攻撃を仕掛けた三村も、全力を使い果たしたのかぐったりとうつ伏せになって動かない。
国松は口から流血し顎を押さえ激痛に耐えかね悶絶していた。
「や、やった」
良樹の素人目にも国松が受けた打撃は尋常ではないと判断できた。
「やったぞ三村!!」
七原は諸手を挙げていた。杉村も同様に右拳を上げようとしたが、傷にひびいたのが苦笑いしている。
「三村が勝った。光子さん、あんたの出番はないようだな!」
おおはしゃぎで光子を振り返るが、光子は神妙な面持ちで、まだ闘技場を眺めていた。
「……こういうのは八百長の一環になるのかな?」
秋利は手の中の小型機械をちらっと見た。発光装置、かなり強烈な光を発生させられる。
「ま、しょうがないなあ。可愛い弟を泣かせるわけにはいかんからな」
鎮魂歌―83―
「大尉、極秘連絡がはいっております」
副官が小さなメモ用紙を携え、こっそりと徹の背後から差し出した。
メモに目を通しても徹は顔色を変えなかったが、僅かに目に変化があった。
副官が離れ、しばらくすると「急用が出来たので俺は退席させていただきます」と一礼して、その場を去った。
何事かと皆訝しがったが、徹が平静な態度だった為か、あまり気にする者はいなかった。
ただ一人、戸川を除いては。
直後、遠く離れた場所にて待機していた戸川の側近白州の元に蜜命が入った。
『佐伯徹を尾行しろ』
「1、2!」
審判がカウントを取り始めた。三村の手がぴくっと動く。
「立つんだ三村、おまえの勝ちだ!」
仲間の応援も最高潮に達している。
勝利はすぐ目の前だ、国松は今だに床を転がり続けており立ち上がる気配はない。
三村は体を起こしたが中々立ち上がらない。まるで誕生直後の小鹿のように足元がおぼつかない。
それでも審判が「8!」と叫ぶと、残り僅かの力を振り絞り雄雄しく立ち上がった。
「やったぞ三村、おまえの勝ちだ!!」
良樹は感極まって思わず身を乗り出した。
「ふざけるんじゃねえ!!」
三村がガクッと体勢を崩した。その腹部には太い腕が食い込んでいる。
突然の出来事に良樹は我が目を疑った。しかし、もっと信じられないと表情を強張らせているのは三村自身だ。
再び床に崩れ落ちる三村と反対に、鮮血をぼたぼたとこぼしながら国松が立ち上がった。
「そんな三村!」
良樹の歓声は一瞬で悲鳴を含めた絶叫に変わった。
「テン!」
ほぼ同時に審判がテンカウントを終了。そして非情な宣告をした。
「勝者武藤!」
良樹達は愕然とした。まして掴んだはずの勝利が指の隙間から零れ落ちた三村の悔しさは筆舌に尽くしがたい。
「……畜生」
やっと吐いた台詞は、その一言。だが、それだけでは済まなかった。
「てめえ、よくも俺様の顔を傷つけて……くれたなあ!!」
国松が三村の首を鷲掴みにして持ち上げた。その目は完全に血走っており、理性のかけらもない。
鎖につながれていない獣がそこにいた。その凶暴な殺意の先には弱りきった三村の姿。
「ぶち殺してやる!!」
国松は執拗に三村の顔を殴った。
瞬く間に顔面が血で滲んだが、今の三村には反撃どころか避けることすら出来ない。
審判が慌てて「こら試合は終わったんだぞ!」と警告し、国松の腕に触れた。
その途端、審判も殴られた。泡を吹き気を失っている、闘場はルール無用の無法地帯と化したのだ。
「ざけやがって、てめえの面めちゃくちゃにしてやるぜ!」
「……あ、あの野郎」
良樹の中でプツっと何かが切れる音がした。
「けけっ、やめておけよ武藤」
妙な笑い声に国松は振り返った。
「止めるんじゃねえよ。このクソガキをミンチにしてやらねえと俺の気がすまねえんだ!」
「やりたいならやれよ。でも、てめえが死ぬぜ」
「何だとぉ?」
国松はハッとして正面を向きなおした。良樹が銃を構えている。
「まさか撃つのかよ。そんなことしたら失格どころか逮捕もんだぜ」
強がってみたものの国松の口調には先ほどまでの勢いはない。
「その小僧は本気だぜ。てめえが手を止めなきゃ、会場全体を敵に回してでも撃つつもりだ」
その言葉には説得力があった。何よりも武藤を睨みつける良樹の目には本物の殺気がある。
戦闘のプロだからこそ、人を殺そうという人間が本気かどうかわかるのだ。
それでも、まだ三村を離す事を躊躇していると、今度は堂本が怒鳴りつけてきた。
「いい加減にしろよ武藤!見苦しいんだよ、さっさと離せよ!」
「……ど、堂本さん」
武藤は納得できなかったが、それ以上渋る事もなかった。
堂本は陸軍では特別な存在、その意思を無視することは、どれだけ野蛮な武藤でも不可能だったのだ。
武藤はしぶしぶ三村から手を離した。だが、その時、とんでもない台詞を吐く事も忘れなかった。
「堂本さんの顔を立てて勘弁してやるが、会場を出るときは背中に気をつけろよ」
三村は心の中で、「糞野郎」と叫んでいた。声に出す気力すら、もう無かった。
審判が交替し、三村が闘場から降ろされると良樹達は必死に駆け寄った。
「三村、しっかりしろ!」
三村はゆっくりと瞼を開くと、「……悪かったな」とだけ呟いた。
必ず勝たなければならないと使命感を持っていた三村にとって、それは痛恨の敗北だったに違いない。
「何を言ってるんだ、おまえは良くやってくれたよ!」
それは慰めではなく心からの言葉ではあったが、三村にとっては辛い事には違いなかった。
「心配するなよ。おまえのファイト、無駄にしないって。後は俺達にまかせてくれ」
良樹は、まかせろと自らの胸を叩いてみせた。それは本心だったが、川田は心配で堪らなかった。
今までの三人は出て来る順番も強さもバラバラだった。
(だが、残り二人は間違いなくリーダー格だ)
川田は悲鳴を上げたい気分に陥った。
(あのチビが武藤兄弟より強いなんて容姿からは想像もつかない。だが、それを言ったら優男の桐山も同じだ。
皮肉にも桐山のおかげで人間の恐ろしさは外見だけで判断できないとわかった。
あいつら二人は化け物だと考えた方がいい。それも冷酷非情な化け物だ)
審判が「副将、前に」と指示を出した。
「見ててくれ三村、必ず勝つから」
良樹は笑顔で親指を立てて見せた。三村も震える手で同じポーズを取り、あの独特の表情で笑って見せた。
(雨宮が、もし勝つことが出来ても――)
笑顔の良樹とは反対に川田の顔は曇っていた。
(相馬が勝つ可能性は、ほぼ100%無いと見ていい。このまま、やらせるのは無駄なだけなんじゃないのか?)
そう思っているのは川田だけではなかった。
「……川田、もし相馬に順番が回ってきたら俺が出るよ」
「杉村?」
「大丈夫だ、怪我も大したことなかったようで痛みもほとんどないから」
杉村は微笑んでいたが、川田には強がっているとしか見えなかった。
「さ、佐伯大尉、大会観戦はどうなされたんですか?」
「余計な詮索はするな。海上輸送機が出るそうじゃないか搭乗するよ」
「え?し、しかし、あれは食料輸送機で大尉が搭乗するような機では……それに搭乗許可の手続きも」
徹は突然部下の襟首を持ち上げた。
「俺はどこだろうと顔パスなんだよ」
「そんな無茶な!……それに定員いっぱいで大尉が搭乗できる余裕は」
「だったら一人降ろせ。文句言うなら俺が空中で放り投げるよ!」
もはや、それ以上誰も徹に意見を言うものはいなかった。
仕方なく二機あった輸送機の先行機の方に徹の席を急遽用意し飛び立つことになったのだ。
「……大尉の我侭も相当なものだな」
見上げながらパイロットは呟いていた。
「俺もさっさと後を追って……」
機に乗り込もうと搭乗口に足をかけた瞬間、機内から腕が伸びてきて彼の腹部に食い込んだ。
パイロットはそのまま意識を失った。
「おまえの席は俺がもらった。しばらく寝ていろ」
白州だった。彼を乗せた輸送機は先行機をぴったりとマークするように飛び上がった。
「雨宮君、大丈夫かしら……」
体格だけなら良樹の方が上だ。だが相手の男には得体の知れない妖気のようなオーラを感じる。
「要注意だぜ」
夏生は溜息交じりの声で言った。
「あの野郎の名前は今帰仁四(なきじん・ひろ)、陸軍諜報部の人間だ。チビだと思わない方がいいぜ。
ま、俺の敵じゃないけどな、ふふん。俺なら圧勝だぜ」
夏生はちょっとだけ自画自賛した。
「奴は体は小さいが素早いうえに動きが半端じゃない。正直、雨宮じゃ、奴の動きを捉えられるかどうか」
美恵は胸が重かった。嫌な予感がする、それだけの何かを今帰仁は持っている気がするのだ。
審判が開始を宣言しても今帰仁は動かなかった。
咄嗟に構えた良樹は、微動だにしない敵の様子に思わず呆気に取られた。
(様子見なのか?)
ならばこちらも、しばらく様子を見ようと思ったものの、その後も今帰仁は全く動かない。
まるで停止された動画映像のような今帰仁。ただ、そのぎょろっとした目は一直線に良樹に向けられている。
やがて今帰仁は俯いたが、突然、「くくく」と妙な声を発し出した。
(何だ?)
今帰仁の不気味な態度に良樹は恐ろしいものを感じながらもカッとなった。
「何がおかしい!?」
「これが笑わずにいられるかよ、お坊ちゃん!」
今帰仁は、がばっと顔を上げた。その顔は笑顔とは言いがたい不気味な表情でほころんでいる。
「おめえセレブだろ?それも、ちょっとやそっとの家じゃない、どこのお坊ちゃまだよ?」
突然の事に良樹は呆然とした。手の先はかすかに震え出している。
「臭う、臭うんだよぉ。世間知らずで苦労なんか味わったことのないお坊ちゃまの臭いがプンプンとなぁ」
今帰仁の言葉は七原達の耳には届かなかった。
だが、良樹の顔色が徐々に悪化している事からただ事ではないと容易に察しがつく。
特に洞察力に長けている川田は如実にそれを感じていた。
「あいつ……雨宮に何をしているんだ?」
川田の表情も、いつになく険しくなっていた。
(精神的なダメージを狙っているのか?それとも、ただの悪ふざけなのか?)
言葉が聞えないため川田は結論を出せなかったが、後者が正しかったといえるかもしれない。
ただし悪ふざけなどといえるような可愛いものではなかった。
今帰仁四は地方の貧しい農家に生まれた。貧家の四男坊ともなれば、邪魔者も同然だ。
ましてガタイのいい兄達に比べ貧弱な体型の彼は常に家族内で虐めの対象とされた。
そんな劣悪の環境の中、今帰仁は人生を学んだ。
幸か不幸か貧しさに加え、兄達から受けた悲惨な仕打ちが、彼のハングリー精神を鍛え上げた。
成長するに従い小さかった末弟は兄達をどんどん負かしていった。
気がつけば兄達は今帰仁に歯が立たなくなり、今度は弟の顔色を伺って生活するようになっていた。
力によって今帰仁は立場を逆転させることに成功したのだ。
相変わらず極貧ではあったが今帰仁にとって平和な日々が訪れたはずなのに彼は不満だった。
自分はこんな人間の底辺で細々と生きるのはご免だと広い世界に飛び出した。
それが軍だった。今帰仁は志願して陸軍の兵士となった。
その小さな体はそこでも嫌われた。誰もが今帰仁を兵士には不適格だと思った。
だが実際に訓練を開始すると、見る見るうちに周囲の見る目が変わった。
今帰仁には素早い動きと何より向上心があった。
ある日、たまたま偵察にきていた諜報部の士官に気に入られ入部することになった。
すると今度は今までコンプレックスでしなかった小さな体が今帰仁の役に立った。
目立たず、子供でしか出入りできないような小さな隙間から侵入可能。
さらに今まで出会った全ての人間がそうだったように、その外見だけで浅はかな判断をする敵ばかりだった。
今帰仁を弱いと思い込み油断した連中は瞬く間に次の朝日が拝めなくなった。
こうして今帰仁は諜報部の有能な人材となっていった。
今ではもう誰も彼の容貌を馬鹿にする人間はいなかった。
誰もが「あれはただの小猿ではない」と畏怖の念さえ抱くようになっていた。
その今帰仁は他人の顔色を伺うことを強いられた幼児体験からか、特別な能力があった。
一目見ただけで相手がどんな人間かおおよそ見当がつくのだ。第六感といってもいい。
第五期特別選抜兵士が決定され間も無い頃だった。
周藤晶が今帰仁が籍を置く関東第五陸軍にやって来た。
まだ特撰兵士の顔写真が記載された軍報は発行されていない。
その為、晶は西日本では知らぬ者なしの強者だったが、ここ関東では歩兵にまでは顔が知られてなかった。
モデル張りのルックスは僻まれる、しかも晶は謙虚な人間ではない。
素行の悪い関東第五陸軍の荒くれ兵士どもは、あっと言う間に晶を囲んだ。当然、晶は平然としている。
一人がナイフを取り出し、「泣いて謝ってももう遅いぜ」とペロッと刃先を舐めて見せた。
騒然とした雰囲気に何事かと今帰仁は人ごみを掻き分けていった。
「今帰仁、いい所に来たな。おまえも、この色男をしめるのに参加するか?」
今帰仁は残酷な人間性の持ち主だった。
猫がネズミをいたぶるように、面白おかしくトップを切って晶をいたぶると誰もが思った。
そして今帰仁本人も事情を察し、すっかりその気になって晶を見上げたのだ。
背が高い上にハンサム。自分の身長にコンプレックスを持っている今帰仁にとって一番嫌いなタイプだった。
ところが、晶がちらっと今帰仁を一瞥しただけで彼は全身の毛が逆立つような感覚を味わった。
猫どころか、今帰仁の方が蛇に睨まれたカエルのように動けなくなったのだ。
「……ひっ」
今帰仁は諤々と見苦しいくらいに震え出した。その顔は蒼白く、今にも倒れそうだった。
「どうした四、いつもみたいに雑巾にしちまえよ」
「やっちまえ今帰仁!その顔を整形でも戻らねえくらい痛めつけちまえ!」
周囲はすっかりヒートアップ。そんな中、晶が静かに言った。
「やるのかチビ?」
チビと言った。今帰仁が最も嫌っている蔑称だ、誰もが晶の流血死体を連想した。
ところが今帰仁はがばっとその場にひれ伏し土下座したのだ。
「す、すいません!許してください!」
今帰仁は涙すら流し恐怖から必死に謝罪すると、慌てて飛び上がり人ごみを飛越して逃げ去ってしまった。
残された仲間達はポカーンとしている。何が何だかわからない。
「あのチビ、人を見る目だけはあったようだな」
晶は一人笑っていた。ちなみに見る目がなかった他の連中は、この後晶に手を出して全員のされた。
数日後、軍病院で回覧されてきた軍報を閲覧して全員恐怖と後悔に苦悩したのは言うまでもない。
その今帰仁の動物的本能ともいえる直感が良樹の素性を告げていた。
「お坊ちゃんだけど、おめえ相当なわけありだろ?でなきゃ、こんな大会に出場するわけねえもんな」
「……黙れ」
それは普段、明るくて仲間達のムードメーカーだった良樹が初めて発した低い声だった。
「親父はおめえがこんな事してるの知ってるのかよ?」
「……黙れよ」
「冷たい親だなあ。母親もそうなのか?」
その瞬間、良樹の目の色が変わった。
『危ない良樹!』
『母さん?』
『……良樹』
『母さん、どうしたの?目を開けて母さん!!』
「黙れー!!」
良樹の頭の中は一瞬で真っ白になり、まるで獣のように猛然と今帰仁を襲い掛かった。
「雨宮!」
川田も七原も、そして杉村や三村も驚愕していた。それほど良樹の動きは凄まじかった。
人間は激昂すると実力以上の力を発揮する時があるというが、今の良樹は間違いなくそれに当てはまるだろう。
「おっと危ねえ!」
今帰仁は紙一重で避けた。おどけた口調だが、その表情に余裕はない。
(このガキ、思ったよりスピードがある)
「逃がすか!」
良樹は今帰仁の肩を掴んだ。そして動きを封じると狂ったように右拳で殴りつけた。
「ふざけやがって!殺す、ぶっ殺してやる!!」
残虐の神が降臨したかのような、その攻撃に観客席から見ていた美恵と貴子も驚き顔色を失った。
「な、何があったのよ……あいつらしくないわ」
「そんな、あれが……あんなことしてるのが雨宮君?」
良樹は女の子には特に優しかっただけに、二人が受けた衝撃は七原達より上だっただろう。
しかし夏生や春海は平静そのものだった。
「……ちっ、あの程度のことで熱くなりやがって」
「大丈夫かな?あの子、かなり冷静さ失ってるよ」
夏生は観客席の背もたれにふてくされたようにふんぞり返った。
「俺、もう知らねえよ。あの猿野郎がこれで終わりならめでたいがそうじゃねえもんな。あーやだやだ」
良樹の拳が空中で静止した。今帰仁の掌によって容易く止められてしまったのだ。
「思ったより良いパンチしてるじゃねえか。けけけ、そうでなきゃ面白くねえ」
拳は止められたが足元はがら空きだ。良樹は、即座に蹴りに転じようとした。
だが、その瞬間、良樹は得体の知れないおぞましさを感じ突き飛ばすように今帰仁から距離を取った。
(……な、何だ、こいつ?)
「……くく」
笑っている。先ほどの連打のせいで左頬は腫れ、口の端から流血しているにもかかわらずだ。
「勘も結構いいじゃねえか……いいぞ、そういう奴をいたぶってこそ俺の勝利に華が添えられるってわけだ」
今帰仁はゆっくりと両腕を広げた。そして閉じていた両拳を開くと八本のナイフが指の間に挟まれていた。
「次はどの程度の身体能力なのかためさせてもらうぜ」
ナイフが良樹目掛けて飛んだ。まるでビームが走ったかのような速さだった。
「ママぁ、お家に帰ろうよ」
「お願いよ泣かないで」
幼い娘を必死に宥める母。その母親も今にも泣きそうだ。
ドアの隙間から、その様子を伺っていた良恵は申し訳なさそうに俯いた。
瞬のために何の罪のない親子に拉致監禁という恐ろしい思いをさせてしまっているのだ。
出来れば今すぐ解放してやりたいが、そんなことをすれば、あの恐ろしい瞬が何をするかわからない。
用が済めば、この母子は始末してもいいと考えてさえいる瞬を説得させ何とか生かしているのは良恵だ。
だが、それ以上のお願いは瞬は全く聞き入れてくれない。
(一体何を考えているの?あの研究所は科学省にとって左程重要ではないわ。
それなのに人質までとって何をしようとしているの?)
そんな良恵の問いに答えるかのように携帯電話の着信音が鳴り出した。
「瞬、どこにいるの!?」
『全て済んだ。今から教える住所に来い、その親子はほかっておけばいい』
「約束よ、全てが済んだら無事に家に帰すって!」
『ああ、おまえが俺の元に辿り着いたら匿名で警察に居場所を通報する。それでいいだろう?』
良恵は承知した。まだ瞬には色々と質問があったが、それは合流してから話せばいい。
良恵はドアの外から小声で「ごめんなさい」と呟くと踵を翻し、その場を後にした。
「良恵が来る。1時間もあれば待ち合わせ場所で対面できるだろう」
瞬は、目の前の男達に淡々と告げた。
「良恵……と、言うのか。俺達の妹は」
背の高い長髪の男が尋ねた。
「ああ、そうだ」
「どんな子だい?強い、弱い?優しい、冷たい?」
「美人か醜女かはどうでもいいのか?」
「そんなことは決まっている。俺達だって鏡くらい見ている、俺の身内なら答えは決まっていると言うものだ」
瞬は「それもそうだな」と言った。
研究所の連中は全員まとめて地下の一室に監禁してある。
本来なら殺す予定だったが、それも良恵の希望で勘弁してやった。
ただ鳩山だけは例外だ。鳩山は知りすぎた。
その上、かつて瞬の身に起きた非情な出来事に係わりのある人間、許すわけにはいかない。
科学省がこの異常事態に気づくまでの数時間で、この地から去る必要があった。
「行くぞ。俺達の人生を踏みにじった全ての人間を皆殺しにする為に」
瞬に促され三人の男は立ち上がった。何となく瞬とどこか面影が似ている。
四人が歩き出すと、後ろのソファの影から少年がちょこっと顔を出し、その背中を不安そうに見詰めている。
「何してる。さっさと来い」
瞬が強い口調で命令すると少年はびくっと反応してソファの影に引っ込んでしまった。
「口調は穏やかに。あの子は対人恐怖症だ、いくら身内でも出会ったばかりの人間に心は開かない」
「瞬」
監視カメラを見ていた男に呼ばれ瞬はモニターに視線を移した。
「誰だ、あの男?」
「あいつは……佐伯徹!なぜ、海軍特撰兵士の奴がここにいる?」
徹は研究所の正門前に立っていた。ここに乗り込んでくるのは時間の問題だろう。
「どうする?あの顔、大人しく引き下がってくれるような相手じゃないみたいだ」
「…………」
「今すぐ殺るかい?」
良樹は踵を翻し飛んだ。ナイフが床に突き刺さる音が背後から聞えた。
もちろん一時的に避けられたに過ぎない。第二弾がすぐにきた。
「危ない雨宮!」
七原が叫んでいた。ハッとして振り向くと、まるでカーブを描くようにナイフが左右から飛んで来た。
(駄目だ、避けきれない!)
咄嗟の判断で避けるのは止め脚を大きく振り上げ右方向から来るナイフを蹴り落とした。
だが左方向のナイフまでは止められない。咄嗟に体を沈めたが肩に激痛が走った。
ばっくりと傷口が開き流血しだした。だが、あれだけの量のナイフ攻撃を受けたにしては被害は少なくてすんだ。
今帰仁が「ひゅう」と口笛を吹く。根っから戦いを楽しんでいるようだ。
「いい動きしてるじゃねえか」
「……このサド野郎!」
国松も最低だったが、この今帰仁も相当な性格の持ち主だ。
(おまえがクズで良かったぜ。俺も容赦なく冷酷になれるってもんだ!)
良樹は懐からナイフを取り出し投げた。
「けけっ、たかがナイフ一本で何が出来る?」
「ただのナイフじゃないぜ!」
ナイフの切っ先から無数の針が飛び出し今帰仁を襲っていた。夏生特製の卑劣な武器だったのだ。
「勝たせてもらうぜ。俺達には後がないんだ!」
針は広範囲にわたって飛んだ。いくら今帰仁がスピードを上げ走ったところで逃げられないはず。
だが今帰仁は走らずに飛んだ。
勿論、空中にも針は飛んでいる、ちょっとやそっと飛び上がったくらいでは避けきれない。
「何だって!?」
だが今帰仁は良樹の予想をはるかに越える飛翔を披露したのだ。その、あまりの身軽さに良樹は度肝を抜かれた。
さらに今帰仁は両膝を抱えると猛スピードで回転しながら落下。
着地と同時に姿を消した。いや、一瞬で良樹の死角に移動したのだ。
今帰仁の動きを追おうと慌てて視線を左右に動かす間もなく、腹部に強烈な激痛が走った。
「……お、おまえ」
まるで動きが見えなかった。良樹は動体視力には自信があった、それなのにまるで見えなかった。
そして今、今帰仁はすぐ目の前にいる。それこそ吐く息がかかるほどの位置にだ。
「けけ、残念だったな。俺がちょっと本気出せば終わりなんだよ」
良樹は悔しそうにガクッと膝を崩すと、その場に倒れた。
【B組:残り45人】
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