水島克巳は出掛けたはず、だからこそ脱走を試みたのに。
それなのに、こんなに早く帰宅し、すぐに見付かるなんて神様も意地悪すぎる。
「おまえ――」
水島が手を伸ばしてきた。
「嫌っ、触らないで!」
美恵は、その手を振り払った。
「……おまえ、克巳の女じゃないのか?」
(……え?)
今、妙な言葉を確かに美恵は聞いた。
(『克巳』?今、確かに、『克巳』って……)
美恵は落ち着いて、もう一度、今目の前にいる男を見上げた。
鎮魂歌―56―
「大尉、どういたしましょう?」
戸川はソファに深々と座り、脚を組み、片手で頬杖をつきながら考え込んでいた。
部下達の言葉も完全に無視だ。
(あの女……たかが素人の分際で大した度胸と気位の高さだ、敵にまわすと厄介なタイプだ)
戸川の経験上、そういう人間性の持ち主が一番手こずる。
自分の命よりも大切なものを持っている奴は簡単に落せない。
(……待てよ)
戸川は貴子が発した台詞を思い出した。
『弘樹の仇』、確かに、あの女はそう言った。
「……おい、あのクズを連れて来い」
五分もたたないうちに新井田が引っ張られてきた。先ほどのこともあり、かなり怯えている。
「これを見ろ」
戸川は捕獲された連中の写真を新井田の前に放り投げた。
「この中に『弘樹』という奴はいるか?」
「弘樹?……ああ、杉村のことですね。千草の男ですよ」
「あの女の男?」
戸川は眉を不快そうに歪めた。
「はい、顔も成績も平凡な何の魅力もない大男でして。全く、あんな野郎のどこがいいのか」
「余計なことはほざくな。おまえは質問されたことに答えればいい」
「は、はい!」
新井田は写真に目を通し始めた。一枚確認しては、その写真をめくってゆく。
三枚目の写真を見て、即座に「こいつです、こいつ!」と、声を上げた。
戸川は、その写真を奪い取った。
「……こいつか」
戸川は、思った通りだと言わんばかりの表情を見せた。
(あの時一緒にいた男だ。間抜けな話だな、あの女は、こいつが死んだと思っているのか)
杉村の生存を確認した時点で、戸川の次の作戦は決まった。
戸川は新井田に万札を数枚投げつけた。
「もう貴様に用は無い。さっさと俺の前から消えろ」
戸川は泪だけを伴い退室。戸川が消えると反町と久良木は哀れみを込めた目で新井田を見下ろした。
「大尉が戻られる前に、ここから消えたほうがいいぜ。でないと、本当に殺されるぞ」
新井田は悲鳴を上げながら猛スピードで後ずさりして壁にぶつかった。
「じょ、じょじょじょ冗談はなしにして下さいよ!」
「冗談なものか。大尉は、その冗談ってやつを言わないタチなんだ。
おまえに消えろといった以上、ここに居座っていたら本当に殺すぞ、そういうお方だ」
「反町の言う通りだ。死にたくなかったら、さっさと出て行ったほうがいい」
二人の忠告に新井田は顔面蒼白になった。
側近が言うくらいなのだから、戸川は相当非情な男だと推測するのは容易だ。
「大尉のおっしゃるように、さっさと海老原大尉か水島大尉の元に行け。
あの二人は美辞麗句が大好きだから、おまえにとっても、そっちの方が居心地いいだろうぜ」
「……は、はあ」
ここは大人しく忠告に従ったほうが良さそうだ。
「あのー、ところで、どちらの方がお話のわかる方なんでしょうか?」
反町は、「そんなことは、自分で判断しろ」と冷たい言葉を投げ退室してしまった。
残された久良木は新井田に同情したらしく、助言をしてくれた。
「……俺の立場で特撰兵士の二人を悪く言いたくないが、どちらも癖のある男だ。
けど、どちらかを選べと言われたら、水島大尉の方がまだマシだと思うよ。
海老原大尉は、短気の上に粗暴な性格で、媚を売る前に殴り殺される可能性大だ。
その点、水島大尉は育ちがいいから、機嫌さえ損ねなければ、それなりに待遇は期待できる」
最も、機嫌を損ねたら、海老原よりも怖いかもしれないけどな……と久良木は心の中で思った。
ともかく久良木のアドバイスに従い、新井田はさっさと立ち去った。
「何だって、第三エリアまで侵入された?」
水島は、その美しい顔を般若のように変化させ机をバンと叩いた。
「おまえら、それでも国防省の人間かい!?」
美恵を弄ぶのをお預け喰らった上に、国防省の面子を潰されたのだ。
明るく社交的な貴公子を見事なまでに演じている水島が人前で激怒するのは滅多にないことだった。
「それで、その侵入者どもは本当に一人残らず追い払ったっんだね?」
「はい、我々の攻撃に恐れて一目散に逃げ去りました」
「……逃げた」
水島は腑に落ちなかった。国防省の第三エリアまで入り込むような連中が、あっさり逃げたのだ。
(奴等は特別拘置所に侵入した……仲間を助けにきたテロリストではないのか?)
特別拘置所に賊が侵入したことは今までもあった。
だが、今、特別拘置所にテロリストはいない。素性のわからない子供がいるだけ。
(逃げたのではなく、目的がいなかった……からか?)
水島は新井田から得た情報から全てを整理して考えた。
(今、特別拘置所にいないのは三人のお姫様に、今だ逮捕されてない桐山和雄と早乙女瞬という坊や達だけ。
侵入してきたのがK-11と仮定する。
今、特別拘置所にいる連中に用がないとしたら、奴等と係わりがある人間はおのずと絞られる。
(……五人の中にK-11と関係のある人間がいるってことか。それとも、第三者か?)
「おい克巳!」
耳障りな怒鳴り声を撒き散らして登場した同僚に水島は額を押さえた。
「……何だい竜也」
「なんだもクソもあるか!これからお楽しみって所を呼び出しくらったんだ!!」
「……君もかい。俺もそうだよ」
「どこのどいつだ、俺の邪魔をしやがった糞野郎は!」
「それが正体不明でね。しかも、もう逃げたそうだよ」
「何だと!?じゃあ無駄足ってことかよ!!」
海老原の機嫌はさらに悪くなった。もっとも、そんなことは珍しいことでもない。
「……ふざけやがって!」
「竜也、落ち着いて」
海老原の背後には女がいた。彼女同伴で出勤らしい、水島は半ば呆れていた。
「これが落ち着いていられるか!」
海老原は彼女を突き飛ばした。
仮にも恋人に八つ当たり、それが海老原の人間性を象徴している行為とも言える。
「面白くねえ!俺は帰るぞ。克巳、後処理はてめえ一人でやりやがれ!!」
海老原が姿を消すと、海老原の女が水島にすがり付いてきた。
「落ち着いて、泣くんじゃないよ。ほら、綺麗な顔が台無しだよ瑞希」
その女こそ、晶に海老原殺しを持ちかけた張本人でもあった。
「克巳!あたし、もう嫌よ、あなた以外の男に抱かれるのは!!」
水島はハッチを閉めると、「困るよ、外に聞えるじゃないか」と念を押すように言った。
「克巳、あたし、もう我慢できないわ!あなたの為ならって嫌々あいつの女になってけど、もう限界よ!」
不破瑞希は実は水島の女だった。自分の女をスパイに使うのは水島にとって常套手段だ。
全く気づいておらず瑞希をそばにおいている海老原は道化師そのものといえよう。
晶は瑞希が海老原をあの世に送りたがっているのはDVからだろうと推測した。
だが実際はもっとドロドロした事情があったというわけだ。
水島の命令で海老原の女になった以上、自分の意志では別れられない。
だから晶を利用して、手っ取り早く海老原の存在そのものを消してやろうと思ったわけだ。
「克巳、以前のようにあたしをそばにおいてよ!」
「……竜也のスパイを買って出たのは君じゃないか」
水島は突き放すように言った。
「だって、あなたが、あたしにかまってくれなくなったから。
あなたの為になるなら、こんな嫌な役を引き受けたのよ。でも、もう嫌。
あたしはあなたの女なのよ。他の男なんて吐き気がするわ!
おまけに竜也は粗暴で下品で気も短くて、時々暴力をふるうのよ。
このままじゃ、あたし、いつか、あいつに殺されるわ。お願いよ、克巳!」
水島は人事のように前髪をかきあげて溜息をついた。
「あなたは、あたしが他の男に触れられても平気なの!?
あたしを愛してないの?沙耶加や早苗は他の男には指一本触れさせないくせに!!
何よ、あんな女達より、あたしの方がずっとあなたを愛しているのよ!
あんなすました女のどこがいいのよ、何考えてるかわからない女よ!!」
「……そういうことは俺の前では言ってほしくないねえ。
言っておくけど沙耶加や早苗は俺の前で他の女を悪し様にいうようなことはしないよ」
この女とも潮時だな、と水島が考えたのは言うまでもない。
最初から利用するだけのつもりだった。愛情なんか持っていない。
なかなかの美女だし、男を喜ばせる身体をしているが、水島にとってはそれだけの女だ。
この程度の女なら、いくらでもスペアはいる。
海老原に付けたのは、海老原が自分の預かりしらぬ所で、やばい事をしないための監視役としてだった。
それから(これは可能性が低いが)海老原が自分を出し抜かないように。
海老原は戦闘力は高いが、策略に費やす知能に関しては水島には及ばない。
水島がいなければ、今までしでかした悪事のほとんどは暴露されていただろう。
海老原の悪事の後始末の大半は水島が片付けていたが、それ以外は佐々木敦が担当していた。
どうやって処理しているのかと言えば、佐々木が上に賄賂を贈るのだ。
その上とは陸軍将官であり、総統の息子でもある宣昭だ。
つまり海老原は総統の息子という後ろ楯を持っている。
水島が瑞希に海老原のスパイをやらせている最大の理由はそれだった。
将来、陸軍の一大勢力になる人間の一人は、間違いなく総統の息子である宣昭だ。
その宣昭と海老原の繋がりを常時監視しておく、それは水島にとっては当然の措置だった。
(だが、それももう必要ないねえ。あの事件以来、宣昭殿下は竜也に愛想を尽かし始めている。
今のままじゃあ以前のように取り立ててなんかくれやしない。切り捨てられる可能性だってある。
それに宣昭殿下の動向を探るもっといいルートを開発した以上、瑞希に用は無いよ)
水島は最近恋人の列に新たに舞子という名家の令嬢を加えている。
舞子は宣昭にとって母方の従妹にあたるのだ。
「克巳、何とか言ってよ!」
(……うるさい女だねえ)
水島はちょっと考えて、とんでもない事を言い出した。
「そんなに竜也が嫌ならやめてもいいよ。俺は止めない」
「本当に?」
「その代わりに周藤晶のところに行けよ」
「どういうことよ」
「あいつと寝ろ。簡単なことだろ?」
瑞希の顔色が変わったが水島はかまわず続けた。
「竜也同様に野蛮な陸軍の男だけど竜也よりはマシだろう?
俺の足元にも及ばないが、まあまあ顔だけはいいじゃないか」
(あいつは間違いなく陸軍で台頭してくる。それも遠くない未来でだ。
俺にとっては竜也より、あいつの方が厄介な存在になるかもしれない)
水島は見た目もやってる事も軽薄だったが、政略的なことにかけては十年先を考える計算高い男だった。
その為の布石として薄汚い手段でも平気で使う。
(もっとも、あいつは竜也と違って女に対して堅物だから誘惑に乗るかどうか)
実は水島はこれまでも晶に五人ほど女を送り込んだが相手にされてない。
瑞希にも期待はほとんどしていなかった。
ただ瑞希に愛想を尽かしていたので無理難題を言ってみただけだ。
それに海老原の女が言い寄ったと噂が立てば、おそらく海老原と晶の間で揉め事が起きる。
そっちの方はそれなりに期待してた。
「周藤晶ですって?あんなチキン野郎をスパイしたって、あなたの得になんかならないわよ!」
「チキン野郎?」
水島は最初から瑞希と真剣に話をするつもりなんかなかった。
だが瑞希が発した言葉に腑に落ちないものを感じたのか、姿勢を正すと神妙な面持ちで言った。
「あいつと何かあったのか?」
瑞希は海老原殺しを持ちかけたこと、あっさりと断られたことをベラベラと喋った。
「彼女はいなかった?よくも、そんなふざけた結果を土産に僕の前に姿を現せたものだね直弥」
「だったら君が行けばよかったじゃないか北斗」
特別拘置所まで侵入しておきながらあっさりと撤退した賊とはK-11だった。
捕えられている者の中にお目当ての人間がいなかったため、もう用はないと早々と逃げだしたのだ。
「それで、あの方の居場所は突き止めて来たんだろうね?」
「誰に向かって口をきいてるの?当然だよ、彼女は特選兵士の元に連れていかれたらしいよ」
「特選兵士か……それは厄介な事だな」
「助けに行くんだろ?」
「当然だ。彼女にもしもの事があったら彼に申し訳ない。最優先で彼女を救出したまえ」
「誰もが一つ、持ってる生まれた記念日に~♪」
季秋家の四国別邸では暇つぶしに兄弟達でカラオケ大会をしていた。
「よし、次は夏生歌え。曲目は何だ?」
「おい宗方、いいのかよ、こんなことしてて」
佐竹が、お気楽なカラオケ大会に、これ以上付き合うのは時間の無駄だとばかりに意見を言った。
「いいじゃねえか。兄弟や親戚がこんなに集まるなんて滅多にないだろ。
だったら皆で仲良く盛り上がろうじゃねえか。なあ、おまえ達?」
「そうそう夏兄さんの言う事は一々正論だな」
佐竹は頭痛がしてきた。
「……近衛、おまえ、秋澄さんに、あんな酷いこと言ってよく平気でいられるな」
「酷い~?俺が何を言ったっていうのかなあ?」
「生真面目な秋澄さんに妹が強姦されたなんて嘘八百ついたじゃねえか」
「ああ、あれか。ま、確かに秋兄さんにはちょーと刺激強すぎたかなあ」
「立花薫に犯されただと!!?」
突然、弟の口から、可愛がっている妹が性犯罪の被害者だと告白された秋澄は愕然とした。
奈落の底に落ちるような感覚に襲われ足元が崩れかけた。
秋利が支えてやらなければ、床にそのまま両膝をついていたことだろう。
「そんな馬鹿なことがあってたまるか!茉冬は、そんなこと一言も言わなかった!!」
「鈍いなあ兄さんは。茉冬の性格をよーく考えてみたら、わかるだろ?
自分を可愛がってくれる兄さんに、そんなこと言える訳ないじゃないか、なあ?」
秋利が夏樹と冬也に視線を配ると、二人とも哀れみをこめた目で秋澄を見ていた。
「……お、おまえ達も知っていたのか?」
「相手は、あの立花薫だぜ。何もなかったと信じていた兄貴がお人好しすぎる」
「手厳しい事いうな冬也。兄貴は、俺達とは人間の種類が違うんだぜえ」
秋澄は目の前が真っ暗になった。
「嘘だ、あいつには二度と……二度と茉冬には近付くなと……」
「信じたくない気持ちはわかるよ兄さん。でもなあ、これはリアルな事実だ」
佐竹達が気の毒そうな表情で秋澄を見ていたが、秋澄に周囲の人間の様子など、もはや視界に入ってなかった。
「……あ、あいつが、あのスケコマシが……茉冬を……俺の妹を……」
秋澄はショック状態から徐々に激怒状態に変化していった。
目を真っ赤に晴らして鬼の形相をしている。
「ゆ、許すものか……よくも、よくも季秋家の娘を手篭めにしてくれたな!
どんな……どんな手を使ってでも、必ず償いをさせてやる!!」
秋利がニヤッと笑って視線を夏樹に送りながら親指を立てた。
佐竹は秋澄が哀れで堪らなかった。よくも、こんなタチの悪い嘘をペラペラと言えるものだ。
弟に勝手に性犯罪の被害者にされた茉冬も可哀相だ。
もっとも、佐竹が非難したところで、この兄弟は平然として反省も後悔もしないだろう。
「……何をすればいい?」
秋澄が低い口調で言った。
「協力してくれるんだな秋兄さん?」
「……何でもしてやる。茉冬が受けた痛みを思い知らせてやる」
「なーに簡単なことだ兄さん。いや、兄さんにしか出来ない事だよ。
立花薫の担当地区にちょっと金を流してくれるだけでいい。それで奴は終わりって寸法さ」
「いいじゃないか、茉冬が立花薫のせいで傷ついたのは事実だ。
精神的レイプだな。俺は嘘は言ってない、見方の問題だよ」
「はっ、見方の問題だと?よく、そんな事が言えたもんだ!!
兄貴を騙して裏社会に大金ばらまかせておいて、自分達はカラオケ大会かよ!!」
「落ち着けよ佐竹」
「これが落ち着いていられるか!おまえら何を考えていやがるんだ!?」
「考えているんじゃあない。待っているんだよ」
「待っているだと?」
秋利はすました顔をして笑っていた。
「そ、待っているんだ。いずれわかるよ。それまでは寝ててもかまわない」
「あなた誰なの?水島克巳……じゃないわ」
美恵は冷静になって男を見つめた。
水島より髪の毛が短いし服装も違うが、何より目が違う。
水島は美しいが恐ろしいほど冷たい目をしていたが、この男の目は、ずっと穏やかで、そして哀しそうだった。
(あの男とは別人だわ。でも他人でもない、そっくりだもの)
「……双子なの?」
「違う。俺は11ヶ月だけ年上の兄だ。よく双子と間違われる」
ドンドンと派手にドアをノックする音が聞え、美恵はビクッと身体を強張らせた。
「お坊ちゃま!博巳様、ここを開けて下さい!!」
美恵を捜していることは考えなくてもわかる。美恵は震えながら男――名前はわかった、博巳だ――を見た。
この男は水島克巳の兄だ。自分は引き渡されるだろう。
「何の用だ?」
「女を捜しています!博巳様の私室を捜索させて下さい!!」
博巳はチラッと美恵を見つめた。
(もう終わりだわ……どうしたらいいの?)
「博巳様、早く開けて下さい!」
「……おまえ、克巳の女か?」
博巳が小声で質問してきた。
美恵はとんでもないと言わんばかりに首を左右にふった。
「……だろうな。その格好を見れば一目瞭然だ」
博巳は美恵の引き裂かれた服を見て不快そうに呟いた。
「隠れてろ」
美恵は、きょとんとして博巳を見上げた。
「早くしろ」
どういうつもりなのかわからないが、美恵は机の陰に隠れた。
博巳はドアを少しだけ開いた。黒いスーツ姿の男が立っていた。
「ここには女なんて来ていない。他を捜せ」
「はあ……しかし、確かに、この辺りで見失ったのです。他の部屋にはいませんでした。
念のため捜させてください。すぐに済みますので。失礼します」
男が入室しようとドアを押した。ところが、博巳がドアを押さえた。
「博巳様、何を?」
「言っただろう。この部屋には誰もいない」
「博巳様、それは困ります。克巳様のご気性は知っているでしょう?
博巳様のお言葉を疑うわけではありませんが、念のために一応確認だけ……」
「殴られたいのか?消え失せろ」
「……わかりました」
スーツ姿の男は、「克巳坊ちゃんと後でゴタゴタになっても知りませんからね」と捨て台詞を残して去って行った。
男の足音が遠のくと美恵は机の陰から顔を出した。
「もう出てきていいぞ」
「……あの」
「あいつらはしばらくは来ない。逃げるなら今のうちに出て行ってくれ」
美恵は少々混乱した。この男は弟を裏切って自分を助けてくれたという事なのだろうか?
あの水島克巳の兄だ、信用してはいけない相手のはず。
しかし美恵は不思議と博巳の言葉を疑う気にはなれなかった。
水島克巳と違い、他人を貶める冷たい目をしてないからだ。
「……どうして?あなたは自分の弟を裏切ろうっていうの?」
「……別におまえの味方をしたわけじゃない。弟の『お遊び』に付き合う気にならないだけだ」
博巳はぷいっと顔を横に向けた。
「……弟が、おまえのような女を連れ込んだのは、これが初めてじゃない。
あいつの悪い癖だ。克巳の餌食になりたくなかったら、さっさと逃げた方がいい」
そうだ、会話なんかしている暇は無い。
「おい、いたか!」
「いや、いない。あの女、どこ行きやがったんだ!?」
だが、外にはスーツ姿の男達が何人もいる、とても逃げられそうもない。
「どうしよう」
水島克巳が帰宅する前に、この屋敷からおさらばしなければいけないのに、そんな隙はない。
「さっさとしろ。克巳が帰って来たら、おまえに二度と逃げるチャンスはない」
博巳はすたすたと窓に近付いてきて、外の様子を伺った。
「……遅かったな。克巳のお帰りだ」
「そんな……!」
美恵は震えながら、床に座り込んだ。外から車の音が聞える。
さらに「坊ちゃま、お帰りなさいませ」という声も聞えてきた。
窓の外を見なくても水島が帰って来たことはわかった。
博巳はジッと水島を見つめた。その視線に気づいたのか水島が顔を上げた。
そして博巳と視線を合わせると、小馬鹿にするように人差し指を向けて銃を撃つマネをしてきた。
「ところで、彼女は大人しくしているのかい?」
「そ、それが坊ちゃま……申し訳ございません!!」
男達が水島に頭を下げ事情を説明した。その説明が終わらないうちに水島の鉄拳制裁が炸裂していた。
「逃げられただって?よくも、そんなふざけた事が言えたもんだねえ。
たかが女一人に何してるのさ、この給料泥棒どもめ。おじい様に言いつけて解雇しようか?」
「お、お待ちを坊ちゃま!女に逃げられはしましたが、まだ屋敷から逃亡はされてません!」
「本当だろうねえ?」
「はい、それは保証します」
「じゃあ、彼女は屋敷に隠れているってことか。ふふ、俺と隠れんぼでもしたいのかな?」
「あ、あの……実は坊ちゃま、そのことでお話が」
「……まずいな。奴等、絶対に俺のことを克巳にちくる。すぐに克巳はここに来るぞ」
美恵は頭の中が真っ白になった。今度こそ完全に終わりだ。
「……おまえ、一体何をしたんだ?女テロリスト……ってわけでもなさそうだ」
「違う!私は……私達は何もしてない。それなのに追われて捕まって……こんな目に!」
博巳は冷めた目で、泣き崩れる美恵を見ていた。やがて足音が近付きた、美恵はビクッと反応した。
「……あ」
考えなくてもわかる。この部屋に向かって真っ直ぐ近付いてくる足音の主は間違いなく水島だ。
今度つかまったら逃げられない。美恵は立ち上がると窓を開け身を乗り出した。
博巳が慌てて美恵の肩をつかんだ。
「おい、何をするつもりだ?ここは三階だ、下手したら死ぬぞ」
「あいつにつかまるよりマシだわ、一か八かよ。でも捕まったら必ず殺される。
あのひとはそういう男よ、目を見ればわかる」
「……わかってるな」
「……あなたと違って、冷たい目をしてるもの。だから、わかるわ」
博巳の目が大きく拡大していた。驚いているようだ。
足音がドアの前で止まった。ついに水島がドアを隔てて、すぐそこまで来てしまった。
「……隣室に隠れていろ」
「え?」
「飛び降りるよりは生存確率高いから、隠れていろ」
バン!ノックも無しにドアが開け放たれた。
「……失礼なことするな克巳、ここは俺の部屋だぞ」
「やあ兄さん、話は聞いたよ。だから俺が来た」
「あいつらにも言ったが、この部屋には誰も来てない。詮索されるのは好きじゃない、ほかっておいてくれ」
「誰も来てないだって?見えすいた嘘つくんじゃないよ。隣の部屋から気配がするじゃないか」
「……エヴァだ」
エヴァというのは、この家で飼われているペルシャ猫の事だ(水島の母のペットだ)
「ほう、だったら確認させてもらうよ」
水島が無礼にも部屋に足入れると、博巳は水島の前に立ちはだかった。
「……何のつもりだい兄さん?」
「言っただろう、詮索されるのは好きじゃない。出て行け」
「出て行け……だって?
「ふざけるんじゃないよ!!」
パンと乾いた音がした。美恵にもバッチリ聞えた。
(ど、どういう事?自分のお兄さんを叩くなんて)
たった数十秒間の出来事だが、この二人がお世辞にも仲のいい兄弟ではないことだけはわかった。
それにしても仮にも兄を平手うちなんて、あまりといえばあまりな話だ。
「いつから俺に対して、そんな口がきけるようになったんだい兄さん!
あんまり俺を怒らせるとどうなるかわかってるのか?おじい様や母様に言いつけてやろうか?」
「……おまえに逆らおうなんて考えちゃいないさ。この家はおまえの物だ。
この家の財産も家名も全ておまえのものだ」
「わかってるじゃないか。忘れたかと思って心配したよ」
「けど、この部屋は俺のものだ。おまえが当主になるまで、この部屋くらい俺に自由にさせてくれ」
水島の眉が不快そうに歪んだ。
「……不愉快なんだよ。そこをどけよ、それとも……」
「お坊ちゃま!!」
スーツ姿の男が駆け込んできた。
鬼のような形相の水島と、頬を赤く腫らした博巳を見て気まずそうに顔を背けた。
「何だい?」
「あ、あの……早苗様がお越しになりました」
「何だって早苗が?」
水島は面白くなさそうに舌打ちした。水島にも優先順位はある。
愛人に、ある調査を依頼したのだ。その結果の報告に来たのだろう。
「すぐに行く。兄さん、すぐに戻ってくるよ。その時まで反省して、せいぜい謝罪の言葉でも考えておくんだね」
「……出てきてもいいぞ」
美恵は恐る恐る姿を現した。
「弟はすぐに出掛けるだろうから、その時に逃げろ。最後のチャンスだ」
「どうして、私を助けてくれるの?」
博巳は殴られた頬を手の甲でこすりながら呟くように言った。
「……克巳のやり方は好きじゃないだけだ」
「今すぐ君の中に入りたいよ。せめて声だけでも聞かせて欲しいな」
『駄々こねないでちょうだい。そんな恥ずかしいこと出来ないわ』
「いいじゃないか。君の喘ぐ声を聞きたいんだよ、僕のお願い聞いてよ」
「薫!!」
国防省オフィスという本来厳格な場所で、とんでもない電話をしていた薫はムスっとした。
「……直人、失礼すぎるよ。ノックもしないで、ひとの部屋に入るなんて」
「そんな事を言っている場合か!おまえは自分の担当地区も満足に統治できない馬鹿だったのか!!」
薫は、ますます表情を歪ませた。
「さっきから何なんだい。一体何があったって言うんだよ、恋人たちの会話を邪魔するほどの事かい?
くだらない事だったら許さないよ」
「くだらないのは、おまえの電話の会話だ!!おまえの担当地区で……反乱が起きたんだぞ!!」
「……なっ!」
薫の表情が一変した。驚愕で強張っている。
「大規模なテロが起き継続中だ!急遽、テロ対策本部が置かれた。
あんな大組織が戦争仕掛けてきたんだ。
事前に止める事は愚か、察知することすら出来なかったとはどういう事なんだ!」
「バカな……そんなバカな!確かに超大物テロリストが僕の担当地区に潜んでいるという情報はあった。
だが、あいつらには、軍資金がないんだ!
僕と美鈴が、ずるい手段使ってまで、裏社会には金が流れないようにしてたんだ!!
軍資金がない以上、連中には動きが取れないはず。隠れていることしかできないはずなんだ!!」
「だが、実際に事は起きた。今は奴等を止める方が先決だが、事が片付いたら処分は覚悟しておくんだな薫」
薫は愕然となった。全く予想してなかった事が起きた。
(……ま、まずい。テロを早く片付けないと降格だけじゃ済まない。
国防省の人員を裂いてでも、テロ殲滅に当たらないと!!)
突如起きた不測の事態により、国防省は半ばパニックに陥った。
「……始まったな」
その頃、夏樹はテロ開始情報の報告を受けていた。
「国防省はこれでガラ空きになる。行くぞ、奪われたものを取り戻す」
【B組:残り45人】
BACK TOP NEXT