「聞いてなかったのかね。君にもう試合に出る権利は無い!」
白衣の連中を強引に押しのけて退室した桐山を待ち構えていたのは陸軍の軍服姿の強面集団だった。
「何の用なのかな?」
「用なんてねえよ。ただ、あんたには大人しく医療室にいてもらわないとこっちが困るんだ」
「そうそう怪我人は黙ってベッドでおねんねしてろ」
『いいか、てめえら。あのガキを絶対に出すんじゃねえぞ、逆らったら痛い目に合わせてやれ』
「あるお方の厳命受けてんだ。その為に、おまえを絶対に止める」
一触即発の只ならぬ雰囲気がそこにあった。
「お、おまえ達、そこで何をしているんだ!?」
緊張を切り裂いた声の主は軍人。しかも、その胸には階級を示す勲章が誇らしげに光っていた。
たちの悪そうな軍人達は即座に敬礼した。チンピラ同然の歩兵でも士官に礼を尽くすことは知っているのだ。
「す、すぐに整列しないか!」
その士官は随分と慌てている。その理由を彼らはすぐに知ることになった。
「俺は民間人だ。てめえらに、いちいち頭下げてもらう理由はないぜ」
士官は一人ではなかった。先導して廊下を案内していた相手がいたのだ。
それは季秋家の御曹司だ。
「……季秋冬也」
「思ったよりやるじゃねえか。来い」
冬也は桐山を連れ、その場から少し距離をとった。
「気に入ったぜ、優勝なんか関係なく、おまえはうちに置いてやる」
「…………」
「夏樹も賛成するだろう。あいつは有能な人間をわざわざ手放すような馬鹿じゃねえからな」
「俺は鈴原を守りたいから大会に出場したのだが理解してもらってないのかな?」
「ついでに教えておいてやるぜ。女は勝敗に関係なく保護してやる、春樹もそれは承知してるぜ」
桐山の目が僅かに大きくなった。
「それは本当かな?」
「ああ本当だ。俺が保証してやる」
「そうか鈴原の身に害は及ばないのか」
鎮魂歌―81―
「き、桐山がいないって事は……俺、三村、雨宮、杉村……は怪我してるから除外だよな、川田に……」
七原は改めてメンバーを見渡し、とんでもないことに気づいた。
桐山がドクターストップ、杉村も出すわけにはいかない以上、光子が出るしかないでは無いか。
「あらあら、これって絶体絶命の大ピンチってやつかしら?」
光子は他人事のようににこにこ笑っている。状況がわかっているのか、それとも度胸が据わっているのか。
どちらにしても彼女の言葉通り絶体絶命の大ピンチであることは事実だ。
「……相馬で5人か。これやばいんじゃないのか?」
桐山と杉村が戦線離脱ということは、必然的に光子が第五の選手になるではないか。
「だめだ、だめだ!いくら相馬が普通の女子じゃないからって、そんなことさせられないよ!」
女の子はか弱いものだと一種信仰に近い思いを持っている七原はすぐに光子の参戦に反対した。
「相手チームだって絶対に反対するだろ?女子戦わせるなんて自分達を馬鹿にされてると思って怒るかも」
「お、おい、女、女だ!それも超美人の!」
「すげー可愛いじゃねえの!いっつも上等な女は士官がもってっちまうもんなあ!」
「あの女は俺が相手するからな!」
「いいや俺だ!寝技、絶対に寝技だ、ぐふふ!!」
「…………」
「……七原、あいつら、その気だぞ。それもめちゃくちゃ」
「……狼の群れに羊投げ入れるようなものだな。試合じゃないだろ、これ」
七原は世の中、クズが多いという事を思い知った。
「ま、いいじゃないか。光子さんでさ」
「雨宮、おまえなんてこと言うんだ!相馬なんか、絶対に勝ち目ないぞ!!」
「光子さんは大将にして、彼女にまわさなきゃいいじゃないか」
良樹はにっと笑って七原の肩にぽんと手を置いた。
「何が何でも三勝もぎとって光子さんには指一本触れさせない。それでいいじゃないか」
「そうそう、相馬は人数あわせだ、俺達で三勝すれば問題ない」
「……三村」
七原は自分が恥かしくなった。桐山を失ったことで自分はすっかり弱気になっていた。
「雨宮や三村の言う通りだ七原。とにかく、やるしかない。俺達は今まで桐山に頼りすぎていた。
だが俺達も宗方の下で死に物狂いで一ヶ月間特訓してきたんだ。ただの素人じゃないはずだ」
川田の口調は低かったが、温厚で落ち着いたもので七原の焦っていた気持ちに対する鎮静剤になった。
(そうだ。今はやるしかない。考えてみれば、俺達、桐山一人に苦労させすぎてたもんな)
七原が落ち着きを取り戻したところで、川田は順番を決めることにした。
勝ち抜き戦でなかったことは不幸中の幸いだ。
ただし選手の順番は最初に決定しなければならないルールだった。
運が大きく左右する。光子は最初から大将に決まっていた、何とか副将戦までに三勝しなければならない。
選手が闘場にあがる前に一度だけ補欠と交替もできるが、補欠なんかいないのだ。
「後は運次第だ」
――Bリーグ――
(戸川の奴、珍しく焦っている。ふん、いい気味だ)
良恵の居場所が判明さえすれば、徹は大声出して笑いたいくらいだった。
二回戦で大友のまさかの失格で何とか準決勝には勝ちあがった戸川の部下達。
しかし、今の試合内容は決して彼の望んだものではなかったのだ。
仮にも手塩にかけて鍛えた部下達が無名の民間人相手に圧勝では無い。
圧勝どころか押されている。それが体裁を何よりも気にする戸川を苛立たせていた。
(何をもたついているのだ、あの馬鹿どもが!白州がいないとはいえ……情けなくて見るに耐えん!)
「二勝二敗か。さすがは戸川先輩ご自慢の部下ですね。
俺だったら子飼いの部下があの様では恥かしく人前に出れませんよ」
徹の辛辣な言葉は戸川のプライドを鋭く刺激した。
「お、おい徹……やばいよ、睨んでるぜ」
俊彦が忠告するも、徹には馬の耳に念仏だった。
「よくも堂々と公式の場にいられますね。先輩の面の皮の厚さには、いつもながら感心しますよ」
(……こ、こいつ……言い切りやがった)
俊彦の方が顔面蒼白になった。徹の恐れを知らない暴言に、半ば呆然としている。
(白州さえ出場していたら無様な思いをせずに済んだろう。
だが、あんなマネをした以上、しばらく白州は表に出せない。
俺を暗殺しようなんてふざけたことをするからだ。全て自業自得、ざまあみろ)
「徹、俺は知らないぞ。公衆の面前で戸川を侮辱なんかして、後でどんな仕返しくらうか……」
俊彦は小声で耳打ちした。もちろん、その警告は徹の耳に聞えても心までには届いてない。
「……佐伯、今の言葉忘れるなよ」
「そちらこそ、俺がお優しそうな外見に似合わず執念深いということを忘れずに」
――貴様は勿論、貴様の飼い犬どもも一人残らず、いずれこの世から消し去ってやるさ。
(こんな愉快な思いができるのも、あの無名の民間人のおかげだな。いっそ金一封くらいやりたいくらいさ)
ご機嫌の徹とは違う意味で晶も口にこそ出さないが面白くて仕方ないという表情をしていた。
それは、もちろんBリーグの、もう一組の民間人達が理由だった。
(大会が終了と同時に全員まとめて逮捕してやるぜ)
――亡霊が生きていたことを突きつけられた時の科学省上層部の面が楽しみだぜ。
「あーあ、目立たない為とはいえ、思いっきりやれないってのは結構ストレスたまるもんだな」
「佳澄、俺達の目的は優勝するためじゃない。変な事言うなよ」
「はいはい、わかってますよ」
派手な快進撃で一時期とはいえ大本命に躍り出た桐山とは対照的に彼らは地味に事を進めていた。
「でも、あっちさんは、あの方がドクターストップかけられて、もう絶望的って話じゃん」
香坂は頭をかきあげながら、「どうすんの?」と問いかけた。
「やっぱり相手チームの昼食に下剤仕込んでおくべきだったんじゃね?」
「ええ?ダメだよ、そんなこと可哀相だよ。それじゃ証拠残るから、やっぱり闇討ちがベストじゃない?」
「……護、おまえって相変わらず、いい性格してんよな。ご立派、ご立派」
「闇討ちなら、もうしたさ」
全員が視線を集中させた相手は比企直弥だった。
「何、その目?闇討ちなら試合開始前に俺がやっておいたよ。何、文句ある?」
「先鋒、前に!」
審判の指示が出ると川田が威勢よく闘場にかけあがった。
相手は武藤哲彦、二回戦で空軍を卑劣な方法で痛めつけた男だった。
「川田、頑張れ!大丈夫、おまえならやれる!」
七原は必死になって声を張り上げていた。しかし良樹と三村は半ば不安だった。
「体格じゃ川田も負けてない。ヘビー級の闘いだ、俺達よりも川田の方がずっと適任だぜ」
「ああ、でも、あいつは汚い野郎だ。俺はそれが心配なんだよ」
審判の号令と同時に試合開始。体格からわかるようにスピードよりも、むしろ腕力の戦いになった。
経験値では圧倒的に向こうの方が上。しかし川田は洞察力と観察力で勝っていた。
つまり腕力だけの馬鹿相手に智力でキャリアの差を埋めていたのだ。
「けけけ、向こうの親父も結構やるじゃん。それに比べて弟君は思い通りにならなくて熱くなってんじゃねえか」
小猿のような体格のチビに弟を馬鹿にされ、武藤国光はムッとした。
「おい、てめえ誰に悪口言ってんのかわかってんのか?」
ヤマアラシのような長髪の下から覗くぎょろ目に国光は僅かにびびった。
体格ではどう見ても国光の方がはるかに強そうに見える。
だが実際はそうでないことを陸軍の人間なら誰もが知っていた。
だが、この小猿はスピードと身体能力の高さから、今まで数多くの大男を血祭りに上げてきた。
自分が特撰兵士・武藤の実弟でなければ、こうして上から目線で物をいう事も本来はできない相手なのだ。
「そう怒るなよ。武藤さんの弟君を悪くいうわけねえだろ?俺に悪態つくより弟君の心配しろよ」
国光は改めて弟を見た。確かに川田に押されて哲彦は頭に血がのぼりきっている。
目は血走り無駄に大振りの攻撃を繰り返すことで、余計な体力の消耗をしているではないか。
「けけ、ほら何やってんだよ。こうなったらアレしかないだろ?」
アレとは空軍にも使った毒針だ。
「当たり前だ。哲彦、さっさとアレを使え!!」
「おお!」
哲彦は川田に強烈なタックルをかました。川田はふんばり、それを止めた。
(今だ、ぶっ殺してやる!!)
哲彦は川田に腕を伸ばした。後はリストバンドに仕込んだ毒針が自動的に川田に刺さるだろう。
「闇討ちって、おまえ何したんだよ?」
「面倒だから説明もしたくないよ。闇討ちなら潤だってしたしね」
「へえ、そう。で、潤は何したの?」
「闇討ちじゃないよ。俺はただ、すれ違ったときあいつの毒針を逆にしただけだ」
「な、何だ?」
川田は驚いていた。哲彦が突然床に崩れ落ちたのだ。陸軍陣営も当然驚いている。
審判がカウントを取り出し、やがて誰もが呆然とする中、川田の勝利が宣言された。
国光が慌てて哲彦を場外に引きずり降ろす。
「おいどうした!?」
「あ、兄貴……は、針……針が……」
哲彦は右手を弱弱しく持ち上げた。手首の部分(リストバンドの裏側)が黒っぽく変色し膨張している。
これは毒による症状だ。国光はぎくっとなった。
「げ、解毒……解毒剤を……」
「おまえ持ってただろうが」
「……な、ない……ないんだ」
ちなみに懐に忍ばせておいた解毒剤は草薙潤によってすられていた。
国光は「打ち所が悪かったから医療室に連れて行く」と適当な理由をつけ、哲彦を背負い慌てて退場した。
「川田、やったな。とにかく一勝だ」
大喜びする七原とは裏腹に川田はまだ首をかしげていたが、とにかく勝利は勝利だ。
相手方の次鋒が立ち上がった。堂本正美だ、戦闘兵ではない、単なるお坊ちゃん。
「あれなら楽勝だ。見てろ川田、俺が二勝目をあげてやるよ」
七原は意気揚々と闘場に駆け上がった。
(俺が勝てば後は三村か雨宮が勝ってくれる。相馬を戦わせることなく終われそうだ)
七原はすでに勝利の図式を思い描いていた。
だが堂本が闘場に上がった途端、敵は他にもいることを思い知ることになる。
「堂本さん、そんな野郎殺して下さい!」
「頑張って下さい。陸軍一同応援いたします!」
突然、地鳴りのように観戦席から声援が上がり、あまりの迫力に七原は驚愕した。
「……あーあ、七原の奴かわいそうになあ」
夏生は哀れみを込めた目で七原を見詰めた。
「な、何よ、あいつら。ここはいつからコンサート会場になったのよ?」
「四面楚歌だわ。どうして?」
貴子と美恵も驚いている。観客に過ぎない彼女達でさえそうなのだから、七原の状況は過酷だろう。
「しょうがないな。なにせ、あの堂本ってやつは……祖父さんが陸軍の将軍なんだ」
「しょ、将軍!?」
「そ、閣下だよ。堂本家は陸軍の軍閥で、しかも陸軍将官やってる総帥の息子の外戚でもあるんだ。
もっとも軍閥といっても祖父さんの代で権力握った新興勢力で名門じゃない。
けど、その祖父さんがくせ者でな。特撰兵士制度のない時代に歩兵から将官にまでなった叩き上げ。
そんな人間この国が軍事政権になって以後、数人しか出てない。
家柄もコネもない歩兵にとっちゃ今でも憧れの英雄だ。
おまけに陸軍の年配の士官は、その祖父さんが軍曹時代に鍛えられた教え子ばっか。
陸軍の人間の大半はどっかで、あいつの祖父さんと繋がっているってわけだ」
夏生はズボンのポケットからメモ帳を取り出した。
「まずいことに、あの審判も元陸軍の兵隊で堂本閣下の昔の兵隊の息子らしいぜ」
それがどういう意味なのか説明してもらわなくてもわかる。
つまり七原は観客から審判まで全員を相手に闘わなければならないということだ。
「七原はいい奴だ、だからいつも他人から悪意や敵意を持たれたことがほとんどない。
そういう人間にとっては一番辛い闘いになるぞ」
審判が開始を宣言すると同時に七原は動いた。
(速攻だ!相手が反撃する前に何とかダメージを与えるんだ!)
七原は速かった。かつて天才ショートとして馳せた名声は幻ではないことを見せ付けているかのようだ。
『素人のおまえにごちゃごちゃと細かい事いっても無駄だから、とにかく顔面かボディを狙え』
夏生の声が過去から聞えてきた。その言葉に従って七原は堂本の右頬に思いっきり拳を突き抜けた。
(やった!)
確かな感覚があった。七原は思わずガッツポーズを振り上げたい衝動に駆られたほどだ。
ところが七原の鼓膜を破らんばかりに爆発したのは罵声だった。
「ふざけんじゃねえ、この野郎ー!!」
「てめえ、生きて会場でれると思うなよ!!」
「……え?」
怒涛のようにブーイングが起きた。それは野次などというレベルではない。
「閣下のお孫さんに何ふざけたことしやがるんだ、殺すぞクソガキ!!」
「チンピラの分際で何調子乗ってるんだ!!」
やがて観客の声は完全に一つになり、恐ろしい単語に変化して会場を埋め尽くした。
「殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!」
(……お、俺って……もしかしてヒールになってるのか?)
七原は愕然とした。無名の民間人が歓迎されてないことくらいわかっていた。
だが憎悪や殺意まで向けられるとは思っていなかった。
「あの子、可哀相に。本当に陸軍は野蛮な連中の集まりだよ。誰かさんの巣だけあるね」
薫は晶に聞えるようにわざと声量を大きくした。
もちろん晶に対する嫌味が目的なので、七原に対して同情など微塵もない。
「ふん、こんな野次で動揺するようなら最初から優勝する器じゃないということだ」
シビアな晶は平然としてさえいる。薫の嫌味も、まるで効いてない。
「俺が出場した時は、野次どころか銃殺されかけたんだ」
しかし内心、陸軍の兵隊達の幼稚な行為に恥かしいと思っているのも事実だった。
(ガキ臭いことしやがって。あいつら再教育が必要だな、俺の部下達は同調してないだろうな?)
気になり視線を部下達が陣取っている観客席に向けた。
「このクソガキ!堂本の面を殴るのは閣下のご尊顔を殴るも同然だ、わかってるのか!!」
「大佐、恥かしいから、やめて下さい!」
身を乗り出して怒鳴りつけている鬼龍院を、輪也達が必死になって止めていた。
――あの、馬鹿。
晶は心底情けなくて堪らなかった。
思わぬ敵に呆然となった七原。
「馬鹿野郎、余所見なんかするな七原!」
川田の声にハッとして振り向くと堂本の蹴りが視界に入った。
(まずい!)
慌てて身をかわそうとしたが、やはり遅かった。直撃は何とか避けたが勢い余って場外に落ちる。
審判がすかさずカウントを取りだし七原が慌てて闘場に上がると、観客席から舌打ちする声が露骨に聞えた。
「なあ三村……今のカウント、やけに早くなかったか?」
「雨宮、おまえもそう思ったのかよ」
七原が体勢を立て直す前に今度は堂本が速攻してきた。観客が一斉に歓声を上げる。
「おい、あのお坊ちゃん、案外強くないか?」
夏生の話では大したことはないはずだった。確かに夏生主観ではそうだろう。
しかし堂本は仮にも軍人、かつて鬼教官だった祖父にスパルタ教育されて育った人間だ。
格闘技に全く素人ではない。むしろキャリアでいえば七原の方が素人というべきだろう。
(何だよ、この人強いじゃないか。夏生さんの大嘘つき!)
「……あーあ、何だよ七原の奴。あんな、お坊ちゃんの攻撃にあたふたしやがって」
夏生は溜息をついて空を仰いだ。
「俺が相手なら、今の時点で七回は勝ってるぞ。あんなスピード、なんで避けれないんだ?」
「……く、くそぉ!」
何とか紙一重で堂本の蹴りをかわした七原は、がむしゃらに堂本の脚にしがみつくようにタックルした。
当然、堂本はバランスを崩し床に仰向けに倒れる。
「やった!」
良樹は両拳を握り締めた。あの体勢では立ち上がれない、後はテンカウントだ。
だが良樹は、その考えが楽観的だったことに、すぐに気づいた。審判がカウントを取らないのだ。
「な、何してるんだ!さっさとカウントをとれよ!」
良樹の抗議に対して審判は「まだ完全に背中がついてない」と、いけしゃあしゃあと反論した。
その間に堂本は何とか体勢を取り戻した。
「堂本さん、そんな奴、瞬殺ですよ!」
「頑張ってぶっ殺してください。圧勝、圧勝!!」
会場の雰囲気はいっそう堂本支持、七原不支持と傾いていった。
「……むかつく連中だぜ。おい、おまえら、いい加減に!」
三村が声を張り上げた途端に光子がその口を手で塞いだ。
「あんた達って、ほんとに馬鹿ね。あんないかれた連中に正論なんか通用すると思ってんの?
怒鳴りつけたら野次の音量が倍になるだけよ。だから世間を知らないガキは嫌いなのよ」
大人の最も汚い世界を幼い頃から見てきた光子は、さすがに修羅場に対して滅法強かった。
「じゃあ、大人しく見てろっていうのかよ?」
「簡単なことじゃない。あいつらが出来るのは怒鳴るだけ、七原君が受けるのは精神的苦痛だけ。
だったら解決するのはこれで十分よ」
光子は七原に耳栓を投げた。
「ほら、さっさとそれを付けなさいよ」
七原はすぐに光子の指示に従った。同時に野次が止まった。
(聞えなくなった……良かった、これなら俺にも勝ち目がある)
七原は俄然やる気を取り戻した。攻撃を仕掛ける度に起きる盛大な野次は、もう七原の耳には届かない。
「七原の動きがよくなった。光子さんのおかげだよ、ありがとう」
「別に。あたしに順番が回ってこないように勝ってもらわなきゃならないもの。当然のことをしたまでよ」
後は実力の勝負。七原は全力で堂本に襲い掛かった。
元々身体能力は高かった七原だ。付け焼刃とはいえ一ヶ月の特訓を経てかなり強くなっている。
七原の技が決まりだすと観客席からは悲鳴が上がり出した。
しかし今の七原には野次も堂本コールも聞えない。敵は眼前の堂本ただ一人だ。
(相馬にまわすわけにはいかない。女の子を戦わせるなんてマネできるかよ!)
七原は堂本の腕をとると石床に押さえつけた。
「勝ってやる、勝って決勝に――」
堂本の手元がキラリと光った。七原は本能的に危険を察知し思わず堂本から手を離した。
ナイフだ。白光りするナイフが七原の喉元目掛け一直線に伸びてきた。
「うわっ!」
咄嗟の反射神経で避けたが、突然の事でバランスを崩した。
そこに容赦なく再びナイフが伸びてくる。
「くそ!」
七原は脚を急上昇させた。ナイフを弾くことに成功、しかし堂本はもう一本ナイフを取り出した。
観客のボルテージは一気に上がった。耳栓をしてても観客席からの熱気を感じ七原は眩暈がしそうになった。
「ナイフなんて卑怯だぞ!」
思わず叫んでいた。距離を取り何とか堂本の間合いから抜け出すことに成功。
(よ、よし……何とか距離を取りながら逃げて隙を見てナイフを何とかしよう)
審判が七原に対して何か叫んでいるのが見えた。しかし七原には聞えない。
何事かと耳栓を外すと、審判の怒鳴り声が鼓膜を叩いた。
「警告だ!今度、理不尽な発言をしたら大会を侮辱したとみなして失格にするからな!」
「はぁ?何でだよ!」
「何でだと?おまえは審判も侮辱するつもりか?おまえは先ほど武器使用を非難したではないか!
今度ルールを無視して相手選手を冒涜したら退場処分にするからな」
七原はしまったと後悔した。この大会が普通の格闘技大会とは違うことを忘れていた。
それにしたって、この大会開始以降相手選手に対する誹謗中傷は散々飛び交っている。
不用意に放ってしまった失言をたてに退場をほのめかすなんて酷すぎないか?
審判が堂本を贔屓しての差別行為としか思えない。
(こいつも敵なんだ。最初から俺を勝たせるつもりはなかったんだ)
「今すぐ、おまえの敗北を宣言してやってもいいんだぞ!」
「……すみませんでした」
「以後、発言に注意したまえ」
納得は出来ないが、事を穏便に済ますためには頭を下げるしかなかった。
「だいたい、おまえはだな!」
「もういいだろう」
意外にも助け舟を出してくれたのは、この状況の元凶である堂本本人だった。
「しかしお坊ちゃま、この不逞の輩は……」
「いいから試合再開させてくれ。おまえも客も勘違いしてる、こっちだってやりにくくてしょうがないんだよ」
「……はあ」
「……たく。だいたい、あの祖父さんは怖いってイメージしか俺ないのにさ」
堂本は小声で呟いた。
「……陸軍に入ってから誰もかも祖父さん祖父さんで、誰も俺個人見てくれないんだもんな。
勘違い連中多すぎんだよ。こんな応援すれば俺が喜ぶと思ってるのか?正直、気が重いんだよ。
プレッシャーかけたいのかよ。俺、はっきりいって祖父さん嫌いだし、名前出されても困るっての」
「こんな雰囲気とはさっさとおさらばしたいから、さっさと決着つけるぞ」
七原に異存はなかった。こんな殺伐とした中では精神的に限界がある。
耳栓のおかげで野次こそ防げるが、殺意と敵意だけはひしひしと感じるのだ。
「じゃ、さっさとやるぞ」
堂本が先に動いた。共鳴するかのように七原も向かっていく。
ナイフが七原目掛けて飛んだ。七原は足をとめナイフをかわす。
直後、腹部に強烈な蹴りが食い込んでいた。七原はしまったと思った、ナイフは囮だったのだ。
そのまま七原は中央プールに落下。即座に水から上がろうとするも、堂本が脚を掴んだため体勢が取れない。
「……やばい」
あんな体勢から反撃するのは至難の業。七原が百戦錬磨ならまだしも、素人には不可能だろう。
今はただもがくだけが七原の精一杯の闘いだった。
「……これまでだな」
夏生は低い口調で、きっぱりと言い切った。
「タオルを投げてやれ!でないと敗北どころが死体が一つできるぜ!」
夏生は立ち上がって叫んだ。良樹や三村は躊躇している。
七原の命に代えがたいことは十分承知している。しかし今タオルを投げては光子に回る可能性が高くなる。
「何してる、七原を殺したいのか?」
「どうする?」
「七原には悪いが簡単に降参するわけには……」
「試合終了!」
審判が声高らかに宣言していた。良樹と三村は驚いて闘場に視線を向けた。タオルが投げ込まれている。
川田が投げたのかと思い振り向くと、川田も驚いているではないか。
「本当にまどろっこしいわね。殺したくないなら、さっさとやればいいのに」
タオルを投入したのは光子だった。
「何よ、その目は。文句ある?今だから言うけど、あたし七原君には最初から期待してなかったわよ。
ま、罰は必要だから制裁は思いっきりやるけどね。要はあんた達が勝てばいい話じゃない」
良樹は半ば呆気に取られた。自分達よりも女の光子の方が度胸が据わっている。
「それとも、あんた達って自分が勝つ自信は全くないわけ?」
「そんなことは……!」
「ないわけないわよねえ。だったら、うだうだ言うのは終わり。
次は三村君でしょ。ほら、あの筋肉馬鹿が睨んでいるわよ」
中堅の武藤国光はすでに闘場に立ち此方を睨んでいる。
「さっさとぶちのめしてきなさいよ。自信がないなら、あたしが代わってあげましょうか?」
「誰が自信ないなんて言った?見てろ、すぐに二勝目をあげて、おまえを安心させてやるぜ」
三村は闘場に駆け上がった。もう迷いはない。
「光子さん、ありがとう。おかげで三村の緊張がほぐれた」
「いいのよ。ついでに言うと、あたし三村君にも大して期待してないわよ」
光子は「ふふっ」と小悪魔的な笑みを浮かべ、良樹の額を軽くつついた。
「あたしが期待してるのはあんた。いいこと絶対に勝ちなさい」
「あたしには秘策があるわ。でも、その布石として、あんたの勝利は必要不可欠なのよ」
【B組:残り45人】
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