるものか。
あなただって見ただろう。あの地獄を!
調査兵たちは手足をもがれ、仲間の死骸を乗り越え、それでも人類に勝利が来る日を信じて闘い続けている。
私に言わせれば地下で這いつくばって粋がってる奴の方がただの弱虫さ。
本当に強い男は言い訳なんかしないもんだよ。
自分の理不尽さを周囲のせいにするなんて卑怯者のやることだ。
リヴァイ、あなたは卑怯者なのか!?」
――この女……!
「もう一度、言ってみろ!」
「何度だって言ってやるよ。あなたは卑怯者だ。そんな、あなたなんて……大嫌いだよ!」
リヴァイは己の中で何かが膨らみ爆発したような感覚を味わった。
この女は今何て言った?
リヴァイの中でドロドロした感情が、まるで古井戸の中から溢れ出すように大きくなってゆく。
その変化が顔に出たのか、それまで威勢の良かったハンジの口元がわずかに引きつる。
危険を感じのか扉にむかったハンジだったが、背後から伸びてきたリヴァイの手が扉をドンと押さえ逃げることを許さなかった。
「リ、リヴァイ……あなた」
「……女が、こんな時間に男の部屋に訪問するって意味わかってんだろうな?」
ハンジの目の色が恐怖一色に染まった。
リヴァイがハンジの腕を取り、強引にベッドに押し倒すと、その色はさらに濃くなった。
ハンジが恐れている。まるで支配しているかのような快感すら感じた。
リヴァイが覆いかぶさるとハンジは激しく抵抗した。
「何するの!リヴァイ、悪ふざけは――」
「俺が悪ふざけをするタイプに見えるのか?」
言いたい放題言いやがって。どう足掻いたところで俺に勝てないくせに。
「てめえが、ただの非力な女だってことを思い知らせてやる」
「……リヴァイ、やめて!」
押さえつけ服を引き裂くと、静寂の闇にハンジの悲鳴が吸い込まれていった。
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