「色々ありがとう。この恩は一生忘れない。いつか恩返しするよ」

杉村は少女の制止を振り切り再び危険に身を投じることにした。
貴子や美恵の事が気になるし、これ以上この親子に迷惑かけるわけにはいかない。
まだ帰宅してない少女の母親や弟にも一言お礼を言いたかった。
だが今は一分一秒が惜しい。
もう立ち止まっていることはできなかった。
杉村は最後に深々と頭を下げるとくるりと向きを変え全速力で走りだした。




鎮魂歌―34―




「例の連中の足取りがわかったらしいんだ」

水島はベットに横になったままの体勢で言った。
その脇では沙耶加が髪型を整えている。

「どっちなの?先日逃げられた奴ら、それともまだ捕まっていない奴ら?」
「両方だよ」

水島は満足そうに笑った。
「さすがは真知子だ。裏の情報を掴むことに長けている」
さらに水島は言った。


「未確認だが木下の足取りも掴めたらしい。もっとも半日前の話だそうだ」
「じゃああいつの部下や妹も?」
「いや彼1人さ」
「そう……よかったわ。あんな子供まで捕まるのは可哀相だもの」
「聞いた情報によると」

水島は沙耶加を背後から抱きしめた。


「あいつは君に懸想していたらしいじゃないか。悪い気分じゃなかったんじゃないのかい?」
「やめて」
沙耶加は突き放すように言った。
「その様子だとあまり彼のこと好きじゃなかったようだね」
「そうよ。妹はいい子だと思うけど」
「おまえは好き嫌いがはっきりしているねえ。
まあいいさ、それより本当に彼は海原と接触しなかったのか?」
「私が知る限りではなかったわ」
水島は殊勝な面持ちで考えこんだ。


(木下より海原を逮捕するほうが俺の株はあがるのに残念だ。
取り敢えず木下を捕えて奴に海原の居所を吐かせることにするか)


「例の連中はどうするつもりなの?あなたの担当なんでしょ」
「ああ、けれど厄介なことになってね。海軍が理不尽な要求をしてきている。
長官は気がお弱い方だ、そろそろ限界だろう。そうなればどうなると思う?
この任務担当の俺の面子は丸潰れさ。本当に困ったよ」
水島はおもむろに立ち上がる沙耶加を伴い部屋を後にした。




「お腹がすいたな、一緒にフレンチでも食べようか?」
「私、料理の腕が自慢なのよ。食事くらい自分で作るわよ」
「じゃあ君の手料理でランチといくか」


「克巳!」


阿修羅のような顔をした真知子が仁王立ちしていた。
「やあ真知子ご苦労様。おまえには本当に感謝してるよ。
俺には必要な存在だと改めて思い知ったところだ」
「いつまでその女ばかりそばに置いてるのよ。家事しか取り柄のないような女を」
「何ですって、もう一度言ってごらん!」
「ちょっと待てよ二人とも俺の前で喧嘩なんかしないでくれよ」
沙耶加と真知子はバチバチと火花をぶつけ合うと同時にふんと顔を背けた。


「やれやれ困ったねえ。なんでこんなに仲が悪いのかな?」
「こんな女、いくら克巳の頼みでも仲良くなんかできるものですか。
それよりどうするつもりなの。海軍の要求を長官が飲んだらあなたの立場が」
「もう手はうっておいたよ。早苗に調べさせて要求の出所を調べさせておいた。
首謀者は佐伯徹君だよ。あの生意気な子だ」
「理由は?」
「お姫様をさらわれたそうだよ」
徹にとってのお姫様とは軍関係の人間なら誰もが知っていた。


「彼女、幸せ者ね。私の王子様も私1人だけを愛してくれればいいのに」
真知子はちょっと嫌味を言ってみたが、所詮糠に釘だ。
「真知子、面白くない冗談は言うもんじゃないよ。贅沢は身を滅ぼすだろ?
ちなみに、そのお姫様が攫われた場所ってのがこれまた偶然でね。
沙耶加、君がいた街からそう遠くない場所でだよ。
惜しいねえ、俺がその場にいたら漁夫の利を狙えたのに」
「克巳!」
「真知子、怖い顔するんじゃないよ」
「あなたの為にもう一つ情報仕入れたのに」
「何だって?」


「知りたい?でも今のあなたは私よりその女のほうがいいんじゃなくて?」
「真知子」
水島は真知子の背後から近寄りぽんと両肩に手をおいた。
そして耳元に口を近づけ「今夜は君のマンションに行くから」と囁いた。
「本当ね」
「ああ約束するよ」
「そう、じゃあ……」
今度は真知子が水島の耳に口を近付けた。
余裕たっぷりだった水島の表情が一変した。




「何だって竜也たちが?俺はそんなこと聞いてないぞ」
「ほかっておくつもり?」
「……そうか。あいつら俺に内緒で」
「それに例の連中のリーダー格に当たる桐山とも接触があったらしいわ」
「本当か?」
「ええ似顔絵によく似ていたらしいわよ。その女が出鱈目言ってないならね」
沙耶加が真知子を睨んだが真知子は無視して続けた。
天瀬良恵が一緒にいた鮫島って男を尋問してわかったらしいの」
鮫島という名前に沙耶加が反応した。
「鮫島?もしかして鮫島洋輔のことかしら?」
「知っているのか?」
「時々店に来てた男よ。随分と影のある人間だったわ。
胡散臭そうな感じだったから気になっていたら木下の妹が忠告してきたのよ。
あいつはケチな殺し屋だから関わるなって」
ケチな殺し屋と科学省の秘蔵娘。どう考えてもアンバランスな組み合わせだ。


「そんな奴がなぜ天瀬良恵と……その情報確かなのか?」
「間違いないわ。武藤に吐かせてやったから。
ちょっと揺さ振りかけてやったらすぐに喋ったわ。
電話越しだったから詳しい事は聞けなかったけど」
武藤は以前水島の女だと知らずに真知子を口説こうとしたことがあった。
「私が誰の女か知ってるの?」と凄まれ、その後相手の男の名前を聞き即座にナンパ撤回した。
知らなかったとはいえ水島の女に手を出そうとしたなんて武藤にとっては死活問題だった。
武藤は真知子に全てを水に流し、水島には秘密にしてくれと頼んだ。
その交換条件として真知子は、ある提案をした。
こうして武藤は海老原の情報を流すスパイの真似事をやらされている。
ちなみに真知子はとっくの昔に水島に事の成り行きを全て話していた。
水島は真知子に武藤の頼みをきくふりをして交換条件を飲ませろと命令した。
水島にナンパの件がばれないように必死になっている武藤はまさに道化師というわけだ。


「それで天瀬良恵は?」
「それが正体不明の何者かに連れさらわれたとの事よ」
「特選兵士が女をかっさらわれただって?恥知らずな連中だ。
所詮、俺がついてないと駄目な連中だ。困ったねえ。
おかげで俺がいつも苦労する羽目になる。お仕置きもしないと……ね」
「それより、海軍の方はどうするつもり?」
「言っだろう、もう手は打ったと。一つずつ順に解決していこう。
まずは佐伯君を何とかしないといけない。
だから一番適任の相手に彼を止めてもらうことにしたよ」














「ここに来るのも久しぶりね」

美鈴は海軍基地の雄大な建物を見上げた。
海軍には陸軍や空軍より莫大な予算が宛がわれている。
この大東亜共和国が四方を海に囲まれているからだ。
だが、はたしてその予算が正当な使い方をされているかどうかは怪しいものだ。
美鈴は人一倍金にはうるさい女なので興味はある。
だが今の美鈴には海軍の財布などどうでもいいことだった。
今は愛する恋人のことで頭がいっぱいだった。




軍というものはもっとも厳格な縦社会といっていい。
要塞の最上階には将軍達の執務室がおかれている。
豪華な寝室付きのスイートルームだ。
その下の階には未来の将官となる佐官や尉官の部屋が設置されている。
現在の階級はもちろん将来性も考慮された部屋割りだ。
つまりエリートほど上等な部屋を与えられる。
美鈴はある一室の前で脚を止めた。
一人の女性兵士が美鈴と扉の間に入ってきた。


「こちらがどなたの個室がご存じなんですか?」


全身女の塊のような美鈴とは対照的な女だった。
ショートヘアにほとんど化粧のされてない顔。
遠くから見たらここが軍事基地ということもあって少年と間違えてしまうかもしれない。
全体的に細身でしなやかなの肉体は豹をイメージさせた。
マリリン・モンローのようにふっくらとした豊満な肉体の美鈴には貧弱な体にすら見えた。


「ええ知っていてよ。その人に緊急の用があるから来たの。すぐに取り次いでちょうだい」
「失礼ですがアポはあるのですか?大尉は今仮眠を取られたところなんです。
余程の事がない限り起こすなと命令されました。
お急ぎでないのなら2時間後にもう一度お越しになって下さい」
「あなた彼の何なの?」
「部下です」
「階級は?」
「私は大尉に個人的に雇用された人間です。ですから……」
「そう下士官ですらないのね。話にならないわ。
何も知らないようだから無理もないけど、私にアポなんか必要ないわ。
時間がないから、もう取り次ぎも結構よ。そこをどいて」
「ですが大尉のご命令が……」


郷を煮やしたのか、美鈴は突然平手打ちをくらわした。
「何をなさるんですか!」
「あなたお名前は?」
「……河相泪です」
「泪さんね。いいこと、私は国防省特別秘書室の人間よ。
たかが歩兵風情にとやかくいわれる筋合いはないわ。覚えておくことね!」
騒ぎを聞き付けたのだろう。反町幹男が駆け付けてきた。
「河相どうした?!」
そして美鈴を見るなり驚いたもののすぐに「どうぞ、お入り下さい」と扉を開けた。
「ありがとう反町君。やっぱり物の分別がつく人間でないと駄目ね。
その新入りの泪さんには一から教育し直すことをお勧めするわ」


美鈴が部屋の向こうに消えると泪は叩かれた頬に手を当てた。
「殴られたのか?」
「ええ……あの、あの方は……その大尉とはどういう?」
「余計な詮索はするな。彼女は将来国防省の幹部になるかもしれない人間だ。
それに特選兵士の立花薫の女なんだ、だから逆らわないほうがいい」







「……亜紀子か?」

特選兵士に完全熟睡できる時間はない。人の気配を感じ戸川は覚醒した。
「残念だけど違うわよ。お久しぶり」
「美鈴?」
戸川は意外な顔をして上半身を起こした。
「どういうつもりだ、寝室に勝手に入りやがって。用があるなら執務室に来い」
「そうしてあげたいけど今は時間がないのよ。
小次郎、あなた海軍と国防省の関係が決裂してもいいの?」
「……どういうことだ?」
「やっぱり知らなかったようね。知っていたらあなたが黙って見ているなんてありえないもの」
「詳しく話せ、何があった」


美鈴は全てを話した。海軍から理不尽な要求が出され、長官がそれを飲もうとしていること。
そして、その要求を出させたのが佐伯徹だということを。
「このまま、あんな坊やに好き勝手させるなんてあなたらしくないわ」
「それで俺にどうしろと?」
戸川は平静を装っていたが、内心怒り狂っていた。
「小次郎、この際だから正直に言うわ。薫がこの件の担当なの。
捕獲した連中の管理をまかされた途端にこれよ。
このまま長官が海軍の言いなりになったら薫の立場がなくなるのよ」
ちなみに、薫がその任務についたのは表沙汰になってないが水島の推薦だった。
「おまえの男の為か?」
「助けてくれたら、薫は今後はあなたと懇意にしたいとまで言っているのよ。
同じ五期生よりもあなたを。その気持ちを組んでくれないかしら」


戸川は考えるふりをしたが返答はすでに決まっていた。
「いいだろう。立花薫に借りを作ってやる」
「あなたを信じて相談してよかったわ」
「話は終わりだ、帰れ」
「相変わらずつれないこと。まあいいわ。後はよろしくね」
美鈴は笑顔で部屋を後にした。
美鈴が退室した瞬間、戸川は本性を表した。
側に置かれていた高価なアンティークの花瓶を惜しみもなく壁に向かって投げたのだ。
花瓶が砕け散り床の上に散乱されても戸川の気持ちは到底納まらない。


「おのれ青二才が!!」


戸川は佐伯徹を嫌っていた。憎んでいるといってもいい。
その佐伯徹が海軍を私事で使っている。
誰よりも海軍の士官であることに誇りを持っている戸川には我慢ならないことだった。
「薄汚い娼婦のガキの分際で!!」
戸川は怒りで我を忘れそうだった。
はるか彼方から佐伯の笑い声が聞こえてくる気がするくらいだ。


(やはり、あの時どんな手を使ってでも殺しておくべきだった。
あいつは生ゴミ以下の存在だ。あの体の中には薄汚い血が流れている。
あいつに生きる資格はない。あいつは死に値する)


戸川は呼出しボタンを押した。
『御呼びでしょうか大尉』
「すぐに司令塔に行く同行しろ」
『承知しました』


「佐伯徹……貴様のようなクズに俺の海軍をおもちゃにされてたまるか!!」














「女、てめえ何者だ?どう見ても普通の中学生じゃねえな」
光子、大ピンチだ。いつもなら得意の色仕掛け発動といくだろう。
だが、それは一対一だからこその必殺技。多人数相手だと通用しない。
仕方ない少々面倒だが嘘泣き作戦と行くか。
光子はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「勝手に座るな。立ちやがれ!!」
勇二は即座に怒鳴ったが、光子は命令に従わない。
代わりにビクッと大きく反応すると小鳥のように震えだした。


「お、お願い……乱暴しないで……」


光子は瞳を潤ませながら振り向いた。
さりげなくスカートから素足をはみ出させるのを忘れずに。
その姿には先程威勢よく銃を振りかざしていた事など忘れさせるには十分過ぎる効果があった。
兵士達の視線はいっせいに光子の脚線美に注がれ、彼らは一斉に赤面しだした。
これが光子の秘技・色仕掛け込みの泣き落とし。




光子は思った。
(男ってなんて単純な連中かしら。ちょろすぎるわ)
光子はさらに妖艶さを含んだ目で兵士達を見上げた。
兵士たちはすでに光子の術中にはまっていた。
勇二だけが何とか理性を保っている状態だ。
(後一息ね)
光子は心の中でにやっと笑い、最終段階に入ることにした。


「私怪しい者じゃありません。お願い信じて!」

涙という小道具付きで勇二に縋り付いた。
「ばっ……!馬鹿野郎、抱き着くんじゃねえ!!」
勇二は途端に怒鳴ったが先程のようなドスのきいた口調ではない。
明らかに動揺している。
「怪しくないだあ?そんな女がなんで銃なんか持ち歩いていやがった。
嘘言うんじゃねえよ、俺を馬鹿にしてんのか?!」
勇二は核心をついたが、光子に飲み込まれないように虚勢を張っているのは見え見えだった。


(こいつ女に全く慣れてないのね。本題に戻ろうと必死になってるわ)


光子の推測は当たっていた。
勇二は陸軍で男だけの世界で育ち、17歳となった今でも女とはろくに口をきいたこともない。
戦闘経験はずば抜けているのに女性との交流経験は幼児レベルだったのだ。
「あたしはただの民間人よ。この銃は、その……」
光子は両手で顔を覆いわっと泣き出した。
「あ、あたし、金持ちの男に無理矢理、そいつの女にされて……。
隙をみて銃を奪って逃げたの。ただそれだけなの」
勇二は胡散臭そうな目をしたが光子は続けた。
「本当よ。季秋夏生って男に力づくで……うぅ」
「季秋夏生?どこかで聞いたような名前だな」
「実家は東日本最大級の財閥とか言っていたわ」
「あそこの息子か!」
勇二の脳裏に冬樹の小憎らしい顔が浮かんだ。




(あのスケベ野郎の兄弟か。裏取る必要もねえな)
勇二は光子が咄嗟に思い付いた作り話を信じてしまった。
皮肉にも夏生の女癖の悪さが有力な証拠になってしまったのだ。
「わかった。てめえの言い分を信じてやる。さっさとここから立ち去れ」
勇二は光子に背を向けると歩きだした。


「待って!」
「な!」

光子が腕にしがみついてきた。勇二には生まれて初めての体験。
「て、てててめえ何しやがる!」
「あたしこの辺りの道全く知らないんです。きっとまた迷ってしまうわ」
「はあ?じゃあ何か、俺に道案内しろっていうのか?
冗談じゃねえぞ俺は忙しいんだ、女なんかに構っていられるか」
「こんな危険な場所で徘徊してたらまた捕まるわ」
「だから俺の知ったことじゃねえ!」
「お願い、あたしを連れて行って」
勇二は予想外の言葉に唖然となった。ぽかーんと口さえ開けている。
女にこんなこと言われたのは初めてのこと。
どういう反応をしていいのかさえわからなったのだろう。


「あなたは優しい人だったから助かったけど、今度会う人があなたのような人とは限らないでしょ」
優しいなどと言われたのも生まれて初めてだ。
「無理やり男のものにされるのはもう嫌。お願いあたしを一緒に連れて行って」
光子の口調はこれ以上ないほど憐憫を誘うものだった。
どんな悪漢だろうとこのか弱い美少女をほかってはおけないぼどに。
平の少年兵士たちだけならとっくに光子にナイトの役を志願していたことだろう。
しかしリーダーの勇二はそんな可愛いげのある男ではない。
しかも彼には外せない用事がある。
どれほど魅惑的な美少女が相手でも任務の方が優先されるべき重要事項だ。
「和田さん、可哀想ですよ。せめて非常線まで連れて行ってあげましょうよ」
「そうですよ。車なら往復で30分ほどですみますよ」
兵士達が光子の後押しをしだした。
「て、てめえら……」
勇二はあまのじゃくだ。素直に兵士達の頼みを聞き入れるわけがなかった。




(あら、こいつって女に免疫ないから簡単だと思ったけど、そうでもないわね)
光子は即座に勇二の性格を把握した。
人間の裏も表も知り尽くしている彼女だからこそ、すぐに人間の本質を掴むことができるのだ。
ここで無理じいしたら良くない結果がでるだろう。
いったん引いてから徐々に攻める方法に切り替えないといけないようだ。
「……ごめんなさい。あたしが悪かったわ、あなたたちに甘えすぎてた」
光子はしおらしく勇二から距離を置くとくるりと背を向けた。
「この危険地帯の外まで連れて行ってもらおうなんて考えてなかったの。
ただ、しばらくあなたたちと一緒にいられればと思っただけ……。
だって、あなた凄く強そうだし頼りになりそうだし……」
光子は『強そう』、『頼りになりそう』という言葉を意識して強調した。
なぜなら勇二のような男はプライドを刺激してやるのが一番だと思ったからだ。


「だから、そばにいて、安全圏に近づいたらそこでお別れしようと思っただけ。
でも、あなたたち、きっとしばらくここから動かないわよね。
多忙な兵隊さんだもんね。あたしなんてお荷物がいたら迷惑だってわかるわ。
もしも強敵と出くわしたりしたら大変だもの。
悪かったわ……あなたたちだって自分のことで精一杯なのに」
最後の『自分達のことで精一杯』という言葉、これが重要な鍵だった。
「あなた強そうだから、きっとあたしがそばにいても邪魔にならないだろうと思ったの。
……ごめんなさい勝手に都合のいいこと考えて。さようなら」


「おい、ちょっと待て」


光子はにやっと笑った。背を向けていたから勇二はその顔を見てない。
「俺がたかが女1人くっついたくらいで戦力ダウンする男に見えるのかよ」
光子は抱腹絶倒したい気分だったが、懸命にそれを押さえた。
「……え、だって、普通に考えたら」
「普通だあ?!俺を誰だと思ってやがる、陸軍が誇る最強の兵士だぞ!
着いて来い!断っておくが安全な所にでるまでだ、面倒も見てやらないからな」
「あ、ありがとう」
光子はしおらしい口調で礼を言ったが内心は『計算通り』だった。
光子が勇二について行こうと思った理由の半分は建前の通りだった。
こんな危険地帯で女が1人(それもとびきりの美人だものね)がうろうろしていたらどんな目に合うか。
勇二は他の兵士たちの態度からして、年齢に似合わない地位と力を持っていると光子は見抜いていた。
この男の連れならば、このデッドゾーンでも保身が保障される。
それにもう一つある。それこそが光子が勇二を利用しようとした最大の理由。


(こいつ士官だわ。襟首に偉そうに階級バッジつけているもの)


ちょっと見ただけでは上着に隠れてしまうようなバッジを光子を見逃さなかった。
(士官なら、きっとこの戒厳令区域全体の情報がこいつに報告される。
おたずね者の美恵達の情報なんか特にね。
当てもなくうろうろしてても何もつかめない。
でも、こいつにぴったりくっついて監視していれば、必ず何か情報が手に入るわ)
それこそが光子の最大の狙いだった。


(待ってて美恵、必ず見付け出してあたしが守ってあげる。それまで無事でいるのよ)














(光子や貴子、それに月岡君は今頃どうしているのかしら、心配だわ)
美恵は心配そうに窓の外を眺めていた。
美恵ちゃん、あまり窓に近づかない方がいいわ。いつどこで追っ手に見付かるかわからないわよ」
「あ、ごめんなさい」
「仲間のことが心配なのね。大丈夫よ、お兄ちゃんが国防省に潜入するもの。
きっと美恵ちゃんの仲間のことも調べてくれるわ。
もしかしたら救出して皆で帰って来るかもしれない。お兄ちゃんならそれくらい簡単よ。
だって特撰兵士を2人まとめて倒しちゃったことがあるくらいなんだもの」


加奈の兄に対する絶大な信頼は賞賛ものだが、素直に楽観視できなかった。
桐山は佐伯徹を振り切ることに成功したが、一歩間違えば殺されていたかもしれない。
もしも桐山を失っていたらと、考えただけでぞっとする。
木下は2人の特撰兵士に勝利したというが、聞けば特撰兵士は他にも大勢いるというではないか。


他の特撰兵士がもっと強かったら?
徒党を組んで戦いを仕掛けてきたら?


不安材料はキリが無かった。
加奈には悪いが木下がどれだけ最強無敵だろうと、完全に安心なんて出来ない。
それに桐山と川田が今だに帰ってこないのも不安の種だった。
加奈は「心配ないわ。きっと、あの女を連れて帰って来るから」と励ましてくれる。
「彼女を連れ戻したら、やっぱりまた監禁しなくちゃいけないのかしら」
「何言ってるの美恵ちゃん、当然じゃない。
あの女を捕まえないとあたし達のこと通報されるし、いざって時に人質がいないのは困るじゃない」
「でも……」
美恵ちゃんは優しいのね。でも軍の人間なんかに美恵ちゃんの優しさは通用しないわよ。
あいつら残酷で卑劣な人間なんだから。だから同情してやることだってないわ。
おまけに鮫島なんかと手を組んだのよ。情状酌量の余地なんかないもの」


加奈はぴしゃりと言ってのけたが美恵は複雑な気分だった。
早乙女瞬の話をした時、良恵は本当に嬉しそうな表情をした。
とても悪い人間には見えなかった。
もちろんだからといってこのまま黙って逃がすことも無理だということもわかっていた。


「それにしても遅いな。川田さんも桐山もどこまで捜しに行ったんだか」
鉄平が窓から外の様子を伺った。相変わらず変化はない。
桐山達も気になるが結城が昨夜から音沙汰なしなのも気になる。
まさか通報なんてしてないと思うが……。
それに結城がいなければ泰三の容態が急変した時困る。
「本当にどいつもこいつも……早く帰って来いよな」
「そろそろ益子さんの包帯代える時間よね。私、新しい包帯とってくるわ」
「悪いな美恵ちゃん。ついでに何か食い物も頼むよ」
美恵は地下の倉庫に向かった。




「えっと包帯は……あった」
次は食べ物だ。台所に行ってみたがめぼしいものは何もない。
冷蔵庫の中でさえガラガラだった。
かといってこのまま飲まず食わずでいるわけにもいかない。
桐山達が戻ったら食料を調達にいくしかない。
そんなことを考えているとカツンと何かがぶつかり合う音が聞こえた。
小さいが確かに聞こえる。それもすぐ近くでだ。
さらに微かだが風が吹いてくる。
(屋内に風?)
どこかから隙間風でも入り込んでいるかと辺りを見渡すと裏口の扉が開いていた。
先程の物音の正体を知り美恵は顔面蒼白になった。
戸締りはきちんとしておいたはずだ。それなのに扉が開いている。
カタンという小さな物音は侵入者の来訪を告げる警鐘だったのだ。


(誰かいる。私達の他に!)


すぐに加奈たちの元に戻らなければ!
美恵は踵を翻した。だが走ってはいけない。
敵に気付かれないようにしなければ。
その敵がどんな相手で何人いるのかさえわからないのだ。
(どうしよう桐山君たちがいないのに。とにかく加奈さんたちとすぐにここをでないと)
だが全てが遅かった。


「きゃぁぁー!!」
「加奈ちゃん!畜生、加奈ちゃんを離せ!!」


美恵の心臓がびくっと跳ね上がった。
「つかまえたぜ。女1人に野郎が2人、うち1人は寝たきりとはなあ。
お粗末過ぎてがっかりだぜ。おい、おまえらだけか?」
加奈たちの悲鳴と共に粗暴な声が聞えてきた。


(どうしよう、どうしたらいいの?)


「おい、他の部屋も探せ」
反射的に美恵は裏口の扉に向かった。ここにはいられない。
どこかに身を隠していったん様子をみないと。
いや、それよりも外に逃げて桐山たちを探したほうが得策だろうか?
あれころ考えたが混乱しててまとまらない。
共通しているのはこの家にはいられないということだけ。
外に出てどこかに身を隠さないと。
だが、それも駄目だ。外からも声が聞えてきた。
美恵は震えながら後ずさりした。先ほどの声の主も近付いてくる。
美恵は地下室へ逃げた。はっきりいって賢明な選択とはいえなかった。
だが袋のネズミとなった今、他に選択肢はなかったのだ。
倉庫に上手く隠れればあるいはという万に一つにかけるしかなかった。


「おい、いたか?」
「いや、いないぜ。残るは地下か」
美恵の心臓は爆発寸前だ。
「ち、なんだ、ここは。医療道具や薬品の山だ。うっとおしい!」
ガシャンと派手な音。どうやら薬瓶が床に落とされまくったようだ。
(桐山君……誰か助けて……)
美恵は必死に祈った。願いが通じたのか、嵐のような騒々しさが消えた。
そして静寂さだけが辺りを包み込んでいた。
(あきらめて上にいったのかしら?)
美恵はそっと薬品棚の中から出てきた。


「見つけたぜ!!」
「きゃあ!!」


腕をつかまれ力任せに引き上げられた。激痛が走る。
「こんなところに隠れてやがったとはなあ!!
上手く隠れたつもりだが気配消さなきゃ俺達には通用しねえんだよ!!」
「いや、離して!!」
「うるせえ、痛い目に合わされたくなかったら黙ってついて来い!!」
美恵は引きずられるように男に連れ出された。
「……助けて!」


「助けて、桐山君!!」




【B組:残り45人】




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