追いかけてきたのは武藤勝則と島村伸男だった。
どちらも陸軍のたたき上げから特選兵士になった乱暴者。
海老原とは長い付合いのある悪名高い連中だ。
その2人がいるということは、海老原も来ているということになる。
良恵の脳裏に1年以上前の悪夢がよみがえった。
海老原たちに拉致され監禁され怪我も負わされた。
あの時味わった恐怖はどれだけ月日がたとうと色あせることはない。
事件が上層部にばれ、海老原達は二度と自分に近づかないことを誓約した。
しかし良恵はそんなもの信じていなかった。
海老原たちは根っからのワルだ。
上の命令なんて簡単に破棄するだろう。
現実に武藤たちは自分を追いかけて来るではないか。
間違いない。海老原は再び自分に危害を加えようとしている。
(捕まってたまるものですか。逃げ切ってみせる、あんな奴らにつかま――)
良恵の全身のバランスが、がくっと崩れた。
(えっ?)
突然の出来事に何が起きたのか把握する暇もなく、良恵の体は地面に接触していた。
右の靴の踵が破壊されていた。焦げた跡もある。
消音銃で撃ち抜かれたのだ。万事休す――。
鎮魂歌―31―
「――ここは?」
良樹の質問に答えず夏樹は壁に掛けられている銃をいくつも外している。
それを投げつけてきた。
「俺が今考えていることを言葉にしてやる。おまえたちは木下の元で戦闘訓練を受けた。
その結果得た腕前は実戦では全く役に立たないレベルでしかない」
「おい、あんた……」
「さらに言ってやろうか?おまえたちの腕は動かない的以外のものには通用しない、そうだろ?」
夏樹は毒舌だった。それ以上に正確な分析でもある。
木下には色々と教えてもらったが、実戦では通用しなかった。
訓練の期間が短かったこともあるが、何よりもあらゆるものが足りなかった。
設備や環境、あらゆるものが不完全だった。
木下は熱心な教官ではあったが、狭い地下室に即席に作られた射撃場では限界がある。
「俺は回りくどいことはやらないぜ」
夏樹がドアスイッチを押すと、重たそうな扉が開いた。
「俺は木下みたいに愚にも付かないことはしない。俺はシンプルな性格でね。
俺の要求はたった1つだ。『生き残れ』。これ以外何も要求しない」
「生き残れ……だって?」
良樹たちは耳を疑った。
「女はハンデをやる。俺が直接指導した後におまえたちと合流だ。
それまで、男はアスレチックでも楽しんでいろ」
夏樹は良樹たちを扉の向こうに突き飛ばした。
「な、何をするんだ!」
「言っただろ、アスレチックだ。俺が昔よく遊んでいたゲームだ」
良樹は床に倒れ込んだが、その床から妙な感触を感じた。
扉の向こうは左右とも頑丈な鉄製の壁に囲まれた直線の廊下。
本当にシンプルすぎて、インテリも観葉植物も何もない無機質な場所だった。
その無機質な景色が動き出したのだ。
「な、なんだ?壁が動いてるぞ!」
最初に叫んだのは沼井だった。しかし何か違和感がある。
その違和感に気づいたのは良樹だった。
「違う、壁が動いているんじゃない。俺達の方が……いや、床が動いているんだ!!」
平面式エスカレーターと言ったところか。
問題は徐々にスピードが上がってきてること、そしてなぜか後ろに移動していることだ。
「おい、何だよ、これ。どこかにご案内してくれるってことかよ?」
沼井はちょっと慌てていた。
「あら、いいんじゃない?遊園地みたいなもんだって思えばいいのよ。ね、三村君?」
月岡は余裕たっぷりだった。三村の腕に自らの腕を回してさえいる。
「おい寄せよ月岡」
「いいじゃなーい。アタシと三村君の仲なんだから」
「いつからそういう仲になったんだよ!」
『そう邪険にするなよ。案外お似合いなんじゃないのか?』
「は?」
「きゃー!あなたわかってるじゃない♪」
「月岡、黙ってろ!」
スピーカーを通して夏樹の声が聞こえる。
『ついでに教えておいてやるがな。さっさと立ち上がって走ったほうがいいぜ』
「走る?」
良樹は台詞に疑問符をつけながらも、嫌な予感を感じとにかく立ち上がった。
その嫌な予感はリアルな恐怖感をもって背後から迫ってくる。
妙な気配を感じ振り向いた。そして目を見開いた。
廊下の一番奥、その壁の一部が動いた。その壁がこちらに近づいてくる。
いや違う、自分達がその壁に近づいているのだ!
「お、おい何だよアレ!」
しかもただの壁じゃない。その壁に何十もの穴が空いている。
その穴からキラッと先端が光っている巨大な針が出てきた。
『おい早く走らないと串刺しになるぜ』
夏樹が忠告する必要はなかった。
全員走った。とにかく距離をとらなければ待っているのは死あるのみ。
『さあ走れ、全力疾走だ。ゴールにたどり着けば安全は確保される。
簡単なゲームだろ。第一ステージだ、こんなのまだ序章だぜえ。
さあ、楽しもうじゃないか。俺も楽しむことにしたぜ』
夏樹の残酷で享楽的な言葉に激怒している心の余裕はない。
とにかくゴールだ。ゴールさえすれば安全、それだけが良樹達を揺り動かしていた。
大丈夫だ。この廊下は動くが、バランスさえ崩さなければ疾走できないことはない。
とにかく走ることだ。そしてあっという間に魔の串刺し壁との距離が広がった。
ところが、一定の距離を保ったと思ったら今度はその距離が開かなくなった。
それどころか、距離が縮まり始めたではないか。
『おっと言い忘れたが、その床の速度は徐々にスピードアップするぜえ。
安心しろ、優しい俺はちゃーんとスピード設定遅くしてやっている。
100メートル、12秒台の速さで走り続ければ、壁に追いつかれることはない』
「1、12秒?」
何人かは顔の色が青を通り越して白くなった。
11秒台で走れる良樹、三村や七原は大丈夫だ。
(もっともそれは短距離での場合だ。スタミナの問題もある)
「走れ、走るんだ!」
良樹は走った。
(こんなことなら貴子さんみたいに陸上部に入って真面目に練習でもしてりゃよかったよ。
まあいいさ。ゴールさえすればいい。だが俺はそれでいいが、他の連中はどうなる?)
「な、なあヅキ!冗談だよな、きっと脅しに決まってるよな!!
まさか本気で殺そうなんてするわけないよな!?」
沼井は走りながら月岡に同意を求めた。
前向きかつ楽観的な月岡ならすぐに「あったり前じゃない」と言ってくれると思った。
が!
「話しかけないでよ馬鹿!あんたって本当に超馬鹿よ!!
あの男、冗談みたいなこと言ってるけど本気も本気、絶対マジよ!!」
それは確信だった。
父のゲイバーで人間の裏の顔をいやってほど見てきた月岡には直感でわかるのだ。
良樹も口には出さなかったが月岡の意見に賛成だった。
夏樹は金持ちのお坊ちゃんということらしいが中身は全く逆だ。
スラム街で生まれ育って裏の世界で生きている連中よりも修羅場というものを知っている。
修羅場をくぐり抜けてきた人間というものは甘さという名の優しさが欠如している。
夏樹にはやると言ったらやる凄みがあった。
「七原、後ろなんて振り返るな!」
良樹と並行して走っていた七原のスピードが落ちた。
七原はクラスで一番足が速い(桐山が手を抜いてさえいなければ)
その七原が良樹や三村より遅れだした。
「何してるんだ、七原!おまえ串刺しに――」
良樹はハッとした。七原の遅速の理由を察したのだ。
「国信!」
一番最後を走っていたのは国信だった。その国信のスピードがどんどん落下している。
国信は今ここにいる体力自慢の連中とは違い、平凡な運動能力の持ち主だ。
『おい、どうした。廊下は俺が設定しておいた最高速度に達するぜ。
それなのに今の国信の速度は15秒台だ。さらに遅くなっている』
国信がバランスを崩した。
「しゅ……秋也!」
そして動く床に思いっきり転倒した。
「慶時!!」
七原の足が止まった。いや、逆方向に走り出したのだ。
「しっかりしろ立つんだ慶時!!」
必死になって国信の腕を掴み立たせようとする七原。
しかし国信は悲痛の表情を浮かべ右膝をかばうような仕草を見せている。
どうやら転倒したときにダメージを負ったようだ。
「七原、国信!!」
良樹が駆け寄ってきた。その間にも三村はゴール寸前だ。
と、思いきや「きゃー!!アタシこの若さで死にたくなーい!」と月岡が三村の真横を駆け抜けていた。
「つ、月岡ぁ!?」
三村はちょっとショックを受けていた。
本領を発揮したときの月岡の底知れぬ潜在能力に恐怖したことだろう。
けれども今気にしなければならないことは、ゴールの遙か後方に未だに立ち止まっている3人だ。
「秋也、雨宮、俺にかまわず行ってくれ」
「馬鹿なこというなよ。俺達、ずっと一緒に育ったんだぞ!!」
七原は必死に国信を立ち上がらせた。その間にも壁は迫ってくる。
「くそ!夏樹さん見てるだろ、もう止めてくれ!!」
七原は早々と白旗を揚げた。もう訓練も特訓もどうでもいい、今は国信の命が最優先だ。
『おいおい、おまえ達覚悟して俺についてきたんだろ?
だったら最後まで楽しませてくれよ。そんなゲーム、俺はガキの頃クリアしたんだぜ』
「こんなのゲームじゃない。政府と戦う前に死ぬだろ、冗談はやめて止めろ、止めてくれよ!!」
七原の口調はすでに悲鳴に近いものとなっていた。
『1ついっておいてやるがな。俺がおまえの立場ならこう言うぜ。
「この鉛玉をおまえの心臓にぶちこむためにゲームをクリアしてやるぜ」ってな』
良恵は崩れたバランスを何とか立て直そうと必死になって地面に左手をついた。
足首に痛みが走っている。だが、激痛なんかにかまっていられない。
立ち上がろうと膝を伸ばした瞬間に肩越しに武藤と島村の顔が見えた。
その人相は良恵にはとてつもなく醜悪に見えた。
その醜悪な男達の腕が伸びてきた。
「逃げろ!」
武藤がバランスを崩したのが見えた。鮫島が武藤の腰にタックルを決めていた。
「ふざけるな!」
当然のごとく武藤の肘打ちが鮫島の背中に喰い込んだ。
鮫島は苦痛に顔を歪ませたが、武藤の腰に回した腕を離そうとしない。
「鮫島!」
「何してる……に、逃げろ……さっさと逃げろ!!」
「伸男、早く女捕まえろ。でないと竜也に制裁食らうのは俺達だぞ!!」
島村がキッと良恵を睨んだ。
「早くしろ……!もう……保たない。早く……っ」
良恵は躊躇した。鮫島にここまで犠牲を強いていいのかと。
「逃げろ、は、早く……早く逃げてくれ……あんた、俺の頼みきいてくれるんだろ!
頼む、頼むから……とにかくさっさと逃げろっていうのがわかんねえのか、早くしろ!」
鮫島の気迫に押されたのか、良恵は走った。
「この野郎、ふざけやがって。ぶっ殺してやるぜ!!」
武藤の強烈な蹴りをくらい鮫島は血を吐きながら宙を舞っていた。
(どうして、どうして奴らがここに。早く逃げないと!)
良恵は廃屋(もう10年以上も放置されている潰れた工場の建物だった)の壁の穴に飛び込んだ。
「逃がすか!」
島村が右足を掴んできた。良恵はとっさに土を握り、それを島村の顔面にぶちまけた。
「うわっ、何しやがる、この女!」
思わず手を離した島村。その隙に良恵は屋内に。
当然、島村も後を追ったが駄目だった。
肩が穴につかえた。どうやら女子供専用サイズらしい。
「ちっ」
島村は忌々しそうに舌打ちした。
「だが逃げられると思うなよ!待ってろよ~、今すぐ捕まえてやるぜベイビィ」
島村は壁に蹴りを連打した。老朽化した壁は瞬く間にヒビが入る。
このままでは、この男の侵入は時間の問題。
(どうしよう、どうしたらいいの?)
携帯電話は桐山達に取り上げられている。
公衆電話もないこんば場所からでは徹や隼人に助けを求めることもできない。
この男を何とか撃退しないと。そして鮫島を助け出さないと。
あの武藤という男は感情的な人間だ。鮫島を暴行するだけではすまないだろう。
鮫島は仮にもプロの殺し屋だが、とてもじゃないが特選兵士と張り合えるレベルではない。
間違いなくなぶり殺しにされる。
良恵は走った。他の出入り口から逃げよう、それしかない。
反対側の壁にはドアがある。鎖でがんじがらめにされているが、そこしか他の出口はない。
鎖をほどこうとするが、何十にも絡まっている鎖は容易には解けない。
何か道具はないだろうか?辺りを見渡すと、建物の隅に手斧が見えた。
急いでそれを拾うと思い切り鎖に振り下ろした。
さび付いた鎖と手斧がぶつかり合い、火花が何度も何度も空中に散った。
思ったより頑丈な鎖だ、なかなか千切れない。
そして背後からがらがらと壁が崩れる音がした。
「ベイビ、さあ鬼ごっこは終わりだ」
「この貧相な顔した野郎が天瀬良恵を逃がしただあ?」
「ああ、伸男が追いかけていったから、後は時間の問題だぜ竜也。
で、俺達の邪魔しやがりやがった、この糞野郎はどうする?
まさかこのまま解放しろなんて野暮なこと言わないよなあ竜也?」
鮫島は両手首をベルトで縛り付けられ、木の枝に吊されていた。
足は地面から離れており、地球の引力が鮫島の手首に鋭い痛みを引き起こしている。
その顔は武藤の鉄拳を数発受けたらしく、痣と流血によってすでにスプラッター状態だった。
鮫島はうめき声しか出せないらしいが、それでも武藤の腹の虫は収まらない。
「おい伸男が追いかけていったにしては随分と時間がかかってないか?
たかが女一匹捕まえるなんて数分あれば十分だろ」
確かにその通りだった。特選兵士にかかれば少女を捕獲することなど朝飯前のはずだ。
「あの野郎、まさか俺の許しを得ずに1人でお楽しみってわけじゃないだろうなあ」
そこで海老原は実に下劣な考えに到達した。
「おい敦、てめえ伸男の後を追え」
海老原はすでに自分の卑しい考えが真実だと確信しているのか苦虫を潰したような表情をしている。
「さっさと行け!行ってあの馬鹿を女共々引っ張ってきやがれ!!」
「わかったよ竜也。だから、そんなに怒鳴らないでくれよ」
佐々木は渋々と海老原の命令に従った。
四期生の誰よりも海老原とは長い付合いだ。大人しく従うのが佐々木にとってのベストだった。
「……ここか」
佐々木は良恵と島村の足跡を追い廃工場にすぐに辿り着いた。
派手に壁を壊した跡がある。
「間違いない伸男だ。あいつは大雑把な仕事をする筋肉馬鹿だからな」
佐々木は破壊された壁から屋内に入った。
「伸男、何ぐずぐずしてるんだ。竜也の奴がおかんむりだぞ」
反応はない。しかし人の気配は間違いなくある。
「おい伸男なぜ返事をしない。さっさと出て来いよ、いるんだろ?」
相変わらず無反応だった。不気味なくらいの静寂さだった。
「ジョークはそれくらいにしろよ。いい加減にしないと――」
暗闇の中に人影が見えた。その人影がすっと腕を上げた。
佐々木は咄嗟にジャンプした。理由は3つ。
その人影が明らかに島村とは異質のものだったからだ、女でもない。
その人影から気配を感じなかった。気配を意図的に消すなんて味方ではない証拠。
そして3つ目にして最大の理由は、その人影が銃を手にしていたことだ。
佐々木は発砲される前に、その人影に先制攻撃を仕掛けたのだ。
戦闘における勝敗は武器の優劣のみで決まるものではない。
まして接近戦なら尚更のことだ。
「銃さえ持っていれば特選兵士相手に勝てると思ったのか!」
手始めに銃を蹴り落とす。その後は相手を地面に叩きふせて終わりだ。
佐々木は簡単に事は終わると思っていた。
ところが、その人影は佐々木の攻撃をかわした。紙一重で。
(何だと?!)
特選兵士の蹴りをかわせる人間なんてそうはいない。
同じ特選兵士か、さもなくばブラックリストのトップクラスに位置するテロリストくらいだ。
どちらにも所属せず、そのレベルに達している人間などそうはいない。
「誰だ、てめえ!」
佐々木は驚愕していた。だが次の瞬間、恐怖した。
隅っこに何か転がっているのが見えた。人間だ。
月明かりで、そいつの姿がわずかだが確認できた。
「……伸男?」
転がっているのは島村伸男だった。間違いない。
(伸男を倒した?仮にも特選兵士の伸男を?!)
「誰だ、おまえは!!」
謎の人影が数歩前に出た。月明かりが、そいつを照らし出した。
それは佐々木にとっては信じがたいことだった。
「ガ、ガキ?」
少年だった。中学生くらいの若さだ。
「おいガキ、まさか……まさか、おまえみたいなガキが伸男を?」
少年は何も言わなかった。ただ静かに佐々木を見ていた。
佐々木はさらに異様な発見をした。もう1人見つけたのだ。
「天瀬良恵!」
捜していたターゲットがいた。こちらは床にうずくまってなどいない。
何があったのか知らないが、呆然とした表情で壁に背を密着させ、その場に座り込んでいた。
「どういうことだ?は!てめえみたいなガキが1人で伸男を?そんなわけねえ!!
仲間がいるんだろう、どこに隠れている。さっさと姿を現せ!!」
「騒々しいな」
ここにきてようやく謎の少年が口を開いた。
その口調はまるで第三者のように淡々としていた。
「静かにしてくれないか?」
「おい、本気で俺達殺すつもりなのかよ!!」
七原の叫びなど夏樹の耳には聞こえても心までは届かない。
「停止する方法は!?」
今度は良樹が叫んだ。
「あるんだろ、この装置を停止する方法が!」
『知ってどうする?おまえ達では無理だ、おまえ達に出来ることはゴールすることだけだ』
「あるんだな。さっさと教えてくれ!」
『壁の後ろに緊急停止ボタンがある』
「壁の後ろだって!?」
近づくだけで串刺しになって一巻の終わりだ。
『な?言っただろう、おまえ達には無理だ。理解したなら、さっさと立てよ』
良樹はすくっと立ち上がると、壁に向かって走り出した。
「雨宮、馬鹿な事するな。死ぬぞ!!」
七原が絶叫していた。それを見ていた夏樹も珍しく驚いた事だろう。
(あのガキ、死ぬつもりか?)
自殺行為であることは確かだった。しかし良樹の目的は死ぬことではない。
生きるための活路を切り開くためにあえて命を賭けたのだ。
(まだだ。ぎりぎりでないと確実に死ぬ)
良樹は魔の壁と激突寸前の位置まで来た。
「雨宮ー!!」
七原は全身串刺しとなって天国に旅立つ良樹を想像して瞼をぎゅっと閉じた。
次の瞬間、床が急停止。慣性の法則に従い七原は大きく体勢を崩した。
「雨宮……?」
魔の壁に血がついていた。
「雨宮、雨宮!!」
七原は絶叫しながら頭を垂れた。
「……そう騒ぐなよ。静かにしてくれ」
七原はがばっと顔を上げた。
「七原、おまえ最悪の結果を想像してただろ。でも俺は生きている」
七原は壁に駆け寄った。声は壁の向こう側から確かに声が聞こえる。
七原は恐る恐る壁の向こう側をのぞき込んだ。
「雨宮?」
「やあ七原」
良樹はその場に仰向けになってへばっていたが確かに生きていた。
「……安心しろよ。幽霊じゃないぜ」
腕を負傷したらしく袖は血に滲んでいるが幸いかすり傷だ。
壁を飛び越えた際、壁から突き出ている、この恐ろしい金属の牙にかすったのだろう。
「おまえって奴は本当に無茶なことするんだな。こんな一面があったなんて知らなかった」
「おまえは将来もっと無茶な男になるぜ七原」
「無茶な男か、でも俺はそういう馬鹿は嫌いじゃないぜ」
夏樹はニヤニヤと笑っていた。
「あんたって本当に悪趣味な男ね」
貴子が避難めいた声を上げた。
「そんなに面白いの?まるで新しいおもちゃを手に入れた子供みたいよ」
「1つ教えておいてやるがな。少年と男の違いはおもちゃの値段だけなんだぜ」
貴子はわずかに口の端をあげた。
これは貴子自身気づいている癖だが、頭にきているときに出る癖なのだ。
「そう俺につっかかるなよ。これからは俺はあんたの教官だ。
お互い敬意と信頼を持とうぜ。それがベストだ、わかるだろ?」
「ベストですって?親しいわけじゃないけど仮にも仲間を目の前で殺されかけたのよ。
それで信頼なんかもてっていうの?笑わせないでよ」
「俺も言ってやるぜ。こんなことは俺達兄弟にとってはただのお遊びだった。
第一、あいつらが死んでいても、おまえは俺のもとを離れるつもりはない。そうだろ?」
貴子は忌々しそうに夏樹を睨んだ。図星をつかれたのだろう。
観念したように、「そうよ」と答えた。
「あいつらはあんたにとっては、そう大切なお仲間じゃない」
「そうね。あたしにとって本当の仲間といえる人間は2人しかいない。
美恵と……弘樹だけよ。弘樹の仇をとるためなら何でもするわ」
「いいだろう。俺が一から手取り足取り教えてやるさ。
でも、あんたについてこられるかな?」
「その時は、あたしを好きなだけあざ笑いなさいよ」
『弘樹、何してるの。早く目を覚ましなさいよ』
「……子……貴子……貴子!」
目の前に飛び込んだのはシンプルだが暖かみのある部屋の壁だった。
「……ここは?」
川の中じゃない。暖かいベッドの中だった。
「俺は生きてる?」
頭が重い。何があったのかなかなか思い出せない。
だが必要なことは漠然とだが理解していた。
冷静になることだ。とにかく冷静になってゆっくりと全てを思い出すんだ。
(……そうだ、確か)
落ち着いて考えてみると、いくつか思い出せる事柄があった。
(俺は必死になって泳いだ。確か岸に泳ぎ着いたんだ)
その後は……そうだ、確か七原がいた。七原が必死になって俺を励ましてくれていた。
そこまで思い出したところでドアが開いた。
「良かった。あなた目を覚ましたのね」
知らない女の子だ、でも直感で敵じゃないと思った。
「君が俺を助けてくれたのか?」
「正確に言えば弟よ。びしょ濡れのあなたを運んできたときは本当に驚いたわ」
「七……あ、いや、俺の友達がいなかったか?
俺が気を失っている間、あいつがそばにいたような気がするんだ」
「弟が連れてきたのはあなた1人よ」
「でも……」
意識はうつろだったが確かに七原がいたような気がしたのに。
「本当よ。あなたの看病は私と母さんと弟が交代でしてたの」
「そうか。でも、どうして俺を助けてくれたんだ?」
「あなた政府のお尋ね者でしょ?安心して通報するつもりはないわ。
あいつらはいつも何の罪のない人間を理不尽に扱うわ、きっとあなたもそうだったんでしょ?
そんな連中にあなたを売ったりしないわ」
「ありがとう。感謝するよ」
「いいのよ。あなたの名前は?」
「杉村だ」
「杉村弘樹、よろしくな」
【B組:残り45人】
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