「三村、頑張れ!」
「いいか三村落ち着いてやれ。おまえなら必ず勝てる」
七原と川田は三村の応援に専念していたが、雨宮は光子の言葉に気をとられていた。
「光子さん、秘策って何だよ。教えてくれよ」
「それは、あんたが勝ってからのお楽しみよ。見てなさい、あたしの相手は――」
光子は親指を立てるとクイッと地面に向けた。
「瞬殺よ」




鎮魂歌―82―




部屋に肌から発生するパンという甲高い音が連続して響いていた。
「この愚か者どもめ、民間人相手に敗退を喫するとはどういう了見だ!」
床に戸川の部下達が転がっていた。引っ叩かれた頬は赤く染まっている、女の泪も例外ではない。
「貴様ら揃いも揃って愚か者だ。俺は恥をかくために貴様らを部下にしたわけではないぞ!」
部下達は慌てて立ち上がり戸川に深々と頭を下げた。
「申し訳ありません大尉」
「謝罪などで俺の怒りが収まるか!明日から特訓メニューを増やせ。
今度こんな醜態をさらしたら俺のそばに居場所はないと思えよ」
戸川の最後の言葉に彼らは衝撃的な目をした。殴られた時ですら、こんな顔はしなかったのに。


「俺に白州さえいれば、おまえたちは必要ないと本気で思わせるなよ」
「は、はい!」
「わかっているな。俺は同じ言葉は二度と吐かんぞ、もし――」
「そのくらいにしたらどう?」
きつい口調だから女らしい綺麗な透明感のある声に、ドアの方を振り向くと白いスーツの美人が立っていた。

「……来てたのか亜紀子」
「無様ね小次郎。終わった事を蒸し返しても、あなたの価値が下がるだけよ」

「来るなと言っておいただろう」
「私の前で恥をかくのが嫌だからかしら?」
亜紀子は戸川に対してずけずけとものをいう。海軍の若手士官や兵士は皆戸川を恐れている。
男ですら戸川に反論できる人間は数少ない中、女でこれだけ言えるのは唯一彼女だけと言ってもいいだろう。
恋人という立場に甘んじて言っているわけではない。戸川は公私混同はしない人間だ。
戸川は彼女だからというだけで自分に対する発言は許さない。
図に乗って戸川を怒らせたら、その時点で関係も終わる。
亜紀子はその点は誰よりもわかっている。
その上で自分は公のパートナーとしても戸川に必要な存在と自負しているからこそ言える言葉なのだ。


「あなたのから受けた相談のことで話があるの。急いだ方がいいと思って来たのよ」
戸川はすぐに部下達を人払いした。それを見計らって亜紀子は書類を差し出した。
「佐伯に何か動きがあったら見逃さないことね」
戸川は書類に目を通した。その視線は徐々に鋭さを増してゆく。
「……随分とばれたくないようだな、あのクズは。他人名義で契約した携帯電話に、こっそり雇った私立探偵か」
「そのようね。そして彼のターゲット、科学省の中間管理職。決して大物では無いわ。
そんな男を内密で調べさせた上に監視させるなんて、焦っているとしか思えないわね。
でも、これは立派な違法行為よ。上の許可も取らずに家宅内の盗聴や盗撮までしているんですもの」
「よくやった亜紀子。あいつを左遷させるには十分すぎる証拠だ」














「三村は強いんだ。きっと勝つさ」
「ああ、そうだな三村は強い。俺、拳法やってるけど、あいつに勝てる自信ないもんな。
持って生まれた身体能力が違いすぎるよ。きっと大丈夫さ」
七原と杉村は三村の強さしかしらない。三村の弱い面を見たことなんかない、だから信じきっていた。
逆に川田は不安だった。三村を過小評価しているわけではない、ただ楽観的になれないだけだ。
相手が普通の人間なら素直に信じてやれただろう。だが相手は戦闘のプロなのだ。
体格だけでも川田が戦った男より上。超ヘビー級といってもいい、中背の三村とは差がありすぎる。


「……三村が負けたら後はない」
川田は思わず本音を吐いてしまった。
「川田、何言ってんだよ。三村は高校生の不良が数人がかりでかかってきても簡単にのしたことだってあるんだ」
「……七原、今度の相手は、いきがっている不良じゃないぞ」
それは事実だった。三村が今まで勝利を収めてきたチンピラとはレベルが違う。
そして川田が最も心配しているのは三村が敗北した後の事だった。
(宗方の情報が正しければ副将と大将はさらに格上。相馬が勝てる相手じゃない)
そう考えているのは川田だけではない。当の三村が一番の自分の責任をわかっていた。


「……勝ってやる」
「てめえ、何を寝言ほざいてやがるんだ?」


国光は試合中だというのに、ぐちゃぐちゃとガムを噛んでいる。余裕たっぷりだ。
(俺が負けたら後がないんだ。勝ってやる、必ず勝ってやる!)
負けたら国外追放。美恵を守る為に桐山は科学省の精鋭を一人で倒した。
(一人だけカッコつけるんじゃねえよ桐山!鈴原を守る為なら俺も体くらい、いくらでも張ってやるぜ!)
審判の試合開始の号令と共に三村は速攻に出た。
(この野郎は腕力はあるがスピードは俺の方が上だ。先手必勝!)
三村はスピードと動きは自分の方が上だと思っていた。だから捉まりさえしなければ勝てると考えた。
(こいつは筋肉の固まりだ。下手にボディを攻撃しても大したダメージにならない、急所を集中的に狙うだけだ!)
三村は素早い動きで国光の斜め後ろに回った。


「くらえ!」
脇腹目掛けて強烈な蹴りをお見舞いした。
(どうだ?)
国光がよろけた。三村は間髪いれずに、今度は国光の膝裏にローキックを炸裂させた。
あれだけ上半身が異常なバランスの悪い体型ならば、足元が弱いと睨んだ。
三村の読みは正しかった、国光は無様に両膝を床についたのだ。
(今だ!)
三村は国光の顔面目掛けて握り締めた拳を食い込ませた。
「ぐっ……!」
国光は両手で顔を覆いうずくまった。
(やった!)
三村はガッツポーズを取りたい気分だった。









「……あいつ馬鹿だな。あれじゃ負けるぜ」
夏生は完全に呆れていた。
「夏生さん、どういうこと?三村君は完全に優勢なのに」
「そうよ、美恵の言う通りよ。三村は喧嘩だけは結構大したものよ」
「そりゃ素人の美恵ちゃんや貴子ちゃんから見たら三村が押してるように見えるだろうぜ。
けど俺から見たら素人戦闘の域から全然出てねえよ。何で攻撃の手を止めるんだ、甘すぎるんだよ」
「だって夏生さん、相手はもう……」
「うずくまったから攻撃を止めた、それが素人の思考なんだよ。
あいつはギブアップしたわけでも何でもない、まだ試合継続中だぜ。
それなのに三村は攻撃をストップした。勝ったなんて思っているとしたら勘違いもはなはだしいぜ。
あの野郎はダメージ負ってないってのに」
美恵と貴子を驚いて闘場を凝視した。
国松は相変わらずうずくまっている、どう見てもダメージを受けたようにしか見えない。
「ようく見てろよ。あの糞野郎を」









「すごい、すごいぜ三村!もしかしたら、このまま勝利確定か?!」
「ああ、さすが三村だ!」
七原と杉村は、まるで優勝したかのように興奮していた。
心配していた川田も三村の優勢に安堵感を覚えていた。これならいけるかもしれない。
しかし良樹は逆にぞっとした。なぜなら仲間がうずくまっているというのに、相手チームは平然としているからだ。
副将と大将にいたっては、薄ら笑いさえ浮かべている。それが不気味だった。
「……駄目だ三村」
良樹は身を乗り出した。


「三村、すぐに攻撃しろ!そいつが立ち上がる前に、完膚なきまでに這いつくばらせるんだ!!」


七原や杉村はきょとんとした。
相手はもう立ち上がれない、それなのに攻撃をしろとは冷酷とすら感じ驚いてさえもいる。
「何言ってるのだよ雨宮、相手はもう立ち上がれないんだ。もう攻撃なんか……」
七原の言葉が終わらないうちに観客がざわめいた。
何事かと闘場に目を向けると三村の腹部に国光の丸太のような腕が食い込んでいる。
「そ、そんな……そんな馬鹿な!」
七原も杉村も我が目を疑った。あいつ、起き上がれないんじゃなかったのか!?
「ぐ……っ!」
今度は三村が腹を抱えてうずくまった。それを見ながら国光は下卑た笑みを浮かべながら悠々と立ち上がった。
そして三村を見下ろしながら、蹴りを入れられた脇腹をかきながら「蚊がさしたかな?ぐへへ」と吐き捨てた。
「お、おまえ……ダメージは……」
確かに国光の脇腹に強烈な蹴りを入れたはず、それなのに国光は涼しい表情をしているではないか。









「これでわかっただろ?甘すぎるんだよ三村は」
「ど、どうして……いくら鍛えた体してるからって、全然ダメージないわけないのに……」
「それが素人考えなんだよ美恵ちゃん。三村が蹴りいれた瞬間、あの糞野郎脇腹に神経を集中させたのさ。
人間の肉体ってのは、鍛えりゃ一瞬だが500キロの衝撃にも耐えられるっていわれているんだ。
三村とは経験値が違いすぎる。ま、俺なら最初の一撃で簡単に勝利してるけどな」


さあ、どうする三村?おまえ、まだ勝てるなんて本気で思ってるんじゃないだろうな?
おまえが死ぬ気でやってもどうにもできない相手かもしれないぞ。
その上、後に控えている二人は間違いなく、その筋肉馬鹿よりずっと強い。
崖っぷちにたっているって肝に銘じてやれよ。









(……こ、こいつ強い)
喧嘩なら、それなりに場数を踏んでいる三村だったが、これほど強力なパンチを受けたのは初めてだった。
(内臓破裂なんかしてないだろうな?……畜生、痛い……畜生!)
三村は腹を抱えながら立ち上がった。
「三村君!」
観客席から美恵が立ち上がって叫んでいた。
「……負けられない」


俺は負けない、負けてたまるか。
俺には守らなきゃならない大事なものがある、絶対に負けられないんだ。

(ここで負けたら男じゃない。そうだろ叔父さん?)


もう三村は立ち上がれないと思った国光は少し驚いたが、ただの虚勢だと思ったのか再び嫌らしい笑みを浮かべた。
噛んでいたガムを吐き出すと、今度は国光が速攻を仕掛けてきた。
(こいつ……速い!)
見た目からは想像もつかないほど国光は意外にも素早かった。
三村は何とか攻撃をぎりぎりでかわす。運動量の多さはダメージを受けた腹部に鈍い痛みを何度も与えた。
「危ない三村、後ろ!」
七原の声にハッと振り向くと闘場の境目が見えた。


「しまった……!」
足を踏み外しそうになりバランスを崩したところに国光のパンチが伸びてきた。
際どかった。七原の声に反応するのが、後少し遅かったら攻撃をまともに受けていた。
(何て威力だ、直撃を避けたのにかすっただけでこの威力……半端じゃないぜ)
三村は口元を手の甲で拭った。口の端から流れる血が忌々しい。
(こんな化け物相手に俺は甘かった。死ぬ気でやってやるぜ)
勝利の為なら骨の一本や二本くらいくれてやる、三村はそう決意した。














「しばらく佐伯を泳がせる?小次郎、あなた何を考えているの?」
すぐにでも徹の違法行為を告発すると思っていた亜紀子は半ば拍子抜けした。
「あなたは佐伯を憎んでいると思っていたわ」
「憎むだと?」


そんな言葉では片付くものか。あのクズを徹底的に排除しない限り俺の腹の虫は納まらない。
俺が受けた屈辱は左遷や降格程度では済まない。


「この違法行為を公にしても、俺の期待通りの結果にはならないだろう。
海軍の上層部に密告すればどうなると思う?あいつが平の兵士なら追放もありうるが特撰兵士にそれはない。
佐伯に戒告を与え、この件を隠蔽するのが関の山だ」
「科学省に密告すれば?」
「相手が幹部ならまだしも、この程度の人間に対して違法行為をした程度なら、俺が望むような懲罰は下されない。
佐伯がこいつを付け狙うのは何か理由があるはずだ。何か大きな軍功が転がり込むような事かもしれない。
だったら、せいぜい邪魔して俺が横取りしてやるさ。そしてさっさと昇進してやる」
「あなたは直に少佐に戻れるそうじゃないの」
「涼は中佐だ。あいつより格下の地位は短期間でも嫌なんだ」
「わかったわ。後はあなたの好きにすればいい」

戸川は徹が良恵の行方を知りたいがために違法行為をしているなどと知らなかった。
そして、その影には特撰兵士と同格、いやそれ以上かもしれない化け物の存在があることも。














(隙を狙って急所を攻撃するしかない。奴も人間だ、痛みも感じれば血も出る生身の人間なんだ)
勝機は必ずある。三村はバスケの県大会で見せた素晴らしいドリブルを再現するかのような動きを披露した。
国光は視線を左右に動かすが、肉体の動きがそれに伴わない。
やはりスピード自体は三村の方が一枚上。三村は素早く国光の懐に入ると左胸にパンチを炸裂させた。
その直後、フットワークをきかせて真横に回りこみこめかみに回し蹴りをお見舞いする。
「小僧!」
国光は怒り狂って三村に飛び掛ってきた。
どうやら素早い動きが功を奏したようだ、やはり奴にも痛感はあったらしい。
だが、これだけ動けるという事は、残念なことにダメージそのものは小さかったようだ。


三村は今度は防御に専念した。
国光はかなり感情的になっている、腕を振り回し襲い掛かる様は、まるで狂った巨熊のようだ。
つかまったら最後、ボロ雑巾のように八つ裂きになるまで叩きのめされるだろう。
三村は必死に逃げた。三村の狙いはただ一つ、今はとにかく国光の体力を消耗させること。
どんな化け物も体力が尽きれば戦闘能力そのものが落ちる。今はそのために逃げるのが得策だ。
しかし、それが国光の怒りに油を注いだ。
「ちょこまかと逃げやがって!!」
国光は懐から警棒を取り出した。
(この距離を保って逃げれば大丈夫だ)
三村は冷静だった。警棒の長さを計算に入れ、国光との距離を的確に把握し判断したのだ。


国光は力任せに警棒を振り下ろすが、どれだけ頑強な武器でも当たらなければ意味は無い。
警棒が空を切る音がひゅんひゅんと闘場の上で繰り返された。
(何て音だ。こんな攻撃一度でもくらったら、ひとたまりもない)
国光の息が上がっている。三村はそれをチャンスと捉えた。
(よし、今だ!奴の間合いに飛び込んで顔面にきつい一発をお見舞いしてやる!)
三村がさっと距離をつめると国光は素早く警棒を振り下ろした。
凄い勢いだ。国光の体力は落ちたが、まだ腕力は落ちてない。
三村は判断を誤ったことを瞬時に悟り慌てて後ろに飛んだ。
(やばかった。後少し遅かったら警棒の餌食になってたぜ)
とにかくギリギリで避けたと三村は判断した。ところが、その瞬間警棒が延びた。


「何だと!?」


驚愕の声を上げると同時に左肩に鈍い痛みが走った。
「ぐへへ、これは伸縮するタイプなんだよ」
「……くそっ」
三村は悔しそうに国光を睨み付けた。
「さあ、今まで俺を怒らせた分だけいたぶってやるぜ!!」
国光の腕が伸びてくる。三村は必死になってかわそうと試みたが失敗した。
髪の毛を鷲掴みにされ、もう逃れられない。国光の下品な顔がすぐ眼前まで迫っていた。
「さっきはよくも俺様の顔を殴ってくれたなあ」
三村の右頬に強烈なパンチが入った。まるで奥歯が折れるのではないかと思われるほどのパワーだった。
三村が血を吐くと国光は満足そうに薄笑いを浮かべた。それは三村が今まで見てきたどんな悪党よりも醜かった。




「すぐには殺さねえ。じわじわとぶっ殺してやるぜ」
三村は持ち上げられ床から足が離れた。そして腹に国光の拳が連打される。
「み、三村!三村が殺される!!」
もう勝敗なんて言っている場合ではない。
今すぐストップさせなければ、三村は間違いなく原形の残らない死体にされてしまうだろう。
「川田、タオルを投げるぞ。いいな!?」
七原は川田の返答を待たずしてタオルを投げた。しかしタオルは床につかない、国光が掴みとってしまったのだ。
この悪魔達が対空軍戦で見せたおぞましい場面を誰もが連想した。


「卑怯者、さっさと三村を離せ!」
「誰が棄権なんかさせるかよ。この野郎はぶっ殺してやる」


「……あ、あの野郎」
七原は激怒した。七原だけではない、杉村も良樹もだ。
「三村を助けるぞ!」
そう叫んだのは良樹だった。勿論、七原や杉村に異存はない。三人はほぼ同時に闘場に向かって走り出した。


「来るな!!」


「血迷ったことするな!俺を失格負けにしたいのか、俺はまだ負けてないぞ!」
「……三村!」


「サードマンはどんな劣勢だろうと、いつも逆転勝ちしてきたんだ!俺をださい男にしたいのかよ!!」


血を吐き呼吸は弱々しい、それでも三村はまだ諦めてない。
「この様でよく粋がれるもんだなクソガキ」
国光は三村の心意気をただのつまらないハッタリとしか思わなかった。
「……おまえなんかにわからねえだが、俺達が守りたいもんは、おまえなんかには及びもつかないものなんだ」
「なんだとぉ?てめえの今の自分の立場わかってんのか?
この大会はなあ殺してもいいってルールなんだ。おまえをぶっ殺したって誰も俺を咎めやしねえんだ。
本心は怖いんだろ?言えよ、助けて下さいって。俺の尻の穴を舐めたら命だけは助けてやってもいいぜ」
三村は国光の顔に唾を吐いた。瞬時に国光の顔が真っ赤に変色する。


「……豚野郎」
「ふ、ふざけんじゃねえ、このクソガキー!!」


国光は完全に切れた。三村が全身の血を流さなければ、その怒りは収まらないほど感情が沸騰したのだ。
「ぶっ殺してやる!!」
冷静さを完全に失った国光、三村は二本の指を、その目につき差した。
目潰しばかりはさすがの筋肉馬鹿にもダメージはあった。
国光はたまらず三村を放り投げ両目を押さえてもがき出した。
「ぐわぁー!」
狂ったように闘場で暴れまわる国光、三村は立ち上がると、その背後に回り全力で体当たりを食らわした。
その先にあったのはプール。それこそが三村の狙いだった。
凄い水しぶきがあがり国光はプールに落下、勿論すぐに上がろうとするが三村がそうはさせない。


「俺が勝つにはこれしかないんだ。このまま水の底に沈むか、それが嫌ならギブアップしてもらうぜ!」
完全に形勢逆転だ。しかし三村は油断していない、最後まで決して気は抜かない。
最初は三村への怒りで我を忘れていた国光だったが、息苦しさに徐々に我が身が危険なことに気づきだした。
元々、水中戦は得意ではなかった為、まとわりつく水に瞬く間に残りの体力を削られ出したのだ。
もはや敵は三村ではなく水だ。早く上がらなければ冗談ではなく本当に死んでしまう。
「ぐ、ぐるじい!畜生、この糞野郎!!」
国光は見苦しいほど必死になった。無我夢中で上がろうと腕を伸ばし、三村は阻止しようとその手を振り払う。
その時、三村の全身にずきんと鈍い痛みが走り、一瞬体が硬直し動けなくなった。


「つかまえたぜ!!」
三村はハッとした。国光が自分の右手首を掴んでる。
しまったと思ったが遅かった。ずるずると三村はプールに引きずりこまれてゆく。
「くっ、離せ!」
「誰が離すかあ!てめえも地獄に引きずり込んでやるぜ!!」
必死になって国光の腕を蹴ったが頑として離そうとしない。
「くそ!」
三村は床に張り付くような体勢になり必死にプールから距離を取り始めた。
「三村頑張れ!」
「けど無茶だ。あいつがつかまってちゃ。あいつ絶対に100キロ以上ある」
第一、この化け物を引き上げたら再び三村の脅威となる。
(クソ!どうすればいい?……畜生、もう俺の体力も限界だ。叔父さん、俺はどうすればいい?)


「さっさとギブアップすれば?」


「……何?」
三村は半ば呆然としながら顔を上げた。すると光子が皮肉っぽい笑みを浮かべて此方を見ている。
「後はあたしと雨宮君でなんとかするわ。負け犬はさっさと退場してちょうだい、これ以上は時間の無駄ね」
「な……何だと?」
「あーら違うっての?勝つ見込みもないのに変な意地張ってくれなんて、こっちは頼んだ覚えないわよ」
光子の冷酷な言葉に良樹や七原は愕然としていた。杉村などショックで固まっている。
「さあ、さっさとどいたどいた。それともあくまで意地張って、そのムキムキ男と心中する?
あたしは別にかまわないわよ。桐山君さえいれば、これから先も安心だもの」
「……おい」
「だから安心して死んじゃってよ。美恵の心の中ではきっと生かしてもらえるわよ、多分ね」
「……ふ」
三村は自分がピンチなのも忘れ、さすがにカチンときた。


「ふざけるなよ、この悪魔!」


思わず腕を伸ばすと何かに触れた。警棒だ、三村は咄嗟にそれを握り締めると国光の腕を思いっきり殴った。
手首が軽くなり、すぐにプールから離れると大きく二回息を吐いた。
「み、三村!」
良樹が叫んでいるのが見えた。よく見ると後方を指を差している。
反射的に振り向くと恐ろしい形相の国光がびしょ濡れで仁王立ちしていた。
三村はまずいと思った。慌てて立ち上がろうとしたが、腹に強烈な蹴りがきた。
「このクソガキ!よくもやってくれたなあ!!」
ガンガンと三村の上に何度も国光の足が降りてくる。それは一方的なリンチだった。
「八つ裂きにしてやる」
国光はサバイバルナイフを取り出しペロッと舐めると三村の頭を鷲掴みにし持ち上げた。
三村は反応しない。かすかな呼吸音は聞えてくるが、動く気配が全くない。


「お、おい三村の奴、もしかして意識がないんじゃ?」
鈍い光を放つナイフが三村の耳にぴたっと当てられる。その一連の行動に良樹達は嫌な予感に全身身震いした。
「ぐふふ、まずは耳から削いでやるぜ」
国光は猟奇ショーの開幕を宣言した。
「次は鼻だ!その次は目を潰してやるぜ、整形も不可能なくらいグチャグチャにしてからぶっ殺してやる!!」
これには今まで陸軍を応援していた観客も一斉にどん引きした。
だが国光は会場の冷めた空気に全く気づかず完全に悦に入っている。
「それから、あの美女は俺の女にしてひいひい言わせてやるぜ!」
国光は下卑た笑みを浮かべながらぽっと頬を赤く染め光子を指差した。


「え”?」


「ぐへへへ」
冷めた目で試合を観戦していた光子の表情が初めて凍りついた。
良樹も七原も呆気にとられてじっと光子を見詰めている。
「……ちょっと」
光子は突然身を乗り出した。
「三村君、あんた何ぼさっとやられてんのよ!そんな男、さっさと倒しなさいよ!!」
「「……え”?」」
今度は良樹と七原が言葉を失った。
「このままやられてみなさいよ。あたしがあんたをぶっ殺すわよ!!」
光子は、「ああ、本当にじれったい男ね!」と悪態をつきながら光子はペットボトルの水を三村目掛けてぶちまけた。
「……ち、本当に勝手な女だな」
三村が目を開いた。よかった、まだ完全にグロッキーとなったわけではなかったのだ。
だが状況は何も変わらない。
残された力はほんの僅か、それでは鋼鉄の肉体を持つ国光に打撃を与えられない。









「あーあ、何で気づかないんだろうな。あれほど俺が急所についての講義してやったのに」
夏生は半ば呆れながら溜息をついていた。
「俺なら最初の一撃で勝ってるぜ。ま、俺は怖いものしらずだもんな」
「彼、随分苦戦してるね」
背後から聞えたのは春海の声。振り向くと笑顔の春海とジュースを抱えた春樹が立っていた。
「は、春兄!いつ、戻ってきたんだよ!」
「それより三村君危ないね。夏生は相手選手の弱点に気づいたんだろう?」
「ああ、あいつは筋肉の塊。三村の力じゃ太刀打ちできないが、一つだけ鍛え切れなかった箇所がある」
「夏生さん、それ本当ですか?」
期待を込めた眼差しで見詰める美恵に 夏生は手の甲を自分の顎に当てて見せた。


「下顎だ。こればかりは筋肉と違って簡単には鍛えられない。
奴が試合の最中でも意地汚くガムを噛んでた理由は、顎を鍛える為だったんだ。
ここなら三村の残り少ない力でもダメージを与えられる。けど、今の状態じゃあなあ」
「じゃあ三村君にも、まだ勝ち目があるんですね?」
「そ、けど駄目だな。あいつは気づいてねえ」
美恵は身を乗り出して大声で叫んだ。
「三村君!そのひとの弱点は顎なのよ!!」
駄目だ届かない。観客のざわめきの前には美恵の声など簡単にかき消されてしまう。


美恵さん、元気出して。はい紅茶」
春海が缶を差し出してきたが、とてもじゃないが紅茶を飲む気にはなれない。
美恵はがっくりと肩を落とし泣きそうな顔で闘場を見詰めている。
「……美恵さんは余程彼に勝って欲しいんだね」
「……仲間なんです……大事な、大事な友達なんです」
「……そう」
春海は美恵の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だよ、三村君の今日の運勢はすごくいいんだ。反対に相手は大凶だよ」
夏生の顔が真っ青に固まった。
「だから安心して。僕の占いは良く当たるんだ」
「……は、春兄!」
「夏生も僕の占いが良く当たること知ってるだろ?」









(……クソ、どうしたら、こんなタフな野郎に勝てるんだ?パンチも蹴りも通用しないんじゃお手上げだ)
鬼教官・夏生の特訓に一ヶ月耐えたというのに、結局ここで終わるのか?
そんな思いが三村の胸に駆け抜けた。同時に思い出したのは、苦しかった特訓の日々。
早朝から深夜まで一日中しごかれた。
戦闘術のお授業なんてのもあった、勉強嫌いの自分が真面目に授業だ。
(……待てよ、確か)
夏生が人間の肉体の弱点や急所について何度も講義してくれた。


(そうだ、思い出した。まだ攻撃をしてない箇所がある!
あそこがこいつの弱点なら、まだ逆転のチャンスはあるかもしれない)
しかし、この体勢では反撃はおろか自由に動く事すらできない。
それどころか国光は宣言した通り三村の耳を削ぎ落とそうとしている。絶体絶命の大ピンチだった。
「ざまあみろ糞野郎!」
国光はナイフを握る手を振り上げた。その時だ、はるか遠くからキラッと強い反射光が発生し国光の目をついた。
あまりに眩しさに国光は一瞬視界を失い、大きくバランスを崩した。
千載一遇のチャンス、三村は両脚を振り上げると国光の腹にキック。国光は思わず三村から手を離した。
(今だ!)
三村は体を大きく沈めると、国光の下顎に向かって拳を突き出しながらジャンプした。




【B組:残り45人】




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