潤は、ゆっくりと立ち上がると歩き出した。その時、ポケットから映画『オーメン』のBGMが流れた。
潤は面白くなさそうな面持ちで携帯電話を耳にあてた。
「……何、北斗?」
『全員集合だ。彼女が捕まったらしい』
潤の目の色が変わった。先程までの死んだ魚のような暗い目ではない。
その瞳には峻烈な感情が色濃く浮かんでいる。
『君もわかっている通り僕達には優先順位がある。
再優先すべき事を実行するために行動する。早くきたまえ』
「わかってるよ」
携帯電話をしまうと潤は写真を取り出した。
ボロボロで色あせてて、いつゴミ箱送りになってもおかしくない古ぼけた写真。
だが苛酷な人生を選択した潤にとって、その写真は勇気を与え続けてくれた守り神だった。
鎮魂歌―54―
「何だと捕虜が逃げた?!」
「悪い兄貴!弁解もできやしない」
処罰は甘んじて受ける覚悟を決め頭を下げる弟を前に、晶は溜息をつくと椅子に座り込んだ。
「まず状況を聞こう。何があった?」
「見張りの交替時間の時だった。見張りが倒れてたって、兵士が大騒ぎしだしたんだ。
俺達に気付かれずに屋内に侵入し捕虜と接触した奴がいる。
捕虜を問い詰めたら『もう遅い。あの人はとっくに消えちまったぜ』なんて、ほざきやがった。
捕虜の見張りだけを残して俺達は周囲の捜索に出た。
万が一を考えて隠れ家から距離は取らなかった。
そして短時間で戻った。そしたら捕虜は消え見張りは気を失っていたんだ」
「……おまえが家から離れていた時間は?」
「十分くらいだ」
「……十分」
(そんな短時間で全てを終わらせたのか。たいしたプロになったものだな、連中も。
あの頃は、得体の知れない資質をもっただけの異常なガキどもに過ぎなかったのに)
「兄貴、俺達の処分は?」
晶は輪也の胸倉を掴むと低い口調で言った。
「……捕虜の存在を上に隠していた以上、俺におまえ達を処分できると思うか?
この件は公けにはできないんだ。だが二度と同じミスはするな」
「あ、ああ……わかってるよ兄貴」
「わかったなら 、おまえ達は陸軍基地に戻っていろ」
「兄貴は?」
「俺はここに残る。例のK-11に関与しているとされている連中がほとんど捕まった。
今、最後の一人が海老原とやり合っているらしい」
「じゃあ海老原の助っ人に行くのか?」
「まさか」
晶は不遜な笑みを浮かべた。明らかに海老原を見下している証拠だ。
「奴を助けるつもりはない」
「でも兄貴……」
輪也は心配そうに晶を見つめた。
晶が海老原にいい感情を持ってないのことは、よくわかっている。
しかし個人的な感情と任務は別問題。
特に晶はその点は常にけじめをつけていたし、輪也達にもくどいくらいに言い聞かせてきた。
「上から出た命令なら俺はどんな事でも従う。だが、これは命令じゃない」
「命令じゃない?」
「海老原が最後の一人と今やり合っていることを上はまだ知らない」
「じゃあ何で兄貴が知ってんだよ?!」
「海老原の女を知ってるだろう?」
「女?」
輪也は頭の中に複数の女を思い浮かべた。
海老原は女癖の悪い男で今まで付き合ってきた女は一人や二人じゃない。
かと言って水島や薫のようにモテモテでもない。
しかも、あの通り短気で粗暴な性格のせいで、すぐに女の方から逃げる。
その為、常に女に不 自由していないという身の上でもなかった。
だから付き合った女の多くは商売女、つまり色恋ではなくビジネス的な関係だった。
「クラブローズの売春婦だっけ?そういや最近はマダムミツコのところの派遣ホステスに夢中って噂もあったな」
晶は軽く左手を上げ左右にふった。『違う』という晶のジェスチャーだった。
輪也はちょっと頭をひねって考えた。一人の女の名前を思い出した。
「……不破瑞希(ふわ・みずき)か?」
「そうだ」
不破瑞希とは陸軍の女性兵士で、海老原にしては珍しく続いている女だった。
海老原が特別気に入っているというよりも、女の方が海老原の理不尽さに堪えているから続いている間柄だ。
「その女がどうしたんだよ?」
「俺に海老原の情報を流してきたのは、その不破だ。
どこで調べたのか、俺の仕事用の携帯電話の番号を知っていやがった」
「じゃあ兄貴に海老原の援護をしてくれって頼んできたのか?」
「逆だ」
晶はふいっと顔を横に背けると吐き捨てるように言った。
「海老原を殺して欲しいそうだ。任務中の殉職に見せ掛けて」
「何だって?!」
輪也は思わず立ち上がった。
「海老原を始末するチャンスだと?」
『そうよ、知ってるわよ、あなた達がが竜也と殺しあったこと。
竜也は今、敵とやり合っている。他の連中は知らないわ。
今なら、あなたが闇討ちしても気付かない。恨みを晴らせるわよ。
最後の一人をあなたがやれば手柄も手にはいる。一石二鳥じゃない』
「な、何で海老原の女が兄貴にそんなこと頼むんだよ!怪しい、絶対に何か企んでるぜ!」
「そんな上等なものじゃないだろ」
晶は気付いていた。不破瑞希が海老原を愛してないことを。
海老原の人間性を考えれば無理もない。
だが、瑞希からは別れることはできない関係なのだろう。
恋人というより、主人と奴隷、それが海老原と不破瑞希の関係の実態だと晶は感じていた。
以前、頬の痣を化粧で隠していた瑞希を見たこともある。
晶は直感で海老原のDVだと思った。
別れ話を切り出した為か、それとも浮気でもしたのか。
理由は定かではないが、海老原の感情を刺激した結果の暴力には間違いない。
男女の関係に疎い晶にも一つだけわかった事がある。
海老原が死ぬか、海老原が瑞希に飽きて捨てるか、その、どちらにしか、瑞希に自由になれる方法はないと。
だからこそ同じ陸軍で海老原を煙たがっている晶を利用して海老原を亡き者にしようと画策したのだろう。
(哀れな女だが俺から見れば、ただの馬鹿だ。
最初から海老原なんかと付き合わなければよかったんだ。あんな男に惚れた自己責任だな)
ちなみに晶の推測は半分当たり半分外れていた。
晶は瑞希に利用されてやるつもりは全くなかったが、無視する気もなかった。
(後学の為にも海老原の戦いぶりを見学してやるか)
徹と互角に戦ったという相手に興味もある。
(それにK-11が関係していることが判明した以上、奴の正体を知っておく必要がある。
もしかして、その男も、あのバス転落事件にかかわっている人間かもしれない)
「何だって、多田野が連行した?これは海軍の管轄だぞ、なぜ勝手に渡した!?」
指名手配されている連中を一斉逮捕するチャンスを横取りされた俊彦の怒りは大きい。
激怒する俊彦に田中は、「そ、そんなこと言われても相手は特撰兵士ですよ」と、すっかり涙目だ。
「……くそっ!」
確かに田中を責めても仕方ない。
海上保安庁の職員の地位は特撰兵士には、はるかに及ばないのだ。
「そ、それより瀬名中尉、た、大変なことが……」
「大変な事?」
「ど、どうしましょう。わ、私は、ただ職務に忠実に従っただけなのに……」
田中は顔面蒼白になって震えている。
「おい何があった!?」
「き、季秋家の……じ、時期御当主様がお越しになられてまして……い、怒り心頭でして」
「季秋の時期当主が?」
季秋家の人間だと主張する夏樹たちを怪しい輩と決め付けて犯罪者同然に拘束したのだ。
その知らせを聞いた夏樹たちの兄が自家用ジェット機で飛んで来た。
当然、その怒りは不当拘束した海上保安庁職員・田中に向けられるだろう。
田中は、「私は季秋様に睨まれては……」と完全に怯えきっている。
「わかったよ、俺が相手してやりゃいいんだろ。おまえは下がってろ」
田中は途端に明るい表情になって、「後はお願いします」と笑顔で退散した。
「……おい俊彦、ちょっとまずいんじゃないのか?」
攻介が心配そうに俊彦の肩に手を置いた。
「しょうがないだろ。海は俺の領域だ」
「ふざけるな、手続き上の問題だって?
季秋家の人間を不当拘束しておいて、よくもそんな事が言えたものだな!!」
「で、ですから……迅速に手続きを済ませますので、少々お待ちを」
「1分1秒も待てるか!早く弟達を解放しろ、よくも季秋家の人間を犯罪者扱いをしてくれたな!!」
海上保安庁四国支部の最上客室では、秋澄の怒号が炸裂していた。
「季秋家の政治力を甘くみているのか?
これ以上待たせるというのなら、すぐに懇意にしている代議士の先生数十人に連絡をとって」
「少しは冷静になって下さいよ。あんた、仮にも将来大財閥を背負って立つ人間なんだろ?」
俊彦の登場に、秋澄に詰め寄られていた職員はほっとした。
「心配しなくても、弟さん達はすぐに釈放されるぜ。手続きが終わるまで、ちょっと待ってくれよ。
季秋家は礼節を重んじる家だって聞いてるぜ。だから、さ。な?」
秋澄は明らかに不快そうな顔をした。
「うちの弟達を不当拘束するような機関に対して礼を尽くすつもりはない。
これ以上、押し問答をするのなら俺にも考えがある。すぐに西園寺派の大物代議士に手を回して――」
「ちょっと待てよ!」
たまらず攻介が飛び出していた。
「あんた、さっきから言いたい放題いってくれるよな。
あんたの言い分もわからなくはないが、権門に圧力かけられる相手の立場も考えろよ!
言いたくないが、こうなった責任は、あんたの可愛い弟にだってあるだろ!
あんたの弟達にはただならぬ嫌疑がかけられているんだ。
けどなあ、季秋家を重んじて無罪放免しようってことになったんだぜ。
海軍も海上保安庁も納得できねえことだ。上の圧力に屈して、うやむやにしたんだからな!
あんたが、その立場だったら納得できるのかよ!!」
「よせよ攻介、おまえまで巻き込みたくないんだ」
俊彦は攻介の将来を慮って制止した。
季秋家に一士官が逆らえば特撰兵士といえど、ただではすまなくなる。
地方豪族とはいえ、季秋家にとって士官の将来を潰す事など簡単な事だ。
秋澄が性根の腐った男であったなら、実際にそうなったであろう。
だが、身内可愛さゆえに感情的になっているが、秋澄は元々は温厚で公平な性格の持ち主。
攻介の言葉で、ようやく相手側の立場に気づいたのか大人しくソファに着座した。
「……なるべく早く弟達を解放してやって欲しい」
俊彦はほっとした。話がわかる相手でよかった。
「大臣から直接命令がでているので通常より72時間早く釈放されるよ。
こんな所で待たなくても、手続きが完了済み次第連絡しるからホテルにでも待機して下さい」
秋澄は疲れ切った表情で額に手を当てながら、「いや、ここで待たせてもらうよ」と呟くように言った。
「……弟達に不自由な思いさせてるんだ。兄の俺が贅沢できないし、したくない」
それから秋澄は、「先ほどは失礼した。許して欲しい」と俊彦に頭を下げた。
権門の御曹司は傲慢で気位が高い奴ばかりと思っていた俊彦は正直驚いた。
「おい、よしてくれ。季秋家の次期当主に頭下げさせたら、俺が上官に叱られる」
「図々しいかもしれないがお願いしたいことがある。
弟達に対面できないなら差し入れを届けてくれないだろうか?
あの子達は兄の俺がいうのもなんだが贅沢が染み付いている上に忍耐力がない。
今の状況に不満を抱いているに決まってる。食事と着替えくらいは用意してあげたい」
「わかりましたよ。それくらいなら」
退室すると俊彦は呟いた。
「……いいもんだな。兄弟ってさ」
「俊彦?」
「俺は捨て子のストリートチルドレンだったから親の顔も知らない。
せめて同じ境遇の兄弟がいてくれたらなって、何度も思ったもんだぜ」
「……俊彦」
家族と縁が薄いという点なら攻介も同様だが、少なくても攻介には家族との思い出がある。
元・空軍パイロットの父、家庭的で優しい母、そんな両親の愛情を一身に受けて攻介は育った。
特撰兵士・第五期生の中で、攻介は唯一まともな家庭の記憶がある人間だった。
残念ながら二人とも任務と事故で早世したが、攻介が明るく陽気な少年に成長できたのは両親のおかげだ。
攻介にとっては、兄が弟の心配をするのは至極当然で不思議でも何でもない。
けれども俊彦にとっては、こんな些細な事が羨ましくてたまらなかった。
そんな俊彦の気持ちを知った攻介は、俊彦の肩に腕を回すと明るく切り出した。
「なあ俊彦、全部終わったらさ、旅行にでも行かないか?
良恵や直人も一緒に……あ、直人は無理か。あの親父が承知するわけないもんな」
攻介の気遣いが俊彦には嬉しかった。
「良恵
も難しいだろ。徹が邪魔するに決まってるぜ」
「もちろん内緒だよ。あいつのせいで俺とおまえは良恵に彼女持ちだって誤解されてるんだ。
そのくらい、いい思いしやきゃ、やってられないぜ」
「はは、そうだな」
その時、携帯電話の着信音が爽快なリズムを奏でた。直人からだ。
「直人、何か新情報でもはいったのか?」
『この短時間で大量の逮捕者がでた』
「隼人や晶が捕獲したのか?」
『違う、水島と戸川だ』
それは四期生と不仲な俊彦たちにとっては非常に不愉快な情報だった。
『残っているのは連中のリーダーらしい少年1人だ。非常線を張って今捜索している。
おまえ達も手を貸してくれ。連中をとらえれば、良恵の行方もわかるだろう』
「良恵は季秋冬樹にさらわれたんじゃないのかよ?」
『季秋冬樹の新情報も入っている。時間や場所から推測して奴に良恵をかどわかすのは不可能だ』
「じゃあ良恵をさらったのは!」
『ああ、別の人間だ』
「さあて、先輩のお手並み拝見というこうか」
晶は小高い丘の上から桐山と海老原を見つめた。
海老原と対峙しているのは遠目から見ても戦いに向いているとは思えない上品な少年だ。
(しかし、あの男……どこかで見たような気がする)
間違いなく初対面だというのに、晶は桐山に見覚えがあった。
顔……と、いうよりも雰囲気が誰かに似てる、そんな不思議な感じがしたのだ。
「残念だったな小僧、俺は特撰兵士最強の男だ。貴様なんぞに勝ち目はねえ」
「…………」
「今のうちに跪いて許しをこいな。そしたら靴の裏舐めさせてやるくらいで勘弁してやるぜ」
海老原の暴言に対し、桐山は静かに言った。
「言いたいことはそれだけかな?」
「何だと!?」
「何を怒っている?俺は質問しただけでだ、他に言う事はないのかな?」
海老原のこめかみに血管が浮き上がり、ピクピクと動き出した。
「ないのなら勝負は早目につけさせてもらう。いいだろうか?」
「……ふ」
海老原は猛スピードで桐山に攻撃を仕掛けた。
「ふざけるな、クソガキがぁ!!」
海老原は繰り出していた。怒りのパワーも加わり、恐ろしいほど切れ味がある。
まともにくらえば、桐山は一撃でノックダウンするだろう。
いや、下手をすれば、そのまま、あの世への片道切符を手にするかもしれない。
だが勝利の笑みを浮かべる予定だった海老原はギョッとなった。
桐山の脳天に激突するはずだった脚が直前で止められたからだ。
(こんなガキが俺の蹴りを腕一本で止めた!?)
それは海老原にとっては驚愕というよりは、あってはならないことだった。
特撰兵士は国家が誇る最強の精鋭。
その中では自分は最強最高の戦士だと信じているからだ。
かつて高尾晃司によって、一度その自信を木っ端微塵にされたことがある。
が、今では、あれは、まぐれだと思ってもいた。
その自分の渾身の力を込めた蹴りを、特撰兵士でも超A級テロリストでもない正体不明のガキが止めたのだ。
「バカな、こんなことあってたまるか!」
海老原は即座に体勢を変化させ、今度は回し蹴りを繰り出した。
桐山は避けなかった。それどころか海老原の懐に飛び込んだ。
海老原の胸部に拳を突き出す、海老原の表情が痛みで歪んだ。
桐山も無傷では無い。海老原への攻撃を優先させるために、防御することを捨てたのだ。
こめかみに海老原の蹴りが、わずかだがあたった。
鮮やかな血が一筋、桐山の頬を伝わった。
(このガキ……強い)
海老原は胸部を押さえながら悔しそうに桐山を睨みつけた。
(……俺が特撰兵士でなかったら、この一撃で血反吐を吐いてる。なんなんだ、このガキは)
(あれが徹と互角にやりあったという男か)
昌は半ば、その話を眉唾ものと思っていた。
仮にも特選兵士と互角に戦える人間は同じ特選兵士のみ。後はごく僅かな例外がいるだけ。
だからこそ国家が誇る精鋭でありうるのだ。
ごく僅かな例外とは、テロリストのブラックリストのトップクラスくらいで、無名のガキなどではない。
海老原は司令官としてはいざ知らず、一人の兵士としては厄介な存在だ。
晶と同じ陸軍ということもある。遠くない将来、海老原と晶は戦う事になるだろう。
海老原の戦い方は頭に叩き込んでおいたほうがいい。
例え、それが雑魚との戦いであっても――晶はそう思って、この戦いを見届けに来た。
桐山は徹と互角に戦い、結果、徹は良恵を奪われるという醜態をさらした。
だが、晶は桐山と徹の戦いの結果をまぐれくらいに思っており、海老原が圧勝する思っていた。
それゆえに、桐山の動きには少なからず驚いた。
(何なんだ、奴は?)
動きがいい、迷いもない、素人離れしている。間違いなくプロの戦い方だ。
(……あの動き、どこかで見たことがある)
晶は、じっと桐山を見つめた。そして思い出した。
(晃司!あいつの動きは晃司にそっくりだ!!)
晃司に似ている。いや似てるのは動きだけじゃない。
(そうだ、あの目は晃司によく似てる)
晶にとって晃司は最も恐れているライバル。
科学省の英才教育もあるが、何よりも本人の資質がすごい。
あれは生まれながらの天才だ。その才能を、この無名の少年も持っている。
ほんの短い時間ではあるが、晶はその才能を目の当たりにしてしまった。
(何なんだ、こいつは?)
「思ったよりやるじゃねえか。だが」
海老原は銃を取り出した。桐山の顔色が変わる。
本来なら無名のガキに飛び道具を使うつもりはなかった。
自らの力を誇示する為に、じわじわと嬲り殺す、それが海老原のやり方だった。
だが、桐山の予想外の強さに海老原は銃を取り出したのだ。
桐山は咄嗟に海老原に小石を投げつけ、海老原が一瞬気を取られた隙に岩陰に飛び込んだ。
(海老原め、素手で奴を殺すのは厄介だと判断したらしいな)
善戦したが、それもこれで終わり。素手と銃とではハンデがありすぎる。
晶は残念そうに溜息をついた。
こんなことを考えるのは士官として問題だが、正直、『勿体無いな』と思ったのだ。
(一度手合わせ願いたかったな)
晶は、すでに桐山の死体を連想していたが、そこに第三者が現れた。
「大尉!」
海老原の部下が駆けつけてきたのだ。
「何の用だ!今、敵と交戦中だ、下がってろ!!」
事情を知らなかった部下はたじろいだが、「そ、それどころではありません」と焦りながら告げた。
「れ、例の連中ですが、リストの内、約一名を除き全員逮捕されたとの事です!
警戒な厳重の元、二時間以内に輸送されるとの連絡を受けました!」
その約一名とは、もちろん桐山のことに他ならない。
桐山も内心少々驚いた。もっとも、それを表情にだすような人間ではなかったが。
「何だと!どういうことだ、俺は何も聞いてないぞ!!」
自分がもたもたしている間にすべてがほぼ終わっていたと突然知らされた海老原は逆上した。
「くそ!五期生どもに遅れとるなんて!!」
海老原は敵対している後輩たちの戦功を妬み怒鳴り散らした。
だが、次に信じられない一言を耳にすることになった。
「い、いえ、逮捕に成功したのは大尉と同じ四期生の方々であります」
「四期生の?じゃあ克己や小次郎に出し抜かれたってことことか」
「あ、あの、それが」
部下は恐る恐る海老原に詳細を告げた。
「戸川大尉や水島大尉の手柄となってますが、直接奴らを捕らえたのは空軍や陸軍の方々でして」
海老原の目の色が変わった。空軍の多田野はともかく、陸軍の連中が逮捕したなんて報告は受けてない。
陸軍の四期生は自分の子飼い、当然、自分に捕獲の報告がされ、自分の手柄として上に復命する。
それが陸軍四期生の間で何年も行われてきたルールのはずだ。
それなのに手下たちは自分に何の報告もせず、挙句の果てに水島の手柄になっている。
それが意味することが、どういうことなのか。海老原でも、さすがに気づいた。
(あいつら、俺を差し置いて克己に付きやがった!!)
海老原は、佐々木たち陸軍所属の特選兵士はもちろんのこと、水島克己も自分の手下だと認識している。
その海老原にとって、これは許しがたい裏切りだった。
「奴等は今どこにいる!?」
「奴ら?」
「逮捕された連中だ!!」
「か、仮設されたばかりの、こ、国防省暫定基地にいるとのことです」
「すぐに軍用機を用意させろ!!」
海老原は眼前の敵である桐山の存在すら忘れるほど激怒した。
もっとも、その桐山は二人の会話から、知りたい情報を得た以上、もはや用は無いと、すでに姿を消していた。
それすらも気づかないほど、海老原は出し抜かれた屈辱でかっとなっていたのだ。
「よかった、心配したんだぞ。御祖父様や叔父さんには黙っていてやる。
だから今後は二度と妙な連中にはかかわらないでくれ」
秋澄は解放された弟達に何度も言い聞かせた。
「兄ちゃん!」
そこに夏生が凄い剣幕で部屋に飛び込んできた。
「何だ夏生、ノックもしないで」
「ノックがどうした。皆捕まったんだぞ、 美恵ちゃんも貴子ちゃんも、そ、そして俺のハニーの光子まで!!」
「お、落ち着きなさい夏生」
「落ち着いていられるかよ、光子ー!!」
夏生は秋澄の両肩をつかむや否や激しく揺さぶりだした。
「ちい兄ちゃんのコネで何とかしてくれよ。簡単なことだろ、大物代議士を動かしてくれ!」
秋澄の婚約者の葉月の曽祖父は、首相まで務めた超大物政治家だった。
その曽祖父本人は他界しているが、その派閥は今だに政界随一の勢力を誇っている。
秋澄が葉月を通して頼み事をすれば、大方のことは通るというわけだ。
「ちい兄ちゃんの取り得は嫁のコネだけだろ、さっさと何とかしてくれ!!」
「……どうせ俺は一生妻に頭上がらない情け無い男になるよ」
秋澄は随分とへこんでいたが、夏生の無茶なお願いをきくつもりもなかった。
「夏生、おまえも変な連中とは手を切るんだ。おまえには敏子さんもいるじゃないか」
「その名前きいただけで虫唾走る、よしてくれ!!」
「……わかった、二度と言わない。その代わり、おまえも二度と言うな」
「兄ちゃん!!」
秋澄は弟に甘い兄だったが、今度ばかりは断固として反対した。
可愛い弟達が素性もわからない連中とかかわり、そのせいで海軍に拘束までされたのだ。
兄としては至極当然の態度だろう。
どれだけ夏生が懇願しようとも、その決心は揺るぎそうもないと思われた。
「この作戦に参加している連中の中心人物の一人は立花薫なんだぜ兄貴」
今まで黙って二人のやりとりをきいていた夏樹が初めて口をきいた。
「……何だって?」
立花薫の名前を聞いた途端に秋澄の顔色が変わった。
「作戦の指揮をとっているのは立花薫だ。これで奴は昇進確実だぜ、いいのか兄貴?」
「あの男が指揮官……だと!!」
秋澄はカッとなって壁を叩いた。温厚な秋澄には珍しい反応だった。
それほど秋澄にとって立花薫の名前は禁忌だったのだ。
秋澄には妹が一人いる(夏樹たちにとっては姉にあたる)、その妹を秋澄は大変可愛がっていた。
長兄・秋彦の同母妹なのだが、母親はとっくの昔に他界、秋彦は素行不良で勘当。
肝心の父親は子供よりも、合コンまがいのパーティーに夢中という有様。
思春期の妹の複雑な境遇に心を痛めた秋澄が引き取って面倒を見ていたのだ。
いずれは誠実で優しい婿をとって幸せな家庭を持たせてやろうと考えていた。
その妹が年頃になって連れて来た恋人というのが立花薫だった。
立花薫は悪い評判の耐えない極悪非道のプレイボーイ。
秋澄は妹の未来を守る為に必死になって二人の仲を裂いた。
結果的に別れさせる事には成功したものの、薫を誠実な恋人だと信じていた妹は心に大きな傷を負った。
純情な妹を財産目当てでたぶらかした薫を、秋澄は今だに憎み嫌っている。
「あいつの仇うってやるチャンスだろ。なあ兄貴?」
夏樹の口調は恐ろしいほど穏やか、かつ誘導的だった。
「……いや、あの男のことは過去のことだ。もう終わったことだ、蒸し返したくない。
それにプライベートの私怨で季秋家次期当主の俺が動くわけにはいかないだろう。
茉冬も、今は、あの時のことを忘れて元気にやっている。全て元に戻ったんだ。だから……」
「心の傷は戻っても体は元には戻らんだろうなあ」
秋利が放った衝撃の一言に秋澄は硬直した。
「……秋利?」
「何だ、知らなかったのか?兄さんも純だなあ、あの男が何もせずに身を引いたと本気で思ってたとは」
秋澄は完全に混乱した。言葉の意味がよくわからないようだ。
いや、わかりたくもない、と言った方が正解だろう。
「兄さん、口癖のように言ってたよなあ。茉冬には今度こそ幸せな出会いして欲しいって。
俺から言わせてもらうけどなあ。へそで茶沸かすよ。
もう、まともな結婚はできないだろうなあ。兄さんが可哀相すぎて黙ってたんだけど……」
秋澄は顔面蒼白になって、弟が吐き出す言葉に衝撃を受け続けた。
秋利の言葉は、テロ爆弾並の破壊力をもって、秋澄の精神を破壊したのだ。
「全部聞きたい?」
「……秋利、詳しく話しなさい」
「ご所望ならいくらでも」
秋利はにっこり笑って言った。
国防省では、水島が戸川をわざとらしく出迎えていた。
「やあ小次郎、久しぶりだね。元気だったかい、戦友として君の帰還を大歓迎するよ」
(心にもないこと言いやがって)
戸川は内心面白くないが、そこでカッとなるほど馬鹿でもなかった。
「俺が留守にしている間、亜紀子にちょっかいだそうとしたらしいな克巳。
戦友の女を寝取ろうとするのが、おまえの礼儀か?
もっとも亜紀子は、おまえみたいな優男はタイプじゃなかったらしいな」
今度は水島の口元が僅かに引き攣った。
戸川が国外追放されたのをいい事に、戸川の女に手を出そうとしたのは事実だ。
失敗した上に、女は戸川の派兵先である北米に逃げてしまった。
自他共に認めるモテモテ男の水島にとって女に逃げられるのも逃がすのも耐え難い屈辱だったのだ。
「誤解しないで欲しいな。俺は戦友の恋人に優しくしてあげただけだよ。
お互い、くだらないことで袂を分かつような行為はやめようじゃないか。
俺の彼女が酷い目に合わされてね。意識は戻ったけど、しばらく動けない。
わかるだろ小次郎?俺は、それなりの礼をしないと気が済まないんだ」
「待ってください大尉!」
部屋の外から足音が聞えてきた。一人は聞き覚えのある足音だ。
足音はどんどん大きくなり、部屋の前で人を殴る音まで聞えた。
と、同時に、すごい剣幕で扉が開け放たれた。
「克巳!!てめえ、どういうつもりだ、俺を何だと思ってやがる!!」
「やあ竜也」
「敦達が何でてめえの手下に成り下がってんだ。てめえは、いつから俺より偉くなった!!」
入室するなり海老原は水島に掴みかかった。
「……手を離せよ竜也。こんな行為を受ける覚えはないよ」
「それはこっちの台詞だ。いつから、てめえがボスになった!?」
「俺の方こそ君には問いただしたい事があるんだ。
君はちんけな殺し屋の口割らせるために何をしようとした?」
今度は水島が海老原の肩を、すごい力で掴んだ。
「俺の女に手を出そうなんて、随分なこと考えてくれるじゃないか竜也」
「それがどうした!てめえは今付き合ってるだけで何十人女がいやがる!?
その内の、たって一人がなんだ?そんなくだらねえことで汚いマネしやがって!!」
二人の醜い言い争いを前に元々短気な戸川も苛立ち始めた。
「ちっ、付き合ってられるか。てめえらで好きなだけやりあってろ!」
立ち上がり扉に向かった戸川だったが、ノブに手を伸ばすと、扉のほうが勝手に開いた。
開かれた扉の向こうには戸川が最も敵視している人間がたっていた。
「外まで喧嘩が丸聞こえだぞ。特撰兵士の品位にかかわる」
「……涼」
四期生筆頭特撰兵士・薬師丸涼だった。
薬師丸の登場に、海老原と水島も低レベルな喧嘩を中断させ、薬師丸をじっと見つめた。
「克巳、おまえは、この件の最高責任者じゃないのか?
それとも、奴等を逮捕したら、それで終わりか?それなら、俺も何も言わない」
「終わりなわけないじゃないか。最終目的はK-11だ、奴らはそのスタートに過ぎない」
「そうか、やけにグズグズしているから、おまえの任務は終わったのかと思った。
K-11の捜索は五期生に委ねられたと思ったが、違うのか?」
「五期生に?冗談じゃない!」
「だが五期生はK-11に関する有力な情報を手に入れたらしい」
海老原達の顔色が変わった。
「おまえ達も負け犬になりたくなかったら喧嘩は後回しにしろ。
俺が言いたいことはそれだけだ」
薬師丸は扉を閉めようとして、一瞬手を止めた。
「克巳、もう一つ、おまえに忠告しておきたいことがある」
「今、おまえが飼っている女は少し厄介だぞ。上に知れる前に俺に引き渡した方がいい」
【B組:残り45人】
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